第274話 アン、レベル2
■パンドラの地下迷宮で待つ者
「さてさて、それはそうとだ。キッキとのやり取りにはぼくもじんと来ちゃったよ。三月のまごころが伝わって良かったね。百点満点の対応だった」
「パンドラの異変のせいで、キッキは子供らしく生きられなかったんだ。まだ小さいのに立派だよ。だからそこは茶化すなよ」
テレビ画面には、三月に抱き付いてわんわん涙するキッキが映っていた。
似ている境遇の猫の少女には共感し、同情する部分も多い。
拾ってもらった恩返しだからではなく、関わっていく内に本気で助けてあげたいと思うようになっていったのである。
「もちろんだよ。人助けに大事も小事も無いよね。キッキとパメラさんのことも、朝陽と神巫女町のことも、同じくらい大切なことだよね」
「キッキに言われて我ながらうかつだと思ったよ。借金返済に始まり、ミスリルも竜も決して安いもんじゃないんだろう。確かに、異世界の価値観を軽く見過ぎていたのかもしれないな……」
三月はよかれと思って太っ腹に散財したが、それは逆にキッキに不信感を与えてしまっていた。
異世界の人々が思う途方もなさは、三月にとっては大したことではない。
頓着のない軽率な行為、あの大盤振る舞いはそう取られてもおかしくなかったのである。
「それだけ三月が大それてるってことさ。ちょっとキッキを不安にさせちゃったけど、泣いた後のすっきりした笑顔を見るにもう心配はなさそうだね」
「そうだと思いたい。雛月の言う通り、キッキはわかってくれたっぽいけど──」
三月が思うのはパメラに呼び出された夜の出来事。
あのときの彼女の焦燥した顔は忘れられそうになかった。
薄明かりに浮かび上がる憂いた様子は儚く、言葉で言い表せない。
「俺は目的のためにパメラさんを追い詰めてしまっていた。わかっててやったことだけど、一方的な気遣いってのは重荷にもなっちまうんだよな……」
人助けに大きいも小さいも無い、と雛月に言ってもらえて安心する一方で──。
施しが過ぎる、とパメラに言われるは結構きついものがあった。
「他人の人生に深く関わりを持つのは相当な覚悟が必要だよね。関わりを持つほうも持たれるほうも然りだ。そういうことを気に掛けられるのさ、三月もパメラさんも大人だったってことだよ」
雛月のフォローは正直ありがたい。
何を持って大人であるかはこの歳になってもあやふやではあるが、三月はできるだけ大人の振る舞いを心掛けているつもりだった。
「そういうもんかね……」
「きっとそうさ。だからあんまり気にしすぎるのはよくないよ」
三月を気遣った後、雛月はテレビに視線をやった。
画面に映るのはパメラと交わした、別の意味で大人なムードの一幕だった。
切羽詰まったパメラに抱いて欲しいと迫られ、思わぬ事態に泡を食った。
彼女の私室での出来事を思い出し、三月は恥ずかしさに表情を曇らせる。
「うぅ、このシーンは雛月に見ていて欲しくなかったな……」
「パメラさん、綺麗だったよね。一児の母とは思えないくらい魅力的な女性だよ。──そして、とうとう話してくれた」
三月に構わず、雛月の話す口調がまた変わる。
物語の導き手として進めなければならない、三月の使命のことに言い及ぶ。
「三月がパメラさんに保護されたのは理由あってのことだった。他ならぬパンドラの地下迷宮からの予言により、なるべくしてこの運命に巡り合った訳だ」
必然の多さに比べ、偶然の出来事の何と少ないことか。
すべて仕組まれていた──。
そう言っても差し支えないくらい、これまでの道は敷かれたレール通りだ。
「初めてアイアノアとエルトゥリンが訪ねてきたとき、予言について話してはならない理由がわかった、か。……パメラさんったら、気に掛かる言い方をしてくれるじゃないか」
「そうだな……。パメラさんがアシュレイさんとゴージィ親分とパーティを組んでたときに、今のところパンドラの地下迷宮最深部とされてる場所で予言を聞いた。パメラさんは、ある部屋、と言っていた。──多分、そこが俺の探すべき隠し部屋で間違いない」
パメラは一つの謎を提示した。
自身が受けた予言に確信を持ち、三月をパンドラの地下迷宮へと誘った。
未来のアイアノアと創造主が示す通り──。
あのダンジョンのどこかにあるとされる、隠し部屋へと導く告白である。
「うん、そう考えるのが妥当だろうね。さらに、「パンドラのお嬢さん」なる人物がそこで三月が来るのを待っているらしい。女性を待たせてるとなっちゃ、これは急いで会いに行かないといけなくなったね」
「あんなダンジョンの奥深くで、いったい誰が待ってるっていうんだ……? パンドラのお嬢さん、か……」
「それは隠し部屋に辿り着いて確かめるしかないよ。──ともあれ、雪男を倒してアシュレイさんの仇を討った。ここに至り、パメラさんからとうとう秘密を引き出したんだ。また一つ、三月の物語の因子が集まったね」
パンドラの地下迷宮、それ自体が三月の運命に深く関わっている。
未来ではなく、10年以上の過去から三月に影響する予言をした謎の人物の存在があった。
段階に段階を踏み、最終的な願いを叶えるため。
三月は地の底で待っている彼女の元まで辿り着かなければならない。
「ついでに隠し部屋の場所や、何を見て聞いてきたのかを教えてもらえれば言うこと無しだったんだけど、まあそれは今後の楽しみに取っておこうじゃないか」
「パメラさんを俺の都合に巻き込むのは、気が引けるんだけどな……。もう少し俺に振り回されるのを許してもらいたい」
■やりたい放題な雛月への抑止力
「……ねえ三月、そのパメラさんとのことだけど」
パメラのことを話したそのタイミングで。
テレビ画面に映る大人な色香を漂わせる彼女の表情を背景にし、雛月は意味ありげににんまりと笑った。
テーブルに着いたまま、両肘を抱いた格好でずいっと前のめりになる。
「据え膳を食べ損ねちゃった訳だよね。……何ならその穴埋め、ぼくを相手に済ませないかい? 紳士な三月の気持ちを、ぼくは汲んであげたいな」
「えっ? あっ、雛月っ、何やってんだよ!?」
面食らう三月の前から雛月は、ぱっと光の粒子になって消えた。
気付けばすぐ隣に立っていて、何を思ったのやら上着の紺色ブレザージャケットを脱ぎ始めた。
「パメラさんほど大きくはないけど、ぼくの胸だって魅力的だろう? 何と言っても三月の大好きな朝陽の身体なんだからさっ」
あれよあれよという内にブレザーの上を脱ぎ終え、床の上にばさりと落とした。
そのまま白いブラウスの襟回りに付いているリボンのライトバックルを外し、前立てのボタンをプチプチ取ると前を大胆に開けていく。
パメラの胸の大きさには及ばないが、純白のレース生地のリボンブラがブラウスから解放され、艶めかしい胸の谷間を露わにした。
そういえば、朝陽も夕緋と同じく着やせする女の子だったと思い出す。
「ほらおいで。ぼくが慰めてあげるよ……」
「て、手は出さないって言ったろう……!? あ、明日の朝は早いんだっ……! 王都までは遠いらしいし、疲れて乗り物酔いしたら嫌だしなっ……!」
両手を開いて三月を迎え入れようとする雛月はあどけなくも妖しく微笑む。
顔のすぐ近くでプリーツスカートの裾がひらひらと揺れていて、白い脚をちらつかされるのはたまらない。
三月は慌ててそっぽを向き、コーヒーをぐいっとあおって誤魔化そうとした。
「そんな連れないこと言わないで。三月だって、パメラさんの色気にノックダウン寸前だったじゃないか。……無理な我慢は身体に毒だよ?」
「やめてくれぇ、朝陽の姿は目の毒だぁ……」
しかし、雛月は逃がしてくれない。
傍らに両膝を付くと、下着を露出したままぎゅっと抱き付いてくる。
「あっ、いつの間にか身体の自由がきかなくなってる……?!」
「三月はすでにぼくの術中さ。自分の気持ちに正直になりなよ」
雛月とは一線を越えないと宣言したものの、こう迫られてしまっては三月だってこらえきれないものがあった。
「夕緋とキスしてただろう……? 不可抗力だったけどエルトゥリンとも……。なら、ぼくとだって、さ」
「ひ、雛月……」
眼前に迫った雛月の唇はぷるんとしていて柔らかそうだった。
息が鼻先をくすぐり、何とも甘く良い匂いがした。
白状すると、パメラに身体を明け渡されたときも興奮をぎりぎり抑えきれただけで、雛月に言われた通り据え膳を食べなかったことに悶々としていたのである。
そのうえこんなにも誘惑され、気持ちが負けてしまっても仕方がないかも、ここは夢の中だし雛月が相手ならと、そう思い始めていた。
自制は決壊寸前、そんな矢先──。
「あーっ、あぁーっ!」
座談会にちゃっかり混ざっていたアンが急に叫び出した。
テーブルの天板をばんばんと激しく叩いている。
まるで雛月のお色気行動に抗議でもしているようだ。
「ほ、ほらっ、アンもだめだって言ってるぞっ!」
「何だよぼくの勝手だろ。生意気なやつだなあ」
半狂乱なアンの様子で自由を取り戻し、三月は何とか雛月の身体を押し返す。
突き放されてしまった雛月はそれはもう不満そうにアンを睨み付けた。
「あっ……! こいつ、しょうこりもなくっ!」
アンの抗議は騒ぐだけに留まらない。
触手だと思っていた髪の毛を、複数本に束ねて雛月に向かって素早く伸ばした。
びしっと、結構な力で雛月の手足を捕まえ拘束する。
今までの非力そうな感じが嘘のようで、雛月はじりじりと引っぺがされていくのであった。
「またぼくに触手プレイを強要するつもりかっ! 痛い目に遭わせるぞっ!」
今度は雛月がアンに向かってつかみかかり、床の上で揉み合いになる。
脱ぎかけのブラウスとまくれ上がるスカートを気にせず、真っ黒い少女と取っ組み合う雛月の姿は大変に目のやり場に困るものであった。
「名前をもらって、ちょっとは力を取り戻したって訳だ! 本当に生意気だよ!」
「あーっ! あーっ!」
かしましく騒ぎ合い、人外たちのキャットファイトの開幕だ。
女同士、と思われる者たちがいきなり始めた喧嘩を前に、三月は頭を抱えて盛大なため息をついてしまう。
「雛月、いいから服を着てくれ……。アンもそういうことしちゃだめだ……」
どういうつもりなのか不明だが、正直言って雛月の暴挙を止めてくれるアンの存在はありがたい。
しかし、大切な朝陽の姿をした雛月が触手責めに遭っているのを見せられるのもそれはそれで複雑な気持ちになってしまうのであった。
どうにもこうにも、今晩も三月はモヤモヤとして過ごすことになりそうだ。




