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第70話 プロポーズ

 時刻は午後4時を少し回ったところ。

 冬の乾燥した大気が水分のフィルターを外し、鮮やかな夕日が空を彩っていた。


 夕方の冷えた空気が肌に冷たく、顔を隠すほど吐く息は白い。

 三月と夕緋は日没の近い空の下、自動車の往来がそれなりに多い車道脇のタイルで舗装ほそうされた歩道を並んで歩いていた。


「もういい時間だなぁ。夕緋ちゃん、寒くない?」


「あ、はい、大丈夫。でも、すっかり季節も冬ですね」


 気遣う三月に、夕緋は小首を傾けて笑顔で答えた。

 夕緋の微笑みに三月の表情もほころび、幸せな悩みをため息混じりに漏らす。


「うーん、すぐ決める必要はないんだろうけど、なかなかここだって思えるところって見つからないもんだね」


「そうですね、どこも一長一短で決め手に欠けるのかな。いいところだけどお家賃が高かったり、駅から遠かったり……」


「これじゃ、初めに見たお化けが出たあのマンションがまだ一番良かったよ」


「じゃあ、あそこに住むのを真剣に考えてみますか? 私は、三月さんと一緒ならどこだって構いませんよ。うふふふっ」


 満たされた心のまま笑い、直接的な好意を口にする夕緋に照れる三月。

 あれから二人は新居探しのため、物件を何軒か回っていた。


 ただ、二人の眼鏡に叶うようなしっくりとくる物件は見つからず、即決していいほどの運命的な出会いは訪れなかった。

 また怪しげな何かが現れて、夕緋に特異な出番が回ることも無かったが。


「駄目駄目! せっかく心機一転して夕緋ちゃんと同棲するんだから、住むところはしっかりこだわらないと! 今日は時間も遅いからここまでだけど、日を改めてもっと色々見て回ろうよ」


「はいはい、三月さんの気の済むまでお供しますよ。うふふっ……」


 すぐに一緒に住む家が見つからなくたって、夕緋はとても上機嫌だった。

 こうして幸せな将来に向かい、二人であれこれと考えるのは何とも言えず幸せなひとときである。


「本当、三月さんと一緒に住む家を探してるなんて夢みたい。納得のいく希望通りのお家を探しましょうねぇ。長い間過ごせる、住みやすいところがいいですねっ」


「希望通りに、長い間、か。それじゃあ──」


 そう言われる三月には決めていることがあった。

 時間にするとただの一瞬だった過去の想起を経て、その気持ちは強くなった。


 夕緋と再会してからの間、気にはしていたけれど今までずっと触れないでいたことでもある。


「じゃあこれは俺から早速の、夕緋ちゃんへの希望なんだけど……。いいかな?」


「はい、私にですか? 何でしょう、できることならいいんですけど……」


「できるできる、昔は普通にやってたことだよ」


「……?」


 多少照れながらも、三月は夕緋へ要望を伝えた。

 三月が何を言い出すのか目をぱちぱちと瞬かせていた夕緋は、その望みを聞いて耳まで顔を真っ赤にして驚いた。


「昔みたいにさ、敬語はやめてタメ口で話してよ。これから長い間一緒に住むのに、夕緋ちゃんだけ丁寧な敬語を使うのは堅苦しいんじゃないかな。それと、さん付けじゃなくて、学生の時みたいに、三月、って呼び捨てで呼んでよ」


「……えっ、えええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーっ!?」


 思わず立ち止まり、再会して以来見たことが無いほど慌てた夕緋は大声をあげた。

 三月も足を止め、ちょっといたずらっぽい表情で夕緋に振り向いた。


 先の回想も含めて、自分たちが学生だった頃の子供時代を思い出す。

 あの頃の夕緋も充分お淑やかで楚々《そそ》としていたものだが、今のような敬語口調ではなく、対等な友人の話し口調で、三月を呼び捨てで呼んでいた。


「えぇっと、この話し方は癖みたいなもので……。大人になってから久しぶりに三月さんに会ったものですから、子供のときみたいな話し方は失礼かなって思ってしまって……。別に変にへりくだっている訳じゃないから、気にしないでもらえるとありがたいのですけど……」


「ほら、頑張って、夕緋ちゃん」


「うーっ、また意地悪な三月さんが顔を出してる……。どうしても話し方、変えないと駄目……?」


「うん、もっと仲良くなるために俺からのお願いだよ」


「三月の、お願い……」


 そんな言い方をされては夕緋に断ることはできない。

 話し方も含め、もっと親密な仲になれる願ってもない申し出だった。


「も、もう、わかったわよっ……! 確かに、一緒に暮らしていこうっていうのに、ずっと丁寧な話し方は変、よね……」


 じと目に三月を見上げ、夕緋は観念して大げさにすーっ、はーっと深呼吸する。

 こほん、と小さく咳払いしてから、もじもじと片手を口許にやり、視線を泳がせながら頑張って話してみた。


「じゃ、じゃあ昔みたいに、はっ、話すね……。わぁ、この感じ凄く久しぶり……。ちゃんと話せるかな……。うぅ、とっても緊張する……。だけど、私だけこんなに頑張るのは何か不公平よ。だから、私のお願いも聞いてくだ……。ううん、聞いて欲しいな……」


 夕緋の顔は今にも爆発しそうなほど真っ赤にしていた。

 三月の顔と地面を交互に視線を往復させつつ夕緋はさらに頑張った。


「あ、あのっ、そのっ、み、みみっ、うぅ、三月もっ……! わ、わっ、私のこと、ちゃん付けじゃなくって、夕緋って……。呼び捨てで、呼んで! ……下さい」


 なけなしの勇気は最後まで続かなかったものの、思いの丈を必死に叫び終える。

 夕緋はまるで焼け石に冷水を掛けたみたいに、ぷしゅーっと白い息を口から鼻からと大きく吐き出した。


 夕緋の可愛らしくも純情な反応に、三月は吹き出しそうになる。

 反面、真面目な思いをぶつけられたのだから、そこは決して笑わずにきちんと夕緋に応えた。


「──うん、それじゃあ、夕緋。これからもどうかよろしく」


 照れるのを隠して、努めて自然に笑う三月。

 夕緋のことを呼び捨てで呼ぶなんてこれが初めてだ。


 もちろん、三月だってとても緊張していたのだが。

 すんなりと一線を飛び越えてこられた気がしたのか、夕緋にはそれが大人の男性の余裕に感じてしまったらしく、不機嫌そうに唇を尖らせている。


「私はこんなに取り乱してるのに、み、三月は余裕そうで面白くないなぁ……。もう少し恥ずかしがって欲しいというか、情緒を大事にして欲しいというか……」


「そんなに余裕じゃあ無いって。これでも随分緊張してるほうなんだけどな……」


「ほ、本当に……?」


「本当だってば」


 不安を織り交ぜ、疑わしそうにしている上目遣いの夕緋の顔。

 普段は見せない余裕の無い様子は、素直に可愛らしいと感じる。

 昔を振り返り見れば、夕緋とここまでお近づきになれるなんて思わなかった。


「……昔っから夕緋は、俺にとってやっぱり高嶺たかねの花だったからさ。こうして仲良くなれるのは、俺だって夢みたいっていうか……」


「わ、私が高嶺の花……? 夢みたいって、そんな……」


 幼少の頃から思っていた正直な気持ちを言ったつもりだ。

 出し抜けにそんな風に褒めそやされ、夕緋はますます顔を赤くする。


「もう、口が上手ね。三月ったら……」


 俯き加減に視線を下ろすと、夕緋は嬉しそうにくすっと笑う。

 そうしてほっと胸を撫で下ろして、夕緋はため息をつきながら言った。


「でも、良かったぁ……。姉さんと付き合ってた三月と違って、私は恋愛らしい恋愛なんて一度もしたことなかったから、どうしたらいいかわからなかったし……。もしかしたら女としての魅力を感じてもらえてないんじゃないかって、物凄く不安だったんだから……」


 ちょっと拗ねた顔をして、やきもきしていた気持ちをやっと口に出した。


「三月と再会してから今まで、私がどういう気持ちだったかわかる……?」


 安堵の中にも少しばかり棘のある言い方をして、じっと三月を見つめる。

 やはり夕緋の気持ちは三月の思っていた通りのようで、それがわかった途端に申し訳なさに駆られ心身が縮こまる思いである。


 三月は取り乱しつつ、慌ててこれまでの過ちを弁明するのだった。


「そ、それは本当にごめん! 夕緋ちゃ──、あ、いや、夕緋の気持ちを薄々知りながら、気付かない振りをしてて俺も本当にどうかしてた! 夕緋は凄く魅力的な女性だよ、それは間違いない! 美人で、可愛くって、料理が凄く美味しくって、それでそれでっ……!」


「ちょ、ちょっと、三月っ! 大声でそんなこと言わないでったらぁ……。もう、私恥ずかしいよ……」


「あ……」


 まばらに道行く人が何事かと振り返り、すぐに目を逸らす人が大半のなか、事情を察したのかくすくすと笑う人もいた。


 決まりが悪そうに眉を八の字にして笑う三月だったが、その手をいきなり夕緋がしっかりと握って取る。

 柔らかくてすべすべした手の感触に戸惑っていると、微笑む夕緋と目が合った。


「え、夕緋……?」


「うふふっ、だけど褒めてくれてありがとう。三月、私のほうこそ意地悪なことを言ってごめんなさい。私だって毎日会いに行くだけで、三月の気持ちに全部任せてしまってたんだからおあいこだよね。正式にお付き合いする関係になったんだし、お互い遠慮することはもうないんだから、もっともっと仲良くなっていこうね」


「う、うん」


「じゃあ、もう行きましょっか」


 満面の笑顔のまま、ぐいっと手を引かれて三月は夕緋と再び歩き出す。

 ぎこちなく繋いだ手と手の様子は、二人の年齢からすれば初々しい。


 だからか、思い出すのは幼少の頃の夕緋との思い出。

 子供の自分が、同じく子供の夕緋に手袋をはかせようと、手と手を触れ合わせた追憶ついおくやしろの一幕が脳裏によぎる。


 幼馴染の少女は幼少の頃から恋心を寄せてくれていたのだろう。

 夕緋の気持ちはきっとあの時から変わっていない。


 姉の朝陽を思って、妹の夕緋と交際するのはやはり後ろ暗い気持ちにもなったが、もう踏ん切りをつけようと決心する。


 繋ぎ合った手から温もりと気持ちをを共有し、夕緋と二人で行く先は幸福な未来になっていくはずだ。


「ねぇ、三月。これだけは丁寧な言葉で言わせてね」


 横を肩を並べて歩く夕緋はにこやかに笑っていた。

 歩きながら、一度目を閉じ、ぺこりとお辞儀をする。


「色々と至らない不束ふつつかな私ですが、今後とも末永くよろしくお願い致しますっ!」


「あっ……。う、うん……」


 頬を赤く染めて、愛嬌たっぷりなプロポーズそのものな夕緋の言葉が贈られる。

 今度は三月が不意を突かれて顔を激しく紅潮させてしまう。

 それを満足そうに見つめて夕緋もいたずらっぽく笑っていた。


「急にタメ口で話してとか、呼び捨てで呼んでとか。私、凄く驚かされたんだから、これはそのお返しよ。だけど、一緒に住もうって言ってくれて、好きって気持ちも伝えてもらったことだし。……これって、もうそういうことだって思っててもいいんだよね?」


 夕緋に言われたことの意味を理解して、改めて人生の大きな節目の決断をしようとしていると気付く。


 もちろん同棲を提案した時点でこうなるのは考えていたものの、いざいざとなるとやはり緊張をしてしまうものだった。


 そうして男としてのけじめを付けるべく、うわずった声でとうとう言った。


「う、うん。俺たちももういい大人なんだし、これ以上夕緋を待たせる訳にはいかないしさ……。夕緋さえ良ければなんだけど、その、け、結婚を前提にお付き合いして頂きたいと、思って、ます……」


 余裕そうに見えて、その実やっぱりそうではなかった三月の感情は、繋いだ手に浮かんだ汗の湿り気でしっかりと夕緋に伝わっていた。

 夕緋のため、亡き朝陽のため、三月自身のため。


 一大決心をして身を固め、前へ進もうと歩き出そうとしている。

 10年間止まっていた三月の時間はようやく進み始める。


「うんっ、喜んで! 三月と結婚するの、子供の頃からの夢だったからっ!」


 思い出していた記憶の少女のままの、変わらない微笑み。

 夕緋の弾ける笑顔はますます三月の顔を赤くさせたのであった。



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