表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第9話:雪の逃亡者

独裁者の狂気と暴力から逃れ、極度の飢餓と極寒の荒野に放り出された健一とサキ。


彼らの愛の絆だけが、生命を繋ぎ止める唯一の体温となる。


しかし、その背後には、ヨシムラの依頼を受けた裏社会の冷酷な追跡者が迫り、前方には父が支配する巨大な社会の権威という見えない壁が立ちはだかる。


愛と真実を携えた二人は、絶望的な雪の逃亡劇の果てに、最後の希望を見出すことができるのか。

I.逃走の始まり:極北の静寂と、愛という名の体温

小泉健一とサキは、曼荼羅華の毒による集団的な狂気が渦巻く「神鳴赤烏村」という名の地獄の廃墟から、雪が降り積もる林道へと逃げ出した。彼らの脱出は、一筋の細い糸のようなものだった。背後には、ヨシムラの銃声の凄まじい残響と、狂乱する信者たちの甲高いざわめきが、悪夢の残滓のように追いかけてきた。その音は、彼らの良心が引き裂かれる悲鳴にも似ていた。


彼らの体は極度の飢餓と疲労で骨と皮のように痩せ細っていた。健一の足は、一歩ごとに鉛のように重く、その体力の消耗は鋭い針となって全身を走った。彼は、内臓の収縮と頭の激しい痛みを無視し、ただサキの手を決して離さなかった。サキの手は体温を失い、凍った石のように冷たかったが、その存在こそが、健一にとって狂気と虚無に満ちた世界における唯一の真実の錨だった。


健一は、サキが隠していた裏帳簿のコピー(湿気で歪み、雪の冷たさで硬直した紙の束)と僅かな非常食(凍った干し肉と硬いビスケット)を、命よりも大切なものとして懐に抱えていた。裏帳簿の紙の微かな角の感触が、彼に現実との繋がりを保たせていた。


「ケン…寒いわ。この雪が、まるで共同体の冷たさみたい…私たちの理想が、凍り付いたみたい…」サキはか細い声で喘いだ。彼女の足取りは覚束ず、曼荼羅華の毒の影響で、時折雪に映る影や、木々のざわめきに、幻覚の恐怖を見て怯える素振りを見せた。彼女の瞳は一点を見つめ、焦点が定まらないことが多かった。彼女は「ヨシムラ様が…土が…笑っている」と、かすかに呟き、健一の胸に顔を埋めた。


「大丈夫だ、サキ。俺がいる。この雪は自由への道だ。俺たちが手に入れた真実を、社会に届けるまで、絶対に死なせない」健一は、自分のわずかな体温を分け与えるようにサキを抱き寄せた。彼の哲学的な傲慢さは、極限の現実によって完全に削ぎ落とされ、彼の愛は、行動と生存という最も原始的で純粋な形で示されていた。極寒は、彼らの肉体を凍らせようとしたが、愛の絆だけは、微かな熱を保ち続けていた。彼らの微かな吐息が、白く凍てついた空気に消えていった。



II.雪の荒野:自然の冷酷な試練、身体と精神の極限

彼らが足を踏み入れた雪の荒野は、極寒の試練だった。雪は膝を優に超えるほど深く、彼らの疲弊した足は一歩ごとに重い抵抗を受け、体力を容赦なく奪った。靴の中に侵入した雪の冷たさが、彼らの感覚を鈍らせ、足先の感覚を失わせた。


山奥の気温は容赦なく氷点下二十度を遥かに下回り、吹き付ける北風は肌を切り裂くような冷たさだった。露出した皮膚は赤く凍傷になりかけ、健一は手袋を噛みしめ、血の味を舌で感じながら、意識の混濁と闘った。


健一は、疲労のあまり、一歩歩くごとに意識が遠のくのを感じた。彼の指先は感覚を失い、凍傷の恐怖が肉体を苛んだ。彼は、雪の白さの中にヨシムラの幻影や、父の冷酷な嘲笑を見そうになるたび、サキの存在に意識を集中させた。「サキを、守る。真実を、届ける」この二つの単純な行動原理だけが、彼の崩壊寸前の精神を繋ぎ止めていた。


自然の力は、ヨシムラの独裁よりも冷酷だった。ここでは哲学も暴力も通用しない。ただ、生き残るという本能的な意志だけが、彼らを繋ぎ止めていた。寒さは、存在そのものを否定する絶対的な力だった。


健一は、サキを庇いながら、体力の限界を精神力で乗り越え続けた。彼は、サキが隠したビスケットを微細なかけらに分け与えた。凍って硬くなったビスケットは、鉄の塊のように感じられたが、その僅かなカロリーが、失われゆく生命を繋ぎ止める最後の砦だった。彼は、空腹を紛らわすため、雪を噛み砕く音に耳を澄ませた。



III.裏社会の追跡:闇の刺客との息詰まる攻防、迫る暴力の影

彼らの脱出は、静かなる破局の始まりだったが、その追跡は迅速かつ冷酷だった。共同体の崩壊は、裏社会「東雲組」にとって大金と麻薬の供給源を失うことを意味していた。ヨシムラは、裏社会との共犯関係を暴露されることを恐れ、脱出した二人の抹殺を、彼らに取引した銃器と共に東雲組に依頼したのだ。


林道を抜けて数時間後、健一は雪上の僅かな足跡と、遠くで聞こえる不規則で訓練された足音に、追跡者の存在を察知した。彼らは、極寒の山に慣れた、冷酷でプロフェッショナルな人間だった。彼らは健一たちの衰弱した足跡を、まるで獲物の匂いを嗅ぎつけるように、正確かつ執拗に追尾していた。


「サキ、急ぐぞ。追手が来ている。ヨシムラが裏社会に俺たちを売ったんだ。奴らは殺しを躊躇しない。倫理も理想も、奴らには通じない」健一の声は、極度の緊張で低く絞り出された。


二人は、雪深い森の中へと分け入った。密林は、追跡者から身を隠す唯一の希望だったが、同時に方向感覚を失わせる危険な迷宮でもあった。健一は、サキの衰弱を考慮しながら、細心の注意を払って進んだ。彼の集中力は、極度の緊張と愛の責任によって研ぎ澄まされていた。彼は、微かな枝の折れる音や、雪の軋む音に、生命の危機を感じていた。


健一が木の幹に隠れて様子を窺うと、黒い厚手のコートに身を包んだ二人の男が、懐中電灯の冷たい光で雪上を照らしながら、彼らの足跡を辿っているのが見えた。彼らの目は冷酷で、人間の温もりを感じさせなかった。彼らは、金のために動く暴力の体現者であり、共同体の倫理的な堕落が具現化した悪夢だった。健一は、彼らの無機質な視線に、ヨシムラ以上の冷酷な支配を感じ取った。彼らは、まるで影のように静かに、確実に迫ってきていた。



IV.健一の父の影:社会の権威という巨大な壁、最後の選択

健一は、サキの安全と真実の暴露のため、外部の人間が利用する主要な街道に到達する必要があった。その街道は、彼らにとって救済であり、同時に新たな恐怖の始まりでもあった。なぜなら、その街道の先に待つ都市こそ、彼の父、小泉誠一が政治的権力と社会的影響力を行使する支配の領域だったからだ。


健一は、父との断絶を選んだが、最終的な暴露のためには、社会の構造を熟知している父の領域で行動する必要があった。彼は、この裏帳簿が父の権威にまで及ぶ腐敗の連鎖を断ち切る唯一の鍵だと信じていた。


「ケン…あの裏帳簿…本当にお父さんを動かせるかしら?もしお父さんが、ヨシムラと繋がっていたら…社会のすべてが、私たちの敵になるわ…」サキは、凍えた息を吐きながら尋ねた。彼女は、共同体内部の犯罪だけでなく、健一の父という巨悪の影を恐れていた。社会の表の顔が、裏の犯罪と密接に結びついている可能性。それは、共同体の狂気以上に絶望的な真実だった。


「分からない。だが、これだけは確かだ。父もヨシムラも、自分の支配と体面が脅かされることを最も恐れる。この裏帳簿には、彼らの関係を示す決定的な証拠が隠されている。これは、俺たちの最後の武器だ」健一は、裏帳簿のコピーを握りしめた。紙の束は、冷たかったが、その存在の重みが、健一の決意をさらに強固なものにした。裏帳簿の証拠は、彼らの命と社会の正義を天秤にかける最後の切り札だった。


彼らは、極寒の自然、裏社会の追跡者、そして父の社会的な権威という三重の脅威に晒されながら、雪上の逃亡を続けた。彼らの愛と真実は、冷たい現実の前で、細い糸のように引き伸ばされていた。しかし、健一は、サキの温もりを決して離さなかった。この逃亡こそが、彼らの愛の証明であり、独裁を終わらせるための最後の行動だった。


(第9話終)

いかがでしたでしょうか。


第9話では、健一とサキの極限の逃亡劇が、自然の猛威、裏社会の暴力、そして父の権威という社会の闇によって、徹底的に追い詰められる様が描かれました。愛と真実だけを武器に、彼らは最終決戦の舞台へと向かいます。


次なる最終決戦の舞台は、権力と真実が激突する都市へと移ります。


次回:第10話(最終章)「都市の審判」にご期待ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ