第62話 神水流夕緋1
主無き集合住宅の一室には、しんとした静寂の空気が満ちていた。
空虚な空間に身動きするものは何も無い。
時間は正午、天候は快晴、太陽はほぼ天頂に位置している。
11月の末とはいえ、日当たりの良い密閉された室内はそれなりに温かかった。
締め切られた窓の外から聞こえるのは街の雑多なざわめき。
幅広な道路用の音響式信号機が発するカッコウの音、自動車の走行音やクラクションといった街の喧騒が、二重窓の防音対策をフィルターにしてこもって響く。
そんな中、玄関のドアに掛かったシリンダー錠がガチャリと金属音を立てた。
「あっ、三月さん、お先にどうぞ」
「いや、夕緋ちゃんが先でいいよ。さあ、入って入って」
ドアが開き、二人の声が部屋の凝り固まった静寂を溶かすように入ってくる。
声の主は、三月と夕緋。
「お邪魔します……」
茶色いショートブーツを脱ぎ揃え、遠慮がちに部屋に足を踏み入れる夕緋。
薄手のニットにカーディガンを羽織り、ふんわりしたロングスカートを穿き、全体的にシックな色でまとめた秋の装いである。
「へぇ、結構広いんだなぁー」
後から部屋に入り、辺りをきょろきょろと見回す三月。
こちらは長袖のTシャツにストライプの前空きカットソーのトップスに、ゆったりとしたデニムのジーンズという出で立ちだ。
二人の後ろから、紺色のぴっちりしたスーツに同系色のネクタイを締めた、年若そうな営業マン風の青年も部屋に入ってきた。
「こちらの物件は築10年の鉄筋コンクリート造りのマンションで、間取りは1LDKとなっており、駅から徒歩15分程度の距離となっております。リビングは南向きで日当たりは良好、ベランダからの眺めも良いのでご覧になってみて下さい」
張り付いたみたいな営業スマイルで部屋とこの建物、マンションの説明をするのは不動産屋の営業担当であった。
胸の名札には遠藤とあり、この物件を任されている不動産会社の人間である。
5階からになる窓からの眺望を見ている三月と夕緋の傍まで歩いてくると、遠藤はにこやかに言った。
「広々としたリビング、お洒落なキッチンが売りの物件で、新婚さんのこれからにはぴったりかと思われます」
それを聞く三月は照れ笑いを浮かべ、夕緋はぼっと顔を赤くした。
虫が鳴くみたいなか細い声で言う。
「し、新婚さんじゃ、ないです……。まだ……」
夕緋は恥ずかしそうに両手で顔を覆い、あわあわと狼狽えている。
三月はそんな夕緋を微笑ましく思い、短めのため息をついた。
訪れた高層マンションの部屋の窓からの景色を見つつ、こうなった経緯を思い返してみる。
あれは、三月が不可思議な異世界転移体験をした明くる日のことだった。
「昨日、変な夢をいっぱい見てさぁ……」
その日もいつものように、仕事を終えた三月のアパートに同じく仕事帰りの夕緋が訪れ、夕食をつくってくれていた。
夕緋の背姿に向かって、三月は炬燵テーブルに座り、天井を見上げながらぼーっとして言い始めた。
「……変な夢?」
料理の手を止めることなくオウム返しに聞き返す夕緋。
思えば昨晩、忘れ物のストールを届けようと部屋を飛び出してきた三月は、突然堰を切ったように号泣を始め、夕緋は理由を聞かずに慰め続けた。
ひとしきり泣き終えた三月と別れ、今に至るまで触れずにいるのは彼女なりに気を遣ってのことなのだろう。
「うん、ゲームの世界みたいな場所で地下の迷路に挑む夢と、和風な神様の世界で化け物と戦わされる夢を見たよ。お陰ですごく寝覚めが悪かったんだ」
三月は昨晩体験した異世界転移を抽象的な夢だと表現した。
さすがに無茶苦茶が過ぎる話だし、夕緋はそのあたりのサブカルな知識に疎いというのが理由である。
「へぇ、そうなんですか。変な夢見ると疲れますもんね」
予想通り、当たり障りのない言葉とくすくすと愛想よく笑う声が返ってきた。
三月はそんな微笑の声を聞き終えると言った。
「──それで、夢の最後に朝陽が出てきたんだ。あれから随分経つけど、朝陽の夢を見たのは初めてのことだったよ……」
それを聞くと、夕緋の包丁の手がはたと止まった。
少しだけ驚いた顔でくるっと振り返り、三月の顔をまじまじと見つめた。
「姉さんが……?」
「うん、そこの写真の、高校生の時の姿のままだったよ」
ちらりと、テレビ台の上の写真立てに視線をやる。
夕緋もつられて姉の懐かしい姿を見つめている。
正確には夢に出てきたのは朝陽ではなかったが、雛月のことを言ってもややこしくなるだけだし、三月の伝えたいのはそこではなかった。
「でさ、こんなことを言われたんだ……」
三月は言葉の続きを待っている夕緋に言った。
「いつまでも昔のことを女々しく引きずってないで、前を向いて先に進めって。俺と夕緋ちゃんに今よりももっと仲良くなって欲しいってさ……。もちろんだけど、そう言われたからってだけじゃなくて、俺もしっかりしないといけないって思ったんだ。……だから、夕緋ちゃんが嫌じゃなければ、なんだけどさ」
夕緋はいつの間にか包丁をまな板の上に置いて、まっすぐ三月の方に向き直り、じっとその言葉に聞き入っていた。
三月も真剣な空気に緊張しながら、夕緋の顔と目をしっかり見て、真面目な想いと共にそれを伝える。
「俺たち、一緒に暮らさないか?」
「えっ……」
夕緋は言葉を詰まらせ、両手で口を押さえる仕草を見せる。
そのままわずかな沈黙が二人の間に流れた。
求愛そのものの言葉を伝えた当の三月は、照れくさそうに目を泳がせる。
「いつもご飯つくりに来てもらってばかりで大変だろうしさ……。もしかしなくても夕緋ちゃんに何か期待させてしまっているなら申し訳ないし……。って、うわぁ」
三月の声は最後まで続かない。
感極まって駆け寄った夕緋が、三月の首に腕を回して抱きついたからだ。
驚く三月の耳元で、夕緋は嗚咽交じりにかすかな声で言った。
「私もっ、三月さんと一緒に暮らしたいっ……!」
自分の顔を三月の頬に擦り当てて、愛おしそうに回した両腕に力を込めた。
搾り出した声で心に秘めていた言葉を口にする。
「好きです、三月さんっ。小さい頃からずっと好きだった……」
夕緋にとってそれは、今までずっと言えなかった言葉と気持ちだった。
今はもう亡き姉の姿が頭から離れず、その面影を追い続ける三月を気遣って言いたくとも言えなかった。
しかし、三月からの思わぬ申し出に、抑えていた想いはとうとう弾けた。
「ああ、やっと言えた……。今まで姉さんに遠慮してずっと言えなかった……。三月さんの心にはいつまでも姉さんがいるから、私の入る隙間なんてもう無いのかなって思ってた……。それでも私、三月さんのこと、諦め切れなくて……」
三月に抱き付いた手はそのままで、夕緋は密着させていた身体を離す。
そして、胸に秘めていた気持ちを吐露し、三月の目を潤んだ黒い瞳で見つめた。
「お願い、三月さんも言って……! 私にも、好きだって、姉さんに言ったみたいに言って下さい……。お願いっ……!」
夕緋は懇願した。
歓喜とも悲壮とも取れる感情を、涙の滲んだ目に宿している。
姉には言ったはずの三月からの愛の告白を、自分にも贈って欲しいと願った。
奥手な印象だった夕緋の熱烈な愛情表現に驚きつつも、三月は顔を紅潮させながらその気持ちに応えたのだった。
「うん、好きだよ。夕緋ちゃん……」
「あぁ……」
ゆっくりと、はっきりとした三月の言葉に夕緋は心底満ち足りていた。
感激の吐息を漏らし、閉じた両の目から溜めた嬉し涙をぽろぽろと零す。
夕緋は三月の胸に顔をうずめ、声をこらえて泣き出した。
「夕緋ちゃん、毎日ご飯つくりにきてくれたり、俺の身の回りの世話を色々焼いてくれてありがとう。この町で俺も一人で心細かったけど、夕緋ちゃんとまた会えて良かったよ」
綺麗な長い髪の頭を優しく撫でると、手に夕緋の震えが伝わってきた。
少しだけ、決まりが悪そうに三月は胸の中の夕緋に言う。
「ごめん、やっぱり待たせちゃってたみたいだね……。今まで一年以上も、通い妻みたいなことさせといて今更って思うかもしれないけど、俺もどうしていいか悩んでいたんだ。朝陽とはちゃんと別れた訳じゃないし、朝陽がいなくなったからって都合よくまた会えた夕緋ちゃんとお付き合いしてもいいものかどうかって……」
「言わないで……。わかるから、三月さんの気持ち……」
首を横に振り、再び顔を上げた夕緋は涙を浮かべながらも微笑んでいた。
二人が再会し、こうした関係となってから、相当な時間が経っている。
これだけ長く会い続けていたのに、男女の仲が進展しなかったのは普通に考えるとひどく不自然なことのように思えるかもしれない。
しかし、三月も夕緋もなかなかこうなれなかったのには、やはり姉である朝陽との別離にある、特別な事情が起因していた。
『──だって、朝陽はもういないんだ。10年前のあの惨禍に巻き込まれて、その命を落としてしまったんじゃないか』
『朝陽は死んだんだ。享年18歳、あまりにも早すぎる死だった』
夢か現か不明な空間で聞いた、雛月のあの言葉がよみがえる。
今からおよそ10年前、雛月の言った「惨禍」に巻き込まれ、18歳の若い身空で唐突にこの世を去ってしまった三月の恋人、朝陽。
三月の恋人であり、夕緋の双子の姉。
三月も夕緋も、朝陽ときちんとした別れ方をしていない。
最後にあの子と会ったのはいつだったか、記憶はだんだんと薄れていく。
「三月さん、私と二人で乗り越えていきましょう……。三月さんの夢の中の姉さんもそれを望んでてくれたみたいで本当に安心しました。もし、私とは付き合わないで欲しいって思われてたりしたらどうしようかと……」
「うーん、朝陽はきっとそんなこと言わんだろうなぁ……。きっと、あんなことがあろうがなかろうが、夕緋ちゃんの幸せを願ってくれてたと思うよ」
「私の幸せは三月さんと結ばれることだったんですっ。三月さんが姉さんとお付き合いをしてる間、私、とっても悲しかったし、辛かったんだから……。三月さんと再会してから今日までずっと何も言ってくれなかったし、もう三月さんと結ばれるのは無理なのかなって……。毎日やきもきしてました」
「うっ、申し訳ない……」
こうなると姉は恋敵であったうえ、一度はその争いに敗れた相手だ。
大切な肉親だったとはいえ、亡き姉に対して夕緋は複雑な気持ちだった。
だから、ちょっとだけ不満そうに三月の目をじっと見つめた。
未だに朝陽を想い続けている三月を正直快くは思っていなかったが、ようやく心変わりしてくれたのだからと夕緋はすべて受け入れようと思っているのだろう。
「ごめんなさい、三月さん。姉さんを大事に思っていたのは私も同じですから、どうか気にしないで下さいね。私は姉さんの代わりにはなれないけど、私なりに三月さんをきっと幸せにしてみせるから。どうか、これからもずっと宜しくお願いしますっ」
だから、それを言う夕緋の微笑みは晴れやかだった。
「う、うん、宜しくね。夕緋ちゃ──」
「さあ、ご飯つくりますね。もうちょっとだけ待ってて」
言葉の途中で、夕緋は笑顔のまま三月を抱擁から解放した。
すくっと立ち上がるとあっさりキッチンへと戻っていく。
「でも、夕緋ちゃん……」
三月はその後ろ姿に負い目を感じつつ、しどろもどろに声を掛ける。
それは、夕緋を選んでなお煮え切らない気持ちを打ち明けるものであったから。
「いきなり恋人みたいにってのは待って欲しいんだ……。同棲しようって申し出ておいて何だけど、まだ俺は心の整理はついてない……。俺はまだまだ朝陽のことを引きずってる……。男らしくなくて、我ながら本当に情けない……。そこのところを夕緋ちゃんが許してくれるのなら──」
「──私、わかってるつもりです」
夕緋は振り向かない。
三月の言葉を遮り、柔らかな声で言い始める。
その声からは三月と未来を歩める嬉しさの反面、切なさ寂しさも伝わってくる。
「三月さんはまだ立ち直れてない。強がったって、誤魔化したって、あのときのことはそんなに簡単に忘れられるものじゃない。だから、無理をしないで……」
ようやく振り向いた夕緋の目は、親が子を見守るような優しいものだった。
慈しみの微笑みは、心から三月を安心させようとする心遣いであった。
「姉さんのことは、これから二人でゆっくり考えていきましょう。情けないなんて思わなくたっていい……。それだけ三月さんの中で姉さんの存在が大きかったってだけです……。だから、三月さんが本当に私を見てくれるようになるまで待つことにします。──大丈夫、待つのは馴れっこだから」
しかし、それは精一杯の夕緋の皮肉だったのだろう。
三月はまだ引きずっている。
今はもう亡き、朝陽への気持ちと未練を。
全部忘れろとは言わない。
しかし、できるなら自分だけを見て欲しい。
そんな夕緋の望みも、28年もの間を待ち続けた女の気持ちからすれば、随分と可愛らしいものだったに違いない。
「本当のことを言えば、姉さんのことなんて綺麗さっぱり忘れてもらって、私だけを見てもらいたいっていうのが本音ですよ? さっきだって、好きって言ってもらえたとき、嬉しくってもうキスしちゃおうかなって思ったし」
そんな軽口を聞いて、笑って冗談が言える程度には夕緋は大人だった。
だから、夕緋に申し訳なさげに笑う三月も幾分か心が安らいだ。
姉の朝陽も、夕緋のように寛容な心を持った優しい女性だったと記憶している。
二人は別人なのだから比べてはいけないと思うものの、似た者姉妹だったことに安堵したのかもしれない。
「さっきの一緒に住もうって話だけど、次の休みにでも新しい家を見にいこうか。さすがにここで二人は狭いし、いいところ探そうよ」
「三月さんと一緒ならどこで住むのでもいいけれど……。うん、行きましょうっ」
三月の提案に、夕緋はそうして楽しそうに答えたのだった。




