第3話:夏の夜の陶酔
共同体の理想は、狂気的な儀式の中で最高潮に達し、独裁の熱がすべてを焼き尽くす。
愛するヒロイン・サキは、共同体の生存という名の下に裏切りを強いられ、闇の都市へ。彼女が去ったことで、理想郷は崩壊の毒に完全に侵される。
第一部完。熱狂と決別の物語。
I.独裁の絶対化と、良心の沈黙
ムラ社会への夜襲という「裏切り」の行為は、共同体内に暴力的な高揚をもたらしたが、同時に彼らを不可逆的な孤立へと突き落とした。ムラからの目に見える妨害は消えたが、代わりに冷たい、重厚な沈黙という、より強固な憎悪の壁が「神鳴赤烏村」を外界から完全に遮断した。
リーダーのヨシムラは、この孤立を彼の独裁体制を確立するための理論的根拠として利用した。
彼は、薪を組みながら、健一に向かって冷酷に語った。「見ろ、ケン。我々はもう、都市にも、ムラにも、依存しない。この孤立こそが、真の解放だ。お前の言う『愛と自由』は、外部との依存関係がある限り、空虚な幻想に過ぎん。今、この村に存在する真理は、俺たちが流した汗と、俺が下す生存のための決定だけだ」
ヨシムラは、共同体のメンバーに対し、物理的な労働の規律だけでなく、彼の思想への絶対的な精神的服従を要求した。共同生活は、彼の哲学を神聖化するカルト的な規律へと変質していった。健一の哲学書は、誰も見向きもしない埃を被った過去の遺物となり、ヨシムラの言葉が、彼らの唯一の聖典となった。
小泉健一は、この急激な変化に絶望的な孤独を味わっていた。彼は、自らが追い求めた「自由」が、ヨシムラの「集団の生存」という名の独裁の前に、いとも容易く「全体主義」へと変貌していくのを、無力な哲学者として見つめるしかなかった。彼の内面では、「理想の追求」と「無力な傍観者」であることの間の、激しい自己批判が渦巻いていた。彼は、ヨシムラの独裁に抵抗する言葉を持たなかった。なぜなら、ヨシムラは、健一が最も重要視する「生存」という現実的な成果を、暴力的な手段をもってしてもたらしていたからだ。
II.収穫の宴と、熱狂の儀式
そして、共同体で最初のまとまった収穫を迎えた。太陽の恩恵を最大限に受けた野菜、そしてヨシムラたちが仕留めた数匹の獲物。それは、彼らの「自給自足の理想」が、物理的な現実として結実した証だった。
ヨシムラは、この収穫を祝し、「解放と再生の宴」と名付けた、大規模な儀式を執り行うことを決定した。それは、単なる祝宴ではなく、共同体の精神を一つに束ねるための、カルト的な祭典だった。
夜、廃屋の前には、天に向かって燃え盛る巨大な焚き火が焚かれた。炎は、彼らの抑圧された情熱を映し出すかのように、激しく燃え盛る。食事の後、ヨシムラは上半身裸となり、壇上に立つ。彼の肉体は、山の神の降臨のように、焚き火の光に照らされて不気味な輝きを放っていた。
「同志たちよ!我々は、都市の腐った欲望と偽りの愛を捨て、この山で真の生命を見つけた!我々は、もはや世間の奴隷ではない!今宵、我々は神鳴赤烏族として、過去の罪を燃やし尽くし、魂の浄化を行う!」
ヨシムラの演説は、理性ではなく原始的な感情に直接訴えかけるものだった。彼は、自らの独裁的な決定を、神意と結びつけ、メンバーたちの集団的なヒステリーを誘発した。
彼は、一人一人に「都市での罪」、すなわち彼らの過去の弱さや依存を大声で告白させ、それを炎の中に投げ込むよう命じた。
「俺は、父の金に頼って生きていた!」
「私は、男の愛に依存していた!」
メンバーたちは、互いに抱き合い、号泣し、「魂の解放」という名の陶酔に浸る。その熱狂は、理性を完全に麻痺させ、彼らをヨシムラの絶対的な支配へと導く。彼らの眼差しは、もはや自己を持たない信者のそれだった。焚き火の光は、彼らの顔を歪ませ、それは歓喜の表情というよりも、陶酔と狂気が入り混じった曼荼羅的な表情だった。
III.哲学者の抵抗と、毒花の沈黙
健一は、その異様な熱狂から離れた、廃屋の影から儀式を見つめていた。彼の純粋な哲学が説く「静かな悟り」とは似ても似つかぬ、この集団的な狂乱は、彼に恐ろしい幻滅をもたらした。
「これは解放ではない。これは逃避だ。現実から目を背けるための、集団的な麻薬だ」
健一は、口の中で呟いた。ヨシムラの儀式は、彼が裏庭で見た曼陀羅華の毒と同じ機能を持っていた。「偽りの魅力」と「陶酔」。それは、共同体の理想を、カルト的な麻薬へと変貌させていた。
健一は、この儀式への参加を断固として拒否した。彼の沈黙の抵抗は、ヨシムラの支配体制における、最も明確な異物となった。彼は、静かな場所へと向かい、リュックから師の禅問答集を取り出した。
「師よ、この熱狂は、真の悟りとは言えるのか?それとも、人間の弱さが生み出した、新たな支配の構造なのか?」
しかし、師の言葉は、この生の熱量の前で、空虚な文字に過ぎなかった。彼の哲学は、現実の暴力と狂気を前にして、何の力も持たないことを痛感させられた。彼の精神的な理想は、土の沈黙とヨシムラの独裁、そして集団の陶酔によって、完全に孤立し、崩壊の淵にあった。
IV.サキの告白と、裏切りの経済
儀式から離れた場所、曼陀羅華の白い花が幽かに輝く裏庭で、健一はサキを見つけた。彼女は、他のメンバーの狂乱に背を向け、煙草に火をつけようとしていた。
健一は、サキの傍らに歩み寄った。彼女の瞳には、儀式の高揚感ではなく、深いためらいと諦念が宿っていた。
「なぜ、君は参加しない?」と健一は尋ねた。
サキは、煙草の火を吹き消し、その瞳で健一を真っ直ぐ見つめた。
「あれは真実じゃない。あれは、みんなが都市で自分が弱かったこと、裏切られたことを、ヨシムラの『力』と『神様』のせいにしたいだけだ。私は、逃げない。そして、逃げられない」
そして、サキは健一に衝撃的な事実を告白した。彼女の声は低く、焚き火の音にかき消されそうだったが、その言葉の一つ一つが、共同体の理想を砕く現実の礫だった。
「私、今夜、山を下りる。都市に戻る。これが、ヨシムラが決めた、共同体の生存のための『最終的な仕事』だ」
健一は驚愕した。「なぜだ?ムラ社会からの妨害は終わったはずだ!」
「ムラ社会の妨害は終わった。だが、ムラからの物資調達ルートも完全に断たれた。ヨシムラは、この冬を越すために、現金を必要としている。それも、大金を」
サキの「最終的な仕事」が、裏稼業であることは明白だった。それは、かつて彼女がフーテン時代に資金を調達していた、非合法な手段を意味した。ヨシムラは、共同体の生存という美名の下に、サキの身体と過去を、再び「裏切り」という名の毒に晒すことを強制したのだ。
「そんなことは、真の連帯じゃない!ヨシムラは君を利用している!君の尊厳を、理想を裏切っているんだ!」健一は激しく訴えた。
サキは、冷たい目で炎を見つめ、静かに答えた。
「利用されても、私は居場所が欲しい。それが、私の持つ唯一の現実の力だから。…ねぇ、ケン。あなたが私のこの『汚れ』を否定するなら、この共同体も否定することになる。この村の土台は、私の『裏切り』という、都市から持ち込まれた『毒』の上に成り立っているんだよ」
彼女の言葉は、健一の哲学的な理想と、ヨシムラの独裁、そして共同体の偽善という、すべての矛盾の核心を突いていた。
V.哲学者の愛と、毒花の誓い
健一は、サキの自己犠牲的な愛と、ヨシムラの生存のための冷酷な独裁の間に、挟まれて苦しんだ。彼は、ヨシムラの独裁に言葉で抵抗することはできても、共同体の生存のために自らの尊厳を捨てるサキの「愛」には、何の反論の言葉も持てなかった。
「俺も一緒に行く。君を一人にはさせない」
「ダメよ」サキは、健一の決意を静かに拒否した。「これは、私の罪。あなたが一緒に行ったら、あなたまで汚れる。あなたの『純粋な哲学』は、この村に残してよ。あなたが、この村の最後の良心だ。あなたが、ヨシムラの独裁と、この狂気を打ち破る、唯一の希望なんだから」
サキは、健一の「純粋な理想」を、この村の「唯一の希望」として守ろうとした。しかし、健一には、それが「無力な傍観者」としての役割を押し付けられているように感じられた。彼は、愛を選ぶか、理想を選ぶかという、究極の選択を迫られたのだ。
別れの瞬間、サキは健一の手に、乾燥した曼陀羅華の花弁を握らせた。それは、儀式の熱狂とは対照的な、冷たい感触だった。
「これを持っていて。この花はね、『偽りの魅力』と『陶酔』の毒を持つ。都市で私が何を見たか、何をしてくるか。その現実の毒を、あなたがこの村の土の中で、清らかな哲学で浄化して。あなたが私を純粋な理想に戻してくれると信じている」
サキは、そう言い残すと、焚き火の熱狂と、狂気に満ちた神鳴赤烏族の歌声を背に、闇へと消えていった。彼女の姿は、都市の影へと戻っていく、裏切りの天使のようだった。
健一は、掌に残された曼陀羅華の冷たい花弁と、ヨシムラの狂気じみた演説が響く熱狂的な共同体の姿を、交互に見つめた。彼の心は、愛と理想、裏切りと陶酔という、相反する感情の奔流に引き裂かれていた。
理想郷の土台は、サキの「裏切り」の上に築かれ、ヨシムラの「独裁」によって支配され、そして「陶酔」という名の毒によって侵されている。
健一は、この共同体が、理想の極致に達した今、崩壊へ向かう歯車を本格的に回し始めたことを、残酷な運命として悟った。彼の孤独な抵抗は、ここから始まらざるを得なかった。
(第3話終/第一部完)
いかがでしたでしょうか。
第3話をもって、第一部「誕生と偽りの魅力」は完結です。理想の光は最も強く輝き、その裏で独裁と裏切りという名の闇が深く根を下ろしました。曼陀羅華の毒は、すでに共同体の精神を侵食し始めています。
サキが持ち帰る「金」と「傷」は、共同体内にどのような波紋を広げるのか。そして、孤立した理想郷に都市の目が迫ります。
次回:第二部「裏切りの深化」の始まり、第4話「メディアの覗き穴」にご期待ください。




