第283話 アンは雛月をあんあん言わせる
「そこいい感じだよ、上手上手。ミルノにしたみたいに念入りに頼むね」
「──ん、なんだこれ? さっきの続きか……?」
三月は夢の中で目を覚ました。
するとそこは、雛月との逢瀬の場所、いつもの心象空間である。
布団にうつ伏せに寝そべった雛月の背中を三月がマッサージをしている。
紺のブレザージャケットは脱いでいて、白いブラウスの背を触っている格好だ。
就寝間際までミルノのお手入れをしていた続きそのものであった。
と、雛月は顔だけ動かして三月に振り向くと、ため息交じりに言いだした。
「やれやれまったく、今日も今日とてアイアノアと仲良しこよし。ミルノに言われた通り、三月って本当に罪作りだよ。後でどうなっても知らないからね」
「うぅ、そんなつもりはないんだけどな……。だけど、辛い思いをしてきたアイアノアには良くしてあげたいんだよ。もちろん、エルトゥリンも一緒にだ」
のっけから雛月に呆れられ、これではさっきのミルノとのやり取りそのままだ。
アイアノアとエルトゥリンに同情し、優しくしようと思ったのは本当なのに。
「美味しい魚料理を食べたのだって、王都の観光を楽しんだのだって、二人が少しでも気晴らしになるかなって思ったからなんだ。変な下心は無いつもりさ……」
「ふぅん、まあいいよ。あの二人とは今後とも長い長い付き合いになるだろうからね。勇者ミヅキと末永く仲むつまじくするのでも、それはそれで構わない」
雛月にそれ以上を言及する気はないようだ。
投げやりな感があるが、雛月が何を考えているのかよくわからないのはいつものことである。
「ともあれ、三月の計画が順調に進んでるようで何よりだよ。明日は港の魚市場に行くんだろう?」
「これも使命のための大事な一歩だ。パンドラの地下迷宮に挑むのに、王都へ来たのはちょっと寄り道になったけど、魚の仕入れはちゃんとやらないとな」
三月がそう言うと、雛月は振り向いたままの顔でにやりと笑う。
「寄り道? とんでもないよ、王都へ来たのには意味がある。ただ魚を買いに来ただけじゃないんだよ。……アイアノアが言ってたことを忘れたのかい? 王都には魔が巣くっている、ってね」
三月が何かを言う前に、雛月が視線をテレビにやると勝手に電源が入る。
画面に映ったのは巫女服のアイアノアが語る姿とあの言葉。
『そして、イシュタール王国には古来より魔が取り憑いております。いつの頃からか魔は王国深くに根付き、よからぬ謀を企て、世を刮目しています。ミヅキ様がトリスの街との親交を厚くし、イシュタール王家の中枢に近付けば近付くほど、魔の存在との対立は避けられない運命となって立ちはだかりましょう』
抜き出された記憶を再生し終えるとテレビは消えた。
声を低くして雛月は言う。
「気付いてたかい? 何か怪しげなものにずっと見られていたよ。絡みつくような視線でじっくりねっとりとね」
「本当かっ? 全然気付かなかった……」
雛月に言葉に三月は驚いた。
まさか、未来のアイアノアに教えてもらっていた魔が、すでに干渉してきていたとは思いもしなかった。
いくら地平の加護が凄かろうと三月の感覚は普通の人間と同じである。
相手の洞察が済んでいなければ、索敵も照合も役には立たない。
「取り立てて何かを仕掛けてくるって感じじゃないけど、そのせいでこっちからの洞察も届かない。正体も目的も全くもって不明……。もどかしい限りだよ」
地平の加護を万全に機能させられない現状に雛月も不満そうだ。
但し、洞察未完了の対象についてはわからないが、身近な仲間の変化には反応することができる。
「アイアノアとエルトゥリンは気付いていたみたいだよ。ただ、二人とも放置している感じだったから問題無いのかな、今のところはね」
それを聞いて三月は少し安心した。
頼りになる彼女たちがそう判断しているのなら、一旦は保留で構わない。
傍観を決め込もうとする二人と同様、三月だって願わくば関わり合いになりたくはない。
それこそ少なくとも今のところは。
「うぅむ、誰が見てるのか知らんけど、これ以上問題を増やさないでくれよ……」
「それは同感だ。王国に巣くう魔の存在は頭のすみでいいから覚えておいてくれ。それと今晩三月を呼び出したのには理由があってね。王都に来た理由に関わる大事なことだからよく聞いておいて」
今回、雛月が三月を心象空間に呼び出したのには理由があった。
別にミルノにしていたマッサージが羨ましくて、自分もして欲しいと思ったからではない。
「明日、一度だけぼくが明確に指示を出す。三月はそれに素直に従ってほしい」
それは雛月から三月への直接的な指示だった。
思わせぶりな言い方で、三月に行動するよう働きかけるいつものやり方とは少し違っている。
「いつもは無理やり従わせるのに、前もって言ってくれるなんて珍しいな。んで、どんな指示なんだ?」
「それは指示を聞いてのお楽しみさ。重要な意味があるとだけ言っておくよ」
はぐらかす言い方はいつも通りだ。
三月はため息をつきながら、雛月の背中をさするのを再開する。
「またもったいぶって……。もう俺の行動を縛る理由はないだろうが。心配しなくてもちゃんとパンドラ攻略はやるつもりだって」
「まあまあそう言わずに。それにだよ──」
背中を撫でられ気持ちよさそうに一息つくと、雛月はくすっと笑った。
「三月に言わせれば、ぼくは未来からの使者なんだろう? それなら、先々の展開を知っているぼくの言うことを聞いておくほうが得策なんじゃないかな?」
目を細めてこちらを振り向いている顔はしてやったりの得意顔だ。
雛月も自分と同じでかなり根に持つ性格なのである。
それがわかっているから、三月は諦めたみたいに渋い顔をした。
「……むぅ、さては見破られたのを根に持ってるな? これじゃ、これから雛月の言うことには全部逆らえなくなるじゃないか」
「ふふっ、そういうことだね。大丈夫、悪いようにはしないからさ」
「わかった。雛月のことは信じてるからな」
「ありがとう。きっと三月の信頼に応えてみせるから安心してて」
ため息交じりに笑うと、雛月もにかっと笑って答えた。
この朝陽と同じ姿をしている超常の存在が、たとえ未来からの使者だろうがそうでなかろうが最早それは大した問題ではない。
三月は雛月を信頼し、雛月は三月に応えようしている。
お互いの不思議な関係はこれからも変わらない。
「ところで、せっかくのマッサージなのに何だか触り方がもどかしいなあ。ずっと背中をさすってばかりじゃないか」
変わらないのは性格も行動も同じである。
実は三月のことが好きすぎる雛月は、またしても挑発行為を繰り返す。
「もっと下の太腿とか、前の胸のほうとかも揉みほぐしておくれよ」
マッサージをさせているのにかこつけて、もっと大胆なことを三月に迫る。
うつ伏せだったところ、今度は仰向けにころんと転がった。
さらに、ブラウス前のボタンをぷちぷちはずしていく。
純白のレースのブラジャーをちらつかせると、両手を万歳するみたいに頭の後ろに回して無防備さをアピールする。
「ほらほら、ぼくをよく見て」
おまけに片膝を立てるものだから、プリーツスカートが太腿までずり下がった。
スカートの中の秘密の花園は見えそうで見えない絶妙な状態だ。
ふしだらな肢体をこれでもかと晒され、三月は頭を抱えてため息をついた。
「……雛月、またそんな無防備な格好して俺を誘惑しやがって……。いくら夢の中だからって雛月には手を出さないって何度も言ってるだろう?」
「いやいや、何を言ってるんだい、三月。これはマッサージだよ? 三月が大活躍してた、あの憩いの時間の再現みたいなものだろう?」
辟易する三月の顔を見上げ、雛月は目を細めていやらしそうに笑った。
どうやら懐かしい思い出の中から、三月がしていたとある行為を拾い上げてきたらしい。
「ぼく知ってるよ。三月ってば朝陽によくマッサージしてあげてたよね。朝陽から許してもらってたとはいえ、結構大胆な触り方してたじゃないか。……あんなとことか、こんなとことかをまさぐってさぁ……?」
雛月ははだけたお腹に手で触れたり、太腿の付け根のほうまで、つつっと指でなぞったりして三月に笑いかける。
度々と繰り返される、乱れた制服姿のインモラルな挑発である。
「べ、別に変なことしてた訳じゃないぞ……。朝陽の反応がいいからつい念入りにやってたってだけだ。……まあでも確かに、雛月とこうしてるとあのときのことを思い出すな」
朝陽と同じ姿の雛月をマッサージしているこの状況が、どうにも懐かしい気持ちを思い出させてくれる。
あれは川でおぼれた三月が、朝陽に命を救われた後の高校生時代のこと。
神水流の家にお邪魔して、勉強を見てあげるついでに彼女の部屋でマッサージを行っていたことがあった。
朝陽がねだるものだから、命の恩人の言いなりになっていたのは良い思い出だ。
三月は一瞬遠い目をしてから、軽く息を吐いて笑った。
「しょうがない、それじゃあちょっとだけだぞ。──披露してやろうじゃないか。これは父さん直伝、佐倉家に伝わる按摩術だ!」
これこそミルノを骨抜きにした必殺の癒やし技の正体だ。
三月の妙に慣れた手つきの、異常に上手いマッサージは父、清楽に教えてもらった技術の賜物であった。
三月自身も、剣の鍛錬の後によく身体をほぐしてもらっていたものだ。
「雛月、やるからには覚悟しろよな? 母さんも言ってたぞ。父さんにマッサージされると天にも昇るくらい気持ち良かったってな!」
「えっ? あっ、──キャッ!」
三月は迷いなく雛月へと両手を伸ばした。
まずは脇下リンパ節へのマッサージだ。
お腹からバストの下部分、脇の下部分をさすり、くぼみを持ち上げて押す。
半分からかったつもりだったのに、急にやる気になった三月の両手に触れられ、雛月はびっくりして女の子みたいな黄色い声をあげた。
三月の腕前は把握しているつもりだったのに、実際にされてみるとその技術力の高さには驚愕するしかなかった。
「あぁっ、そこいいっ……。これ、三月の本気のマッサージじゃないか……。確かに清楽父さんに教えてもらったマッサージは極上だったからっ、んっ……。朝陽ったらいつもぐっすり寝ちゃってたんだよねっ。……ひゃんっ」
気持ちよさそうに眠っていた朝陽とは違い、雛月は切なげに身をよじっている。
そんな雛月を相手に、三月は真剣に粛々とマッサージを進めていった。
そこには昔を懐かしむ感慨こそあれ、雑念など欠片もありはしない。
父からの教えを忠実に雛月の身体へと刻み込むのみである。
「はぁ、はぁ……。んっ、んぅぅっ……。気持ちいいっ……」
「こらこら、変な声をたてるな。朝陽はもっと普通にしてたぞ」
「そんなこと言ったって、三月が上手過ぎるんだからしょうがないだろ……」
「これは至って健全な施術です。おかしな反応をされるのは不本意でございます」
赤い顔をした雛月が変な声をあげても三月の手は止まらない。
今度は下腹部、お腹周りのリンパ節のマッサージだ。
おへそを中心にみぞおち、左右の脇腹を温かくなるまで優しくさする。
「そ、そう言えばさぁ、夕緋が羨ましそうにしてたの気付いてたかい? あんっ、朝陽の部屋の前を、うろうろ行ったり来たりしてたよね……」
「そう言われてみれば、確かにちょくちょく夕緋が様子を見に来てたな。うーん、今思えば夕緋にもやってあげれば良かったかなぁ。毎日のお勤めで、きっと疲れが溜まってただろうからさ」
三月は無頓着にそう言うが、夕緋がそわそわしていたのは朝陽にヤキモチを焼いて気が気でなかったからであったのは言うまでもない。
ズレた三月の思いやりには失笑するものの、雛月がそれを語ることはなかった。
「はい、おしまい。もう気は済んだろう、これで充分だ」
「はぁ……。はぁ、はぁ……」
それからややあって。
雛月が上気した顔をだらしなく緩ませるまで続いたマッサージは完了した。
「えぇーっ? まだ物足りないよ! ぼくだって疲れてるんだから、もっと念入りにもみほぐしておくれよ。ぼく相手なら朝陽にしてあげてるみたいなものだろ?」
「そうは言ってもなぁ。やっぱり雛月は朝陽とは違うからなぁ。俺のマッサージを気に入ってくれたのは嬉しいんだけど──、って、何だ?」
まだまだやって欲しいと、雛月におねだりされて三月が困った顔をしていると、服の袖を真っ黒な手がぐいぐいと引っ張っているのに気付いた。
「みっ! みぃっ!」
振り向くと、そこに居たのは真っ黒な少女、アンだ。
たどたどしく声をあげながら何かを訴えている。
そう言えばマッサージを始めた最初から隣でじっと見ていたようだ。
アンの様子はお願いの仕草みたいに見えて、三月はすぐにピンときた。
「あ、そうだ! アンは俺たちのお手伝いをしたいんだったよな! マッサージのやり方は教えてあげるから、今こそその便利な髪の毛触手の出番だぞ! アンも女なんだから、雛月のもっとデリケートなところに触っても問題ないしな!」
「えっ? 対象選択・《アン》・効験付与・《三月の按摩術》──、って、ちょっと待ってよ三月っ……!」
言ったすぐそばから三月は地平の加護の権能使用を念じた。
当然と雛月の口からは復唱が滑り出し、言葉通りの結果がアンに付与される。
「みぃーっ!」
三月の服の袖を握った手を伝い、アンの黒い身体に金色の光が流れ込む。
それは地平の加護発動のエネルギー、黄龍氣であった。
「おおっ、これはっ! アンがまた進化するぞっ!」
何故か嬉しそうに言う三月の前で、漆黒の少女は変化する。
長い髪の毛をざわつかせながら、のっぺらぼうだった顔の部分にかぱっと開いたのは間違いなく口であった。
口とセットで、鼻と思われる突起もにょきっと生えてくる。
口と鼻の位置が決まったおかげで顔の輪郭がはっきりし、どういう顔の形をしているのかがわかるようになった。
残念ながら目は現れなかったので、表情はまだわからないままである。
「みぃぃぃぃぃぃーっ!」
変化を終えた黒の少女は雄叫びをあげた。
身体の大きさはさして変わらなかったが、無数の触手みたいに振り回す髪の毛はより生き生きとうごめくようになっていた。
髪が活発に動くので真っ黒な身体の線もわかりやすくなり、どうやら長物の衣服を着ているのが何となくわかった。
「三月とぼくの黄龍氣を取り込んだんだ。生命力吸収とは厄介な能力を持っているものだね。……もう、三月ったらうかつに力を与えたらだめじゃないか」
「まあそう言うなって、雛月。ほら、アンを見てみろよ。仕事をもらえて嬉しそうにしてるぞ」
上体を起こして険しい顔をする雛月に対し、三月は至ってのんきだ。
確かに、活性化してぴょんぴょん喜んでいるアンの様子は、力を奪って悪巧みをしているようには全く見えない。
本当に三月に仕事を任されて嬉しそうにしているように見えた。
「これでまた一段と人の形に近付いたな。アンの洞察も捗って一石二鳥じゃないか。──よし、それじゃあしっかりと雛月を癒やしてやってくれ」
「あっ、アン、やめろっ! やめろってばっ……! きゃあぁっ!?」
「あーっ! あぁーっ!」
三月の号令の元、起き上がって抵抗しようとする雛月の手足に、幾筋ものアンの髪の毛がしゅるるっと巻き付いた。
雛月の自由を奪って布団に強引に寝かしつけ、まだまだいっぱいある触手で魅惑のマッサージを開始する。
雛月はじたばたと暴れてみるものの、さらなる活性化を遂げたアンの力は増していて、もう簡単には触手の緊縛から逃れられなくなっていた。
「あ、あぁんっ! そんなっ、ぼくの弱いところばっかり攻めないでよぉ……! こ、こんな無理やり気持ち良くさせないでったらぁ……! あんっ!」
具体的にどことは言わないが──。
前の開いたブラウス、捲れ上がったスカート姿の雛月の、あんなところやこんなところを丹念に撫で回すアンの触手たち。
あくまでこれは雛月を癒やすためで、何かしらの嫌がらせや辱めをしている訳ではないので決して誤解をしてはいけない。
それを理解しているから三月も笑顔で愉快そうにしていた。
「もっとしてくれって頼んだのは雛月のほうだろ。それに今日の雛月、何だかほんとの女の子みたいでちょっと可愛いぞ」
「むぐぐっ!? ぼ、ぼくが可愛いだって……?! このぉ、三月もアンもっ! 二人して調子に乗っちゃってぇ……!」
からかい気味に楽しそうにしている三月に、雛月の我慢ももう限界だ。
真っ赤な顔で三月とアンを睨み付けると、ぱちんと身体を光の粒子に変えて仰向けの緊縛状態から脱出した。
「はいっ! もう終わり終わり! 心象空間を閉じるから出てった出てった!」
アパートの部屋の中央に腕組みをした格好で浮かび、ぷんすかと怒りながら雛月はこの心象空間の支配者たる力を発揮していた。
乱れた着衣は元の紺色ブレザーの制服姿に戻っている。
「ああぁー……」
力無く呻くアン。
ミルノを縛ったみたいに、風魔法の縄でがんじがらめにされて転がっていた。
「うわぁー……! 雛月ぃー、悪かったってぇー……!」
三月の悲鳴は遠ざかって消える。
玄関のドアが独りでに開き、三月はその向こう側の異空間へ放り出されていってしまった。
今宵の雛月との逢瀬はこれまで。
ドアの外へ消えていった三月に向かい、雛月はご立腹に言うのであった。
「それじゃあ三月、また頑張ってきてね! ぼくが出す指示、絶対に忘れちゃだめだからねっ! いってらっしゃい!」




