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九州大学文藝部・2022年度追い出し号・かえりみち

脱肛

作者: 麦茶

 水虫を掻いていたら小説家になることが決まっていた。それは詐欺メールだった。ちくしょう。俺はメールの文面を書いたやつの文才と美しすぎる自然を恨みながら外へ出た。暑かった。明らかに服を着すぎた。小春日和の冬の真昼は、時に初夏ほどの体温の上昇を招く。足裏が痒い。腹と背中とたいがいの身体の柔い部分が痒い。俺は小説家になった俺自身を考えた。絶え間なくどこかを掻くので爪の間に血の塊がついている。それを食べながら(鉄分補給だ)、世界中の小説家に俺の皮脂を送り付ける。着払いで。布団のなかで編集者からの校正にこたえ、腹にのせたノートパソコンをぐらぐら揺らしながら書き直して、三半規管をぶっ壊して吐瀉物まみれの原稿を編集者に送る。雨上がりのアスファルトみたいに爽やかでくさくさした気分だ。

 編集者からメールが来た。次の締め切りは来月の二四日だという。俺が締め切りを守らない前提でいやがる。ファストフード店に入ると中年男性が店員にお気持ちを表明しているところだった。一番気持ちいいところに入っているらしく、その中年は上下に首を振りながら唾を飛ばして自分の拳を店員の目の前に突き出している。中年の唾飛ばしは熟練の域に至り、今現在最高の段階に突入していた。唾の排出量が体内の水分量を超えて、死にそうになっている。それが中年をいっそうヒートアップさせていた。

 店の奥の方に編集者が待っていた。勝手にポテトをつまんでいる。傲慢なやつだ。背後から近づき、シイタケみたいな頭を半分に割ると、中からミステリ好きの血がダバダバ溢れてくる。景気がいい。グロテスクはこうでなくちゃな。俺はそのまま中年の首を編集者の首とすげかえた。抵抗によってミステリ好きの血と低知能の血がじんわり混ざって、低俗大衆小説しか読めない身体が一体から二体に増えてしまった。文化の損失だ。中年の身体を得た編集者はカウンターから身を乗り出し、おびえる店員を踏み台にして厨房で揚がりつつあるポテトを勝手につまみはじめた。中年の指が次々と揚がっていくが、編集者にとっては痛くも痒くもない。ああ、俺の水虫はこんなに痒いのに!

 編集者はポテトをつまみながら、自前の作家論を語り始めた。編集者の自我より中年の自我が強いらしい。変格を自称することができれば人生たやすい。目の前が急に暗くなった。変格を自称することのおこがましさに世界が昼間をやめてしまったのだ。俺はノートパソコンを取り出し、膝の上でぐらぐらさせながら改稿した。すると光があった。第一日目にして神の最大の過ちである。編集者は神の光に目を潰され、中年の顔をした自分の身体と抱き合って転げまわっている。俺の目にはしっかと光が見えていた。L□FTが。

 そんなことよりグロテスクだ。カニやエビの裏面のような、膨らみ切った風船のような、踏み潰したトマトのような、割り開いた胸元のような、景気がよくて潔いグロテスクが必要だ。それが俺の小説家人生を稼ぎのあるものにする。自我の肥大は笑えない。本当に気持ちの悪いものはグロテスクにはなれないし、こんなことを言っている俺自身もどうせなら全身破裂させて大笑いされたい。俺の汚いかもしれない体液で可愛い女の子の毛穴込みの鼻筋を汚したい。それはもう大体性愛みたいなものだ。勃起と同期した学習システム。

 編集者が五体満足で帰ってきた。非常に怒っている。L□FTの光で目が潰されたため、代わりに一筆箋が左右一枚ずつ、眼窩に差し込まれている。あまり面白くない。俺は一筆箋を二枚とも抜き取り、両方に「こころばかり」と書いて編集者の口に突っ込んだ。編集者はこころだけになった。要は死んだ。そうならいいのにな。

 実際には編集者はピンピンしているし、俺の性愛はしばらく隆起していないし、ファストフード店でフィスト○ァックしそうな中年もいないし、じゃあ俺は小説家ですらないんじゃないか。俺はまた足裏を掻いた。血が出た。涙も出た。

 店を出て編集者としばらく歩くと、話すこともなくてウインドーショッピングのようになった。窓ガラスには俺しか映っていない。観覧車が回っている。中心が編集者の顔になっていて、にたにた笑いながら俺の締め切りを切り刻んでいく。やめろ俺の締め切りだぞ。そう叫んでも編集者は止まらないし、ガラスの向こうから抒情的な顔をした男が出てきて俺をガラスから引き離した。俺の尻を子供の三輪車が掠めていった。編集者が頭痛薬の薬品臭さが漂う舌の根を見せびらかした。すると抒情的な男が編集者の薬品臭い舌をねじ切って、それでカウンターを拭き始めた。カウンターの頭痛を治したいのだろう。観覧車の中心では突如として死を迎えた編集者が口から血を吐きながらゆっくり回っている。眼窩の奥から毛虫が出てきた。三輪車が帰ってきた。

 赤い三輪車が目の前を通り過ぎて、観覧車が消え、ガラスが、店が、抒情的な顔の男が消えて、あとには気色悪い俺だけが残された。赤が鬼門だった。俺は首筋を掻いた。何もうまくいかない。全ての原因が自分にあり、全ての被害が自分にあり、加害と被害が循環して抜け出せない。俺だけが傷つき傷つけられる平和的システム。俺は三輪車を追った。抜け出したかった。

 赤い三輪車を漕いでいるのは女の子だった。スカートの下からオムツが覗いている。俺は女の子が巨大なバストの女になって、雲の高みから俺を見下ろす様子を眺めた。無様な俺だ。俺様ですらない。女の子の頭に砕け散った後の植木鉢が落ちてきて、地面の上で元通り。三輪車はこれ以上赤くなりようがなく、俺はこれ以上狂乱のしようがない。みじめだ。女の子が振り返り、花開くように笑った。犬顔だった。映画だったら注目株。絶対に殺してやる。三輪車の後輪が俺の両手に吸いついた。突如として、そして必然的に、地面の砂利が俺にディープキスを迫り、俺ばかりがもみくちゃにされる。

 無理に顔を上げるとオムツが鼻先にあり、それはつまりスカトロジカルな誘惑だ。俺は女の子の尻を掴み、自分の鼻に押し当てて呼吸した。遊園地が匂ってきた。幸先がいいぞ。ポップコーンと子供の嘔吐のにおいだ。きしむ車輪の足りないオイルのにおいだ。観覧車の真上で糞をまき散らす男のにおいだ。観覧車の上には巨大なバストの女がいる。女の足はひどく臭い。水虫のせいだ。女はコーヒーカップの上に足裏を掲げて、優雅に紅茶を嗜む。それから詐欺のメールを送って、今また世界中の俺をちくしょうがらせる。女は俺に微笑んだかに見えたが、それはグロテスクの幻覚だ。

 そんなことをしていないであいつを殺してくれ。俺はオムツに付属しているだけの少女を指さした。巨大なバストの女は全体的に巨大な身体を揺すぶりながら地面に飛び降り、今や俺の右隣にいた。とはいえ俺に分かるのは、その臭い足だけだ。早くやってくれ。すると臭気が右隣から頭上に移行し、近づいてきて、俺はオムツから顔を引き離し、観念した。

 しかし死にはしなかった。臭気は存在を匂わせこそすれ、実際に存在はしないのだった。よって少女もそのままだ。ただオムツがちょっと臭くなっただけ。新しい汗と糞が排出されただけだった。巨大なバストの女はもう俺のグロテスクからいなくなっていた。

 川下から店員が上がって来てポテトを揚げ始める。にたにたする編集者が列をなしてポテトを待っている。俺は次々やってくる編集者に一番安いハンバーガーをつくらせ、駅前のファストフード店を永久最安値店にするのだ。俺は自分の尻から汗と糞と真新しいグロテスクが排出され、俺自身から損なわれていくのを感じていた。永久最安値を記録した当店では安上がりなカップルが座を占め、立ち見の中年がポテトを頬張り、編集者は流血しながらハンバーガーにケチャップを塗り込んでいくだろう。

 女の子の頭に再び砕けた植木鉢が落ちてきて、地面の上で白磁の大皿になり、女の子の頭を破壊した。三輪車が赤くなった。夜の底みたいだ。赤を塗り込んで闇はいっそう黒くなる。最安値バーガーの闇はケチャップと血液の見分けのつかなさによって暴かれる。少女の頭部周辺の事物は大皿に盛りつけられ、俺の眼前で三輪車を漕いでいる。俺は泣き叫んだ。あまりにも痒くて。

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