第53話 女神とシキ、その門出1
もうすっかり夜も更けた頃。
とっぷりと暮れた空には蒼い月と星々が輝いている。
観念化された天体たちの眼下で、日和の領域である合歓木神社の島が広大な雲海にぽつんと点在していた。
その神社の裏の家屋、日和の住居にて。
日和と食事を終えたみづきは、母屋の土間に面した板間の床に、布団を敷いて寝転がっていた。
さっきまで赤々としていた囲炉裏の炭が、残火をちらつかせている。
明かりは炭の残り火と、枕元に置いた油皿のわずかな火の光だけ。
「……」
みづきはまだ寝付けずに、自在鉤の掛かっている天井の梁あたりにぼーっと視線を漂わせていた。
とうとう一日が終わる。
先のダンジョンの異世界と同様に、いよいよ眠りについて明日を迎える。
これが夢か現実かを判断する一区切りの時はもう間もなくであった。
──初めはさっさと終わってくれって思ってたものの……。今度の夢だか異世界だかは引っ掛かるところがあったなぁ。
思い出すのは、保留とした日和への質問とそれがもたらす答えだ。
創造の女神たる日和と、思い出の少女、朝陽との何らかの関連性。
取るに足らないような些細なことである可能性もある。
この神々の異世界が妄想の産物なら、日和と朝陽の関連性もみづきが無意識に生み出した幻想でしかないかもしれない。
──でも、日和の奴、何だか答えにくそうにしてたな。何とか聞いてみたいけど、気を悪くされてはぐらかされても困るしな……。
朝陽のことを問おうとすると、明らかに日和は慌てふためいていた。
これが本当にみづきの運命に関わるような重大事であるなら、もっと前のめりに問い質したほうが良かったのかもしれないが。
「……うーん、無理やりってのはどうにもな……。むしろもう、聞かずにそっとしといたほうが良かったりするのかなぁ……」
小声でごにょごにょと独り言を言う。
躍起になったり、尻込みしたりと、みづきのやる気は何とも中途半端である。
半信半疑であるのはさて置き、とても気になっているのは本当だ。
地平の加護の作用なのか、胸の高まりは依然収まってはいない。
しかし、いまいち当事者意識が足りず、本気になりきれていないのを感じる。
無理やり試合に駆り出されたり、一方的に怒りを向けられ痛めつけられたりと踏んだり蹴ったりではあったが、無事に済んでしまえばもうあまり気にならない。
完璧主義とはほど遠く、緩くていい加減で、まあいいや思考のみづきは筋金入りのスロースターターであった。
「……」
ちらりと視線をやる襖の向こうの一室で日和も休んでいる。
シキとはいえ、異性と寝所が近いことを特に気にはしないようだ。
ふと、その襖がすーっと静かに横に開く。
「まだ起きてたのか、日和」
みづきの言葉通り、襖が開くとそこには白い寝間着姿の日和が居た。
何やらにやにやとして上機嫌である。
お団子にしていた髪を下ろし、正座でちょこんと座り込むその様子は座敷わらしのように見えた。
何をそんなに嬉しそうにしているのか聞く間もなく日和は言う。
「いつもは一人ぼっちで過ごしていたゆえ、隣で誰かが寝ているかと思うと何だか気になって眠れなくなってしまってのう。うふふ」
それは日和にとっていつぶりになるだろうか。
いつも一人っきり、の期間は年単位で長期に及んでいたことだろう。
「試合に負けては、ぼろぼろの神社の隅で座布団を抱いて不貞寝する日々じゃったからなぁ。命を残したシキと夜を迎えるのは本当に久しぶりなんじゃよ」
「そりゃあ良かったな。──って、何かそれ可哀想な絵面だな……!」
にこやかに言う日和にみづきは表情を曇らせる。
あのあばら家に等しかった神社の暗い片隅で、布団も敷かず枕の替わりに座布団を相棒に毎夜を過ごしていた哀れな姿には同情を禁じ得ない。
「今はみづきがおるゆえ、もう気にはならんのじゃ。うふふ」
「そうかよ……」
但し、日和はみづきよりもさらに楽観主義のようだ。
これからの希望を思えば、あの暗い日々は忘却の彼方である。
と、その顔が目を細めて何だかいやらしい笑みを浮かべる。
「みづきこそ、襖一枚隔てて本物の女神が眠っておるとなれば、胸の高まりが抑えられんのではないのか? じゃがしかし、私とみづきは神とシキの主従関係じゃ。それゆえくれぐれも変な気を起こしては駄目じゃぞー?」
何を言い出すのやら、喉元過ぎれば熱さを忘れるとはこのことだ。
悲惨な状況で悲しみに暮れられるよりはましだが、子供じみたおふざけに辟易しつつ、みづきは適当に合わせる。
「馬鹿野郎ぅ。そういう笑えない冗談は、せめて力を取り戻した元の姿になってから言ってくれ。そんな子供のなりで変なことを言うんじゃありません」
そう言ってみて、本来の姿の日和は大変に美しく魅力的だったと思い出す。
見る者すべてを魅了する自信に溢れた美貌、絶妙に整った豊満な肢体、滲み出る女神の風格には理由無く傅きたくなる神性が秘められていた。
確かにあの姿の日和なら、崇め奉ってやってもいいと思う反面。
今の幼児そのもので、何の神々しさも感じない日和を相手にいったいどんな変な気を起こすというのか、悪い冗談にもほどがある。
しかし、みづきのつれない言葉と態度に、何故かぱぁっと顔を明るくする日和。
「あっ、みづき、おぬしっ! 私の魅惑なる真の姿になら劣情を抱くのも仕方無しというじゃなっ?! まぁったく、しょうことのない助平じゃなぁ、おぬしは! うふふふふぅ……」
「へいへい、変態のすけべで悪かったな。元の姿に戻れるようになったら妙な気の一つも起こしてやるよ。もう寝ろ」
今はさて置き、本来の自分の魅力を再確認できて満足でもしているのだろうか。
どんな時でも愛されたいと願う複雑な乙女心というやつかもしれない。
途中まで考えて億劫になったみづきは日和に背を向けてごろんと寝転がった。
「もう、いけずじゃなぁ。みづきはぁー」
複雑な乙女心を満たしても日和のわくわくは止まらない。
試合に負けた日は特にへこんで枕ならぬ座布団を濡らしていた日和は、創ったシキと久しく一緒の夜を過ごせるのが嬉しくて仕方がないらしい。
邪険にされてもみづきの背中をにやにやと眺めている。
「何をわくわくしてんだ……。お泊りが楽しい小学生かよ」
妙な視線を後ろから感じつつ、みづきは苛々するのを抑えて呟いた。
せっかくさっきは気を遣って、嫌がる質問を避けようとしたというのに何だか馬鹿馬鹿しくもなってくる。
遠慮などせず、自分の気持ちに正直になったほうがいいのでは、と思いつつ。
せめて、代わりの質問を投げてみることにした。
「なぁ、日和、一つ思ったんだけど──」
ごろんと再び日和のほうに寝直して、にやける顔を直視する。
代わりの問いは素朴ながら、何故そうだったのかわからない疑問だと思った。
「どうして今日戦った相手は二位だったんだ? わざわざ高い順位の陣営を選ばず、もっと下の順位とやり合ったほうが勝てるかもしれんのにさ」
急に最もな質問が飛んできて、日和から緩い表情が消えた。
唇をつぐんで少し黙ったかと思うと、やがて静かに口を開いた。
「そのことか……」
一瞬だけ逡巡すると、意を決したように日和は神妙に頷いた。
「他の試合の申し出は、すべて取り下げられておったんじゃよ……。そういう約束じゃったからな……」
「ん? それってどういうことだ?」
出し抜けに始まった日和の独白にみづきは半身を起こした。
驚くみづきの様子を見て、日和は観念したような息をほぅ、とつく。
「つい先だって、多々良殿から直々に申し出があったんじゃよ。意中の試合相手がおらぬなら、自分たちの陣営と最後の試合をしよう、とな」
「……え?」
何気ない問いのつもりだったのに、聞いてもいない事の真相が明らかになる。
目を丸くするみづきをよそに、日和は先を続けた。
「最後の試合は私自らが赴き、潔く全霊で戦う。その代わり、もしその試合で敗北の眠りに着くことになるのなら、多々良殿の加護の下で、いつしか目覚める時まで私とこの土地を守ることを約束する、と──。そういう話だったのじゃ……」
「……」
淡々と話す日和の言葉を、みづきは黙って聞いていた。
今、何を言われているのかをじっくりと頭の中で噛み砕いている。
「しかし、私は悪あがいた。いたちの最後っ屁の如き力を振り絞り、みづきを……。私の身代わりになってくれるシキを生み出した。此度の試合をやり過ごし、次がどうなるか見通しもつかぬまま生き長らえることのみを考え、多々良殿との約束を破り、みづきを試合に送り込んだのじゃ……」
さっきのにやけた顔はどこへやらで、日和が浮かべるのは自嘲の笑顔。
白状された内容を素直に受け取るのなら──。
多々良との約束を反故にして、自分が助かるためにみづきを捨て駒とし、今回の試合へといけにえに差し出した、ということである。
「生き汚く、泥水を啜るが如き戦いを続ける覚悟をしていたつもりだったのじゃが、やはり良心の呵責に苛まれるのには耐えられぬようじゃ……。多々良殿に叱られた通りじゃな……。ぐうの音も出んわい……」
視線を床に落とし、ままならぬ胸の内をぽつぽつと話す。
何度か打ち明けようとは思っていたが、とうとう黙っているのが堪らなくなって口から滑り出してしまった。
日和は肩を震わせながらも頭を深々と下げる。
平伏して、自然と土下座の姿勢を取ろうとしている。
「みづき、すまぬ……。この通り、許して──」
「──ああ、やっぱりそういうことだったのかー!」
日和が頭を下げ切る前、謝罪の言葉を言い終える前に。
みづきはひときわ大きめの声でそれらを遮って言った。
「いやあ! 試合に出るのを引き受けた時、何だかしてやられたー、って感じがしたんだけど勘違いじゃなかったんだなー。いくら何でも変だと思ったよ。生まれてすぐに試合が始まるとか、いきなり二位の順位が相手とか、素手の丸腰で送り出されるとかさー。うんうん、納得納得!」
まんまと一杯食わされたと言うばかりに、やけくそ気味にまくしたてる。
ひとしきりそうした後、両手を頭の後ろで抱えて天井を仰いで寝転がった。
「み、みづき……?」
日和は目をぱちぱちと瞬かせてぽかんとしている。
視線を天井にやったまま、みづきは落ち着いた口調で静かに言い始めた。
「……日和は今回の試合で負けたら敗北の眠りってやつに着くことになって、もう後がない状況だったんだろう? 次があるかどうかはわからんけど、それでも先を見越して次に繋げようとするそのしぶとさは評価に値するよ」
「え、えっ……? 何を……」
日和はみづきが何を言っているのかよくわからない。
自分が助かるために身代わりの捨て駒にしようとしたのに、その手段を評すると言っている。
「負けたらもう終わりなんだから、逆にそのくらいはするべきだよ。絶対に譲れない目的のためなら、ある程度は手段を選ばない判断だって時には必要さ。例え、誰かを犠牲にすることになっても、後悔をしない覚悟があるんなら尚更な」
みづきは自棄を起こしている訳ではない。
本気でそう思い、自分の性分に従ってそう言っている。
「結果的に勝ち残ったんだし、そうやって謝る気があるんならもう済んだ話だよ。良かったじゃないか、俺が使えるシキでさ」
日和はのっぴきならない状況に陥っていた。
いざ訳を聞いてみれば、一連の不義理を働いたのには事情があった。
その境遇が理解できたうえ、試合に勝利して事なきを得た今となっては日和を責めるのも野暮だと思った。
まだ呆然としている日和を見やって、ただ、と前置きしてさらに言った。
「そういう駆け引きは今度から相談してからやってくれ。内容によっちゃ、俺からも協力できることがあるかもしれんしさ」
「……う、うむ、わ、わかった……。そ、そうする、のじゃ……」
面食らった様子で途切れ途切れの返事をする日和は、ぼうっとしながらみづきの顔を見つめていた。
試合に負けても自分が生き延びれば良し、何かの拍子で勝てればなお良し。
そうしてシキを見捨ててでも、舞台からの退場を拒んだ日和。
往生際が悪い、と多々良には厳しく叱責されたばかりだ。
しかし、みづきには自分のやったたこと思っていたことを認められ、まるで逆さまに理解を示されてしまった。
聖なる神にはあるまじき行いを、悪いとわかって実行した日和にとっては予想外でしかなかった。




