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「お姉ちゃん。ご飯だよ。」
その時、階下より姉の名を呼ぶ万智の声が聞こえてきた。
それまで、念願の魔法少女になったことにすっかり興奮していたひばりだったが、万智の声がした瞬間、今までいた夢の世界からいつも暮らしている日常の世界に一気に引き戻されたような気がした。そして、それと共に、なぜか興奮も急に冷めて、すんとした表情になった。次に、上げていた両手を静かに降ろすと、顔だけ横に向けて万智の声がしてきたドアの方を意味もなく、ただぼんやりと見つめていた。
(あー、お腹空いたー。)
ひばりは、力が抜けると、自分が今猛烈に空腹なことに気がついた。そう言えば、今日朝起きてから今まで、色々な事が起こり過ぎて、いつもはほとんど使う事のない頭も体も使い過ぎで、実は心身ともに疲れ果てていた。それでガス欠になってしまって、魔法少女の事はとりあえず二の次になってしまったのだった。
一方、子犬の方は、魔法少女に変身したひばりを見てなんとも微妙な顔をしていた。自分が黄色の魔法少女だという事はわかっているはずなのに、それでもひばりが、あえて桃色の魔法少女の姿になっていることも少しは気にはなったが。
(ふむ。あの衣装は、恐らく五色の弦楽器の魔法少女の桃色の魔法少女の衣装か何かだろう。)
確かに、ひばりが今身に着けている衣装は、アニメ伝説の五色の魔法少女シリーズの前作第29シリーズにあたる、五色の音色の魔法少女「マジカルクインテット」の二人目のバイオリン奏者である桃色の魔法少女ピンククインの衣装そのものであった。マジカルクインテットの魔法少女の衣装は、一般にクラシックの演奏会の場で披露されるような、シンプルでありながら華のあるドレスをベースに、デフォルメされた音符や音楽に関する記号や意匠などが、衣装の所々にデザインの一部としてセンス良く配置され、より魔法少女ぽく見えるように工夫されている。ちなみに、五色の音色の魔法少女「マジカルクインテット」は、バイオリン×2,ビオラ、チェロ、コントラバスの五人の奏者で構成されている。一方、結成されることはなかったが、それに対する六色の金管楽器の魔法少女「マジカルセクステット」は、トランペット、ホルン、トロンボーン×2、チューバ、ユーフォニアムの六人の奏者で構成される。はずであった。
(ここに至っても、まだ桃色の魔法少女を選ぶか。自分が黄色の魔法少女だということは、本人も分かっているはずなのに。ふむ。余程桃色の魔法少女のことが好きなのだろう。それにしても、なんとも諦めの悪い奴だ。まあ衣装など魔法少女を認識するためのただの飾りであって、その能力に実際に何の影響を与えるものでもなんでもないのだが。ただ、黄色の魔法少女が桃色の魔法少女の姿で戦ってるとか、一々紛らわしいし、違和感が気になって仕方なくなりそうだが。とりあえず、今それは置いておくことにして。)
基本的に魔法少女の衣装というのは、単なる衣装であって、物理的攻撃からのダメージを緩和するとか、対魔法効果を減少させるような特別な効果はない。そして、実は決められた制服がある。という訳でもない。当人に特に希望や要望がなければ、事前に用意されたデフォルトの衣装が自動的に提供されることになり、一般的にはその衣装が採用されるケースがほとんどである。だが、もし当人に強い希望があれば、そちらを採用したとしても別に構わない。それでひばりの場合、ひばりにとって最新の桃色の魔法少女にあたるマジカルクインテットのピンククインの衣装が、ひばりの強い要望によって、今回は採用されたのだった。同様に、五色の魔法少女マジカルキティの面々も、当人達の要望に従って、今回はデフォルトの衣装ではなく、菜の花蛍案の魔法少女のデザイン画が採用されている。
(……。)
子犬は、一層険しい顔になって無言でひばりを見つめると深くため息をついた。
(それにしても…、ここまでとは。初めから特に期待はしていなかったが。だが、ここまで魔法力を感じない魔法少女を見たのは初めてだ。肉体的にもほとんど強化された気配もない。もしかすると、いや、恐らくこの魔法力だと、イエローパピーの最弱魔法であるキロライトさえ放つことができないのではないか。それに確認するまでもなく、この少女は「真なる愚か者の日」生まれなのであろう。平時ならば、ここまでポンコツ性能に振り切った魔法少女というのも非常にレアな存在なので、とりあえず傍らに置いておいたら面白いといえば面白い存在なのかもしれない。が、今はそんな余裕をかましていい状況ではない。やはり他の五人の魔法少女を見つけることが先決か。)
子犬がそんなことを真剣に考えていると、不意にひばりにひょいと持ち上げられた。
「ご飯に行くよ。」
ひばりは、子犬にそう一言だけ言うと、急いで部屋を出て階段を降り、台所に向かった。
(ふむ。そう言えば私も腹が空いたな。)
この子犬が、実はいわゆる創造主とか超越した存在であったとしても、生物学的にいう所の哺乳類のイヌ科のイヌ属に属する今の肉体では、一定の時間が経過すれば空腹を感じるという生理的現象が発生するのは、形上は犬でしかない今の自分にとっては極めて自然のことであった。
子犬を両手に持ちあげたまま台所に入ったひばりは、子犬を床に降ろすと、早速台所にある自分の席にピョコンと腰を下ろした。台所は、昨日行われたひばりの16歳の誕生パーティーの飾り付けが、まだ片づけられない状態で残っており、折り紙で作った輪っかの飾りが壁からダランとだらしなく垂れ下がってたり、「ひばり16歳の誕生日おめでとう!」と書いた張り紙の「おめでとう!」の部分の張り紙が剥がれかかったりしていた。台所では、ひばりの母親の洋子が、揚げたばかりの春巻きが一杯に入った大皿をテーブルの上に置こうとしている所だった。
「あら。」
洋子は、ひばりの魔法少女姿を確認すると、娘の愛らしい姿に意味なくニッコリと微笑んだ。
「お姉ちゃん。衣装が食事で汚れちゃっても知らないよ。」
洋子も万智も、ひばりが急に魔法少女のコスチュームに扮装し家族の前に現れるような珍奇な行動をとることなど、至って日常的によくあることなので、それについては別に違和感なく特に気にする素振りも見せなかった。万智は、恐らく何かテンションが上がったか何かなんだろう。気持ちはわかるけど、とりあえず食事の前にまずは着替えた方がいいよと、姉の事を気遣って、善意からやさしく注意した。
「ふん。別にいいんだよ。」
それに対しひばりは、いつものように自信満々に妹の提案を却下した。
「あらら。」
洋子は、ひばりのコスチュームのことなど、別にどうでもいいと思っていたが、
「後で後悔しても知らないからね。」
いつものようにコスチュームが汚れて床に膝をついて食後に深く後悔している姉の姿を容易に想像し、だからと言って妹の言う事を決して聞くはずもない姉の残念な言動に、万智は少し哀れみを感じたが、今回も黙って見守るしかなかった。それよりも、今は先程庭先で保護した子犬の事の方がよっぽど大事だった。
子犬の方は、床に腰掛けながら、ぶすっとした表情で興味なさそうに家族の会話を聞きながら、ただ食事が来るのを待っていた。
万智は、そんな子犬の不愛想な所を特に気にする様子もなく、子犬に近づくと、膝を曲げて子犬の前に身をかがめ、子犬のおでこをやさしく撫でた。
「お腹空いてたでしょ。お待たせしてごめんね。」
そう言ってニッコリと微笑むと、早速先程スーパーで買ってきたばかりの幼犬用のドッグフードを小皿に適量入れて、水の入った小皿と一緒に子犬の前に差し出した。
子犬は、空腹を感じていたので、ドッグフードが目の前に差し出されると、すぐにがっつき始めた。子犬は、ドッグフードをがっつきながら、やはり妹の方が魔法少女だったらよかったのにと頭の片隅で考えてみたが、それを今さら考えてみても全く意味がないことであるのは、自分でもよくわかっていた。
万智は、子犬が威勢よく自分が買ってきたドッグフードを食べている姿を見ると安心し、子犬に対し、満足そうに再度ニッコリと微笑むと、同じように子犬の食事風景をうれしそうな顔でニコニコと見守っている洋子の方を振り向いた。
「あれ? パパは?」
と、今更ながら食事の席に父親の耀司だけが不在なことに気がついて洋子に尋ねた。
「あっ、パパね。さっき会社の人に飲みに誘われたから今日は晩御飯はいらないって。さっき電話があったから、私達だけで先に食べておいて大丈夫よ。」
と、洋子も突然晩御飯をキャンセルした耀司に対し特に怒っている様子もなく、ひばりが突然魔法少女姿で食卓に現れたのと同様、至っていつもの事のように対応した。
支子耀司。ひばりの父親であり、特に取り立てて見る所もない、昼時に駅前の食堂街のリーズナブルな定食屋にでも行けば必ず見かけるようなごく普通のサラリーマンである。支子ひばりという希少な魔法少女の父親になった。という意味では、もしかすると普通のサラリーマンという存在ではなくなったのかもしれないが、それを除外すれば、ごくごく一般的な善良なる一市民と言って差し支えないかもしれない。性格の面で言うと、割と大雑把で適当な面があり、時々仕事をサボったりすることもあるので決して真面目な方ではないが、かといって、与えられた分プラスアルファ位の仕事量はこなしているし、営業成績の方もそこそこは出している様である。そういう事だったら、要領がいい人間なのかというと、別にそういうタイプの人間でもないのだが、そんな耀司にも何か特徴があるとすれば、仕事が終わった後に会社や取引先の人と共に飲みに行くことが大好きだという事だろうか。基本的に飲みに誘われた場合に断るという選択肢はないし、同僚に言わせると、終業の時間が近づくと飲みに行きたそうにソワソワしているのが大体雰囲気でわかるそうである。ただ誤解されると困るのだが、耀司との飲み会の席はそれなりに楽しく、仕事関係の話なんかも特にすることはない。会社や取引先の愚痴や悪口を吐きあって、徐々に場のテンションが盛り下がっていく何ていう事はなく、基本的にどうでもいい話題がほとんどだそうである。相手が真剣に仕事の話を熱く語り合いたいと言えば、あまり乗り気ではないが、とりあえずそれに合わせてそれなりに真剣な体で対応するという懐の深さも持ち合わせている。それに、飲みに行きたくないという人間に対しては、無理に誘うということは絶対にしない。では、次に家庭人という面で耀司のことを評価するならば、頻繁に家族との食卓を当日にキャンセルする家庭の事をあまり考えないひどい父親なのかというと、実はそうではない。この男は、飲みに行くことも大好きだが、家族と一緒に食事することも同じ位に大好きなのである。でも、せっかく耀司の分の晩御飯も作ったのにもったいないじゃないか。とか、せっかく料理を作った洋子がかわいそうじゃないか。などと思うかもしれない。だが、支子家では、耀司が当日飲みにに行くためキャンセルした料理を冷蔵保存し、翌日、耀司に対してのみその料理が当日の晩御飯として提供されるという独自のルールが存在するため、食材廃棄というリスクは存在しない。そういうルールが存在するので、耀司としても連チャンで飲みに行き、翌日以降の自身の晩御飯が追加、永遠に積み重なっていくというリスクを自ら冒すことは基本的にはないのである。だが、この男は、同僚に飲みに行きましょうと誘われると、うれしくて、そんなこともついコロッと忘れてしまってついていってしまうそうなので、支子家のルールを知っている同僚達が、そうならないように、耀司と飲みに行く日程を社内でうまく管理しているそうである。それが支子耀司という男なのである。そんなこと本編には全く関係がなく、本当にただただどうでもいい話なのだが、こんなしょうもないことを長々と書いている時が案外一番充実してたりするのである。
万智は、子犬の目の前にしゃがみながら、子犬がドッグフードを食べている様子をずっと観察していたが、すでに半分以上食べたことを確認すると、その場から立ち上がって、安心した表情で自分の席に移動した。
ひばりは、空腹が限界でもう我慢ならずといった感じだったが、洋子からご飯の入った茶碗をひったくるように受け取ると、
「いただぐぃます。」
と、嚙み気味に言って、早速大皿の上にある春巻きの一つを箸で摘まんだ。




