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「おや?」
ひばりが自宅の玄関のドアを開けようとしたその瞬間、思いがけず後ろから何か自分を呼びかける声のようなものが聞こえた気がしたので、ひばりはユニークな、いやはっきり言ってしまうと、アホっぽい表情をしながら、思わず後ろを振り返った。しかし、後ろを見ても誰もいない。一応キョロキョロと辺りを何度か見渡してみたものの、やはりどこにも人の姿は見えなかった。
「なんだ。気のせいか。なんか声が聞こえたような気がしたんだけどな。」
ひばりは、色々あったようななかったような今日の出来事のことを頭の片隅で少し思い出しながら、ポリポリと頭を掻いて少し苦笑いを浮かべると、正面を向いて再びドアに手を掛けた。
「ふむ。やはり私の声が聞こえているようだな。少女よ、声を掛けたのは私だ。」
その時、後ろから再び自分を呼ぶ偉そうな声が聞こえてきたので、ひばりはサッと真後ろを振り返った。――やはり誰もいない。しかし、唯一自身の目線の下の方から、先ほどの子犬が四肢を踏ん張りながら、ひばりの顔をじーっと見つめているその熱い視線をひばりはおぼろげにも感じないわけにはいかなかった。
(まさか? もしかして、この子犬か?)
ひばりは、高校2年生になった今でも、もしかしたらこの世界のどこかには本当に魔法少女がいるんじゃないかと信じていて、実際に幼少の頃から何百回と「伝説の五色の魔法少女シリーズ」のアニメ制作会社に問合せする程のかなりの非常識人である。これからの物語上でも度々語られるはずであろうが、その抜けっぷりは支子家の中でも群を抜いている。そのひばりでさえ、犬が人間の言語をしゃべるという事が非常識であり得ない事だということは理解していた。だが、この時のひばりは、内心自分でも不思議に思いながらも、この子犬が人間の言葉をしゃべっていることをなぜか違和感なく当然のことのように受け入れていた。だが、この非常識な事象を受け入れることと、この子犬を支子家で受け入れることとなると話は全く別である。この子犬が言葉をしゃべろうがしゃべらまいが、ひばりにとっては何の関係もない。とにかく、何としても関わらないことだけが先決だ。
ひばりは、その声の発生主が、おそらくその子犬からのものであると認識したものの、わざとそれに気づかないフリをして、その視線をできるだけ見ないように目を細め、努めて下を向かないよう頭を正面に固定した状態で、白々しく辺りをサッと確認した。そして、
「な、なーんだ。やっぱり気のせいだ。ははは…なんか今日は調子が悪いな。」
ひばりは、困り切った表情を浮かべながら、子犬に聞こえるように、わざとらしく棒読みで雑な独り言を言うと、再び正面を向いた。確かに、今日は学校に着いて早々、数学の授業中にあり得ない程の爆睡をしたため、担任の桜井先生にマジギレされたり、放課後になると、知らない間に教室の床で眠りながら、エキセントリックながらも妙に現実感のある夢を見たり、そして今は変な子犬に絡まれたりと、何かとおかしな事が多い一日だ。
「少女よ。正面ではない。下を見よ。」
「今日は春巻きパーティだ。今回は塩辛とチョコレートの地獄のローテーションだけは何とか避けないと。――あれはつらい。」
ひばりは、もはや後ろを振り返ることもなく、前回の春巻きパーティ開催時に、突然自身に襲い掛かってきた脳神経が麻痺するほどの味覚障害が起こった、あの衝撃の出来事を思い出し、本当につらそうな表情をしながら首を横に振った。
「ちょっと待て。お前、さっきから私の声が聞こえているだろう。」
―ガチャー
ひばりは、もはや子犬の声などあえて無視し、まるで何事もなかったかのように、そのまま三度玄関のドアに手を掛けて家の中に入ろうとした。
子犬は、なぜかあくまでも頑な態度を取るひばりの行動が理解できなかったものの、こうなってしまった限りは、もはや実力手段に打って出るしか方法がなかった。
「くっ!」
子犬は、ドアノブが開錠する音がして、ひばりが玄関のドアを開けて家の中に入ろうとした正にその瞬間、後ろからひばりに向かって飛びかかると、ひばりの足元にしがみついた。
「あっ!」
ひばりは、子犬の予想だにしない行動に思わず声を漏らしてしまったが、それでも子犬の存在にいまだ気づいていないフリをし続け、あえて後ろを下だけは見ないように態勢を正面に固定し、目を瞑って両手でドアノブを握りしめながら、子犬がしがみついている自身の右足をブルブルと振って、子犬を自分の足から引きはがそうとした。
「こ、この女。くっ…、ここまで私を無視し続けるとは。な、何と失礼な奴だ。」
子犬は、しがみついてなおも自分の存在を無視し続けようとするひばりに対し、ブツブツと文句を言いながらも、絶対に離されまいと必死にひばりの右足にしがみついた。その後、玄関の前では、ひばりと子犬の激しい格闘がしばらくの間繰り広げられていた。子犬からは、絶対にひばりの右足から離れないという強い意志を感じ取られたし、同じくひばりからは、この子犬とは絶対に関わりたくない、家に上がらせないという強い意志が感じ取られた。そういう意味では、お互い必死だった訳だが、だが、所詮は生後間もない小型犬である。いくらひばりが子犬相手だから、怪我だけはさせまいと、そこは多少気をつかって、ある程度加減して足をフリフリしていたとしても、まだ体が幼い小型犬の体力では限界がある。たとえその子犬の中身が鋼のような強靭な精神力を持っていたとしても、その気持ちとは裏腹に、その頼りない四本の脚は徐々に力を失っていくと、ひばりの右ふくらはぎから、やがて一本一本と離れて行った。
一方、ひばりはひばりの方でも、自身の体力の限界が近づいていた。ひばりは、その幼い外見に似合わず、決して自分の右足から離れようとしない子犬の強靭な精神力に負けそうになってしまい、もう諦めて、いっそ右足に子犬がしがみついた状態で家の中に入ってしまおうか、そうなったらそうなったで、後で追い出してしまったらいいやなどと考え始めていた所だったのだが、子犬の抵抗が徐々に弱まって、自分の右足から伝わってくる力がなくなっていくのを感じ取ると、最後の力を振り絞って、まるで右手にブレードを握りしめながらライブの最後のアンコールを求める観衆かのように、最後の力を振り絞って、懸命に右足をフリフリし続けた。
そして、とうとう子犬の体力は限界を迎えた。(というかとっくに限界に達していたはずなのだが、それを遥かに凌駕する恐るべき精神力で、なおもひばりの右足にしがみついていたのだ。)子犬は、ひばりの右足から離れると、ひばりが右足に履いていたローファーと一緒に、空中にピョーンと舞い上がると、家の庭の茂みの中にドサッと入ってしまった。
「くっ、くそー。こいつ~…。」
そんな恨めしそうな声が、茂みの中から聞こえてきた気がしたが、ひばりは後方をチラと確認すると、この長きにわたる死闘に最終的に勝利を手にし、
「ふん、思い知ったか。子犬の皮をかぶった恐るべき悪魔め。そのかわいい見た目に私が騙されるかとでも思ったか。お前が我が家に大いなる厄災を持ち込むことになることくらい、こっちの方ではすでにお見通しなんだよ。これに懲りて二度と我が家に現れるなよ。」
などと、本来ならば満足げに決め台詞を吐いてしまいたい気分だったが、そんなことを言っている間にも子犬が再び自分に反撃してきたら怖い。それに自分の体力ももう限界だ。右足のローファーが犠牲になってしまったものの、さして影響はない。明日学校に行く際に取りにいっても特に問題はないだろうと思い、急いで家の中に入ると、ドアを閉めて、そのまま急いで正面にある階段をトントンと上がって二階にある自分の部屋の中に入った。ちなみにひばりの右足のローファーは、当日の深夜に突如降り注いだゲリラ豪雨のせいで、ひばりが翌朝の通学時に確認した時には、結構な大惨事になっていたのだが、それは本編とは全く関係のない話である。
ひばりは、そっと部屋の扉を閉めると、床のカーペットのどこか適当な所にバックパックを置いた。それから部屋の周りをゆっくりと一周見渡してみた。部屋の四隅には、歴代の五色の魔法少女シリーズのグッズが、統一感なくそこら中に所狭しと乱雑に並べられ、中途半端にピンク色に統一されたショッキングな部屋はギラギラとしていて、来訪者に対し一切の落ち着きを与ることを許さない。そんな相変わらずでいつも通りの自分の部屋を確認すると、少しホッとしたしたひばりだったが、ふと机の上を見ると、昨日父親の耀司からもらったばかりの黄色の宝石が、なぜか少し光り輝いている事に気がついた。
ひばりは、不思議そうな顔をして、その宝石を手に取ってみると、
「あれ? なんでこの宝石何もしないのに光ってるんだろう?」
と言いながら、手の平の上で、その丸い宝石をコロコロと色々な方向に転がしてみた。次にひばりは宝石を二本の指で軽く摘まむと、耀司曰く魔法少女の証であるというその黄色い宝石を顔に近づけて、よーく観察してみた。微かながらも、確かにこの宝石は自身で黄色く光り輝いている。確かに、ひばりが持っている前シリーズにあたる五色の音色の魔法少女の公式ワイヤレスイヤホンに付属している、ケースの中に入っているレプリカの桃色の宝石PS(プレシャスストーン)も、ガラスの中に電圧に反応して発光する何かの装置が入っていて、専用のイヤホンケースに入れると、微量の電気を受けて、その宝石自体が桃色に光る仕組みになっている。だが、その桃色のPSを一旦イヤホンケースから外してしまったら、それ自体が絶対に光ることはない。だが、この黄色の宝石は、何のからくりもなく、なぜか自ずから発光していた。ひばりは、その黄色の宝石をもう一度目を凝らして、じっくりと確認してみた。ひばりは、まずその宝石の外周を隅々まで触ってみたが、何か発光するためのスイッチみたいなものもどこにも存在しない。次に宝石の中を確認したが、宝石はずっしりと重たく、中に空洞があって何か発光の原因となるようなものが入っているようにはとても思えなかった。ひばりは、その後もしばらくの間は宝石を真剣な表情で観察し続けていたが、急にパタンとそうするのを止めてしまった。よく考えてみると、黄色の宝石が光ろうが光るまいが、自分にはどうでもいいことだ。ひばりは、そんなどうでもいいことに貴重な時間と頭を使ってしまったことを後悔すると、その反面、夕飯までに特に何もすることもないので、部屋着に着替えて、本棚から適当なマンガを手に取ってベッドに寝ころぶと、いつもの貴重な時間と頭の使い方を実践することにした。




