どこでもない場所
生きる意味なんて、考える必要もないくらいに僕らはよく知っている。
それなのにいつのまにか僕らは、忘れている。
とても簡単なことを。大事なことを。
忘れている。
どこでもない場所にいた。
今まで見たことも聞いたこともない、知らない場所。
宇宙空間のようだと思った。丸くて青い表面に渦を巻いた惑星のようなものや、四角形だか三角形だか分からない積み木のような物体が数十メートルと離れていないところに浮いている。別の方向を見ればそれと同じようで違う物体がそこかしこにあって、遠くにも無数の物体がざらっと浮かんでいる。それを見ている僕も宙に浮かんでいる。ずっと彼方の背景は灰色だか乳白色だかが混ざり合ったような何とも言えない色をしていて、空間はどこまでも広がっているようだった。
天井はない。床もない。腕は動く。足も動く。歩こうとすればそれなりの速度で移動もできた。
何だここは? 僕は確か、家で資格の勉強をしていて、そのまま寝落ちして、……社会人三年目で、思いのほかブラックな企業で、あれ、なんだっけ……。
分からない。考えても埒が明かない。逃げ出したい。たまらない気持ちになる。だが、どこへ? この空間のどこへいけば元の世界に戻れる? いやちょっと待て、向こうの世界は戻りたいほどの世界だったか?
いやまず落ち着け。落ち着け。
僕はため息をついて、上を見上げた。いつもの世界ならば空か天井があった方向を。
するとそこに一人、人間らしきものを見つけた。純白のローブをまとった金髪の少女。漫画みたいなぷよぷよした白く立体的な羽を背中に二本生やしたその少女は、僕を見つけると流線的な軌道を描いて鳥のように素早く飛んできた。
「ようこそ。もう大丈夫だよ」
開口一番、そんなことを言う。
鳥と人間を混ぜたような顔だな、とまず思ったのだがそれは彼女が背中に羽を生やしているからで、それを差し引いて見ればかなりの美形だと思った。言葉の言い回しこそ大人びているがおそらく十代前半、それどころか幼女にすら見える童顔だ。
「ここはどこ?」
意外にも僕は冷静に言葉を発していた。
「うふふ、ここはね……」
羽の少女は含み笑いでもったいぶった言い方をする。
「天国!」
「はあ?」ノータイムで聞き返してしまった。
「だから、天国! これからここに作るの!」
何を言っているんだこの子は? こんなぐにゃぐにゃしたよくわからない空間が天国? 普通、天国は草花が咲き乱れて神殿でコーヒーを飲んで一息ついてる天使がいて道行く人は皆笑顔で大空にはでかい鳥がゆっくり羽ばたいてる空間だろうが。
「ここのどこが天国なんですか」
ようやく警戒し始めた僕は丁寧語を選択する。僕がここに来てしまったのはこの子が原因かもしれない。
「これから作るんだってば! そのためにまず人を集めようと思って、地球の中でも人生楽しくなさそうな人を呼んでるの! その最初があなた!」
体をくねらせたぶりっ子仕草で羽の少女はびしっと僕を指さした。
「楽しくない人を選んでる?」
「そう! だってあなた、いつもしかめっ面で楽しくなさそうだったから。そういう人ならこっちで天国作りに協力してくれそうでしょ?」
ウインクまでして僕にすり寄ってくる少女。
そうか、そういうことか。ようやく理解した。
上を見上げる。四角だか三角だか分からない物体が不規則に浮かんでいる空間。宇宙の出来損ないみたいな謎の世界。つまりこの場所。どこでもない場所。
ここはこの子の実験場だったんだ。新世界創造のための。
そして僕を連れてきた。新世界の住民一号として。現世でつまらない人生を送る人間代表として。
「……」
「……どうしたの? なんで黙っちゃうの?」
心配そうに羽の少女は尋ねてくる。
ふー、と長めのため息をつく。
じろりと睨みつけると、少女は驚いたように一歩あとずさった。
ああ、ガキだなコイツ。人間のことを知らないんだ。女神だか何だかしらないけど、人間のことなんかほとんど知らずに適当言ってるんだ。
腹が立っていた。
侮辱されたと思った。
なぜ?
確かにこの子の言ったことは当たっている。僕は今の人生が楽しくはない。寝ても覚めても労働のことで頭がいっぱいで、そんな環境を抜けだすために資格の勉強をしていた。そのせいで睡眠は足りず、目の下には隈がつきっぱなし、眉間にしわは寄りっぱなし。
むしろ願ってもない話だと思った。あんな世界抜けだして別の世界に移住するのだ。そこでユートピアを作るのだ。
それでも腹が立っていた。
馬鹿にされたからか? だが相手は子供。子供に馬鹿にされたからなんだ。つまらないのは事実だろう。
違うのだ。何かもっと。理由がある。
このうだるような熱は何だ。何が原因だ。
なぜなら、……なぜなら……。
つかつかと歩み寄り、少女のローブの胸倉をつかみ引き寄せた。羽の少女は目を見開き、意外そうな表情をする。
「あのな。お前、間違ってるよ」
「ど、どうして? 楽しくないんでしょ? なら、新しく作るこっちの世界の方がいいに決まってるじゃない。そうでしょ?」
狼狽しながら少女は言う。胸倉をつかんだ両手を前後に振ってそれに答える。
「違うんだよ。違う」
いつもより低い押し殺した声が出た。だんだん頭の芯が熱くなる。
「でも、あんな楽しくない世界よりこっちのほうが、」
「違う!」
僕は大声を出した。驚いた少女が体をこわばらせたのが分かる。周りの空間に波紋が走った。数秒遅れて、近くに浮いていた天体のようなものまで揺れた。
「僕は、僕はあっちの世界でうまくやっていくつもりだったんだよ。まだ、何も成し遂げてないんだよ! 楽しくないだと? 当たり前だ! まだ何も成し遂げてないんだから!」
「……どういうこと?」
「いいか、僕はこれからあの世界を楽しむつもりだったんだ! 何のための人生だ、僕はあの世界で楽しく生きるために、資格とって、転職して、人生を謳歌する予定だったんだ! それをお前は、何もかもなしにして天国を作ろうだと⁉ まだ僕は何も成し遂げていないのにか⁉ このままで終わらせろってのか⁉」
「あ、あっちの方が良かったってこと? 私が、選ぶ人を間違えたってこと?」
目じりに涙を浮かべて少女は上ずった声で言った。
その涙を見て僕の心は一気に凪いだ。しまった、感情的になりすぎた。羽の少女をゆっくりと足元に下ろすと、彼女はへたり込み、目尻から頬に涙が落ちた。
「そうだ僕はまだ、やり残してることがたっぷりあるんだよ。選ぶならもっと別の奴にしてくれ」
バツの悪さを悟られぬようそっぽを向いて言葉を紡ぐ。そして今度は有無を言わさぬ口調で言いつけた。
「さあ、僕を元の世界に戻してくれ!」
「……うん、わかった……」
羽の少女は立ち上がり、心なしか真剣な表情で両手を開いて僕に向けた。背中の羽が彼女の呼吸に合わせて上下する。
「じゃあ、あなたをあちらに帰すわ。……その……、悪かったわね。私の考えが甘かったみたい」
気まずそうなセリフを聞き終わらぬうち、僕の視界は白くぼやけ意識は遠のいていった。
「…………………夢か……」
見慣れた天井。がばりと身を起こして最初に見たのはそれだった。家賃七万のアパートの八畳の自室。
夜闇に満ちた部屋。資格の勉強中に机上で寝落ちしてしまったようだった。居眠りセンサーが働いたのか、卓上ライトの電源は落ちていた。
ライトの電源を入れると、オレンジ色の光が部屋を暖かく照らした。
妙な夢を見た。女神みたいなやつに異世界へ誘拐されて、「元の世界に返せ」と喚く夢。そこで自分は相当アツいことを言っていた気がする。この世界を楽しいものにするために俺は努力しているんだ、とかなんとか。
恥ずかしさでぐぅぅと変な唸り声が出た。頭を抱える。頬が熱い。
はー、と息を吐く。デスクの目の前の窓にライトの光と自分のシルエットが映っている。窓際のデジタル時計は午前二時を示していた。
僕は何物でもなかった。ただの会社員で、ブラック企業勤めのしがない若者。この世界で、女神の提案を拒否して帰ることを決めた、この世界で。
……自分の人生を楽しくするため、か。
まだ何も成し遂げていないから、このままじゃ終われない。確かそんなことを夢の中で喚いていた気がする。
ため息をつきながら僕は椅子から立つ。なんと少年漫画なセリフだろう。恥ずかしくて死にそうだ、……けれど。
「……そういえば、そうだったよな……」
キッチンに行ってココアを淹れると、再び机に向かって僕は資格の勉強を始める。解説書の大事な部分に赤線を引きながら、寝落ち前に解いた問題の答え合わせをしていく。
暗い窓がオレンジ色の光を淡く映している。その中にココアの湯気が一筋立ち上った。