68 (5-1) 昨年の冬のある日の事
全てが白と黒の絵具だけで塗りつぶされ、無機質な世界へと変わり果てた誰一人いない無人の宝箱市内の街中を、その日、露草詩叙は唯一人全速で駆けていた。
「なんで……?」
普段は冷静でめったにその表情を崩す事のない彼女だったが、今は誰が見てもわかるくらい焦りの色が彼女の顔全体を覆っていた。
迂闊だった。いつもだとこんな事なんてなかったのに……。
昨年の秋くらいの頃だっただろうか。彼女がそれを初めて体験したのは、学校で授業を受けていたある午後の事であった。受けている授業の内容も特に興味なく、先生の話を聞いてるのか聞いてないのか、どことなく曖昧な感じで少しボーっとしながら、何気なく彼女の座る教室の窓側の席から外の風景を眺めていた時だった。今日は放課後のランニングに絶好の天気だな、とかそんな事をぼんやりと考えていたその時、一瞬何かいやな寒気を感じたかと思うと、さっきまで晴れ渡ってどこまでも澄んだ色をしていたはずの青い空が、たった今、灰色と白色で着色されたくすんだ空へと変わり果ててしまった。
(あれ? この空模様だと放課後のランニング、大丈夫なのだろうか?)
突然身辺に発生した異常な事象を前にしても、持ち前の平静さを失わずに、詩叙はそんな事を考えながら、少しの間、白黒になった空を眺め続けた。
(あっ……。そういえば、まだ授業を受けてる最中だったんだ……。)
そう思って彼女が正面を向くと、彼女はようやく、今大変な事態が起こっている事に気がついた。教室も、そこで授業を受けていたクラスメイトも、授業が面白い事で生徒に人気な先生も、何もかもが、今の空模様と同様、はるか昔に撮られた白黒写真かのごとく、どこか不鮮明で現実感のない世界を映しだしていた。
「…………。」
それを見て、さすがの詩叙も多少は驚いたみたいだったが、このような異常事態に直面した今になってでさえも、彼女はその感情を表情に表す事は決してなかった。
詩叙は、いつもの冷静さと平静さを失わず、自分の席にとどまって今起きている状況を確認しようと、落ち着いて教室全体を見回してみた。どうやら教室にいるクラスメイトも先生も白黒になってるだけじゃなくて、まるで時が止まってしまったかのように、その姿勢のまま一切の活動を停止しているように見えた。クラスメイトの緋色さんも菜の花さんも、普段だとキラキラと華やかで素敵な人なのに、なぜか今は皆と同様、白黒で無機質な物体みたく変わり果ててしまっている。教室の黒板の上に掲げられている時計を確認した。やはり、時計はある時刻をさしたまま、そこから時を刻む事を止めてしまっているようだった。恐らく白黒になってしまったのは、空や自分の教室だけでなく、他の教室も、学校全体も、周りに見えるもの全てがそうなのだろう。
(うん……。)
思い切って教室を出て、外に確認に行った方がいいのだろうか? そうしようかどうか、席に座ってしばらくの間悩んでみたが、もし自分が教室を出ている間に時間の進行が再開してしまい、授業中に勝手に席を離れた理由を先生に問い詰められでもしたら弁解のしようもない。それに、自分が席を離れて確認しようとした所で、周りが白黒になってしまった原因や、ましてやその解決方法を見つけ出す事なんて自分にできるはずがない。そう結論づけると、結局、詩叙は自分の席に座りながら、この奇妙な事態が収まるのを待つ事にした。多分だけど、この異変はしばらくしたら自然に収まってくれるような気がする。そして詩叙の予想通り、彼女が席に座って読みかけだった小説の続きを読み始めてからしばらくして、教室の前から突然大きな声が聞こえてきたので前を向くと、まるで何事もなかったかのように、先生が授業を再開し始めた。周りを見渡すとクラスメイトのみんなも異変が起こる前と何も変わる事なく、生き生きとした生命を取り戻していた。時計も時を刻む仕事をようやく思い出したかのように、再び時を刻んでいた。それはとても不思議な出来事だったが、結局は自分にも周りにも何の影響もなかったので、彼女は別段それを気にする事はなかった。ただ、授業中に小説を読んでいた事を先生に注意された事だけは苦い記憶として残ってしまったが……。
そんなわけで、それが彼女が体験した初めての異変だった。そして、それからしばらくして、彼女は度々その異変と遭遇する事になった。それは決まった曜日や時間帯があるわけでなく、彼女が授業を受けてる時だったり、休日に家でトレーニングをしている時とか、それが朝であったり、夜であったり、特に決まった周期があるわけでもないらしく、でも、大体週に一回くらいの頻度でそれに遭遇した。そして、それからその異変に遭遇して二回か三回目の時に、白黒になった世界の中で、どうやらかなり遠くの方で、時々赤や黄色の閃光が光って遠くの空が赤や黄色に染まっているのが確認できた。あんな遠くの方からなのに、その光がここからでも確認できるなんて。信じられないけど、あの閃光は何か得体のしれない巨大な何かが爆発して発生しているのかもしれない。何か特殊な事情があって、世界がほんの少しの間白黒になってしまっただけなのかも?なんて思ってもいたが、もしかしたら実はそれだけじゃなくて、遠くの方では、何か深刻な事態が起こってるのかもしれない。それからは用心として、異変が起こっている間は、教室や家の中に籠ることにした。自分でもよくわからないけど、室内にいれば、なぜか安心なんじゃないかって気がした。異変の最中、外を見渡すと、全てが白黒に染まった世界の中で、それと共に、いつも遠くの方から、時々赤や黄色の閃光が発生しているのが確認できた。
そして、次第に彼女は異変に慣れてしまった。最初のうちは、身の安全のため、異変が発生している間は室内に待機するようにしていたのだが、あの得体のしれない閃光も、毎回かなり遠くの方から、北向きの方角から、そして大体同じ位置から発生しているみたいなのがわかったので、さすがにこの場所までは届く事はないだろうと思い、異変が起こってから元の世界に収束するまで、いつも体感だと大体一時間以上はあって、それにあまりに手持ち無沙汰だったので、その間は外にトレーニングに出かける事にした。
しかし、あの日は事情が違っていた。
その日の異変は、彼女が自宅にいる時に発生した。詩叙は異変が発生しても、特にそれを気にした様子も見せず、それを合図にランニングに出かける準備をした。彼女が外に出てランニングを開始してからしばらくすると、いつものように閃光が空に広がった。
「えっ……?」
詩叙は、驚いたように空を見上げた。
すると、目の前の真っ白だった空が、一瞬にして一面全てが真っ赤に染め上がった。そして一時をおいて鼓膜を突き破るようなものすごい爆発音が周囲に大きく響き渡った。比喩でもなんでもなく、文字通り空が赤く燃えていた。そして上空からは、赤や黄色の閃光が発生するたびに、空一面を赤や黄色に染め上げた。
(どうして……?)
あの赤や黄色の閃光はいつも遠くの方から発生していたはずなのに、今回はなぜか宝箱市内で発生している。そして赤や黄色の閃光の正体は、実はそれが巨大な炎であり巨大な雷であった事が初めてわかった。
詩叙は、今外にいる事がこれ以上なく危険な振舞である事を瞬時に理解した。
(早く、早く家に帰らなきゃ……。)
詩叙は、そう思うと、家に向かって全速で走り出した。詩叙ががむしゃらに家に向かう最中、上空では、様々な閃光や爆発音が響き渡っていた。今までは遠くからだったので気づかなかったが、上空では赤や黄色以外にも青色や白色の閃光も発生していた。赤や黄色は炎や雷のはずなので、上空で閃光が発生する時には熱さを感じるが、青色の時は凍えるような寒さを感じる。多分水とか氷とかなのだろうか。白色はよくわからない。感じた事のないやつだ。空中では閃光以外にも何かがぶつかったような大きな衝撃音も響いてくる。一体、今上空では何が行われてるのだろうか? とてもこの世のものとは思えない。見た事もない強力な気象変動でも巻き起こっているのだろうか? それとも、得体の知れない怪物や脅威が、この白黒の世界の中だけで暴れ回っているのだろうか? それとも、もしかして神が人類の罪に対し裁きの審判でも執行してるのだろうか?
出かけちゃダメ。そう言われていたのに、完全に油断してしまっていた。詩叙は、激しい後悔の念に苛まれされながらも、なんとか自宅の近くまで到達した。
この通りをまっすぐに走りきれば、やっと自宅だ。家の中にさえ入る事ができれば、それでもう安心だ。その時の事だった。上空を赤い隕石のような巨大な塊が、今まさに地面目がけて落ちてきているのが詩叙の眼前にみえてきた。
(やばい……。)
詩叙は懸命に走った。それも、今まで経験した事がないくらいに。やがて自宅が見えてきた。でも、ダメだった。赤い隕石はもう目の前まで接近していた。自宅までは、まだ50mはあった。
詩叙は死を覚悟すると、大きな爆発音と共にどこかへと大きく吹っ飛ばされた。
隕石が落ちたからなのか、見渡す限り、街の周囲一面が赤黒い炎に包まれていた。異変が起きて、今世界は白黒になっているはずなのに、ここだけはまるで赤の世界になってしまったかのようだ。
それからどれくらい気を失っていたのかわからない。やがて目覚めた詩叙は、全身傷だらけで体中のあちこちからは激痛が走った。体中のあちこちの骨が折れて、それに内蔵もかなり損傷しているみたいで、うつ伏せの状態になったまま、それ以上動く事ができなかった。
(なぜ……死ななかったんだろう?)
詩叙は、朦朧とした意識の中で、あの赤い隕石が地面に直撃したはずなのに、なぜ自分の体が溶けて消滅しなかったのか不思議でならなかった。
その時の事だった。誰かが地面に降りてきた。そして、自分の目の前で立ち止まった。
「あら? やっぱり。でも……なんでここに人間がいるのかしら?」
詩叙は、思いもよらず女性の声が上から聞こえてきたので、何とかありあわせの力を振り絞って顔を上げて上を見上げた。
そこには、炎に照らされた、赤い衣装を身に着けた傷だらけの魔法少女が、驚いた表情で詩叙の事を見つめていた。
ご読了誠にありがとうございます。
下の☆☆☆☆☆から気持ち甘めに評価を入れて頂くと、☆の数に応じてとてもがんばろうという気になります。




