第76話 夕緋との付き合い方
トントントン、という包丁の音に混じって、さくさくさく、と野菜がみじん切りにされていく小気味良い音がアパートの部屋に響いている。
あれから夕緋はすぐに夕飯の調理に取り掛かり、どんより沈んでいる三月を元気付けようと、あれこれ何気ない言葉を掛けて話を続けていた。
エプロン姿の甲斐甲斐しい将来の奥さんの優しさに、三月もだんだんと落ち着きを取り戻してきていた。
刻んだ玉ねぎがフライパンでジュワー、と炒められ、香ばしい匂いが漂う。
「えぇっ、それって大丈夫なの? あの不動産屋さん、心配だなぁ」
「大丈夫よ、もうあの女の魔物は力を全部失っちゃったから、何も悪いことはできないよ。私にあそこから追い出されて、行き場がないから着いていっただけ」
「夕緋の除霊に耐えるなんて、なかなか骨のある幽霊だったんだな。骨ないけど」
「うーん、存外しぶとい相手だったみたいね。完全に消滅させたと思ったんだけど。って言っても、かろうじて残ったのは出涸らしみたいなものだから、誰かに憑いてすがり付くくらいしか道は残されてはいないかな」
「さっきの俺みたく、今頃びっくりしてなきゃいいけど……」
「あの不動産屋さんも視える人みたいだったから、付いて回られるようになって、きっと驚いているでしょうね、くすくす」
「うへぇ、そりゃ同情するなぁ……」
「私と三月にお化け付きの物件を押し付けようとしたんだもの。ちょっとくらいは怖い目に遭ってもらわないと気が済まないわ。まったくもう」
但し、嘘か本当かはさて置き、話題は洒落にならないハードなものだった。
苦笑いする三月だったが、元気づけようと気を遣ってくれる夕緋が本当にありがたかった。
思わぬ災難に見舞われ意気消沈していたところ、やはり救い手になってくれたのは夕緋であったから。
この女性と結婚すれば幸せな未来が待っている、そんな気がした。
ややあって、こねた挽き肉を小判状の形にして、ぺたぺたと両手の平の間を交互に行き来させる音がし始めた。
夕緋のその様子は、三月の好物であるハンバーグを作っているようだ。
中火でフライパンにタネを入れてフタをすると、焼く音に耳を聞きながら夕緋は三月に振り向いた。
「ねぇ、三月」
「えっ、な、なに?」
三月は夕緋の吸い込まれそうになる黒い瞳の視線にドキッとする。
その瞳の奥には、夕方の一件の際に見せた深遠を覗き込む光と、年頃の女性が見せる戸惑いの色が同居していた。
三月を気遣う一方、夕緋は夕緋で気にしていることがある。
「あのね、その……。聞かないの?」
「……何を?」
「さっき私が急にいなくなった理由よ……。急用だって言ってデートを勝手に抜け出しちゃったんだよ? 三月は、それがどうしてなのか気にならないの?」
「そりゃ、気にはなるけど……。何でそんなことを聞くんだ?」
出し抜けな夕緋の問いに、三月は思わず身構えてしまう。
答える言葉を慎重に選ばざるを得ない。
話題が話題なだけに、下手なことを言えば夕方の二の舞になると心配している。
女神様と通じて約束を結んだ、さらには異世界転移をしているなどという隠し事を問い詰められたのはよほどに堪えたものだ。
「ゆ、夕緋にだって事情があるだろうから、無理に言わなくたって……」
「……」
自分から切り出しておいて、夕緋もじっと黙っているのだから始末に悪い。
もうあんな怖い目をして、秘密を白状するよう迫るのは勘弁して欲しかった。
デートを抜け出したのと併せ、路地裏から急に消えてしまったのも敢えて聞こうとしない三月の気持ちに拍車を掛ける。
言いづらそうにしているのは、きっと夕緋が抱える事情のことだ。
人ならざる物に相対した時の迫力もそうだが、内に秘める神通力は伊達ではなく、軽んじていいものでは決してない。
子供の頃の無邪気な好奇心で詮索してはいけない。
但し、内容はともかくとして夕緋が今話そうとしているのは、三月が考えているよりよほどしおらしくて切実な思いであった。
「本当はね、できれば聞かれたくないし、進んで言いたい訳でもないの。だけどね、三月には隠し事はあんまりしたくなくって……。三月が女神様のこと黙ってたのを問い詰めちゃったから、私だけ何も話さないのは不公平でしょ?」
俯き加減で話し始める夕緋は殊勝の様子。
あの時の恐ろしい感じはすっかりと影を潜めてしまっていた。
「私の自己満足な独り事だと思って、聞き流すくらいでいいから聞いていて」
「わかったよ……」
改めて正面に向き直り、申し訳なさそうな上目遣いで夕緋は話し出した。
「三月は私の力を理解してくれているから、よく覚えておいて欲しいの。これから一緒に暮らしていく内に、もしかしたらまた変なことが起きるかもしれない……。私と関われば関わるほど、三月にも見えないものが見えるようになったり、不思議な体験するようになったりすると思う……。驚かせたり、怖がらせたり、多分三月に迷惑を掛けてしまう……」
幼少の頃からの女神様の声を聞ける奇跡に始まり、今日の新居探しのマンションでの除霊の件。
ただそれは三月にとって、今更で相変わらずな夕緋の一面であった。
別に今に始まったことではなく、それほど気にしてはいない。
しかし、今日見せてしまった「あれら」はそうではない。
これまでとは違い、全く異質で特別、取り分けて危険なものだったのだ。
パチパチと、フライパンの中でハンバーグがたてる音が妙に乾いて聞こえた。
夕緋は何を思うのか、深い憂いの眼差しで三月を見つめていた。
「さっき、ビルのガラスが割れた時。あの場にとても良くないものが居たの……。私と三月が仲良くしてるのを見て、凄くやきもちを焼いたみたい」
夕緋が言うのは、まさにデートが中断してしまった理由に他ならなかった。
涙を流した夕緋を皮切りに、あの災いが始まったのである。
「信じられないかもしれないけど、たくさんのガラスを割って降らせたり、あからさまに三月に危害を加えようとしたり……。随分と機嫌を悪くしてあんな嫌がらせをしてきたの」
あれは自然に起こった事故ではない。
何者かの意思による、三月に狙いを澄ました凶行であったというのだ。
しかも、明らかに人の領分を超えている。
いったい何者の仕業であろうか。
「三月には手出しはさせないし、絶対に守り抜いてみせるわ。だけど、嫌な思いはさせてしまうと思う……。本当にごめんなさい……」
強い意志と共にそこまで言うと、夕緋は深く頭を下げて謝った。
まるでそれは懺悔の告白のようである。
神通力という異能と自らを取り巻く人外の領域に、大切な人を巻き込んでしまうのを憂う気持ちがそこにはある。
しかし、それらを抑え込んででも夕緋は三月と共に生きていきたかった。
切っても切れない怪しげな者たちとの運命を、常世と幽世の狭間で一身に受け止めながらも、幼い頃から抱く強い想いを成就させたかった。
だから──。
「──だから、悪い子にはお仕置きをしてきたの。過ぎた真似をして、私と三月の幸せの邪魔をしないようにって。このところおとなしくしてたから、私も油断していたみたい。でも、もう大丈夫よ。そのための「急用」だったんだからね」
もう夕緋は笑顔だった。
いや、屈託がない訳ではなく、どこか影を孕んだ笑顔だったが、それはあくまで三月を心配しての影であり、自らの行いに対しての影ではない。
夕緋の不穏な言葉が何を意味していたのか三月には図りかねる。
「そ、そうだったんだ……。な、何だか大変だね、夕緋も……。あはは……」
「……」
ひきつった笑いの三月を無言で見つめる夕緋。
そして、気になっていたことを他ならぬ夕緋のほうから言い出してきた。
それは多分、三月の身をただ案じた気持ちが言わせたことだったのだろう。
しかし、夕緋が何を伝えようとしているか、何を危惧しているか、すでに見当が付いている三月には改めての警告となったのである。
「三月、答えなくてもいいから覚えておいて。これから私の周りで、銀色の長い髪で耳の長い褐色肌の背の高い女と、痩せてひょろ長い上背で蜘蛛の巣の柄の着物を着流した男を見たらすぐに教えて。女のほうはそれほどじゃないけど、蜘蛛の男のほうはこのうえなく危険よ。すぐに私が対処するから、絶対に隠さずに言って」
「……っ!?」
身体が跳ね上がったと思うくらい、三月の心臓が大きく鼓動を打った。
夕緋にはあの二人が視えているのだ。
ダークエルフの女と、蜘蛛の着物の男が。
「あ、ああ、わかったよ……。すぐに夕緋に伝えるよ……」
答える三月はごくりと唾を飲み込む。
聞いていいかどうか思いあぐねていた矢先だった。
三月が見るであろう、或いはもう見たかもしれない例の二人についての危険性。
それを夕緋のほうから念押してきた。
──うぅ、何か怖いな……。夕緋がこんなに真剣になるだなんて……。
三月は夕緋に気取られないよう表情は平静を保ったまま、炬燵に突っ込んだ両手の震えを力いっぱい手を握りこんで抑えていた。
夕緋は視えているだけでなく、あの二人の恐ろしさを認識している。
もうそれは、ビルのガラスが割れた一件にダークエルフの女と蜘蛛の着物の男が関わっていたと言われたも同じだ。
──ダークエルフの女と、蜘蛛の着物の男は、夕緋に関することの中でおそらく一番の秘密なんだろう。迂闊に聞くのは駄目だ。雛月に言われなくたって気付いていないふりをするのが得策だ……。
三月は言い知れない重圧を感じていた。
夕緋の秘密に関わるのを恐ろしく思う。
──この感覚、覚えがある……。ひりひりする危険な感じ、あれは確か……。
思い出せば、あのときの感情までもがリアルに再現される。
三月はこの恐怖の感覚を、最近の出来事で身に染みて感じていた。
これもおそらくは地平の加護による、記憶を想起させる能力だろう。
今の夕緋、そして例の二人のことを思い浮かべると──。
三月はこれまで生きてきた中で一番の恐怖を思い出すのであった。
──日和の妹のでかい女神さん、夜宵に因縁を付けられたときだ……。これはあのときと同じ感覚なんだ……。それと同じってことは、つまり……。
尊大且つ暴力的な神の威光を放ち、見る者すべてを畏怖させる女神、夜宵。
夕緋の言葉を借りれば、神水流の神社が祀る、大地の女神の一柱。
神と等しき凄味を利かせる、夕緋とダークエルフの女と蜘蛛の着物の男。
下手につつけばやぶへびどころでは済みそうにない。
掴んだ尻尾はただの蛇どころか大蛇よりも恐ろしい、龍の尾のほんの先端に過ぎないのかもしれないのだから。
──詮索はやめとこう……。命あっての物種だ、本気で寿命が縮む……。
はぁぁ、と長く深いため息を深呼吸みたいにつき、三月は思考を止めた。
それを見計らったのか、わずかにも夜宵のことを考えたからなのか。
夕緋の声を低くして言った。
三月の心はまたもぎゅっと締め上げられてしまう。
「そういえば、あのときの三月の質問に答えてなかったね。ほら、今でも女神様の声が聞こえるのかどうかって話」
「えっ!? あ、ああ、そんなこと聞いたっけ……」
三月はそんなことを聞いてしまったのを後悔した。
夕緋はくすりと笑い、やけにあっさりとした感で答える。
「うん、今でも聞こえるよ。私が女神様だと信じていた声は、ね」
「そ、それってどういう……」
「さあ、どういう意味だろうね。それは三月のご想像にお任せするよ」
「う、うん……」
夕緋はまた影のある笑顔で言った。
三月はしどろもどろに答えて終始気圧され、そのまま黙ってしまう。
但し、夕緋の含みを持たせた言い方に、それほど嫌な感じを受けた訳ではない。
夕緋は昔からこういう子だったという幼馴染みとしての認識と、何よりも──。
その心の奥に見えるのは三月への純粋な好意、真心であったから。
「三月、私はあなたが好きよ。他の何を差し置いてもいいくらい」
影を含んだ綺麗な笑顔で、夕緋は迷いなく言い切った。
ほんのりと頬を赤くして、今までは秘めていた気持ちを大っぴらに言葉にする。
「これまで以上に仲良くなっていきましょうね。だから、三月もそんなに私のこと怖がらなくていいよ。私たち、夫婦になるんだからっ」
異世界転移は知らなくたって、三月という人となりは何でもお見通しである。
三月を怯えさせるのは不本意でしかないし、最高に親しい間柄でいたいのが夕緋の心からの本音なのである。
そこだけは絶対に真実で、嘘が入り込む余地はなかった。
「……やれやれ、夕緋には敵わないなぁ」
三月は照れ笑いを浮かべてため息をついた。
正直なところ、こんなにも夕緋に好かれているとは思わなかった。
一途に慕われ、愛されている。
だから、どんなに夕緋が計り知れない相手で、人智を超えた能力の持ち主だったとしても、大切な人だと思われている内は心配するようなことはない。
容姿端麗で気立ても良く、家事全般をこなせて、おまけにお化けや心霊現象にはめっぽう強く、有事の際には万全に旦那を守れる素敵な奥様になってくれる。
恋人として、夫婦としての愛情が続く限りはきっと問題は起こらない。
──夕緋とは、良い関係であり続けないといけないな……。怒らせたり、悲しませたりしないように細心の注意を払おう……。
これから生活していくなかで、夕緋との親交は第一に考えなければならない。
夕緋と仲睦まじく暮らしてけば大丈夫のはずだ。
自分が夕緋に寄り添う形で生きていけば全てはうまくいく。
「……」
三月はそうしていくつもりだったし、その自信だってある。
しかし、どういう訳だか輝かしいはずの未来に一抹の不安がよぎる。
三月は夕緋の背姿を眺めながら、何故かうまくいかない気がして胸騒ぎを感じるのであった。




