第290話 アイアノアと月の下で1
満月が綺麗な静かな夜のこと。
だだっ広い草原の真ん中に、たき火の明かりがぽつんとある。
ここはトリスの街とイシュタール王都間を行き来する、さびれた街道。
道沿いでキャンプをするのはミヅキたち一行であった。
パチッ、パチパチッ……!
魔石が発している炎にくべられた薪の弾ける音が鳴っている。
揺らめく火の光に照らされ、アイアノアは薄く目を開けた。
「ん……」
たき火を前に、外套にくるまり、膝を抱えた格好で眠っていたところだ。
夜も更けた頃で、いつの間にか寝入っていたらしい。
「……あっ、ミヅキ様、まだ起きていらしたんですね」
「ああ、アイアノア。何だか寝付けなくてね」
火を挟んで正面に、あぐらをかいて座るミヅキの姿があった。
揺れる火をぼんやりと眺めて、ひそやかな時間を過ごしていた。
「それに、ほら──」
ミヅキは自分の周りを視線で指して微苦笑する。
アイアノアもミヅキの周りを見て、微笑ましい気持ちになった。
「人気者ですねっ、ミヅキ様は」
ミヅキの左膝をまくら代わりにして、キッキがかじり付いて寝ている。
右側の肩には、眠りこけたミルノが頭と身体を預けて眠っていた。
二人は獣人ではあるが、まるで猫と羊が懐いて甘えているように見える。
「……何だか、こういうのっていいですね。冒険者になって旅をしてるって、こんな感じなのでしょうか?」
「ああ本当だ。確かにこういう感じなのかもしれんね。世界中をあっちこっち冒険して回って、夜はこうして仲間と一緒に火を囲んで──。そりゃ凄く楽しそうだ」
しみじみと言うアイアノア。
キャンプの経験は少ないものの、ミヅキもこういう夜の雰囲気は好きだった。
と、冒険者と言えば──。
ミヅキは膝の上で眠るキッキを見ながら言った。
「あ、そうだ。前に俺の知り合いが、将来冒険者になりたいって言ってた話なんだけどさ。それって、キッキのことなんだ。宿の経営が落ち着いて、自分が一人前になれたら旅に出て、それでパメラさんみたいになりたいって」
それはいつかの夜に聞いた、キッキが思い描く将来の夢である。
母と同じく立派な冒険者になって、世界を旅して回りたいのだそうだ。
「しかも、俺やアイアノアとエルトゥリンと、一緒に旅がしたいんだってさ」
「まぁっ、それは光栄です! なんて素敵な夢なんでしょうっ! 是非に、私からもお願いをしたいです!」
アイアノアにとってそれは願ってもない申し出だった。
キッキの思い描く夢に自分も誘ってもらえてとても嬉しそうである。
皆で冒険者になってパーティを組む。
それはそのまま、ミヅキとの旅を続けられるということだ。
「……使命を果たさなければならない理由がもう一つ出来ました。ミヅキ様、パンドラの地下迷宮の踏破、頑張りましょうねっ」
「うん、そうだな。キッキのためにも頑張ろう!」
自然とアイアノアの表情は和らいでいた。
そんな気持ちは知らず、ミヅキも力強く頷くのであった。
その後もミヅキとアイアノアの談笑は続いていた。
話が弾んで会話が途切れない。
「エルトゥリンは私の自慢の妹です。あの子が狩りをしてくれる限り、ずっとお腹いっぱいで食べることには困らないでしょうね」
王都までの旅の道中、毎日エルトゥリンが何かしらの獲物を狩ってきた。
戦士として強いだけではない。
狩人の腕前も達人レベルで、どんな獲物でも捕ってきてくれるに違いない。
「お魚の料理、とても美味しかったです。海のお魚は初めて食べました」
こう見えて食いしん坊キャラの一面を持つアイアノア。
美味しいものには目が無く、初めて食べた海の幸には感動すらしていた。
「お風呂、気持ち良かったですよ。混浴でしたけど、大事なところは布巾で隠していたので平気です。生まれたままの姿という訳ではありませんでしたよ」
混浴の蒸し風呂についても頓着なく話してくれた。
湯浴み着にも似た大きめの布で身体を覆っていたので、何なら本当に一緒に入浴しても構わなかったらしい。
これにはさしものミヅキは赤面だった。
「それにしても王都では色んなことがあったなぁ。魚を仕入れてすんなり帰れると思ってたけど、とんだ騒ぎに巻き込まれたもんだ」
「ハァ、そうですね……。あれだけ大きな人間の都では、エルフのこの身は窮屈でした。この長い耳を隠していたのがばれそうになったときはどうしようかと……。ミヅキ様にご迷惑をお掛けする訳にはいかない、その一心でしたとも……」
「いいって、そんなこと。それよりも助かったよ。俺が騎士に追い回されてたとこを助けてくれてさ。いつもありがとう、アイアノア」
「いえいえっ、それこそ気になさらないで下さいまし。ミヅキ様をお助けするのは至って当然のことですからっ」
話題は例の騒動に及んでいた。
港で魚を買った後、ミヅキは思わぬ人さらいの濡れ衣を着せられた。
王国直属の騎士団の追跡に遭い、思い掛けずひと悶着起こってしまった。
「……あの騎士の男、私たちエルフを蔑むだけならともかく、ミヅキ様の悪口まで言い出すだなんて! 思い出したら腹が立ってきました!」
アイアノアが思い出しているのは、直接対決した騎士団長ウルブスのことだ。
眉を吊り上げて頬を膨らませる表情はいかにも機嫌悪そう。
ミヅキからすると、彼女のそんな顔を見るのはとても珍しい。
「アイアノアでもそんな風に怒るんだね。いつも優しいから意外だったよ」
「怒りますとも。私にだって、優しくする相手を選ぶ自由はありますっ」
改めてアイアノアも普通の女の子なんだと感じた。
清楚でおしとやか、常々優しいのは彼女ならではと思っていたが違っていた。
「まぁまぁ、そんな怒んないでよ……。せっかくの美人が台無しだって……」
「あっ、美人だなんてそんな……。お褒めに与り、とても嬉しいです……」
ミヅキが褒め言葉を放り込むと、ぷりぷり怒っていた赤い顔はそのまま恥ずかしそうに緩むのであった。
と、怒りを収めてアイアノアは、はぁ、と軽くため息をつく。
「ああいった手合いの人間が、使命の勇者でなくて本当に良かったです。使命を盾にひどいことを要求されたら、私はどうしたらいいか……」
ミヅキはいつか聞いた言葉を思い出していた。
あれは確か、パンドラの地下迷宮に行く前、アイアノアからダンジョン講座を受けていたときのことだ。
『私たち姉妹は使命の成就のためなら、心血を注いで何もかもを捧げる覚悟でした。……ですが、実を言うと不安もあったのです』
『──万が一、勇者様が怖い御方で、不当な要求などをされて酷い目に遭わされたらどうしようかと……。使命を果たすことが絶対な私たちには勇者様に逆らうなど到底できません……』
ウルブスの言った、今晩俺に付き合うのが条件、という言葉を思い出す。
使命を果たすのを引き合いに出されてはアイアノアは断れない。
泣く泣く従わされ、身も心も差し出さなければならなかったのを思うと、ミヅキはひどく胸が締め付けられる気持ちに駆られた。
なんてことを思っていると案の定、地平の加護こと雛月がいたずらをしてきた。
今回も強制的な妄想を強いてくるのだが──。
それはミヅキにとって、心に影を落とすきついものであった。
──ひ、雛月、これはシャレにならないって! 俺にそんな趣味はないぞっ……。いくら妄想でも見せていいものと悪いものがあるだろうがっ……!
それは夜の宿の一幕であった。
悲壮な覚悟を決めたアイアノアは、勇者の男に毅然として言葉を放っていた。
しかし、その表情には明らかなかげりがある。
「約束ですよ……! 貴方の言うことを何でも聞く代わり、必ずや使命を果たして頂きますからね……! 絶対に、約束ですよっ……!」
「姉様、だめッ! 使命のためだからって、そんな男の言いなりにならないで!」
アイアノアと勇者の男は薄暗い個室へ消えていこうとしている。
姉の決断に必死に反対して、すがり付こうとしているのはエルトゥリンだった。
「……いいのよエルトゥリン……。私がこの身を差し出すことで、使命が果たせるのなら……。これもきっと、支払わなくてならない代償なのよ……」
「姉様っ……。姉様ぁ……!」
エルトゥリンを見つめるアイアノアの瞳には諦めの色があった。
不本意ながら身体を許し、目的の遂行を優先させようとしている。
「い、痛いっ……。せめてっ、せめて優しくして下さいましぃ……」
勇者の男は嫌がるアイアノアに構わず、肩を無理やり抱き寄せる。
そのまま宿の部屋へと強引に引きずり込んでいった。
「姉様ぁーっ! ひどい、こんなのあんまりよっ……!」
崩れ落ちるエルトゥリンに振り向いた顔はミヅキではなかった。
くせっ毛の黒髪、筋肉質な浅黒い肌の背の高い美丈夫。
それはあの騎士団長ウルブスの薄ら笑う顔であった。
そして、バタンと荒々しくドアは閉じてしまった。
部屋の中でその後に行われる数々の行為は想像もしたくない。
ミヅキは堪らず大声をあげていた。
「アイアノアッ、そんなことはしなくていいっ……! 俺は絶対にっ、アイアノアにひどいことなんかしないっ……!」
「お、落ち着いて下さいましっ。ええ、もちろんわかっておりますとも。ミヅキ様は間違ってもそのような破廉恥なことをされる御方ではありません」
取り乱したミヅキはアイアノアの声で我に返る。
息が苦しくなって、身体が妙に重く感じた。
「はぁ、はぁ……」
気がつけば、辺りは静かな夜のままである。
たき火のパチパチという音しか聞こえない。
当然、今のは妄想に過ぎない。
ミヅキが勇者なのだから、自分が気をつけていれば決して起こらないことだ。
「ごめん……。アイアノアが俺じゃない悪い勇者に、無理やり言うことを聞かせられてるのを想像したら、なんか凄く嫌な気持ちになって……」
「まぁっ、それはご心痛をお掛けしてしまい、申し訳ありません。ですが、ご安心下さいまし。私とエルトゥリンが付き従うのはミヅキ様だけです。断じて他の誰かの言いなりになどなりませんとも」
「……うぅ、そっか。そうだよな……」
「ミヅキ様は今のままでいて下さいまし。お優しいミヅキ様のお言葉なら、喜んでその通りに致します。それが私の使命ですからっ」
アイアノアの微笑みが眩しかった。
ミヅキに対して、全幅の信頼を寄せてくれているからこその笑顔である。
──今までアイアノアには色々と言うことを聞いてもらってる。……でもそれは、あくまで同意のうえで無理難題を押し付けた訳じゃない。俺がアイアノアと仲良くできてるのは、異世界転移によくある排他的権利ってだけじゃないんだ。この関係は大事にしないといけないな……。
ミヅキは誠実であろうと肝に銘じる。
気にしないようにしているが、この異世界では人間は嫌われ者だ。
自分が平気だからと、楽観的にしていてはいけない。
種族間にある軋轢はミヅキが感じているよりもずっと深刻なのである。




