第280話 海の見えるリゾート地
イシュタール王都はトリスの街に比べ、かなり発展した街並みであった。
背の高い建物が隙間無く並び、統一された色合いの壁や屋根が美しい。
道路は完全に石畳で舗装され、土と砂が露出している面が全くない。
ぬかるんだ地面だと地竜のオウカは自重で足を取られてしまうため、王都の整備された道路は進むのに快適であった。
そして、何よりもミヅキたち一行の目を引いたのが──。
「海だーっ! わぁーっ、あたし初めて見たぁーっ!」
見渡すばかりの水平線を一望し、オウカの背のキッキは大声で叫んだ。
港方面へコンテナ車を進めていくと、どこまでも続く青い大海原が視界いっぱいに飛び込んできた。
その沿岸部に店や宿が密集しており、海の見えるリゾート地というのがぴったりな光景である。
「海はどこの世界でも綺麗だなぁ。仕入れの用事さえ無かったら、みんなで泳いで遊んでいきたいところだけどな」
潮の香りを吸い込みながらミヅキが言うと、隣のミルノが何故か苦笑いした。
「あはは……。海で泳ぐなんてご冗談を、ミヅキさん。そんな変わったことをしていたら、また王国のお役人さんたちに目を付けられてしまいますよ」
「えっ?! 海で泳ぐのが変わってるって? そりゃまたどういうことだ?」
目を丸くして驚くミヅキに、ミルノは異世界の海の事情を説明してくれた。
まず第一に、海イコールレジャーではない。
海は行楽に来る場所ではない、というのが一般的な概念であった。
古くから海水浴は医療目的で行われることがもっぱらであるという。
潮浴み、潮湯治、皮膚の洗浄、新陳代謝の促進等の原始的医療方法である。
それ以前に、そもそも「水着」なる便利な衣服が存在しない。
さらに海は魔物の巣窟というファンタジー的な危険要素があるため、遊ぶ目的には到底向かないのである。
「うぅ、せっかくの海なのに異世界はなんて世知辛いんだ……。海と言えば楽しいイベントがいっぱいあるってのに……」
落胆するミヅキはせめてもと、あったかもしれないひとときに思いをはせる。
なのでそれらはあくまで願望で、地平の加護が頭の中だけでかき立てる儚い妄想なのであった。
砂浜にさんさんと降り注ぐ眩しい太陽の光。
子供らしいワンピースの水着姿のキッキが波打ち際ではしゃいでいた。
寄せては引いていく穏やかな波にぴょんぴょん跳ねている。
「きゃーっ、冷たいなぁっ! 足の裏の砂が無くなってく感じが面白ーいっ!」
「キッキー、あんまり耳の中に水が入らないようにしなさいねーっ」
それを見守るのは、ビーチパラソル下でアウトドアチェアに背を預けるパメラ。
こちらは落ち着いた感じのハイネックビキニ姿で、やたらと黒のサングラスが似合っている。
「パメラさん、冷たいトロピカルジュースをどうぞ」
「あら、気がきくわね。ありがとう、ミルノ」
爽やかな青いジュースのグラスを差し出すミルノは南国風のシャツ姿。
きっと海の家などで焼きそばを焼いたり、かき氷をつくっているに違いない。
「……ぷはぁっ! 漁の成果は上々ねっ!」
海の沖のほうで、波間からエルトゥリンが勢いよく顔を出した。
日の光に突き掲げた銛の先端には、大きな魚が串刺しになっている。
「海は宝の山だわ! こんなにもたくさんの美味しいものがあるッ!」
泳いで遊ばず、全身ウェットスーツに身を包むエルトゥリンは銛突きに夢中だ。
狩りが得意な彼女にとって、海はさながら獲物の宝庫である。
「ミヅキ様、オイルを塗って頂いてもよろしいでしょうか? ……他ならぬミヅキ様に塗って頂きたいのです……。──ぽっ」
「あ、う、うん……。俺で良ければ、塗らせて頂き、ます……」
で、ミヅキとアイアノアは何をしているのかというと、日焼け止めのサンオイルを塗ってあげている最中であった。
アイアノアは大胆な三角レースのホワイトビキニを身に付け、砂浜に敷いたレジャーシートにうつ伏せに寝そべっている。
ブラホックを外した真っ白な背中が太陽に負けないくらい眩しい。
「ふぁんっ……。塗り方がお優しくてくすぐったいです……。もっと大胆に触って頂いても大丈夫ですよっ? ミヅキ様の手の温もりが心地良いですっ」
ぎこちない手つきで満遍なくオイルを広げていくと、アイアノアはこそばゆそうにもぞもぞと肢体を揺らす。
「ミヅキ様……。そろそろ、前のほうも……」
「わぁっ! ア、アイアノアっ、さすがに前はっ……!」
切ない顔をして物足りなさげなアイアノアは無造作に起き上がると、大きな胸を手で隠しながら仰向けに寝転んだ。
ミヅキは目を閉じて顔を背けるが、このままではオイルを塗ってあげられないので、仕方ないと言い訳しながら薄目を開ける。
「いいっ!? ──夕緋っ!?」
でれでれと目を開けると、そこには腕組みをして寝転がる夕緋の怖い顔がミヅキを見上げていた。
腕組みをした両手で丁度胸が隠れているものの、アイアノアと同じくほぼ全裸なビキニ姿の夕緋にきつく詰め寄られる。
アイアノアの姿はどこにも無く、レジャーの雰囲気は一気に修羅場と変わった。
「三月、これはいったいどういうことかしら……? こんな異世界くんだりにまで来て他の女の子にデレデレしてるなんて……!」
「ゆ、夕緋っ、これは違うんだ! そもそもこれは俺の妄想の産物で……」
「問答無用よッ! そんなに触りたいなら私に触ればいいじゃないっ! 何よっ、三月の意気地無しッ! いいからもっと私に積極的になりなさぁーいっ!」
「ひいぃっ! ごめんっ、積極的になれるように努力するからっ……!」
白昼夢から強制的に現実に引き戻された。
そこはもちろんコンテナ車の座席で、ミヅキは顔を背けてのけぞり、後部座席に振り向いた格好になっている。
「えっ、ミヅキ様……?」
「あ……。アイアノア……?」
すると、後ろに座っていた妄想ではないアイアノアと真っ直ぐ目が合った。
エルフの長耳を隠した本物の彼女である。
地平の加護を介した妄想で盛り上がっていたミヅキと、検問所での出来事が頭から離れずに悶々としていたアイアノア。
そうして見つめ合ったものだから、当然と発生してしまう神交法なのであった。
二人の瞳に円環の光が浮かび上がりかける。
「あっ、だめぇっ! 嫌ですもうっ、これ以上積極的に神交法をなさらないで下さいましぃっ……。また私、おかしくなってしまいますからぁっ……!」
「あぁっ!? い、今の無しっ! ごめんよ、何でもないんだっ!」
真っ赤な顔を両手で覆ったアイアノアにかぶりを振られ、機嫌悪そうなエルトゥリンに睨まれる。
ミヅキに妄想を捗らせて腹を抱えて笑う雛月の顔が脳裏に浮かんだ。
──くそう、雛月めぇ。いいところでいきなり夕緋を登場させやがって……。地平の加護で夕緋のリアルな怖さまで再現せんでもいいってのっ!
「……あーっ、そろそろお腹空いてきたなぁーっ! みんなそろそろお昼にしようじゃないかっ! ミルノっ、この辺りに良い店ないかなっ?」
心の中で毒づきつつ、慌てて隣のミルノに話を投げた。
ミヅキたちのやり取りにいい加減慣れてきたようで、好青年の彼は爽やかな笑顔のまま答える。
「ええ、ありますよ。今向かっている宿場の近くに、魚料理を出す観光客に人気のレストランが。ちょっと高価ですけど、そこにしますか?」
「よしっ、そこにしよう! お金なら俺が払うから心配いらないぞっ!」
早口でまくし立てるミヅキだったが、もう時刻は午後になっており、昼食を摂るには少々遅い時間になっていた。
海が眺められる高級そうな宿屋を見つけ、オウカとコンテナ車を預ける。
さすがは王都の観光地ということもあり、宿の外観は立派なものだった。
「申し訳ありません、僕までご馳走してもらうなんて……」
「王都ツアーに付き合ってもらったお礼だよ。皆でぱーっといこうじゃないか」
宿に隣接した海沿いのレストランに入ったミヅキたちはテーブルを囲む。
確かにミルノの言った通り、裕福な観光客でなければ入れなさそうな店である。
恐縮するミルノは奢ってもらえると思っていなかったようであるが、やはりこの異世界の金銭に頓着が無いミヅキにとって、そのくらいどうってことはなかった。
「だけどまあ、みんなにはちょっと協力してほしいことがあってさ」
『対象選択・《テーブルを囲む全員》・効験付与・《勇者ミヅキとの感覚共有》』
言うが早いか、ミヅキは地平の加護を発動させていた。
必要な魔力は乱用した神交法で満足すぎるほど充填されている。
「王都の魚料理がどのくらい美味しいのか知っておきたいんだ。パメラさんに味を伝えたい。普通に食べてくれていいから、しっかりと味わっておいてくれ」
薄い緑色の光がミヅキの顔とミスリルコートにさっと浮かんだ。
トリスの街で魚料理をパメラにつくってもらうためにも、ミヅキ自身が正確に味を知っておく必要があった。
料理の達人の彼女には不要な心配かもしれなかったが一応の準備である。
「よーし、そういうことならしっかり協力させてもらうよっ! じゃあ、あたしはこれにするー!」
元気よく一番手でキッキが料理を注文する。
中世ファンタジーを背景にしている異世界なので、さすがに現実の世界ほど料理の種類を選べる訳ではないが、豊富な魚の種類と調理法くらいは指定が可能だ。
「んんーっ! ママの料理も美味しいけど、海の魚の料理も美味しいなぁ!」
テーブルに並んだ料理を食べて、生まれて初めての海の魚の味にキッキはほっぺをとろけさせていた。
どう見てもマグロの大きな切り身を塩コショウで焼き、オリーブの近似種と思われる食用油と果実酢を絡めて食すステーキである。
「海の鮮魚はたまに王都へ来たときくらいにしか食べられませんからね。いやあ、このためだけでもミヅキさんに付いてきた甲斐があるというものです」
熱い魚の身をほくほくと頬張り、ミルノも満面の笑顔になっていた。
彼が食べているのはトマトソースがたっぷりと掛かった白身魚のソテーで、ミヅキも違う種類の魚の同じ料理を頼んでいた。
──うん、美味い。ミルノは料理人だから当然として、キッキはパメラさんの料理を日頃食べてるから、舌が肥えてるおかげで正確に味が伝わってくるな。
魚料理に舌鼓を打つキッキとミルノを見てミヅキは満足げに頷いた。
地平の加護が二人の感じる美味しさと充足感を余すことなく伝えてきていて、その精度は普段から感じている味覚によるところが大きい。
さすがは料理に携わる職業のキッキとミルノと言えるだろう。
「それに比べて……」
ミヅキは苦笑いをしながら、エルトゥリンのほうに視線をやった。
彼女は蛮族エルフよろしく、食いでのある大きな魚の塩焼きを雑にナイフで切り裂き、あんぐり開けた口に次々と放り込んでいる。
黙っていればクールな美人なのに、そんな粗野なマナーのせいで台無しである。
「エルトゥリン、もうちょっと味わって食べられないもんかね……? なんかすごく大味に伝わってくるなぁ」
「うるさいわね、ちゃんと味わって食べてるわよ」
しかも、伝わってくる味が何だか曖昧でぼんやりして感じる。
ミヅキの小言にエルトゥリンはまた不機嫌そうに答えると、構わずに食事を続行させるのであった。
貧乏舌というか安舌というか、何を食べても美味しく感じる大雑把な味覚はいかにも彼女らしい気がした。
──んん? でも、アイアノアから伝わってくる味が一番よくわからないぞ……。いったい何を食べてるんだ?
エルトゥリンはともかく、アイアノアから伝わってくる味覚はさらにおかしい。
上品な彼女なら繊細な舌を持っていそうな感じがしたが、正直言って何を食べているのかさえわからないレベルであった。
見れば、緊張した面持ちでシャケのような赤身のムニエルと向き合っている。
少し口に運んでは、ハァ、と切なげなため息をついていた。
「アイアノア、どうしたの? 具合悪いのか?」
「あっ、すみません、ミヅキ様……。あのうそのう……。私もう、胸がいっぱいになってしまっていて……」
声を掛けるとアイアノアは、はっとした様子で思わず食事の手を止めた。
その顔は気のせいではなく、火照った赤い色をしている。
「なんか顔が赤いな。熱でもあるのか?」
「あ……」
ミヅキも手のナイフを置くと、手を伸ばしてアイアノアの額に触れた。
触った感じ、顔の赤さとは裏腹にそんなに熱くもない気がする。
ただ、ミヅキに触れられた瞬間、アイアノアはぼんやりと表情を失う。
「はぁぁ……」
検問所でミヅキに庇ってもらった件が未だ頭から離れず、すっかり照れてしまって食事どころではないなんて恥ずかしくて言えやしない。
そのせいで自分でも味がわからず、ミヅキにちゃんと味覚が伝わっていなかったのである。
──ミヅキ様、ミヅキ様ぁ……。また私の身を案じて下さっている……。そんなに優しくされたら私また……。あぁ、もう我慢できない……。
額に当てられたミヅキの手から、体交法を伴った思いが流れ込んでくる。
それは純粋にアイアノアを気遣う心配であった。
気持ちがとろけている今は尚更心に染みる。
「直接触れて、お確かめ下さいまし……」
こんなにも心底まで優しさを感じさせられてはたまらない。
アイアノアは思わず大胆な行動に出てしまっていた。
額のミヅキの手をそっと取って席を立ち、至近距離まで顔を近付ける。
アイアノアはそのまま、ぴとり、とミヅキとおでこ同士をくっつけた。
「ア、アイアノアっ……?」
「どう、ですか……? 私の顔、あついですか……?」
驚くミヅキに構わず、頬を赤く染めたアイアノアは問い掛けた。
目の前にある彼女の目はとろんとしていて、うっとりと無我夢中になっている。
「ちょッ……! 姉様、またっ!」
人目を気にせず、またもいちゃいちゃし始めた二人にエルトゥリンは穏やかではいられない。
キャッと顔を伏せるキッキと呆然と見つめるミルノをよそに、ミヅキとアイアノアの仲睦まじい様子は継続中だ。
「う、うーん……。顔は赤いけど、熱は無いかな……」
「そう、ですか……。それは、何よりです……」
熱い吐息をまともに受けながら、ミヅキはおでこから伝わってくるアイアノアの健康状態を洞察していた。
地平の加護が言うには、熱は無く体調は悪くない。
ただ、我を忘れた興奮状態に陥っていて、このままではこれ以上の体交法を求めてきそうな勢いである。
「……ハァ、ハァ……。ミヅキ様……」
眼前の上気したアイアノアは熱い吐息を漏らしていた。
検問に引っ掛かるほど、相変わらずの美貌の持ち主である。
魅惑の唇からは美味しそうな料理の匂いがしていて、このままキスをすればどんな味かわからなかったのがわかるかもしれない。
などと、ドキドキしながら思っていると。
「あっ! アイアノア、耳がっ……!」
ミヅキはアイアノアの変化に声をあげた。
彼女の側頭部の両側、金髪の隙間から尖ったものがにょきにょき伸びてくる。
それは隠していたエルフの長耳であった。
「……え、はっ?! ああっ、私ったらまたっ!」
これにはさすがのアイアノアも我に返り、ミヅキから身体を離すと自分の耳を手で覆った。
次に手を離すと、エルフの耳は人間の耳に戻っていて周りにばれた様子は無い。
気持ちが昂ぶりすぎて、変容の魔法が解けてしまったようである。
「体調は平気そう? 熱は無いみたいだから、また魔力に浮かされちゃったかな」
「はいっ、問題ありません。ミヅキ様に触れたおかげで、正常に魔力が巡るようになってきました。余分な魔力がそちら側に流れたかと思います」
「ああ、ほんとだ。おでこ同士くっつけたのが体交法になったみたいだ」
「ご心配をお掛けして申し訳ありませんっ。せっかくの豪華なお食事、これでちゃんと楽しめます。……もっと魔力を制御できるように精進致しますね、ミヅキ様のためにも……」
ぽっと顔を赤らめ、笑顔に戻ったアイアノアはどうやらもう大丈夫そう。
一方的に高まった魔力は、お互いに分かち合ってバランスが取れたようである。
エルフの耳を隠し直し、落ち着いたアイアノアからは、正常に美味な料理の情報が伝わってくるようになった。
「うふふっ、美味しいっ。これならいくらでも食べられちゃう」
──ふぁぁ、心が満たされる……。ミヅキ様との食事ならなんだって美味しく感じる気がするわ。私、何だかとっても幸せな気分っ。
そうして、落ち着いたアイアノアはニコニコご機嫌に、お腹いっぱいになるまで魚料理を満喫するのであった。
それこそ二品目三品目と、意外に食いしん坊なキャラを発揮しながら。
「……うっぷ、皆の分を食べた訳でもないのに腹がいっぱいすぎる……」
案の定、ミヅキは胸焼けを起こしていた。
味覚のみならず満腹感まで共有してしまい、アイアノアの分に加えて、大食いのエルトゥリンの分と、対抗するみたいにいっぱい食べたキッキの分まで合わさり、ミヅキのお腹は張り裂ける寸前であったのは言うまでもなかった。




