表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

ゆきのまちシリーズ

板子

作者: 謎村ノン
掲載日:2026/02/10

 ――この板の下には、あの世が詰まっている。

 その言葉を聞いたのは、小学生の夏前だった。

 相田の家に遊びに行っていたとき、彼の祖母は、縁側の板を指で叩いて、乾いた音を確かめるようにしてから言った。

 乾いた音なのに、なぜか湿った気配が混じる夜だった。雨上がりの庭の土の匂いが濃くて、網戸の向こうで、蛾が羽を震わせていた。

「覗ぐでね。あの世さ、引っ張りこまれっけど」

「ばあちゃん、まただ」

 相田がそう言って、僕も一緒に笑った。

 相田の従妹、板子だけが笑わず、板の木目を指でなぞっていた。怖がりなのに、怖い話に引き寄せられる癖が昔からあった。

「あの世って……深い穴でも開いてるのか?」

 相田がそう尋ねると、祖母は、一拍置いてから告げた。

「ちげぇ。ここさあの世と繋がってるだ。ウチはァ、家さ建でて、代々、悪りぃもんが出てこねぇよう、見張っでるだ」

 その言い方が妙に生々しくて、僕は、笑い損ねた。

 祖母は、僕らが黙ったのを見て満足そうに頷き、最後にこう付け足した。

「板は、門だ。門は、必ず、閉めておぐだ」

 その夜に触った板の感触が、十年以上経った今も残っている。

 木の縁のざらつきとともに、板は確かに冷えていた。


 そして、今、初夏が近いはずの冷える夜に、相田が電話をかけてきた。

「……大発見をしたぞ!」

 幼なじみで、今は大学に残って、研究を続けている。

 電話口の向こうでは、息が荒く、興奮しているのが分かった。

「こんな時間に、何だよ?」

「例の統計的人工選択法で合成したDNAを、プラスミド・ベクターで導入したら、凄い菌ができたんだよ!」

「前に、“進化を統計でショートカットする”とか言っていたヤツか?」

「そうだ! 配列空間をコドンと中立進化の確率で絞った状態で、菌の性質を評価関数にしてフィードバックし、選択圧自体をシミュレートするモデルを作成して、最適配列をデザインさせたんだよ。――いや、とにかくきてくれ。今夜じゃないと、俺が耐えられん」

 相田は、昔からこういうところがあった。相手の生活を考えずに、引っぱってくる。しかし、その切実さだけは、いつも、本当だった。

 僕は、ため息をついて上着を掴み、電動バイクのキーを握った。プラスチックと金属の冷たさが、手のひらに伝わった。


***


 夜の大学は、昼間とは違う存在感がある。

 正門は閉まっているのに、通用口のカードリーダーが淡く光り、研究棟の窓には点々と明かりが残っていた。人が寝る時間に、別の生態系が活動している。

 駐車場でヘルメットを外すと、汗が夜風で急に冷えた。

 初夏のはずなのに、皮膚が粟立った。本当に、ここのところ、妙に寒いと思った。

 暗い歩道を歩き、研究棟の扉を叩いた。相田が、内側から開けて、僕を引き込んだ。

「こんな夜中でも、出入り自由なんだな」

「培養も、機器予約も、動物の世話もあるしな」

 相田は、顎で別棟を示した。窓の明かりがちらちら揺れていた。実験写真の撮影とかだろうか?

 僕は、冗談めかして言った。

「いやはや、僕は、研究者にならないで良かったよ。サラリーマンは気楽な稼業さ」

「おいおい。昔、二人でノーベル賞を取ろうって誓ったじゃないか!」

 相田は、苦笑した。

 その笑いの奥に、板子のことが引っかかっているのが分かった。僕らは、いつも、その話題を避けて、会話をしていた。

 廊下は、培養液の匂いが強く、空調の重い音が響いていた。

 研究室の扉を開けると、クリーンベンチ、遠心機、培養器、棚に並ぶ薬品瓶と並べられたチューブが目についた。昔と同じだ。

 白い照明が眩しく、影が薄かった――そういえば、影が薄い場所は、何かが潜みやすいと、相田の祖母が昔、言っていたなあと思いだした。

 ベンチの一つまでくると、相田は、その上に置かれた小さなクーラーボックスを開けた。

「見てくれ」

 中には、粗末な木箱が入っていた。カマボコ板を組んだような薄い木の箱だった。

 その瞬間、僕の手のひらに、子どもの頃の縁側の感触がよみがえった。板の匂いが、記憶の蓋を勝手に開けた。

 相田は、木箱の蓋を外す。

 木箱の中には、ラップの掛かったビーカーが、綿に囲まれて置かれていた。

 そのビーカーの中には、白い塊があった。雪に見えた――しかし、雪にしては、光り方がプラスチックじみていて、結晶の密度が妙に均一だった。

「……雪、か?」

「そう見えるだろ。これは、氷核活性細菌が作った氷だ」

 相田は、少しだけ噛み砕いて説明した。

「純水は、零度でもすぐ凍らず、過冷却するだろ? ところが、“核”があると、より高い温度でも凍り始めるのさ。氷核活性細菌は、表面に氷の結晶が並びやすいタンパク質を持っていて、それが核になる」

「なるほど」

「自然界では霜害の原因にもなるが、スキー場とかの人工降雪に応用されている。それを、遺伝子改造した」

 相田は、誇らしげに言った。

「統計的人工選択で、氷核タンパク質のアミノ酸配列を変えた。細胞表層への提示効率を上げて、さらに氷ができやすくした。だから、少ない菌体量で、より高温でも凍結が始まるってわけ。世界中のスキー場に売り込めるぜ!」

 僕は、頷きかけて、眉を寄せた。

 背中が震えた。この研究室、随分、寒いなあと思った。

「なんか、寒くない?」

「いや、空調は、完璧に管理されているはずだが……ん?」

 相田は、机の引き出しから温度計を撮りだした。

 箱の横に置くと、温度計の温度は、確かに下がり始めていた。

「待て、これは……?」

 その箱から離れると、別に寒くなかった。

「これは……この菌、周囲から熱を奪っているのか?」

 心なしか、ドライアイスを置いたかのように、ほんのりと、木の箱の周囲に霧が生じていた。

 僕は、首を振った。

「待てまて! 周囲から熱を奪ってるなら、その熱はどこへ行くんだ?」

「菌の代謝に――」

「そんな都合よく熱を“食える”のか? 熱力学の帳尻が合わないだろ!」

 相田は、言葉に詰まり、顎を撫でた。

 そのときだった。

『はい々々、頂いた熱は、この世ではない処で、有り難く頂いておりますぅ』

 か細い女の声が、研究室のどこからか聞こえた。

 空調の音でも、廊下から聞こえた声でもなかった。

 まるで、耳の奥に直接、触れてくるような、冷たい指で鼓膜をなぞられたような感じがした。

 僕と相田は、同時にビーカーを見た。

 白い塊がきらきらと光っていた。内部で微小な結晶が増殖するみたいに、光が散った。

『此処は、寒い々々処でして、もっと暖かさを下さいましぃ』

 語尾の癖が、記憶の奥の声と一致した。

 僕は、喉が縮むのを感じながら言った。

「……板子?」

『よく分かったじゃん?』

 板子は、か細い声だけどなんとなく嬉しそうに言った。

 ……板子――相田の従妹は、僕らと同じ歳だった。女子大に進学した板子と僕達は、三人で、よく遊びに行く仲だった。

 しかし、初めて滑ったスノーボードの事故で、彼女は還らぬ人になったのだった。

「な、キミ、ホントに……あの世から?」

 僕は、おそらく蒼白になっていたと思う。

 相田を見つめると、彼も、LED照明の下で鑞みたいな顔色をしていた。

「板子、げ、元気にしていたか?」

 相田が、絞り出すように言った。

『やぁね。こっちにきたから、元気じゃないけどぉ、楽しく過ごしてるよ』

「た、楽しく?」

『ホラ、試験も何もないし』

 板子は、そう言って、ケタケタと笑った。

 なんとなく、昔の彼女のことを思い出して、僕も冷や汗のまま、口元が微笑んでしまう。彼女がスノーボードの事故で亡くなるまで、三人でよく遊んだものだった……。

 相田は、顔色を失い、口を開けたまま固まっていた。

 それでも、彼は、恐怖より先に説明を探してしまう。

「神経繊維の電子伝達系の遺伝子を入れ込んだから、通信回路が――いや、これは……」

『相田、相変わらず、難しい言葉で逃げるねぇ?』

 板子が笑った。

 その笑いの軽さが、逆に怖かった。生きている人間の軽さではなく、冷えた場所で凍った軽さだ、と思った。

「こんなの……飲まにゃ、やってられん」

 相田は、やにわに冷蔵庫から95%エタノールと書かれた瓶を取りだし、プラスチックの百mL試験管、二本に注いだ。そして、試薬棚からなにやら粉を取り出して、その試験管に超純水と混ぜて振った。

「相田特製カクテルじゃ」

「おいおい……実験室内は飲食禁止――ていう前に大丈夫か?」

「黒糖焼酎と同じアルコールに、酒石酸とブドウ糖重曹他を混ぜただけだよ。普通に飲める。今日は、俺しかいない。安全管理は、俺が――」

『またそれ言う。昔、柿食べて怒られたときも“俺が責任とる”って言ってたよねぇ』

 板子が、また言た。

 僕の背中が、また冷えた。彼女は――ホンモノだ、と思った。

 相田は、突然、泣き笑いの声で叫んだ。

「俺……板子のことが好きだった!」

 板子が、くすくす笑った。

『知ってたよぉ。でも従姉弟同士は、結婚できないでしょ? 日本の法律はよくても、さ』

「いや、俺は、そのことを調べたくて進化生物学者になったんだ! まったく、問題ない!」

 僕は、胸の下が、きゅっと痛んだ。相田の気持ちは、それとなく何回も相談されて、知っていた。

 相田は、泡立つ試験管の中のモノをぐいと飲んだ。

『やだぁ、新宿のバレーズの時みたいに、飲み過ぎないでよぉ?』

「ごほっ」

 ちょっと相田がむせて、酒を戻しそうになっていた。

 そういえば――大学に入ってから、相田と三人で、プールバーで遊んだ後、飲み過ぎてかなり酷い状態になったことがあったのだ。

 そのとき、室内の温度がさらに落ちた。

 息が完全に白くなった。金属ラックに薄い霜が走り、机の角がじわじわ白んだ。霜が渦を巻いて、“広がる”というより、何かが“描かれる”ように伸びた。

 その霜の線が、木箱の縁に集まった。白い指紋のような模様が浮かぶ。

『でも、こっちに来る前に言って欲しかったかなぁ~』

「それならいっそ、俺は――」

 相田がそう言いかけた瞬間、別の声が割り込んだ。

『ヒデオ、わがままァ言ぅでねぇど!』

 怒鳴り声だ。相田の亡くなった祖母の声だった。

 研究室の空気が一段、硬く冷えた。

「……ばあちゃん、なのか?」

 相田が、震える声で言う。

 次の瞬間、彼の手が滑った。試験管が木箱の中へ落ち、ラップを破り、アルコールがビーカーの中へこぼれた。

 しゅん、という軽い音がした。

 音が小さいのに、研究室全体の空気が“閉まる”感じがした。

 雪が溶け、濁った液体になった。

 霧がすっと消え、霜も引いていった。まるで、門が閉じられたみたいに。

「ヤバい、氷核活性細菌が……滅菌……」

 相田は、叫んだが、それっきり何の音も聞こえなかった。

 板子の声も、祖母の声も消えた。

 僕は、机の上に残った濁りを見つめた。

 そこに“誰かがいた”感触だけが残っていた。指先の皮膚だけが冷えたまま戻らない。


***


 研究室を出る頃、相田は言葉少なになっていた。

 僕は、バイクのヘルメットを被りながら、板子のことを思い出していた。


 板子は、いつも半歩先にいた。

 勉強でも運動でもなく、“場の空気”を読むのが妙に上手かった。僕と相田が張り合って口げんかを始めると、彼女はわざと間に入って、どうでもいい話を始める。それで二人の熱が自然に冷めていくような感じだった。


 高校の文化祭の夜、後夜祭の片付けをしていたときもそうだった。

 なにか良く分からないことで言い合いになったとき、板子は、缶ジュースを一本ずつ渡し、「二人とも、似たもの同士だから、ケンカになるのよ」と笑った。

 僕は、そのとき、彼女の言葉が気に入らなくて、むくれた。しかし、今なら分かる。彼女は、僕らの性格をみながら、友情が切れないように手を打っていたのだ。


 大学に入ってからの三人の夜も、板子は同じだった。

 新宿のプールバーで、相田がキューの持ち方を偉そうに教え、僕が「研究者志望のくせに妙に体育会系だな」と茶化し、板子が「二人とも、勝負しないと死ぬの?」と笑う。

 その笑い声が、さっきのビーカーの中から聞こえた声と重なる。


 板子の事故は、突然だった。

 初めてのスノーボードで、慣れない姿勢をとったせいだろう。雪面は、アイスバーンだった。斜面も、割と混んでいた。転倒の角度と運の悪さもあった。

 理由は、いくらでも並べられるのに、結局「戻らなかった」という結果だけが残った。


 僕らは、彼女の葬儀に出た。

 相田は泣き腫らした目のまま、親戚として忙しく動いていた。僕は、何をしていいか分からず、ただ頭を下げ続けた。

 帰り道、相田の祖母が、僕の肩を掴んで言った。

「板子は、まだ寒いとこさいる。板の下さ、板の下だで」

 意味が分からず、僕は、ただ頷くしかなかった。その後、家に帰ってから、子供の頃に語られたことを思いだしたのだった。

 今夜の出来事で、その言葉が急に輪郭を伴ってまた思いだされた。


***


 相田をアパートまで送り、僕は、歩いて自分の部屋へ戻った。

 眠れるはずがなかった。耳の奥に、板子の言葉の語尾が残っていた。笑い声の軽さが、冷蔵庫の奥の氷みたいに固く、頭の中に染みこんでいた。

 次の朝、寝不足のまま、無理矢理会社まで行った。


 その数日後、相田から再び大学へ呼び出された。今度は、妙に落ち着いた声だった。

「もう一回、やる」

「やめろ……って言っても無駄か?」

「俺が、他にも菌を保存していないわけがないだろ?」

 相田がそう言ったとき、僕は逆にぞっとした。

 夜の研究室には、前回より機材が増えていた。

 温湿度ロガー、赤外線サーモカメラ、微小熱量計、電磁ノイズ計測のアンテナみたいなものまである。相田は白衣の袖をまくり、淡々と準備を進めた。

「この菌は、氷核タンパク質だけじゃなく、細胞内に、電子伝達系のチャンネルを組み込んである。雪からエネルギー取る菌の遺伝子が、似た配列になってたからな。比熱による刺激が、膜電位に変換されて、それを特定のタンパク質発現に繋げている」

「生物に回路って、なんか嫌だな」

「お前の神経も同じだよ。生物は、化学的に情報を扱うからな。お前も知ってるだろうけど、イオンの濃度変化で電圧を作るんだ」

 相田は、クリーンベンチの中でピペットを動かした。

 操作の手つきが、丁寧だった。たぶん、怖がっているのに、いつでも丁寧なところが相田らしいと思った。

 ビーカーの中に菌の培養液を入れるてラップする。

 相田が、それをまた木の箱に入れると、みるみる表面に白い塊が育ってきた。

 前回よりも結晶の粒が細かく、表面が砂糖菓子のようにきらめいていた。周囲の温度がゆっくり下がり、赤外線カメラの画面に、青い影が広がった。

「ん、なんだ?」

 僕は、画面を覗き込んだ。

 青い影は、ビーカーの周囲だけではなく、研究室の隅にも淡く現れていた。壁の一角が、まるで見えない窓でもあるかのように冷えていた。

「おい、あそこ」

 相田も見て、表情を変えた。

「局所的すぎる。空調の対流じゃないな……」

 そのとき、声がした。

『はい々々、また来たんだぁ?』

 板子だった。

 今度は、前回よりずっとはっきり、“ビーカーの中から”聞こえた。喉で作る声ではなく、結晶の擦れる音が言葉に化けたような、妙に透明感がある声だった。

「板子……聞こえるのか?」

 僕が言うと、板子はくすりと笑い声をあげた。

『聞こえるよ。こっちは、あったかいのが来ると、ほどけるの』

「ほどける?」

『うん。寒いと固まって、ずっと同じところにいて、流れないの。だから、あったかいのをちょうだい』

 相田が、唇を震わせた。

「俺が……お前を冷やしてるのか?」

 板子は、少し黙ってから、軽く言った。

『相田のせいじゃないよ。相田は、板の隙間をちょっと広げただけ。寒いから、勝手に吸うんだぁ~』

 その言い方が、妙に現実的だった。

 “吸う”という言葉が、生物みたいだ。寒さが生き物のように腹を空かせるのだろうか?

 相田は、熱量計のログを見つめ、唸った。

「……エントロピーが減ってる。室内の熱が減っているのに、排熱がどこにもない。つまり“外へ捨てている”んじゃない。“外”が、ここじゃない」

 相田は、興奮を抑えた声で続ける。

「もし仮に、空間が局所的に位相を変えて、別の自由度にエネルギーが流れているなら……いや、相転移だ。水と氷の境界が、世界の境界と重なっているんだろう」

「相転移? それって、扉?」

「扉という比喩が嫌なら、“位相の切り替え面”と言えばいい。トポロジカル欠陥みたいなものができているのかもしれない」

「君って、生物の研究者だよね?」

「単なる仮説だ」

 僕は、肩をすくめた。

 だが、背中が、現実に冷えていた。相田の説明は、科学用語を、それっぽく使って、“あの世”を表現しているのかもしれない、と思った。

 赤外線カメラの青い影が、壁の隅で濃くなった。

 そこから霧が生まれた。前回の霧より濃く、粒が細かかった。霧というより、冷たい粉が舞っているように見えた。

 板子が、小さく言った。

『あ、来た』

 次に、怒鳴り声が響いた。

『ヒデオ、余計なもん覗ぐでねぇど!』

 祖母の声だった。

 声の方向が、壁の青い影と一致する。壁が、薄くなっている気がした。薄いというより、膜になっているのかもしれない。

 相田は、叫びたいのを堪えるように、震える手で“熱源”を用意した。

 揉んで鉄粉の酸化で熱を出す、使い捨てカイロだ。彼はそれをビーカーの近くに置き、温度の変化を見ようとした。

 その瞬間、霧が“吸い付く”ように発熱パックへ集まった。

 温度センサーが跳ねた。熱が出たはずのパックが、逆に急冷した。

「……吸われた」

 相田の声が掠れた。

 そして、霧の中で何かが動いた。輪郭がある。人の形に似ているのに、人の関節の角度ではなかった。腕が長く、膝の位置が低かった。歩くというより、床に張り付いた影が滑る。

 僕は、息を飲み、声を出せなかった。

 怖いものを見たとき、人は叫ぶより先に“黙る”のだ。

 板子の声が、少しだけ本音の温度になった。

『……だめ。見ないで』

「板子?」

『見たら、戻れなくなる。相田、閉めて』

 祖母の声が重なる。

『閉めろ。板は門だで!』

 相田は、一瞬迷い、そして決めた。

 彼は、消毒用エタノールのスプレーを手に取り、ビーカーの中へ噴霧する。その動作が、まるで祈りみたいに丁寧だった。

 しゅん。

 前回と同じ小さな音がした。音が鳴った瞬間、霧が裂け、壁の青い影が薄れ、輪郭が消えた。ビーカーの白い塊が崩れ、濁った液体になった。

 冷えが、引いた。

 しかし、僕の背中の汗は、しばらく温度を取り戻さなかった。

 相田は、その場に座り込んだ。

「……俺は、門を開けた」

「閉めたじゃないか」

「閉めたけど、開いた事実は消えないよ」

 相田の声は、研究者の声ではなく、子どもの声になっていた。


***


 あったかいのが来ると、世界の粒がほどける。

 粒っていうのは、時間の粒だよ。

 こっちは寒いから、時間が固まる。

 固まると、同じ気持ちが、ずっと続く。悲しいとか、寂しいとか……そういうのが氷みたいに溶けにくい。だから、私、軽いふりをして喋るんだぁ。軽く喋っていると、固まらないからさ。

 でも、本当は、声を出すだけで疲れる。声は、あったかさでできているからね。

 相田が作る雪は、あったかさを吸う。

 吸ったあったかさは、こっちに落ちてくる。落ちてくると、私はほどける。だから喋れる。嬉しい。嬉しいけど、同時に怖い。

 だって、あったかさを吸うのは、私だけじゃない。

 寒いところにいる人は、みんな腹を空かせている。

 最初に、私が見つけたのは、ばあちゃんだった。

 ばあちゃんは、こっちに来てからも怒っている。怒っているというより、見張っていた。板の下を覗くなって、ずっと言っている。ばあちゃんは、門番なんだ。

 相田が雪を作るたびに、隙間が開く。

 隙間から、あったかいのが落ちてくる。落ちてくると、寒いものが寄ってくる。寄ってくるたびに、ばあちゃんが怒鳴っていた。

 私は、相田に会いたい。

 会いたいけど、会い方を間違えると、相田がこっちに引っ張られる――引っ張られるっていうのは、死ぬってことじゃなくて、死ぬよりややこしいことになるかも。戻れなくなるってこと。

 私は、言った。見ないでって。

 だって、寒いものは“見られる”と形を得るから。人が怖い話で幽霊を作るのと同じで、見たものは現実になる。

 だから、私は、軽く思い出を語って、相田を現実につなぎとめるんだ。

 思い出は、あったかいから。


***


 あの出来事から、しばらく経ってから、相田にまた呼び出された。

「同じ菌の培養物があるだけでは、何も起こらないようだ。確かに、高性能な氷結細菌になったんだが……」

 待ち合わせた喫茶店で、相田がそう言ったとき、彼の目は落ちくぼんでいた。

 相田は、研究室での出来事は論文にできないことを分かっていた。再現性がないし、説明がつかないし、倫理審査も通らないだろう。

「俺だけが、あの菌を培養することで、境界を作れるようだ。理由は分からない」

 空の、目の奥の光は、妙に澄んでいた。危険な澄み方だった。

 相田は、木箱を机の上に置いた。

 店員がちらりと見たが、僕らはただの変わった客に見えただろう。

「もう一回、板子と会える方法を考えた。吸われる熱を“こちらで用意して”やればいい。そうすれば周囲から奪わない」

「つまり……餌付けか」

「餌付けという言い方は嫌だな。でも、エネルギーを供給する。寒い側を空腹にしないで、門を安定化させる」

 相田は、ノートを開き、図を描いた。

「ビーカーの氷核面を“相転移面”として扱い、そこに生じる局所的な位相欠陥が、別の自由度へエネルギーを流す。エネルギーの流れが安定すれば、門も安定し、乱暴な“引っ張り”が起きない」

 背筋が、冷えた。

「安定したら、もっと開くんじゃないのか?」

 相田は、少し黙り、頷いた。

「開く。だから、開いた状態を管理する」

 その言い方が怖いと思った。管理できると思い込むとき、人は一番無防備になる。

「相田、板子とばあちゃんは、何て言った?」

「分かっている」

 相田は、少しだけ笑った。泣き笑いだ。

 生きている時の板子は、誰より他人の生活を気にした。いつも空気を整えていた。

 相田が木箱の蓋を、ゆっくり取った。

 中のビーカーに、白い塊があった。日光が当たって、きらきらした。けれどそのきらめきが、薄いガラスの向こうの“別の目”みたいにも見える。

 僕は、思わず手を引っ込めた。

 冷えていた。コーヒーの湯気が濃くなった。

『……ヒデオ?』

 声が、ほんの少しだけ聞こえた。

 店内の雑音に紛れそうな小ささなのに、耳の奥を確かに響いた。

 相田の肩が、ぴくりと揺れた。

 彼は、返事をしたくてたまらない顔をしている。しかし、僕が、先に言った。

「板子、聞こえるか。俺らは、まだ生きてる。だから、こっちでできることを探す」

 白い塊が、一度だけきらりと強く光った。

 返事なのか反射なのか、判断はつかない。しかし、相田の顔が少しだけ緩んだ。

 その瞬間、僕は背後に気配を感じた。

 振り返ると、喫茶店のガラス窓に、自分の顔が映っている。映っているのに、目だけが一瞬遅れて動いた気がした。

 遅れて動いた目が、こちらを見て笑ったように見えた。

 僕は、息を止めた。

 相田は気づいていない。気づかないほうがいいのかもしれない。

 窓の外は秋の夕方で、人が歩いている。

 なのにガラスの向こうだけ、冬の空気が一枚挟まっているみたいに冷たく見えた。

 祖母の声が、遠くから響いた気がした。

『板は門だで。門は閉めでおげ』

 相田が、蓋を閉めようとする。

 そのとき、板子の声が、もう一度だけ、ほどけるみたいに聞こえた。

『……ありがと。まだ、こっちに来ないでねぇ~』

 相田の指が止まり、震えた。

 僕は、何も言えなかった。言えば、相田の決意を揺らす気がしたし、揺らすべきかどうかも分からなかった。

 蓋が閉まった。

 木の音が、乾いたのに、湿って聞こえた。


***


 門は閉まっても、門だった場所は残る。

 私は、相田が好きだった。

 好きっていうのは怖いから、冗談で包んだ。冗談で包むと、相田は理屈で返してくる。そう理屈で返してくると、私は、安心した。

 相田は、泣くより理屈を選ぶから、きっと、生き延びる。

 寒いものは、引っ張る。

 引っ張られると、人が落ちてくる。落ちてきたら、私は嬉しいけど、嬉しいままではいられない。だって、戻れない人になるから。

 ばあちゃんは、見張っている。

 優しいから、怒鳴るって、門を閉める。

 そうすると、私の言葉も固まる。寂しいけど、閉まっているほうがいい。


***


 それから仕事が忙しくなって、僕が、相田に再会したのは、さらに季節が進んだ頃だった。

 冬が来る前の、空気が一番薄く、寒さが準備運動を始める時期だった。

 また待ち合わせた喫茶店に、相田は風呂敷包みを持って現れた。

 以前より痩せ、目の下が落ちくぼんでいるのに、どこか幸福そうでもある。

「閉じきれなかったよ……」

 相田は、いつもの調子で笑い、木箱の蓋を取った。

 ビーカー内の雪は、日光をきらきら反射し、微笑んだように見えた。

 だがその微笑みは、写真の中の笑顔みたいに、少しだけ固かった。

 固い笑顔の奥で、寒いものが腹を空かせていないか、僕は確かめられない。

 相田が、小声で言った。

「今回は、こちら側で熱を用意してある。吸うならこれを吸えっていう、餌――供給源だ。周囲からは奪わせない」

 机の下には、小型のヒーターと大きなモバイルバッテリーが隠してあった。

 相田は本気だった。本気で門を“管理”しようとしている。

 僕は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 目は遅れて動かなかった。今日は大丈夫らしい。

 木箱の中の白い塊が、一度だけ光った。

 板子の声が、ほんの少しだけ、ほどけて届く。

『……相田、ありがと』

 相田の唇が震えた。

 返事をする前に、祖母の声が遠くから重なる。

『欲張るな。門は門だ!』

 相田は息を吸い、吐いた。

 そして、蓋をゆっくり閉めた。

 その動作を見て、僕は思った。

 板の下には確かに何かが詰まっている。しかし、詰まっているものは“あの世”だけではなく、僕らの後悔や願いも詰まっているのだ、と。

 門は、閉まっても残る。だから僕らは、残った冷えと折り合いをつけながら生きるしかない。

 喫茶店の空気は戻り、コーヒーの湯気がまた濃くなった。

 僕は、やっと息を吐いた。


(了)



こちらも、十数年前に、旧『ゆきのまち幻想文学賞』に投稿した作品(当時のタイトルは『潮来(いたこ)』……人物名としても地域性が高すぎるので変更しました)を、少し長くしたものです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ