第72話 降りかかる災い
「ねぇ、三月──。何を隠してるの? 私に教えてちょうだい」
茜色に染まる空と街を背景に、夕緋は三月の秘密に肉薄する。
彼女との繋がりを一方的に感じているつもりが、その実そうではなかった。
人外を見るときの目で凝視され、三月は心を震え上がらせていた。
「あ、言っておくけど、三月を責めようって訳じゃないの。何か危険なことに巻き込まれてたらいけないって思って──」
案の定、三月がうろたえだしたのを見て取り繕おうとするのは夕緋の優しさか。
だが、三月にはもう聞こえていない。
「う、うぅ……」
どくんどくんと、三月の心臓の鼓動は大きく高鳴っていた。
夕緋に覗かれたであろう、想起した過去の記憶がそうさせる。
朝陽と夕緋、神水流の巫女に直結するだろう、かの双子の女神たちの存在をいやがうえにも思い出してしまう。
三月に心当たりがあるのはあの二人しかいなかった。
再び、三月の心の深奥からやけに明確な記憶が逆流し、頭の中を走り抜けた。
『わ、私は、絶対に滅ぶ訳にはいかんのじゃっ……! 私がいなくなれば夜宵は、あの子の世界を壊してしまうッ……! 大切な我が巫女、──神水流朝陽のっ! あの子の夢を守れるのは私だけなのじゃぁっ……!』
神通力と神格を失い、みすぼらしく落ちぶれてしまった、創造の姉神、日和。
朝陽とそれを取り巻く世界を何より大事に思っていて、朝陽と何らかの関連性を持ち、その秘密を三月に打ち明け、共に戦っていくかどうかを迷っている。
『みづき、みづきぃ……。みづきィィ……!』
『お前はぁ! 誰だぁ、何者だぁ!? 何故こんなところに居るッ……?!』
神仏像さながらな巨体の恐ろしき威容、三月に謎の敵愾心を燃やす、日和と対極の破壊の妹神、夜宵。
日和と朝陽が関連性を持つのだと仮定すると、夕緋との繋がりがあるのは夜宵のほうなのだろうか。
同じ双子でも、朝陽と日和は姉、夕緋と夜宵は妹の関係であったから。
だから今はもうはっきりと、抽象的な女神様ではなく、二柱の女神を思い浮かべてしまうのであった。
女神を思えば、夕緋に筒抜けになるとわかっていても思考が止まらない。
「う、嘘っ……!? そんな、三月、どうして……!?」
すると、その瞬間である。
夕緋は目を大きく見開き、両手で口を覆って心底驚いた様子を見せる。
何か隠し事をしている三月に胸騒ぎがしていたから、思い切って問い質してみたところ、とんでもない事実が発覚したと言うばかりの様子だ。
三月が思った日和と夜宵のことが正しく夕緋に伝わってしまった。
夕緋の驚愕の様子は、そうした事実を雄弁に物語っていた。
「やっぱり知ってるんだ……。神水流の神社が祀っていた大地の女神様、日和様と夜宵様のことを……! どうして三月が御二方のことを……?」
夕緋の口から、三月しか知らないはずの女神の名が飛び出した。
驚愕にわなわなと身体を揺らし、夕緋はうわごとみたいに言った。
「私、小さい頃から女神様のお名前だけは、誰にも言ったことがなかったのに……。姉さんが教えてくれたの? ううん、姉さんだってそれをみだりに口にしてはいけないのはわかっていたはずよ……」
夕緋に日和と夜宵のことが伝わってしまった。
女神の存在が夕緋に認知されてしまう驚くべき事態が発生してしまった。
日和と夜宵は実在し、神々の異世界は幻ではない、というのだろうか。
少なくとも夕緋の言う女神様と、日和と夜宵は同一の存在であると判明したことになり、三月はまたあの不思議世界が自分ににじり寄ってきたのを感じた。
「マジか……。やっぱりあれは、本当にあったことなのか……」
小声の呟きは半狂乱の夕緋にはきっと聞こえていない。
夕緋は血相を変え、三月の両肩を掴んで真っ直ぐに目を見つめた。
神妙な表情をして、努めて真剣な声で言った。
「いい、三月? どういう経緯があったのかはわからないけれど、女神様にあまり深入りをしては駄目よ! 女神様は私たちの土地を守ってくれていた、ありがたい存在であることに間違いはないけど、人間の私たちが向き合っていいような生易しいお相手ではないわ! 無闇にお名前を理解して呼んだり、ただの人間の身で寄り添おうとしたりすれば、やがては魅入られて恐ろしい目に遭うことになる……!」
それは紛れもない警告であった。
辛そうに顔を歪め、三月の両肩を掴む手に力がこもり、夕緋は声を絞り出す。
「あぁ、おかしな夢を見たりだとか、夢に姉さんが出てきたりだとか……。もっと早くに気付いてあげるべきだった……!」
憐憫の眼差しで三月を案じる夕緋は、もういつもの優しい夕緋に戻っていた。
自覚無く、禁断の領域に踏み込んだ三月を心配して心を痛めている。
名は体を表す、神は形無き存在なのだから名前を呼ぶことはできない。
或いは、名前を知るのと、相手を支配する、は同じ意味を持つため禁忌とされるのだろうか。
いや、この場合は名前を知ったり眷属となったりと、神との距離がより近しくなるのを夕緋は最大限に憂慮しているのだ。
「はは……。参ったな、こりゃ……」
心当たりがあり過ぎる三月は苦笑いするしかない。
──もしかして、もう完全に手遅れかもしれんなぁ……。あの夢の続きがあるっていうなら、俺はもう日和のシキだし、名前もまさかの呼び捨てで呼んでしまってるからな……。やれやれ、知らない内にやらかしたっぽいぞ……。
神に魅入られて恐ろしい目に遭う、とは──。
日和のシキとして使役され、天神回戦の死闘を繰り広げていく修羅の道のことを言っているのだろうか。
だとしたら、日和の名前を呼び捨てで呼ぶくらいには親しくなってしまっていて、もうすでに手遅れという訳である。
『あー、じゃあ、──日和』
『お、おぉ……。呼び捨てぇ……?』
『あ、やっぱり一応神様だし、呼び捨てはまずいのか……?』
『い、いや、いいんじゃ。おぬしにならそう呼ばれても構わぬよ。ただ、呼び捨ては何だか新鮮じゃなあ、うふふ』
女神の事柄を思い浮かべると、何故か夕緋にばれてしまうらしい。
ならば、と三月はもう開き直ることにした。
あの日和は本当に危険で恐ろしい女神だったのかと疑問に思った。
呼び捨てで呼ばれたときの日和のあの微笑み。
とてもではないが、三月にはそんな危険な様子は感じられなかった。
「夕緋、じゃあ俺もひとつ聞いておきたいんだけど──」
だからなのか、三月は逆に夕緋に質問を投げかけていた。
素性が全くわからず、得体の知れない恐ろしい女神なら、或いは怖がってしまっていたかもしれない。
しかし、三月は知っている。
腹黒さや敵に対する猛々しさはあるものの、単純で抜けていて女神というには頼りなく、お茶目で愛嬌溢れる日和のことを。
だから、特に恐怖心みたいな感情は湧いてこなかったのである。
「今でもさ、その女神様の声って聞こえたりするの? ほら、小さい頃にこっそり教えてくれただろう。女神様が幸せになる方法を教えてくれたり、困ったときに助けてくれたりとかさ。俺の怪我を治してもくれたし、敬老会のおじいさんおばあさんの悪いものを除霊で払ったりさ。凄かったよね、子供心に夕緋をヒーローみたいに思ったもんさ」
「み、三月? 私の話、聞いてた? 女神様に深入りしちゃ駄目だって……」
夕緋は信じられないものを見るような目で見ていた。
今さっき、ちょっと迫力を込めて言い聞かせたのに関わらず、三月が気楽な態度で無頓着に構えているのが理解できない。
明らかな狼狽を見せる夕緋に三月はなお言った。
「俺が女神様のことを考えるとわかっちゃうんだろう? 夕緋を相手に誤魔化すのは無理だろうからおふざけ抜きで言うけど、──多分俺は大丈夫だよ。危険な目に遭うのかもしれないけど、もう決めてしまったからね」
父の矜持を守り、自分の信念に従い、三月は道を選んだ。
日和を助け、神々を相手に戦い、そして亡き朝陽との秘密に迫る道を。
「約束したんだ、女神様とさ」
『日和はこの神社の神様なんだろう? その神様の手伝いをするのがシキである俺の役目だ。神様を祀るのは当たり前だし、お願いを叶えてもらったらお礼参りをするのが礼儀ってもんだ。順番は逆だけど、朝陽のことを教えてくれるんなら、まずは俺が神様の、日和のために精々頑張って働いてみるよ』
『──天神回戦、引き受けたよ。日和のことも俺が守ってやる。だから、頭なんて下げなくていい』
「三月、あなたっていうひとは……。なんてことを……!」
夕緋が三月のしたことをどこまで理解したのかは不明だった。
だが、わなわな震える身体とその両手が握り込んだ拳の力の強さが、そのまま夕緋の気持ちを表していた。
三月はこの期に及んでも、まだどこかで異世界の女神と交わした約束が夢か現実か判断しかねるところがあった。
但し、少なくとも夕緋はそれを非現実の絵空事とは思っていない。
「三月、あぁ、三月……」
一歩、二歩と足を踏み出し、三月に詰め寄る。
怒っているでもない心配をしているでもない。
それは愕然となって我を失い、ひどく取り乱した様子だった。
「本当に、自分が何をしたのかわかっているの……? あなたは女神様との契約を正式に交わしてしまったのよ……? もう取り返しがつかない……。本来の運命が捻じ曲がり、過酷な試練から逃れられなくなってしまった……」
夕緋には三月に起こったことが何なのかがわかっていたのかもしれない。
それがどれほど重大で、どれほど恐ろしいことなのか。
「どうして……。どうしてよ……」
夕緋は言った。
今度こそ怒りと悲しみに顔をくしゃくしゃにしながら、感情を込めて言った。
悲憤に暮れる気持ちが言葉になって発露する。
「──三月はまた、死の淵へと自ら近づいていくのね。……私の気も知らずに!」
確かな怒気をはらみ、恨みがましく三月の顔を見上げる夕緋の目に涙が浮かぶ。
滅多に見せないその涙には、熱い怒りと深い嘆きが込められていた。
溢れる涙が夕緋の潤んだ黒い両の瞳から、つぅっと一筋零れ、流れた。
それは本当に、本当に鬼気迫る立ち姿であった。
「夕緋……?」
三月には夕緋の言葉の意味が理解できなかった。
何故そうまで怒って、悲しんでいるのかわからない。
圧倒されるばかりの強い感情をぶつけられ、涙する夕緋を前に三月はただ立ち尽くすのみである。
そして、それはその瞬間に起きた。
「……あッ!?」
思わず声をあげ、はっとなって上を振り仰ぐ夕緋。
瞬間、周りの空間にぞわりと──。
悪寒と怖気をもよおす異質な空気が満ち満ちた。
黒くうねり、まとわりつく粘着質なそれは、邪悪な気配と形容できる。
夕緋につられて頭上を見上げた三月は驚愕した。
「うわっ!?」
二人の歩く歩道には軒を連ねて建ち並ぶ、オフィスビルや雑居ビルがある。
いずれも階層は高く、街を見下ろす建造物で、窓は各階一面の一般的なフロート板のガラス張りだ。
びしッ!!
三月と夕緋の真上、ビルの2階以上の窓のガラス全面に、蜘蛛の巣が広がったかのような白い亀裂が一瞬にして走ったのが見えた。
その途端──。
ガシャアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ……!!
夕暮れの街に激しく響き渡る唐突な破砕音。
ビルの端から端までの一面のガラスが、甲高い音をたてて、すべて内側から外側に向かって砕け散ったのだ。
仰ぐ夕空には無数のガラス片がオレンジ色の光の反射で輝く。
鋭利なそれらは不規則に舞い踊りながら群れを成している。
直下には三月と夕緋の無防備な二人。
このままでは凶刃と化したガラス片が頭上から降り注ぐことになる。
「……ちっ!」
舌打ちをし、即座に動いたのは夕緋だ。
迷い無い動作で素早く三月に近寄り身を屈めたかと思うと、なんと自分よりも一回り大きな三月の男性の身体を力強く横抱きにひょいっと持ち上げてしまった。
曰く、それはお姫様抱っこである。
「え、ええっ、夕緋っ?!」
驚く三月には構わず、その身体を抱えたまま歩道のタイルを蹴った。
ガラス片の降り注ぐ場から尋常ならない速さで離脱する。
二人が逃れたすぐ後、無数のガラス片が地面に叩きつけられ、さらに分断されて粉々になっていた。
「わっ、わぁぁっ!?」
喚く三月を抱いた夕緋は、歩道を強靱な脚力で高速に駆ける
風に流れる黒く長い髪を振り乱し、疾駆するその様は流麗かつ幻想的。
「しつこいッ!!」
しかし、至近距離で夕緋の吐き捨てるように言った呟きは、さらなる危機が次々と頭上から迫っていることを物語っていた。
ガシャァァンッ! ガシャガシャァァンッ!! ガッシャァァァァンッ……!!
まるで走って逃れる二人を追いかけるように、隣のビル、さらに隣のビルの高層階のガラスが同様に割れ砕け続けている。
フロート板やすりガラスだけでなく、通常よりも強度が高いはずの強化ガラスもお構い無しに割れて、きらきらとした刃を空中に生み出していた。
「くッ……!」
夕緋の表情が歪んだ。
駆けるそのスピードは速かったが、ガラス片の落下速度はそれを上回っている。
さらに、降り注ぐ凶刃から逃れる先には他の通行人も運悪く居合わせている。
ようやく起こっている事態の重大さと危機感が周囲に伝わり、道路を行く自動車の急ブレーキ音がそこら中で響き、あちこちから悲鳴や叫び声があがる。
落ちてくるガラス片を異常な速さと身ごなしでかわす夕緋とは違い、パニックに陥った一般の通行人たちにはそれらから逃れる術はない。
否応なくこの災いの被害に巻き込まれてしまうだろう。
だから、夕緋は叫んだ。
「護りなさいッ! 無関係な人たちに怪我をさせては駄目ッ!」
それは誰に言った声だったのか。
答えを考える間もなく、超常的な何かが夕緋の意思に応えていた。
ゴオオォォォッ……!!
薄く緑掛かった風が、明らかに自然の法則を無視し、夕緋を中心に吹き上がる。
ロングスカートが捲くれ上がり、健康的な脚線美が露になっても夕緋は構わずに大股で危機の渦中を走り抜けた。
「す、すげぇ……!」
夕緋に抱かれながら、三月は目の前で起こっていることが現実のものとは思えずに絶句していた。
すくみあがってしゃがんだり、頭を抱えたりしている大勢の通行人に間違いなく落下直撃するはずの無数のガラス片が、ただの一欠片も当たっていない。
正確には落下の直撃軌道が途中で風の力で逸らされ、跳ね返されて、人的な被害が全く発生していないのだ。
端的に表現するなら、それは風の魔法。
意思があるとしか思えない風が害意ある凶刃をなぎ払っている。
薄ぼんやりとした風色の光が空間を走る。
半不可視な風の剣が何度も振るわれる様子は正確無比で完璧、不可思議な風の護りであった。
「いぃっ!? どういうことだっ!?」
三月は夕緋の腕の中で、目の前に迫る次なる危機にまた驚いていた。
自然法則を完全に無視し、落下してくるガラスが本来の落下軌道を自ら曲げ、鋭利に尖った部位をわざわざこちらに向けて飛んでくる。
しかも、それらが向かって来る先の狙いは夕緋ではない。
その腕の中の三月が標的であるとしか見えないくらい、ガラス片は露骨な飛来の軌跡を見せていた。
「いい加減にっ──!」
苛立ちに堪りかねた夕緋が、空中のガラス片たちをぎろりと睨んだ。
腹の底から、胸いっぱいに吸い込んだ息を全部吐き出して叫ぶ。
それは、夕緋の怒りの咆哮であった。
「しなさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいッ!!」
びりびりと空気が震撼していた。
両目を閉じ、空に向かって大きく口を開けて、天を貫く咆哮を張り上げた。
金色の衝撃波が大きく波打ち、放射状に空間に広がって走る。
三月は確かに見ていた。
夕緋が全身から放った強大な氣の波動を。
パァァァァァァァァァァァァァァァーンッ……!!
空中を埋めていた無数のガラス片が砕け散っていく。
微細な粒子状に粉砕され、さらさらと霧散して消滅していく。
風の魔法と思しき薄い緑色の気流が、ガラスだった物を空へ流して無害化していくのが目に見えてわかった。
ビル群の窓ガラスが割れ砕ける怪異はもう止まっていた。
地面に降り注いだガラスの破片はもうぴくりとも動かない。
惨状が落ち着き、街は普段のざわめきを取り戻していく。
不可思議としか言いようがない事態は収束の様子を見せたのであった。




