第284話 ミヅキ、混浴を逃す、人さらいになる
それは海の見える宿屋に宿泊した翌朝のことであった。
高価そうな革張りのソファーが並ぶ、シックな感じのするロビーにて。
「ミヅキ、ちょっとちょっと!」
「あぁ、キッキ。おはよー」
吹き抜けの階段を降りてきたミヅキの元に、キッキが小走りにやって来た。
どうやら先に起きていたようで、何やら興奮した様子である。
どうかしたかと聞く前に猫の少女は早口で言い始める。
「ほんとっ! もうもの凄かったんだって! さっきさ、アイ姉さんとエル姉さんと蒸し風呂に入ってきたんだけどさ──」
「なにっ? 蒸し風呂っ?!」
ミヅキはすぐにキッキが何を言いたいのかがわかって色めき立った。
「アイ姉さんはもちろん綺麗だったけど、エル姉さんも負けないくらい綺麗で! 姉妹揃ってあの身体つきは反則だって! 胸はこんなでっ、腰はこうでっ! 女のあたしでもどきどきしちゃったよ。いやー、いいもの見たねー……」
「そっ、そんなになのかっ!? ご、ごくり……!」
身振り手振りの興奮気味なキッキの話を聞いてミヅキはのどを鳴らした。
言わずもがな、彼女たちの抜群のプロポーションは凄いに決まっている。
それよりも食い気味な勢いで気になったのが──。
「だ、だけど、混浴だって?! 大丈夫だったか?」
「慌てるなよ。空いてたし男は居なかったよ。従業員もいるんだから変なことにはならないって。馬鹿な心配すんなよな」
慌てるミヅキにキッキは呆れた顔で鼻を鳴らした。
風呂の世話をする従業員もメイドの女性だったみたいで、彼女たちの裸体を見たのは他の男ではなかったようだ。
この異世界における風呂事情も中世ファンタジーに忠実で、基本的には男女混浴の共同浴場である。
宿に併設されたパンを焼く設備の蒸気熱を利用し、サウナ状態になった浴室で汗を流すのである。
この入浴は決まって早朝に行われていて、一日の疲れを癒やすためではなく、身支度を整える意味合いで行われていたそうだ。
「ミヅキ様ミヅキ様っ!」
ほどなく入浴を終えたアイアノアが駆け寄ってきた。
「キッキさんとエルトゥリンの三人で、蒸し風呂なるものに入ってきたんですよ! あんなの初めてで、とってもさっぱりしましたっ!」
「そ、そう、良かったね……」
アイアノアは初めての体験にとっても嬉しそう。
爽やかな笑顔で金色の髪をかき上げると、香ばしいパンの香りが漂った。
「うぅ、美味しそうな匂い……。じゅるり……」
そんな香りを嗅がされては否応なしに妄想が捗ってしまう。
またもや地平の加護が妄想の産物を頭の中で見せてくる。
美しすぎるエルフ姉妹の、立派すぎる肢体の鑑賞会である。
以前、透視の権能でアイアノアとエルトゥリンの裸体を覗いたことがある。
なので、ここぞとばかりに高い再現力でそれは展開された。
「ふぁんっ……。エルトゥリン、くすぐったいわ……」
「相変わらず、姉様の肌は綺麗……」
もうもうと漂う白い湯気の向こうから、アイアノアとエルトゥリンの声がする。
二人は木で作られた長椅子に並んで腰掛け、ゆったりくつろいでいた。
エルフ美女が蒸気に身体を晒す様子は、楽園か桃源郷を思わせる。
一糸まとわぬ完成された肉体は、美しいを通り越して幻想的でさえあった。
「姉様の身体、私が隅々まで綺麗にしてあげる」
「あっ、いけないわっ……。恥ずかしい、こんなの誰かに見られたらっ……」
ぴとりと身体を寄せ、顔を間近に近付けた妹は姉の耳にそっと囁いた。
温かく湿った布越しに、エルトゥリンはアイアノアの肢体を丁寧に拭いていく。
大きな胸や艶めかしい脚に指先が触れる度に、アイアノアはぴくんぴくんと身体を震わせていた。
「姉様はおとなしくしてて。全部私に任せて、なすがままになっていて」
「エルトゥリン、人前なのよっ。そんなところまで丁寧に洗ってはだめぇー。そういうのはせめて二人っきりのときにしてえー! ふわぁぁぁんっ……!」
恥ずかしがって抵抗しようにも、アイアノアの力ではエルトゥリンに敵わない。
半ば強引にきわどいところまで洗われ、組み敷かれるみたいに身体を撫で回される様子は官能的な光景であった。
「あぁ、アイアノア、エルトゥリンっ……。二人して何てことを……!」
と、ほかほかのアイアノアを見ながらミヅキが一人盛り上がっていると──。
案の定、後ろからエルトゥリンにげんこつを喰らわされるのであった。
ごつん!
「あ痛ぁっ!」
「……またいやらしいことを想像してるわね。顔を見ればわかるんだから」
「そ、想像するだけでもだめなのかっ……?」
「ダメッ!」
後頭部の痛みにつんのめり、振り向く先からエルトゥリンに一喝された。
風呂上がりの彼女も顔を上気させているが、赤らめている表情は怒っているからに他ならない。
厳しく指摘されたのも本当のことだったので文句は言えなかった。
だから仕方なく、さっきのめくるめく妄想は記憶の彼方に仕舞い込んでおこう。
そう思った。
「ミヅキ様もご一緒できれば良かったのに……。お誘いはしたのですけれど……」
「えっ! そうだったの!?」
ミヅキの卑猥な気持ちを知らず、アイアノアは残念そうにそう言った。
衝撃の申し出があったことはただただ無念でしかない。
「……一応さ、アイ姉さんがミヅキを誘おうって部屋まで行ったんだけど、ミヅキもミルノも寝てて返事無かったし」
不幸な行き違いにショックを受けていると、可哀相に思われたみたいでキッキに慰められてしまう。
せっかく起こしに来てもらったのに、起きられなかった理由は自業自得だった。
昨晩はミルノの手入れに夢中になって夜更かしをしてしまったからだ。
「ミヅキさん、おはようございまーす。……って何でそんなに睨むんですかー?」
そこへヒーリングマッサージで血色つやつやのミルノがやってくるものだから、ミヅキは血眼になった目つきでじろりと睨みつける。
起きられなかったのはミルノに構っていたせいだと言うばかりに。
「ミヅキさん、昨日はあんなに優しかったのに……」
いわれのない非難の眼差しを受け、ミルノはミヅキがまたわからなくなってしまうのであった。
──いや待て待て、何を残念がってるんだ俺は。そもそも、エルトゥリンとキッキが居るんだから一緒に入れる訳ないだろう。みっともないぬか喜びはするもんじゃない。……だけど、仮にお風呂に入るのがアイアノアだけだったなら、俺と入っても構わないってことだったのか……?
「ま、まさかぁ……」
思わず昨晩の恋愛話でミルノが言ったことを思い出してしまう。
アイアノアがもしかしなくても自分に対して気があるのでは、という見解だ。
「ミヅキ様、どうかされましたか? お顔が真っ赤ですよ?」
「わぁ!? あっ、いやいや、何でもないよっ……!」
そんなミヅキに構わず、無邪気な表情で覗き込んでくるアイアノア。
必要以上に近付けられる綺麗な顔には、さしものミヅキもたじたじであった。
──きっとアイアノアのことだ。裸の付き合いをすれば、もっと親密な関係になれて使命を果たしやすくなる、とかそういう打算的な考えをしてただけだろう。うん、そうに違いないっ! 絶対にそうっ……!
アイアノアが傾倒するのは使命の勇者であって、自分個人ではない。
優しくてお淑やかで、男女間の関係に無頓着なだけである。
第一、自分には夕緋が居るのだから他の女の子に目移りしていてはいけない。
ミヅキはそう思い込むことにするのだった。
◇◆◇
ミヅキたちは宿を早々に後にし、預けていた地竜のオウカを引き連れて早速と港へと向かっていた。
王都に来た目的である、魚の仕入れを実行するためである。
「いやあ、漁師の皆さんのおっしゃる通り、王都からトリスの街まで魚を持ち帰れるはずないですよねえ。あはは」
張り付いた笑顔でそう答えるのはミルノだった。
予想通り、魚市場の漁師たちに笑いものになっている最中だ。
理由はもちろん輸送に数日を要する移動で、せっかくの魚が腐って駄目になってしまうからである。
魚介類を仕入れたところで、トリスの街まで品質が持つはずがない。
「なるほどです、だから僕たちみたいな素人の商人にはもったいなくて魚は売れないと……。あれれ? でもそんな対応でいいんですか? 僕たちはギルダー商会の者なんですよ? ほらこれ、証明証とその印です」
満面の笑みを絶やさず、ミルノは赤い封蝋印の押された羊皮紙を差し出した。
それは自分たちがギルダー商会に属する者であることの証明書である。
途端、漁師たちにどよめきが起こる。
が、魚を持ち帰れないのなら、相手が誰であろうと意味が無いと訝しまれた。
その詮索の目が、後ろのオウカと大きな四角い荷車に向けられる。
まさかこれが、魚の冷凍を可能とする未知の魔導器だとは思わない。
と、その前にミルノがすかさず立ちはだかる。
「……おっと、あまり僕たちの事情に首を突っ込まれないほうが身のためですよ。ギルダー商会には例のお二人が在籍しておりますからね。化け猫パメラにゴージィ親分。このお名前くらいは王都の方々でもご存じでしょう?」
ミルノはにこりと笑った。
優しい声なのにやけにドスが利いて聞こえたのは強力な後ろ盾のお陰だ。
今は一線を退いているとは言え、半現役の最高峰の冒険者たちが属している商会の影響力は王都に届くほどであった。
「あたし、その化け猫パメラの実の娘なんだっ! 王都の美味しい魚料理をトリスの街で振る舞ってみたいんだよ! 絶対に駄目にしたりしないから、あたしたちに魚を売って下さい! お願いしますっ!」
パメラの娘だと名乗るキッキの存在に、漁師たちは目をむいて驚いた。
確かに一人娘が居るという話は聞いたことがある。
そんな相手に意地悪をして魚を売らなかったとあっては、後々どんな目に遭わされるかわかったものではない。
「ねえ、おねがぁーい。王都の漁師さんたちに意地悪されてぇ、お魚買えなかったなんて言ったらママに怒られちゃう~。だからぁ、お魚売ってよぉ~」
身体をくねくねさせて、文字通りの猫なで声でおねだりするキッキ。
そんな潤んだ瞳でお願いされては漁師のおじさんたちは堪らない。
あと、意地悪されたなどと怖い母猫に告げ口されても堪らない。
「……どいて、邪魔よ。私が一人で運ぶからいい」
腕っぷしの強いはずの漁師たちからまたどよめきが起こっていた。
魚が詰まった重いはずの大樽を、エルトゥリンが涼しい顔で軽々と担いでいる。
見た目は線の細い女性にしか見えないのに、彼女の怪力には驚くしかなかった。
「たくさんお魚売ってくれてありがとぉっ! きっとトリスの街まで持って帰って美味しく食べるからねー! またねぇーっ!」
とびっきりの営業スマイルを浮かべ、キッキはオウカの背から手を大きく振って魚市場を後にする。
場慣れしたミルノの交渉と、労力を一手に引き受けたエルトゥリンのお陰で、魚の仕入れは問題無く成功するのであった。
ザザァァァ……! ザァァッ……!
潮騒の音が穏やかに続いている。
その頃、ミヅキとアイアノアは海を見ていた。
波が打ち寄せる岸壁から、ひたすらに青い光景に目を奪われている。
「──綺麗ですねぇ。これが海……。私、生まれて初めて見ましたぁ」
「どこの世界でも海はいいもんだなぁ。こうして眺めてると、悩みとか嫌なことを忘れられそうだよ」
広大な海に感嘆するアイアノアと、美しく雄大な自然にため息をつくミヅキ。
「この広くて大きい海の向こうには、さらなる広い世界が広がっているのですね。そう考えると、私はこの胸の高鳴りを抑えられません。わくわくが止まらず、このまま飛び立っていってしまいそうです。あの海鳥たちのように……」
潮の香り漂う大空の風に乗り、海鳥の群れがミャアミャアと飛んでいる。
彼らならこの海の向こうに何があるのか知っているだろうか。
「あ、あのう、ミヅキ様っ……」
アイアノアは意を決して口にしようとする。
ミヅキに背を向けたまま、胸の内に秘めていた願いを打ち明ける。
大きな海を前にして、彼女の気持ちはいつもより素直になっていたのだろう。
「ミヅキ様はおっしゃって下さいましたよね? 使命を終えたら旅に出るのもいい、と。そして、冒険者となって世界中を回るとも……」
あれはパンドラの地下迷宮にて雪男を打倒した後のこと。
フィニスの罪によって、肩身の狭い思いをしていたアイアノアとエルトゥリンへのミヅキからの救済の提案であった。
「いつかきっと、本当に冒険者になって、世界を旅して回りたいです。それはとてもとても素晴らしいことに違いないでしょう……」
使命を果たしても、エルフの里にもう自分たちの居場所はないかもしれない。
それならいっそ外の世界へ旅立ち、この運命から解放される道を進みたい。
「それでっ、そのっ……! ミヅキ様にたってのお願いがございますっ!」
アイアノアは心からの願いを伝えようと、なけなしの勇気を振り絞る。
背後に居るはずのミヅキに向かい、必死の思いで叫ぶように言った。
「使命を果たし、冒険者となった暁にはっ……! ミヅキ様も一緒にっ、私と旅に出て下さいましっ! この先もミヅキ様と共に居たいのですっ! どうかどうか、よろしくお願い致しますっ……!」
真っ赤な顔で振り返りざまに全力で頭を下げる。
そうして、ミヅキが旅に同行してくれるのを一心に願った。
冒険者となってパーティを組み、これからも一緒の時間を過ごしたいと。
まるでそれは、想いの丈を告げる愛の告白のようでもあった。
「……」
ミヅキからの返答は無い。
しばらくの間、アイアノアは頭を下げたまま沈黙に耐えていた。
ただ、あまりにも返事がなさ過ぎて、何なら気配すら感じない。
なので恐る恐る顔を上げてみると──。
「……え、あれ? ミヅキ様……?」
何とそこにはミヅキの姿はなかった。
今のさっきまでそこに居たというのに、煙のように消えてしまっていた。
アイアノアは何がどうなったのかわからず、呆然となっていた。
ほんの少し前。
それは一瞬の内に起きた出来事であった。
海を見ていたアイアノアが、胸の内を話そうとしていたときのことだ。
「ごめんあそばせ!」
「……うわっ、何だ?」
ミヅキは突然と後ろ手をつかまれ、強引に引っ張られてよろめいた。
声のほうに振り向くと、そこには見たことも会ったこともない誰かが居た。
一番に目を引くのは、金色掛かったブラウンの両サイド縦巻きロールの髪型。
真っ赤で豪奢なドレスを着た、キッキよりも幼い印象の10歳程度の少女。
形容するなら、お嬢様としか呼べない人物がミヅキの手を引いている。
「お助け下さいませ! わたくし、追われていますのっ!」
少女は切羽詰まった声で言うと、問答無用でミヅキを連れていこうとした。
いったい何が起こっているのか理解できずに戸惑っていた刹那──。
頭に雷でも落ちたみたいな衝撃が走った。
『──走って! そのお嬢様と一緒に!』
それは大声で叫ぶ雛月の声であった。
頭の中に大鐘が響き渡ったのかと思うほど、大きく強い意志の声である。
──雛月っ!? これかっ、昨日言ってた明確な指示っていうのは……!
地平の加護を介した強制が、身体を勝手に動かしていた。
非力な少女に手を引かれているだけなのに、足が自然と走り出す。
「……ごめんっ、アイアノア! 俺、行ってくる……!」
見る見るうちにアイアノアの背中が遠のいていった。
ミヅキの声が彼女に届いたかどうかは定かではない。
何故なら彼女は、一大決心した告白でそれどころではなかったから。
「君っ、ちょっと待って! どういうことか説明して──」
縦巻きロールのお嬢様に素直に従い、抵抗なく走っていく自分の身体。
但し、このままどこかへ行ってしまう訳にはいかない。
状況の説明を求めて声をあげると、お嬢様は少し振り向いてこちらを見た。
そして、にこりと笑うと大きく息を吸い込み──。
「あーれぇー! わたくしっ、拐かされてしまいますわーっ! お助けぇーっ!」
あらん限りの金切り声で絶叫をあげた。
それこそ、周囲の人々全員が何事かと足を止めるほどに。
「ええっ! な、何だってぇ!?」
驚くミヅキの背後、雑踏の中から殺気だった怒号が聞こえてきた。
居たぞ、あそこだ、逃がすな追えっ、等々。
おそらく自分たちに向けられているであろう叫び声の数々だ。
途端、ミヅキに突き刺さるのは周囲からの非難の目である。
助けを求めて悲鳴をあげる少女が、怪しい男に手を握られている。
実際には、手をつかまれているのはミヅキのほうなのだが。
「さあ、逃げますわよっ! わたくしにお付き合いくださいなっ!」
お嬢様は確信犯的な笑みを浮かべていた。
そうして再び手を引かれ、引きずられるみたいに走り出す。
「……もしかしなくても俺、また厄介事に巻き込まれてるのか……?」
多分、このお嬢様は誰かに追われているのだろう。
そして、自分はまんまと巻き込まれてしまった。
もうこれでは逃げるより他の道は無い。
謎のお嬢様と共に、王都の街での逃避行が始まった。




