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第1話:神鳴赤烏村へ

1970年代初頭。東京の熱狂と虚無に絶望した若者たちは、最後の希望を山奥の廃村に託した。それは、資本主義の毒から離れた、自由と愛のユートピアのはずだった。


しかし、自然の厳しさと、リーダーの独裁、そしてヒロインの危険な秘密が、彼らの理想を少しずつ蝕んでいく。


これは、理想郷に咲いた「毒の花」と、人間のエゴが織りなす崩壊と再生の群像劇である。

I.東京、虚無の黄昏たそがれと裏切りの都市

昭和四十六年(1971年)の東京は、若者の魂を貪り尽くした後の、静かな黄昏を迎えていた。高度経済成長は頂点に達し、すべてが金と効率の名の下に規格化されていく。かつて「自由」と「革命」を叫んだエネルギーは、まるで熱病のように去り、残ったのは疲弊した肉体と、巨大な消費社会という怪物の存在だけだった。


小泉健一、23歳。父が大企業の重役という約束された未来を捨て、この喧騒の中に飛び込んだが、その選択は誤りだったと日々痛感していた。長髪とインド綿のシャツは、もはや信念の象徴ではない。それは、「社会不適応者」のレッテルであり、三畳一間の安アパートでシンナーの甘い残香に溺れる日々を覆い隠すための、薄っぺらい衣だった。


彼の内面では、哲学と現実が絶えず衝突していた。リュックの底に押し込まれたヘッセとカミュの思想は、この都市の虚飾を暴く武器であったが、同時に、彼自身の「行動の無力さ」を突きつける鏡でもあった。知性だけでは、この世界を変えられない。言葉だけでは、腹は満たされない。


「風月堂」のジャズと、元同志たちの批評という名の自己慰撫を聞くことに、健一はもう耐えられなかった。彼らの議論は、社会の外側ではなく、都市という檻の中の、ただの知的な遊びに過ぎない。彼の師が遺した禅問答集の一節が、脳裏を過る。「真の自由とは、全てを投げ捨て、無に帰することから始まる」。


健一は、最後に残った僅かなレコードを売り払い、その金を握りしめた。向かうは、ヨシムラが記した葉書の住所。それは、地図にも載らない、「神鳴赤烏村」という名の、新たなユートピアの実験場だった。彼の旅は、都市を離れることではなく、己の存在を賭けた、最後の抵抗だった。



II.境界の門:ムラ社会の冷たい拒絶

夜行列車が東京の光を背後に置き去りにし、彼は長野の山間、日本の原風景の中に身を投じた。駅を降りた途端、空気が一変する。それは、排ガスではなく、腐葉土、雪解け水、そして何世紀も変わらぬ生命の息吹だった。


しかし、健一の理想の旅は、山奥へ続く砂利道で、早くも最初の「体制」と衝突する。


数少ない民家が点在する集落の境界線に立つ古民家の前で、彼はトメという名の老婆と出会った。彼女の姿は、日本のムラ社会が何世代にもわたって守ってきた「規範」そのものを体現していた。


老婆の目は、健一の長髪とインド綿のシャツに向けられ、まるで伝染病の病原体を見るかのように冷酷だった。彼女の視線は、健一の過去のすべての怠惰と裏切りを見抜いているかのようだった。


「あんたさん、何を背負って、あんな穢れ場へ行くんだね」老婆の声は、低く、山鳴りのように響いた。


健一は胸を張って答えた。「我々は、資本主義の毒から離れ、土と愛で共同体を作る。真の人間性を取り戻すために行く」


老婆は、顔の皺を深く刻んで笑った。その笑いは、嘲笑というよりも、確信に満ちた予言だった。


「真の人間性だと?この山はな、そんな綺麗事では動かない。あの奥には、都会で使い潰されたろくでなしが集まって、『愛だの自由だの』と叫びながら、互いを食い合い、村の平和を乱している。あんたさんの魂は、そこで腐り果てるよ。お前たちのいう『自由』は、飢えと責任から逃げるための『偽りの旗』に過ぎない」


トメの言葉は、健一が最も恐れていた「理想の脆さ」を正確に指摘していた。彼は、この山奥に来たからといって、日本の強固な集団主義と古い価値観から逃れられるわけではないことを悟る。このムラ社会の冷たい目は、いずれ彼らの首を絞める外部の圧力となるだろう。彼は老婆に背を向けたが、その冷たい視線が背中に刺さるのを感じ続けた。



III.炎と土、そして独裁者の肖像

老婆の警告を振り切り、さらに険しい道を上り続ける。道は次第に獣道となり、人の気配は完全に途絶えた。その先で、健一はついに「神鳴赤烏村」と墨書された看板を、苔むした廃屋群の前に見つけた。


古民家は雪の重みで歪み、まるで理想の挫折を物語っているようだ。しかし、その周囲では、数人の若者が一心不乱に土を掘り起こし、板壁を修理する音を響かせている。その音は、都市の喧騒とは全く異なる、根源的な創造の音だった。


ヨシムラは、かつての知的な革命家の面影を残しつつも、もはや自然と一体化したかのような強靭な肉体を持っていた。彼の両手は土と木の皮で厚く汚れている。


「遅いぞ、ケン!お前の頭蓋骨の中の革命では、飢えは満たせん。だが、お前の『知』と、俺たちの『力』を合わせれば、ここはこの世界最後の希望となる!」


ヨシムラの抱擁は力強く、健一の全身の疲労を吹き飛ばした。彼は、この男の元にこそ、「真実の革命」があると確信した。


すぐに健一は作業に加わった。慣れない手で薪を割り、岩を運び、石窯の基礎を築く。その肉体的な疲労は、これまでの精神的な疲弊とは全く異なり、細胞が蘇るような生の歓喜を伴っていた。


夜、囲炉裏の火が赤々と燃える。ヨシムラは、その炎を見つめながら語った。


「都市は嘘でできている。だが、土は嘘をつかない。飢えも寒さも、俺たちが連帯すれば乗り越えられる。ここでは、誰もが自由な愛を享受し、精神を解放する。ケン、お前の禅の教えで、この村の魂を導いてくれ」


彼の言葉には、圧倒的なカリスマが宿っていた。しかし、健一は同時に、ヨシムラの目に、かつて学生運動を主導した際に見た「目的のためには手段を選ばない、独裁者の予兆」を感じ取った。ヨシムラにとっての共同体は、「小さな革命の実験場」であり、彼の「力」こそが絶対的な法となることを、健一はまだ気づいていない。



IV.曼荼羅華の誘惑と、愛の毒

その歓喜に満ちた夜、健一は薪を取りに裏手の物置小屋へ向かった。湿った土の上に、夜の闇に浮かび上がる白いトランペット型の花を見つける。その姿は、まるで聖なる図であり、彼が追い求める「悟り」の象徴のようだった。


「それは、曼陀羅華マンダラゲ。綺麗だけど、触っちゃいけない花だよ」


声の主は、サキだった。彼女は、他のメンバーのように飾り気を捨てておらず、どこか都市の退廃と、生々しいリアリティが残る。彼女は、この共同体の「理想の純粋さ」を曇らせる、危険な異分子だった。


サキは、健一の横にしゃがみ込み、その毒花を静かに見つめた。


「花言葉はね、『偽りの魅力』『陶酔』。全草に猛毒がある。みんながここで『精神の解放』を求めるのは、都市の痛みを忘れるためでしょ?でも、『悟り』と『現実からの逃避』って、この花みたいに、美しい嘘で繋がってるんじゃないかな」


彼女の言葉は、健一の観念的な理想を直接的に突き刺した。健一は、サキの本能的で地に足の着いた肉体の魅力に強く惹かれる一方で、彼女が都市で資金稼ぎを担ってきた「裏切りの匂い」を恐れた。


「君は、ここが偽りだと知っていて来たのか?」と健一は問うた。


サキは、白い花の横で、煙草に火をつけた。その火種が、彼女の瞳の奥にある孤独と諦念を一瞬照らし出す。


「知ってるよ。でも、私は誰よりも愛と居場所が欲しかった。ねぇ、ケン。お前の求める『真実』って、この曼陀羅華みたいに、手の届かない理想のこと?それとも、泥まみれになってでも生にしがみつく現実のこと?」


彼女の問いは、そのまま健一の「存在の根源」への問いとなった。


曼陀羅華の甘く危険な香りが、夜の闇に広がる。健一の理想郷の「土」の傍らには、すでにヨシムラの独裁、サキの秘密、そして「陶酔」という名の猛毒が深く根を下ろしている。彼の純粋な理想は、この毒花によって、「裏切り」の試練に立たされたのだ。


(第1話終)

いかがでしたでしょうか。


主人公ケンが踏み入れた「神鳴赤烏村」は、真の悟りへと続く場所か、それとも破滅へ向かう道筋か。理想と現実、そして曼陀羅華の毒が絡み合い、物語はすでに緊張感を増しています。


次回、コミューンに迫る「外部の圧力」と、内部で進行する「愛の裏切り」が、ケンとヨシムラの対立を決定的なものにします。


次回:第2話「土を耕す哲学者」にご期待ください。

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