第275話 イシュタール王都へ1
「エルトゥリーン、あんまり遠くへ行っちゃ駄目よー!」
晴れやかなる日の下、口許に手を添えたアイアノアの声があがった。
見渡す限りの広大な平原をさわやかな風が吹き抜ける。
その風を切り、桜色の地竜オウカが引くコンテナ車から離れ、愛用のハルバードを肩に担いだエルトゥリンは駆けていった。
ザッザッと力強く生い茂る草を踏みしめ、すぐ彼方へと消えて見えなくなった。
「エル姉さーんっ! 気をつけて行ってらっしゃーいっ!」
鞍を取り付けたオウカの大きな背中で、片手で手綱を握ったキッキが、もう片方の手を目いっぱい振って見送っていた。
これが初めての遠出となるが、オウカを駆るキッキの姿は立派な御者であった。
「狩りの成果、楽しみにしてるわねーっ!」
見えなくなったエルトゥリンの背に、アイアノアももう一度声を掛けた。
もう聞こえていないだろうが、もしかしたら聞こえているかもしれないと思わせる非常識さがエルトゥリンにはあるのであった。
ミヅキたちは今朝にトリスの街を発ち、イシュタール王都へと向かっていた。
時間は正午に近いのが太陽の位置でわかる。
悠々としたスピードで、オウカはコンテナ車を引いて進んでいた。
「もう見えなくなっちまった。あのまま迷子にならなきゃいいけど……」
「ミヅキ様、平気ですとも。エルトゥリンはちゃんと戻ってこられますよ」
前列の座席に着いているミヅキは、エルトゥリンを見送って言った。
すると、後部座席に座り直したアイアノアは笑顔で答えた。
トリスの街から南西に向かい、王都までの大平原に出て間もなくのこと。
出発早々、エルトゥリンは獲物を求めて狩りに出かけていった。
連絡手段も無いのに、あんなに距離を離れてしまってはもう戻ってこれないのではと不安もあった。
しかし、飛び出していく前、確かに彼女は言っていた。
「平気、ちゃんと戻ってこれる。オウカの気配を辿るから心配いらない。竜の気配は強くて大きいの。強さに自覚がある生き物の存在感は遠くからでもよくわかる」
さすがは森の蛮族、もとい狩人に抜かりはない。
どんなに離れようとも、必ず獲物をとって元の場所へと帰ってくる。
パンドラの地下迷宮への初進入時、レッドドラゴンの危険な気配を察してミヅキの元へ急行してきたのは伊達ではない。
「──それに。匂いでわかるから」
もう一言、エルトゥリンはそう言葉を残していた。
多分、匂いとはオウカのものではない。
気のせいではなく、間違いなくアイアノアのほうを見ていたから。
──匂いって、絶対アイアノアのだよな……。良い匂いがしそうだけど、そんなにわかるもんなのかな? どれどれ……。
「どうかされましたか、ミヅキ様? そのようにお鼻をひくひくされて」
「ああいやっ、何でもないよっ。はははっ……」
ミヅキは後部座席のアイアノアを振り返り、鼻でよく息を吸い込んでみた。
涼しげな風の匂いしか感じない。
不審に鼻をひくつかせていたものだから、アイアノアはきょとんとした顔でミヅキを見つめ返している。
笑って誤魔化しつつ、大好きな姉の匂いをたどれるのはあの妹の特異な習性に違いないとミヅキは思った。
「噂には聞いておりましたけど。豪快な御方ですね、エルトゥリンさんは」
「エルトゥリンは特別だよ。あれをエルフの普通とは思わないほうがいいぞ」
前部座席隣のミルノも、エルトゥリンの走り去った方向をまだ見ていた。
ミヅキは規格外が過ぎる彼女の奔放さに苦笑するしかない。
「今日の食事はエルトゥリンに任せとけば心配ない。それよりもミルノ、王都って遠いの? どれくらい掛かるんだ?」
「そうですね。この速さの感じだと、3日目の昼くらいには到着できそうです」
ミヅキの問いに、ミルノは前方のオウカを見ながら言った。
オウカの進む速度は馬と同じくらいで、時速15キロメートル程度である。
それで2日半掛かるとなると、王都までの距離は300キロメートル以上はあるということになる。
「かなり遠いんだなぁ。ってことは、今夜はどこかで休まないといけないのか……。途中で寄れる町とか村ってある?」
1日掛けても到着しないとなると、行けるところまで行って、どこかで宿を取るなりして夜を越さなければならない。
ミヅキが当然の質問をしたところ、ミルノは困り顔でそれに答える。
「いえ、言いにくいのですけど……。今となっては、トリスの街とイシュタール王都の間には、人が住んでいる集落は一つもありません」
「えぇっ!? 一つも無いって……。何だってそんなことになってるんだ……?」
予想もしない返答にミヅキは声をあげて驚いた。
そんなに遠いのなら、途中で休憩できる拠点の一つや二つがあってもおかしくないだろうに、まさかのゼロであったとは予想もしていなかった。
「10年前のパンドラの異変のせいですよ。パンドラの地下迷宮が大勢訪れる冒険者の方たちで賑わっていた頃は、王都へ財宝などの戦利品を持ち込んだり、トリスの街へ食料や資材を運んだりする往来がとにかく盛んでした。ですので、中継する場所に町や村がそこかしこにあったのですが……」
「パンドラに挑む人たちがいなくなったから、途中の拠点も無くなっちまったのか……。それで街道もさびれちゃって、荒れてる感じなんだな……」
言いにくそうにしている続きをミヅキが言うと、仰る通りです、とミルノは苦笑交じりに答えた。
そうなると今晩をどうするのか答えは一つだけだ。
「やれやれ、それじゃあ野宿するしかない訳か……。」
「はい、そうなりますね。どこか適当な場所で野営するしかありません。王都まではずっと平原ばかりですから、どこで休んでも同じですけどね……」
盛大なため息をついて言うと、ミルノは力無く笑みを浮かべるのであった。
「ミヅキ様、ご心配には及びません。野営の支度は私とエルトゥリンにお任せ下さいまし。エルフは森の民ですから、外での寝泊まりはお手の物ですともっ」
「アイアノアとエルトゥリンが頼りだよ。……だけど、毎度野宿しないといけないなんて不便過ぎるなぁ」
後ろからにゅっと顔を出してきたアイアノアが、得意そうに鼻息を荒くする。
食料の調達は狩人のエルトゥリンに任せておけば心配ないだろう。
いつかパンドラの地下迷宮でキャンプしたときのことを思い出して、ミヅキは少し安堵するのだった。
それはさておき、不便なものは不便である。
「ミルノ、パンドラの異変から10年経ってる訳だけどさ。それからはトリスの街と王都の真ん中くらいに街を作る話とか持ち上がってないの?」
「うーん、人里から離れると魔物が出ますから難しいですねぇ……。わかりやすい拠点が出来ると、野盗の格好の的になる恐れもありますし……。やっぱり、人の往来がほとんど無くなってしまったのが痛いところですね」
ミヅキは問うが、ミルノは渋い顔をして首を横に振った。
人の行き来が無ければ、合間の集落は廃れて次第に消えてしまうものだ。
野盗だけでも問題なのに、魔物まで出現する物騒さには閉口せざるを得ない。
「同じ国だってのに、これじゃ王都もトリスの街も孤立してるのと同じだな。いくら辺境領でも、これだけ交通が不便だと付き合いなんてあったもんじゃない。商売するにしても、需要と供給以前の問題だ……」
ミヅキは右に左に見回してみるが、視界に広がるのはどこまでも続く平原。
草が生えていない地面の筋が、かろうじて街道の体裁を保っているのみである。
あまりに何もなさ過ぎてため息しか出なかった。
つくづくトリスの街の繁栄は、パンドラの地下迷宮によるところが大きかったのだと思い知るのであった。
「トリスの街の経済のためにも、パンドラの地下迷宮を正常化させないといけない。俺の使命があってもなくても、これは死活問題だぞ。せっかくダンジョンから値打ち物を持ち帰っても、外と取引できないならすぐに価値が下がってしまう」
「……恐れ入ります、ミヅキさん。もうそこまでお見通しとは……。はい、それがまさに、いま僕たちが直面している危機の一つです」
ミヅキの見解に感服したとばかりに、ミルノは息を漏らした。
いくら大きな街とはいえ、トリスの街だけで需要と供給のバランスを保つのには限界がある。
一番の得意先である、王都との取引が滞っている現状は由々しき事態であった。
「それなら尚更、王都との交易ルートは整備すべきだよ。トリスの街と王都の商売が賑わうようになれば、人やお金が集まって新しい街が出来ていくもんだろう? そんな儲け話があるってのに、多少危険だろうと中間拠点作りを見過ごしてるなんてギルダーは何をやってるんだ?」
素人に毛が生えた程度のミヅキでさえ思いつくアイデアなのに、本家商人のギルダーがこんな簡単なことをやらない理由がない。
強引な手法を取ってでも、目に見える利益に飛びつきそうなものではあるが。
「あははは……。ギルダーの旦那、やっぱりそんな風に思われてるんだ……。あの見た目と性格じゃあ無理もないか……」
しかし、その理由は参った風に肩をすくめるミルノから語られる。
「どうやらミヅキさんは誤解しているようです。ギルダーの旦那は、とにかく人材を大事にされる方です。危険を伴う拠点作りには絶対に反対をするでしょう」
穏やかな表情で、感情は荒げないものの。
ミルノははっきりとした言葉で、自分の主人の意思を代弁した。
そして、それを裏付ける身の上話を始めるのだった。
「自分語りで恐縮なんですが、僕は獣人と人間の間に生まれた子供なんです。父親の顔は知りません。母親は早くに病気で亡くしました。いわゆる孤児だったものですから、それはもう苦労をしてきました」
そう話すミルノの顔は笑顔だったが、前を見ている目はどこか遠い。
いつかの夜にキッキに聞いた話の通り、人間による性に対するだらしなさが生んだ不幸な子供の一人がミルノだったのは想像に易い。
キッキのように、望まれて生まれてくるハーフの子供は稀なのである。
「ギルダーの旦那に保護してもらって、パメラさんの宿に連れられて。ご馳走してもらった温かいスープの味は一生忘れられません……」
行く当ては無く、明日の見えないぼろぼろの自分を思い出す。
路地裏で膝を抱えていると、毛むくじゃらの大きな手が差し伸べられた。
そして、救いの道へと引き上げてくれた。
恐る恐る付いていった先で、心に染み入るご馳走を食べ、閉じかけていた人生の扉が再びと開かれたのだ。
ミルノにとって、ギルダーとパメラは育ての親そのものだったのだろう。
「ウチの店には僕と同じような境遇の子がたくさんいます。ギルダーの旦那は、そういう事情の身寄りが無くなった子供たちを引き取って、住む場所と仕事を与えてくれてるんです。ほんと、恩人ですよ」
ミルノの顔は終始笑顔だった。
心から感謝をするまごころがにじみ出ている。
そんなミルノを見ていると、キッキと話したことが思い出さされた。
『まさか、そんな子供たちを捕まえて、奴隷みたいにタダ働きさせてるのか?』
『そ、そんな訳ないよっ。休みの日は自由だし、働いたら給料もらうのは当たり前だろ。奴隷みたいにタダ働きとか、いくら何でもそれは悪い奴過ぎるだろっ』
──やっぱり俺の誤解だったんだな。ギルダーは気の毒な子供たちを助けて、社会に出られるよう支援をしてる美徳の経営者だったんだ。
自分の認識が誤っていたとミヅキが頭をかいて自嘲する。
その間もミルノの話は続いていた。
「これはキッキちゃんがパンドラに入ってしまって、ドラゴンに遭遇した日のことなんですけど──」
ミルノが語るのは、ミヅキがこの迷宮の異世界に初転移してきた日のこと。
今は懐かしくさえ感じるあの日のことだ。
パメラの借金を返すと啖呵を切り、引き下がっていったギルダーのその後。
彼は自分の店の、金獅子の館に帰っていた。
「良かった……。それじゃ、何事も無くキッキちゃんは無事だったんですね」
「ああ、怪我一つしてなかったよ。今日も元気いっぱいだったぜ、ガハハ!」
パンドラに入ってしまったキッキがレッドドラゴンに襲われた。
しかし、ミヅキたちの活躍で事なきを得たという。
はらはらして帰りを待っていたミルノはほっとし、ギルダーは豪快に笑った。
「あ、そう言えば、今日こそパメラさんにプロポーズして、商売を一緒にやろうって説得をするんでしたよねっ? そっちはどうなったんですか?」
「ああ、それなんだけどよ。ちょっと妙なことになっちまってなぁ……」
キッキが無事だったのはいいとして、あの日のギルダーはパメラに求婚を申し込もうと一大決心をしていたそうだ。
ただ、その話はおかしな展開を見せることになった。
「えっ? 勇者さんと噂のエルフさんたちが居て、その方々が代わりにパメラさんの借金を返す……?」
思ってもみなかった成り行きに、ミルノは目を丸くした。
加えて呆れてしまったのは、ギルダーの口説き文句のひどさである。
せっかくの善意の申し出だったのに台無し感がこの上もない。
『おぉ、パメラァ。今日も一段とキレイだぜ』
『返せる当てのねえ借金なんざもう忘れちまえ。だからもう、無理に商売を続けるのはやめて、俺と一緒になってくれよ。助けてやるって言ってんだ』
絡み方からして、堂に入った悪役ぶりにさすがのミルノも憤慨だ。
「というか、言い方! それじゃどう見たって悪者はギルダーの旦那のほうじゃないですか! きっとその勇者さんにも誤解されましたよ!」
「うぐっ、そ、そうか……? まぁ、とりあえずキッキが無事なんで良かったよ。これ以上、パメラの悲しむ顔は見たくねえからな」
ミルノに怒られ、大きな身体を揺らしてたじろぐギルダーだったが──。
何事もなくキッキが帰ってこられたことを緩んだ表情で喜んでいた。
すべては、大好きなパメラがこれ以上涙を流さないために、である。
ミルノの思い掛けない暴露話に、ミヅキは目を丸くしていた。
「へぇー、ギルダーがそんなことを……。それなら危険な事業には手を出さないのも納得だなぁ」
「お優しいのですね、ギルダー様は。そうとは知らず、数々の失礼な言葉を口にしてしまいました。今度会ったらお詫び致します」
ミヅキと一緒に聞いていたアイアノアも笑顔でそう言った。
借金を返す話になったのも、元はといえばアイアノアが発端であるのだから。
『借金のカタにお店を乗っ取り、あまつさえ美人の親娘を我が物としようとする絵に描いたような悪漢。到底、見過ごすことはできませぇん!』
半ば酔った勢いで、ギルダーの前に立ちはだかった彼女の勇姿はある意味で忘れられない。
地平の加護が思い出させるものだから、ミヅキは失笑するのを我慢できず吹き出してしまっていた。
「……だからなんだって言うんだよ、もう」
と、ミヅキたち三人に背を向け、オウカの上のキッキは口を尖らせていた。
今のミルノの話が聞こえていないはずはない。
ギルダーが自分を心配していたという事実に複雑な思いを抱いている。
ただ、イカ耳を立てた小さな背姿は、後ろのミヅキたちの話には決して混ざろうとはしなかった。
「──ですからそんなこんなで、誰かにもしものことがあるかもしれない拠点作りの話に、ウチの商会は噛まないって訳です」
と、そこまで言ったところでミルノは意味ありげににこっと笑った。
「ああいけないいけない。今のは内緒の話だったのに、僕としたことがうっかり口をすべらせてしゃべっちゃいました。旦那からは口止めされてる話なんで、どうか秘密にしておいて下さいね」
恩人のギルダーを擁護したくて、内緒のはずの話をぽろりとこぼす。
この羊の獣人、好青年に見えてなかなかにくせ者である。
朗らかに笑うそんな様子をミヅキは快く思い、ギルダーという人物のことを思い浮かべる。
──素直じゃないなぁ、ギルダーは。ミルノの言う通り、最初は何も疑わずに悪役のライオン獣人だって思ってたからな。本気でパメラさんを助けたくて、本心からキッキのことを心配してて。それなのにうまく態度に出せないなんて、絵に描いたみたいな不器用さじゃないか。
「……何か力になってあげたいな。アイアノアが仲良くするように言ってきただけはあるよ……」
そう呟き、ミヅキは後ろの席のアイアノアを振り向いた。
未来の使者とされる巫女服のアイアノア。
ギルダーとの絆を育むことが、トリスの街を救う希望となると教えてくれた。
但し、目の前の彼女はそんなことはつゆとも知らない。
ミヅキの顔を見て、にこりと微笑むばかりであった。




