第269話 パメラとの夜
「……ミヅキ、ちょっといいかしら?」
「あ、はいはいっ。ちょっと待って下さい、今出まーすっ」
その日の晩のことだ。
ミヅキが宿の部屋で身体を拭いていると、ドアをノックする音がした。
声の主は他ならないパメラである。
急いで出ようとするミヅキを待たず、ドア向こうでパメラは先を続けた。
「少し、話があるの。待ってるから、私の部屋まで来て」
「えっ、パメラさん……?」
急いでドアを開けると、パメラはすでに吹き抜けの階段を降りる途中だった。
顔が合うとどこか影のある笑顔を浮かべる。
「……」
ミヅキも何も言わず、パメラに続いて階段を降りていった。
厨房カウンターの後ろにある通路を先に行くと、パメラとキッキの私室がある。
ミヅキが初めて訪れる彼女たちのプライベートエリアだ。
「いらっしゃい、ミヅキ。散らかってて悪いけど、座っていてくれるかしら。いま飲み物を持ってくるわね」
「あ、はい……」
部屋に通されたミヅキは中央にあるテーブルの椅子に腰掛ける。
パメラは飲み物の準備で、一旦厨房のほうへと戻っていった。
散らかっているとは言われたものの、その私室は理路整然と片付いていて、彼女の几帳面さをうかがわせる。
衣類が収納されているクローゼット、アンティークな感のある化粧台があり、普段パメラとキッキが休んでいる二台のベッドが並んでいた。
何とも落ち着かない雰囲気のなか、ミヅキはパメラの帰りを待っていた。
「はい、どうぞ。ウチで出してる一番いい紅茶よ」
「ありがとうございます。……それじゃあ、頂きます」
「ごめんなさいね、こんな時間に呼び出して……。だけれど、どうしても話をしておかなければいけないって思って……」
「……いえ。それで、話っていうのは……」
熱い紅茶に口をつけるも、豊かな香りを楽しむ間もなく本題に入る。
ティーカップを皿に戻し、ミヅキは物憂げなパメラの顔を見返した。
「……」
二人の間に短くも長く感じる沈黙が流れる。
と、彼女はゆっくりと話し出した。
「ミヅキ、改めて言うわ……。アシュレイの仇を討ってくれたこと、とても嬉しかった……。ありがとう……」
パメラが言うのはミヅキに受けた恩の話だ。
仇敵の雪男を討ち取り、行方不明だったアシュレイの剣さえ取り戻した。
それは何にも代えがたいことで、ミヅキには感謝してもしきれない。
「でも……。こんなことを言える立場じゃないのは、わかっているのだけど──」
パメラはとうとう胸の内につかえていた言葉を吐き出す。
これまで言おう言おうとして、なかなか言えなかった暗い気持ちだった。
「恥を忍んで言うわね……。ミヅキが店のためにしてくれてる、今度のことに……。こんなにも良くしてもらっているのに、私は何もお返しができない……」
それを話すパメラは本当に心苦しそうだった。
可愛らしい猫の耳はしおれ、背中を丸めて肩を小さくしている。
ミヅキが何かを言う前に、彼女は淡々と続きを話していく。
「借金の返済も、冷蔵庫も竜もそう……。とてもではないけれど、おいそれと受け取っていいものじゃないわ……。それがミヅキを助けた恩返しというのなら……。それこそ、雪男を倒してアシュレイの剣を取り返してくれただけで充分よ」
パメラにとって、それらミヅキの厚意はあまりにも大きすぎた。
抱えていた借金は決して安くはなかった。
高価な竜をキッキに贈られ、冷蔵庫と冷凍庫という魔導器まで作ってくれた。
そのうえ、さらに私財を投げ打って、宿の商売に貢献しようとしてくれている。
これに見合う代償など、パメラには一生掛かっても用意できないかもしれない。
「……だからこれも受け取れないわ。キッキの分も合わせて返させてちょうだい」
パメラはテーブルの上に二つの装飾品を静かに置いた。
それはミヅキがパメラとキッキに贈ったプレゼント。
ミスリルのネックレスとブレスレットであった。
もちろん、これらも受け取れない。
「せっかくのすごい贈り物なのに、ありがたく受け取れずミヅキに恥をかかせて本当にごめんなさい……」
まぶたを震わせ、パメラは心底申し訳なさそうに言うのだった。
そうしてゆっくりと瞳を開け、弱り果てた顔でミヅキを突き放す。
「街全体が厳しい状況なのに、私だけがミヅキの施しを受ける訳にはいかない……。こんなことを言ってはいけないけれど、一方的なミヅキの優しさをとても重く感じてしまうの……」
「……」
「私とキッキに気を遣わなくていいから、ミヅキはミヅキの意思で自分のすべきことに向かっていってちょうだい。……ね?」
「パメラさん……」
黙っていたミヅキはようやく口を開く。
「……あぁ、そういう風に思っちゃいますか……。やっぱり、受け取りにくいですよね……。さすがにやり過ぎの恩返しだったかなぁ……」
パメラに何と言われたところで、悲しくもならなければ腹も立たない。
「やれやれ、そんなことを言わせてしまうなんて、俺もとんだ甲斐性無しだ……」
年上の女性にそんな思いをさせて、不甲斐ない自分に呆れるばかりである。
「だけど、それでもっ」
但し、パメラにそう思わせてしまうのが全くの想定外だった訳ではない。
ミヅキにだって曲げられない思いがあった。
「俺は俺のやりたいようにやってるだけです。 パメラさんを助けたいって気持ちが俺の意思だっていうんなら、何も問題はなくなりますよね? だから──」
「──ええ、ミヅキならそういう言い回しをしてでも、どうにか私たちを助けようとしてくれるんでしょうね……。それもわかっているつもりよ……」
言い掛けるミヅキの言葉はすぐにパメラに遮られた。
ゆっくりと首を横に振りつつ、諦めた風な微笑みを浮かべている。
ミヅキを理解しているし、意思を尊重さえしてくれる。
思っているよりもさらに、パメラはずっとずっと大人であった。
「もうあなたの顔には迷いが無い。ミヅキがそうしたいと願うなら、もう言えることは無いわ。きっとどんな口出しをしたところで、ミヅキは自分の意思で私たちを、──いいえ、もっと大勢の人を幸せにしていってしまうんでしょうね」
「パメラさん……」
ミヅキは言葉に詰まってしまう。
結局、強く望めばパメラにミヅキを拒絶できる理由なんてない。
無理やりだろうが、おとなしく厚意を受け取るしかないのである。
ミヅキが懸念していたことは杞憂とはならなかった。
だからこそ、パメラは思い悩み、どうすればいいかを考えていたようだ。
いや、彼女にそうさせている理由はそれだけではなかった。
「……実を言うとね。こうしてミヅキが私たちを救ってくれるのは、最初からわかっていたことなの。……アシュレイだって知っていたわ」
「えっ!? それってどういう……」
驚くミヅキに困り笑いで答え、パメラはまた語り出す。
しかしてそれは、いよいよ明かされる真実の一端であったのだ。
「あれは私がまだ冒険者をやってた頃よ。今のところ最深部とされているパンドラの地下迷宮の、「ある部屋」にたどり着いたときのこと」
冒険者時代、化け猫パメラ全盛期の折りに──。
彼女は誰もが知らない秘密に到達した。
未踏のダンジョンの奥深くで、パメラはある事象と逢着したのである。
「──パンドラの地下迷宮は私たちに予言をしたの」
「……予言? パンドラの地下迷宮が……?」
ごくりとのどを鳴らすミヅキに、パメラは深く頷いた。
知らず、ミヅキの心臓は早鐘のように鼓動を打ち始めていた。
頭の中で地平の加護が騒ぎ、目の奥がちかちかと光って眩しい。
「詳しくは話せない。私もアシュレイも、ゴージィだって同じ……。話してはならないと頼まれているの。私たちはそれを受け容れた」
しかし、どういうことなのか問う前にパメラはぴしゃりと言った。
話せない理由があり、そう頼んだ誰かが居るという。
「全部を信じていた訳じゃないけれど……。パンドラの異変が起こって、アシュレイを亡くして……。ミヅキを保護してから、雪男を倒してくれたうえに、こんな莫大な施しまでしてくれて……」
言葉をつづるパメラは、独り言を言っているようだった。
「だから、実感しているわ……。あの予言は本当だったんだって……」
当時の自分と、今の自分を思い重ねている。
現在進行形で起きている不思議な事実を受け止めている。
「ミヅキがアイアノアさんとエルトゥリンさんと、三人でパンドラに挑んでいる今なら、なぜ話してはならなかったのかがよくわかる……」
それはミヅキの物語冒頭に当たる出来事。
神託を受けたエルフ姉妹が、ミヅキに会いに来たときのこと。
「アイアノアさんとエルトゥリンさんは、ミヅキを探して訪ねてきた。私は迷わずにミヅキの居場所を教えていたわ。それがパンドラの地下迷宮だったなんて、偶然にしてはあまりにも出来過ぎだって思ったの」
パメラは初めて店を訪ねてきたアイアノアとエルトゥリンを見てはっとした。
不可解だったものたちが数珠つなぎに一つになったと感じた。
そして、直感したのだ。
10年以上の時を越え、とうとう予言された運命が始まるのだと。
「あれは夢でも幻でもない。私が巡り合ったのは紛れもない真実──」
パメラはすべてを受け容れ、目で見て、耳で聞いた事実を思い返す。
それは常識では推し量れない。
神秘そのものに触れた確かな記憶である。
「──あのパンドラのお嬢さんは、きっとミヅキたちが来るのを待っている……。今もずっと、あの場所で……」
パメラは窓の外の夜空を見上げ、遠い目をして言った。
思うのは、かのダンジョン深くで邂逅の時を待ちわびる者のこと。
予言を下し、待っている。
即ちそれが──。
「パンドラのお嬢さん……?」
オウム返しで聞くミヅキの困惑を見て、パメラも困り顔で微笑んでいた。
その表情は、いくら教えてほしいと願っても答えてはくれなさそうだ。
彼女はパンドラの地下迷宮と結んだ約束を守るつもりなのだろう。
そんなパメラの様子を感じ、ミヅキも思わず苦笑いを浮かべるのだった。
「ミヅキ、あなたは本当に、神様に選ばれた勇者なのでしょうね……。私たちには決して手の届かない、遠い遠い存在……」
パメラはそう言うと、すぅっと音も無く立ち上がる。
テーブルの向かいから、ミヅキの隣へ近付いてきた。
ミヅキにはその思い詰めた表情を見上げることしかできない。
「だから──」
その唇が切なげな吐息を漏らした。
ディアンドル風の給仕服は仕事のときのまま。
手を腰にやり、しゅるしゅるっとエプロンの紐を緩める。
ふぁさっと床にエプロンが広がって落ちた。
「私にはこれくらいしか、してあげられることがないの……」
パメラは消え入りそうな声で言うと、ボディスの前を止めているリボン結びの紐を解いた。
胴衣が外れ、締められていた豊満な両胸が衣服の中でふんわりとたわむ。
「パ、パメラさんっ!? そんなっ、何してるんですかっ……!?」
「……こんなおばさんじゃイヤかもしれないけれど……。あのエルフのお嬢さんたちみたいに綺麗じゃないと、駄目かもしれないけれど……」
慌てふためくミヅキをよそに、服を脱いでいくパメラの手は止まらない。
白いブラウスのボタンを次々と外し、ためらいなく前を開いた。
部屋の薄明るさに、パメラの妖艶な半裸姿が浮かび上がる。
「私を抱いて……。せめてこの身を差し出さないとあなたには報いられない……」
「お、落ち着いて下さいっ! ちょっと、待って……!」
頬を赤らめ、前のめりに迫ってくるパメラにミヅキも思わず立ち上がった。
「あっ……」
あられもない格好を晒させまいと、彼女の衣服越しに両肩をつかむ。
眼前のパメラの瞳はうるんでいて、ほのかにアルコールの香りがした。
一児の母とは到底思えない色香にはくらくらしてしまう。
「パメラさんは綺麗です! 十分魅力的ですっ!」
ミヅキは必死にパメラの身体を押し止めて叫んでいた。
両手から伝わってくる彼女の肩の震えが痛々しい。
「だけどっ、パメラさんのその気持ちは受け取れませんっ! 俺の一方的な気持ちで追い詰めてしまって、本当に申し訳ありませんでしたっ!」
こんな形での気持ちを受け取っていいはずがなかった。
地平の加護の権能は凄まじすぎたのだ。
パメラとキッキを助けるためとは言え、過剰な親切の押し売りになっていた。
「いつかちゃんと話します! どうしてもやらなきゃいけないことがあるんです! だから、そのために! どうか今は黙って、俺に助けられて下さいっ!」
ミヅキは大声で叫んでいた。
今すべてを話したとしても、親身になって聞いてくれたとしても。
本当のところではきっと理解してはもらえないだろう。
二つの異世界を渡り、自らの滅んだ世界を救おうとする事情は計り知れない。
「お願いしますっ!!」
ミヅキはたまらずパメラの部屋を飛び出した。
もうここには留まれない。
そんなつもりは毛頭なかったが、自分より数段大人なパメラに詰め寄られ続けて、理性を保っていられる自信がなかった。
「ミヅキ……」
部屋に残されたパメラは、乱暴に開け放たれたドアを虚ろに見つめていた。
テーブルの上にあるミヅキからの贈り物に視線を落とす。
はだけた胸をゆっくり上下させて、深い深いため息を漏らしたのであった。




