第272話 アン
三月と雛月の意見が一致したところ。
黒い影はコーヒーの準備ができたようで、こちらに向かってやって来る。
手足は確認できず床を擦るように移動し、縦長の円錐状の上半身から伸びた二本の触手で、コーヒーカップを乗せた皿を持っている。
「なんか危なっかしいな。大丈夫か?」
「ぼくはちゃんと教えたよ。後はこいつができるかどうかだ」
結果は案の定だった。
三月と雛月に見つめられて緊張したのか、カチャカチャ音を立てて皿を揺らしたかと思うと、あえなくコーヒーカップを放り投げてしまった。
ガチャン! バリンッ!
食器の割れるが二度響く。
落としたカップはもちろん、まだ持っていた皿まで取り落としてしまい、両方とも幾つかの破片に分かれて割れてしまった。
床に茶褐色の液体が細かい破片と混ざり合いながら、だーっと広がっていく。
「ああもう何やってるんだよ、また壊したな! コーヒーもまともにいれられないのかい?! この空間を元に戻すのはぼくなんだからね。要らない仕事を増やさないでほしいな!」
大声をあげ、目くじらを立てた雛月が立ち上がる。
また壊した、と言ったのを見るとこれが初めてではないようだ。
怒鳴られた黒い影はびくっと震え、明らかに怯えた様子を見せて小さくなった。
さらに、どんより暗い感じでうなだれると、黒い身体から何やら黒いものをポコポコと生やしだしたではないか。
ジメジメ湿気ていて、それらは何だかキノコみたいに見えた。
「あぁー、やっちまったなぁ。めちゃくちゃ落ち込んでるじゃないか。って、今更だけど、ここって夢の中みたいなもんなのに物が落ちたり壊れたりするんだな」
影に詰め寄ろうとする雛月とは違い、三月はため息をついて苦笑い。
雛月の言う通り、このドジで鈍くさそうな印象から危険は感じられない。
それよりも、今更ながら夢の中とは思えない心象空間の精密さに感心する。
「この心象空間は、限りなく現実に近く再現してるからね。お皿やコーヒーカップを落とせば、重力や物理法則に従ってちゃんと割れるように出来てるのさ。そうでなきゃ、ここで三月とイチャイチャ触れ合っても、現実同様の感覚を感じられないのは味気ないじゃないか? ねっ?」
得意げに語る雛月は、座った三月を見下ろしてぱちんとウインクをした。
この夢想の場を支配する存在は、過剰なスキンシップをしばしば要求してくる。
またも朝陽の容姿を生かして迫られ、三月はたじたじなのであった。
「ひ、雛月には手を出さないって言ったろう……」
「ちぇっ、つまんないなぁ。いつでも心変わりしてくれたっていいのにさ」
今にもしなだれかかってきそうな雛月を警戒して自分も立ち上がる。
どうやら心の中とはいえ、本当に親密なやり取りを交わせるように環境を整えているらしく、三月には雛月が何を考えているやら測りかねるところがあった。
まさか、朝陽の姿をしている副作用で、三月に想いを寄せているなど夢にも思わないだろう。
「はいはい、そういうのはリアルに再現しなくていいぞ。それはそうと──」
雛月を誤魔化すついでに、三月は食器を割ってコーヒーを床にぶちまけた黒い影に近付いていく。
影は三月を見上げるような格好で震え、おろおろしている風であった。
「まったく、しょうがないな。破片でケガしたら危ないから下がってな」
三月は黒い影の前に腰を下ろし、コーヒーカップと皿の残骸を片付け始める。
影を気遣って離れるように促すと、割れた破片を拾い集めていった。
「……」
そんな三月の前で、黒い影は何を考えているのかじっとして動かない。
「あ、そうだ」
と、何かを思い立った三月が顔を上げた。
影と目が合ったような気がしたが、そもそもどこが目かもわからない。
「名前がないのは不便だな。色々と手伝いをしてくれてるみたいだし、付き合いも長くなるかもしれないから、ずっと名無しの影って訳にはいかないか」
「名前を付けるんだね。それじゃあ、クロスケ、イカスミ、オハグロ、こいつの名前なんて適当でいいだろう。今言った中から選んでよ」
いつの間にか隣に立っていた雛月がぞんざいに言い放つ。
せっかく名無しの影に名前を付けようというのにかなり適当な感じだ。
いい加減に名付けられそうなのがわかるみたいで、黒い影はますますキノコを生やして、ずぅんと沈んで見えた。
「ちゃんと考えてやれって。……ええと、そうだなあ。暗い感じでキノコ生やすし、餡子みたいに黒いから……」
苦笑して雛月を見上げた後、三月は影を見つめて名前を決めた。
それは仮初めの名となるか、影に心があるのなら魂に刻まれる名となるか。
「よし、──アン、にしよう」
「暗いって字と餡子の読みを掛けて、アンね。何だか女みたいな名前だけど性別がわかるのかい? ぼくの洞察だってそこまで突き止められてないってのにさ」
ふん、と鼻を鳴らし、名付けの由来にフォローを入れてくる雛月。
存外に可愛らしい名前だったことに小首を傾げる思いのようだ。
「いいや、そんな気がするだけだよ」
「ふぅん……。まあ、三月のそういう勘は当たるからなあ」
別に何かがわかるからそういう名前にした訳ではない。
いつもの何となくな直感で付けた名前だった。
その名は、アン。
「雛月、見てみろよ。何だか喜んでるみたいじゃないか。よし、それじゃあお前の名前は今日からアンだ」
名前を決めた途端、アンは激しく蠢き始めた。
円錐状の身体を左右に揺すり、無数の触手をざわざわと逆立てている。
まるで真っ黒なイソギンチャクか何かのようだ。
その様子はやや不気味ではあるものの、喜んでいるみたいに見えた。
「うーん……。ちょっと気持ち悪いけど、喜んでるでいいんだよな……?」
と、やや引き気味になる三月の前で、ゆらゆら揺れるアンに変化が起こる。
にゅっ!
それは劇的な変化だった。
黒い身体の真ん中から左右に向かい、新たな触手が一対生えてきたのである。
いや、軟体の触手ではない。
根元である肩の部分から伸びていて、肘と手首に当たる関節がある。
先端にはしっかりと五本の指が見て取れた。
まさにそれは、「手」であった。
「手が生えたぞっ。それにちょっと大きくなった!」
「名前をもらって活性化したのか。質量と存在感が増してる。まさか──」
驚く三月と雛月の見ている前でアンは成長を遂げた。
不定形の身体が大きくなり、背丈は幼稚園児程度。
三月の腰くらいの高さまで伸びていた。
相変わらず真っ黒の逆立っていた触手が落ち着いて垂れ下がると、両手がその位置にあることから、触手に見えていたのは髪の毛だったと判明する。
「……」
もう人型にしか見えなくなったアンから、無言で右手が差し出された。
「……なんだ、握手したいのか?」
黒い手の形を見るに握手を求めているようで、三月が問い掛けるとアンは首を縦にこくこくと振って肯定の意を示す。
表情が見えず何を考えているかわからないが、恐る恐るその握手に応じてみた。
「みーっ、みーっ!」
すると、アンは甲高い鳴き声をあげた。
握手した手はひんやりとしていて、意外にすべすべな触り心地である。
ぷにぷにした弾力の中に硬い骨の感覚もあり、本当に子供と握手をしているようである。
おそらく足があると思われる下半身を浮かせ、ぴょこぴょこ跳ねて嬉しさを表しているみたいだった。
何というか、ちょっと可愛らしい。
「予感が当たったな。アンは女の子みたいだ」
「うん、本当だ。アンの性別は女だね。洞察が一段階進んだよ。なら、こうして力を取り戻させてやれば、いずれは正体がわかるかもしれない」
三月が振り向くと雛月は頷いた。
名無しの存在でなくなった瞬間、アンは自己を発現させる力を増大させ、ぶよぶよの無形形態から、人に近い形態へと進化を果たしたのである。
握手をして三月の意識に触れ合ったことも活性化の理由かもしれない。
「……いい傾向だね。差し当たり、アンの望みをできる範囲で叶えていってみよう。危険があるようならまた切り刻んで燃やすまでだ」
「物騒だなぁ……。こりゃおとなしくしてないと酷いぞ」
「あー……」
雛月は冷酷な視線を光らせる。
危険な雰囲気を隠さない地平の加護に、三月は青い顔をしてアンは怯えてぶるぶると震えるのであった。
かくして洞察は進み、三月の勘通りにアンが女性であることが判明した。
人型で両手があり、触手のように動かせる長い髪を生やした漆黒の少女──。
といったところであろうか。
「まあ仲良くしようぜ。改めてよろしくな、アン!」
「みぃーっ!」
握手したままの手に力を込めると、アンも喜んで握り返してきた。
感極まったのか、落ち着いていた長い髪がわさわさと天井に向いた。
「だからそれ気持ち悪いって……」
「みっ、みー……」
触手ではなく髪の毛とわかると、それはそれで気味が悪く見えてしまう。
三月が引きつった笑みを浮かべると、アンはまたへこんで身体中から黒いキノコを生やしまくるのであった。
と、三月とアンの横から、手を両膝に身を屈めた雛月が顔を寄せる。
「……ねえ、アン。手間は掛けたくないんだ。お前が何者なのか手っ取り早く教えてくれないかい? ぼくたちも仲良くしようじゃないか」
「あー、あー……」
威圧的に迫る雛月が問うもアンは何も答えなかった。
たどたどしい鳴き声をあげ、しょげ返ってしまったように見える。
期待を裏切られ、雛月は不満げに鼻を鳴らした。
「ふん、どうやら口がきけないらしい。喋れないだけなのか、あるいは夕緋に口封じをされているのか。これは気長にいかないとダメみたいだね」
「色々お手伝いをしたがってるみたいだし、好きなようにさせてやれば力を取り戻してって、洞察もできるようになるんじゃないか?」
三月はカップと皿の破片を持って立ち上がり、雛月に振り向いた。
雛月は地平の加護としての本能に火を点け、不敵な笑みを浮かべている。
「そうだね、しばらくは観察を続けてみるよ。ぼくにとってアンは身近な未知だ。こんなにも好奇心を刺激されるなんて、夕緋も面白いものを送り込んでくれたものだよ」
「あんまり無茶しないでくれよ。ここは俺の頭の中なんだからな……」
「あー……」
三月の弱り顔と、雛月がぺろりと舌なめずりするそばで──。
アンは髪をざわめかせ、生やしたキノコは黒い粒子になって消えていく。
真っ黒な面持ちは何を思っているのかまったくわからない。
三月と雛月しか居なかった心象空間に、新たな同居人が加わった。
正体不明な黒い影の少女、アン。




