第265話 エルトゥリンの唇
「きゃああっ! ミヅキ様ぁー!」
星の加護の一撃をまともに受けてミヅキは湖に没した。
衝撃の結果にアイアノアは悲鳴をあげる。
しかし、魔力を急激に吸い出され、腰が砕けてしまって四つん這いの格好だ。
これではすぐに動けない。
「エルトゥリンッ、ミヅキ様をお助けしてっ! 早く、お願いッ……!」
「え……? ──はっ!?」
姉の金切り声に我に返るエルトゥリン。
星の加護の解放は一種のトランス状態をもたらしていて、自分が何をしてしまったのか知るのが遅れた。
「ミ、ミヅキッ! 今行くッ……!」
ミヅキが沈んだ湖の水面は元に戻り始めている。
急がなければ夜の薄暗い水中に漂う人間を見つけるのは困難になる。
エルトゥリンは駆け出し、そのまま湖へと飛び込んだのだった。
「ミヅキッ、大丈夫っ!? ごめん、やり過ぎたっ……!」
幸い、ミヅキはすぐに見つかった。
身に付けていたミスリルコートが水中でも加護の光を放っていたからだ。
エルトゥリンはびしょびしょに濡れたミヅキを岸に引き上げた。
仰向けに寝かせて呼び掛けてみるが意識が無い。
「ミヅキ、そんな……!」
仮死状態が付与されているとは知らず、エルトゥリンは万が一の事態を想像して顔面蒼白となっていた。
仕方がなかったとはいえ、使命の勇者をこの手に掛けてしまったのではと思うといても立ってもいられない。
「お願い、目を開けてっ……! 姉様、早くっ……!」
肩を揺さぶり、頬を打ってみてもミヅキは目を開けない。
そう長い時間ではなかったにしろ、ミヅキはおぼれてしまったのだ。
一刻も早い蘇生措置と回復が必要であった。
但し、アイアノアのほうを振り返るとまだ立ち上がれていない。
遠くから手を地面に付いてのろのろと這ってきている。
早く回復魔法を掛けてもらいたいのに、と焦燥する気持ちに駆られた。
「あっ、そうだ!」
──前に姉様に、人間の医療について教えてもらったことがある。口伝いに息を吹き込んで蘇生させる方法っ。魔法の使えない私でもできるっ……!
不意に思い出したのは、いつかアイアノアが得意そうに語っていたことだ。
エルトゥリンが集めてきた本を読み、覚え立ての知識を披露してくれた。
水におぼれた等の傷病者の自力呼吸が不可能な場合、口と口を合わせて直に肺に空気を送る心肺蘇生法である。
こうした方法は古代先史の昔から存在し、現実世界だろうと異世界だろうと関係は無い。
──でもそれだとミヅキとキスすることに……。
エルトゥリンは戸惑う。
使命の完遂のため、勇者の手助けに心身を捧げると誓ったものの──。
それを本当に実行できるかどうか迷ってしまう。
彼女が憶えている過去の記憶が、その救命行為を妨げる理由となっていた。
「……迷ってなんかいられないっ」
ただそれでも、エルトゥリンは意を決して踏み切った。
神託の勇者にもしものことがあれば、使命を果たすことはできなくなる。
エルトゥリンはミヅキを助けたいと思う一心であった。
「んっ……! ふぅぅぅーっ……! ふぅぅぅーっ……!」
ミヅキの身体に覆いかぶさり、鼻をつまみ、口を口で塞いだ。
起きて、助かって、と願いを込め、ゆっくりと息を吹き込んでいく。
自分の息でミヅキの胸が上下するのを確認しつつ、何度も唇と唇を合わせた。
──これが、この感触が、ミヅキの唇……。
これをキスだというのは不適切だと思うし、今はそれどころではないとも思ったが、エルトゥリンは心のどこかで男と女のやり取りを感じてしまうのだった。
「……げほっ、げほっ! ……はっ? お、俺はいったい……?」
幾らもしない内にミヅキの意識は戻った。
元より地平の加護に付与された仮死だった。
水中から出してくれさえすれば自ずと回復する仕組みではあったのだが。
湿った咳をしながら、そばにエルトゥリンが座っているのに気付いた。
「……うっ、うぅっ……!」
ただ、様子がおかしい。
エルトゥリンは自分の両肩を抱き締め、潤んだ瞳の顔を赤く火照らせている。
ぶるぶる身体を震わせ、あふれ出す衝動を抑えようと必死の様子だった。
「なに、これっ……! も、もう、駄目ぇっ……!」
その活力の巡りは抑えようとして抑えられるものではない。
まして、これが初めてだというのなら、抗えない生命の奔流が爆発する。
「……ぅああああああああああああああああああぁぁぁぁぁァァァんっ……!!」
途端、エルトゥリンは身体を弓なりに反らし、夜空に向かって絶叫した。
同時にまぶしいオーラを、光の柱のように立ち上げた。
ごおおおっ……!
何という力強い生気であろうか。
エネルギーが身体中を満たしていた。
マグマが大地の底から突き上げるかのようである。
「エ、エルトゥリン……?! あっ、この感覚は、内丹の体交法かっ……!」
ミヅキは身体を起こし、全身を巡る活力を感じた。
加えて、起きていた地平の加護から何があったのか記憶を伝達される。
何よりも、この唇に残る感触は忘れられないほど柔らかく温かかった。
──エルトゥリン、俺を助けようとしてくれたのか……。ただ、これは……。
地平の加護は絶賛稼働中だった。
この状態のミヅキと触れ合うと、男女間であれば陰陽の氣が好循環する。
ミヅキの側が活力を欲しているなら、内丹は自然とエネルギーを巡らせる。
しかも、今回のは手を繋ぐ等の皮膚の接触ではなく、唇という粘膜の接触だ。
巡り合うエネルギーの高まりは、手を繋ぐそれよりも効果が高い。
肌を重ねるのが房中術の本領なのだから、この結果は当然と言えた。
──アイアノアとやると魔力が補給できて、エルトゥリンとやると体力とか生命力がみなぎるみたいだ。だから俺は意識を取り戻せたんだな。
ミヅキは身体中、細胞の一片にまで力が満ちるのを感じていた。
関係を持つ相手によって行き交うエネルギーは異なる。
魔力であったり生命力であったり、対象者の性質が反映されるようであった。
──だけど、それよりも……。この頭の中に流れてくる感じ、これはエルトゥリンの記憶か……?
いつか魔力を使い果たしたアイアノアを洞察したときと同じだ。
エルトゥリンはミヅキを蘇生したい一心だった。
気持ちを寄せられ、解放された心の断片を地平の加護がすくい取っていた。
それらは決まって心の奥底に強く思い、閉じ込めている記憶であることが多い。
ミヅキはそうしてエルトゥリンの過去に触れたのだ。
『どうして私は魔法が使えないの? エルフなのに魔法の才能が無いなんて……』
『お腹空いた……。狩りが上手になりたいよ……』
『弱くってごめんなさい……。父様も母様も強い戦士だったのに……』
それはまだ彼女が少女だったときの記憶だ。
年の頃は人間で言えば、15か16くらいだろうか。
エルトゥリンは生まれつき魔力を持ち得なかった。
そのせいで魔法は使えず、他のエルフに比べて見劣りするのは否めない。
魔力に恵まれ、魔法に優れる姉のアイアノアとは大きな違いであった。
子供のエルトゥリンは腕っぷしが強かったり、狩りが上手だったりもしない。
獲物がなかなか獲れずにいつもお腹を空かせていた。
せめて戦士として強さを磨こうと努力するも、武術の才能でも芽が出ず、武勇に名を馳せた父母とは正反対に、エルトゥリンはとても弱かった。
同胞には冷たい目で見られ、自分を卑下する暗い日々を送っていたのだった。
そこまでは以前に聞いていた通りのエルトゥリンの生い立ちである。
改めて、亜人戦争の後の辛かった時期をなぞるものだ。
但し、その先の記憶は思わず目を背けたくなるような光景であった。
『嫌だっ、離してっ、触らないでったら! 乱暴するのはやめてッ……!』
『女だからってこんな目に遭うなんて……! 男なんて大ッ嫌いッ……!』
『誰かぁ、助けて……』
記憶の中のエルトゥリンは泣いていた。
能力が物を言うエルフ社会に則り、同年代の特に男のエルフからひどい嫌がらせを受けていたのである。
スレンダーな体つきが多いエルフには珍しく、アイアノアもエルトゥリンも女性的なスタイルが良かったことがさらに拍車をかける。
身体を触られたり、服を脱がされそうになったり──。
弱さにつけ込まれ、もっと酷い目に遭わされそうになったこともあった。
弱い女は強い男に心身を捧げよ、と公言するばかりに。
エルトゥリンが節々で見せる、男への敵愾心はそうした過去が原因なのだろう。
「エルトゥリン……」
ミヅキはいたたまれない思いで呆然としていた。
見えていた記憶は消え、吹いてきた夜風が濡れた身体を冷やしている。
ただ、寒さなど気にならないくらいエルトゥリンの過去に胸が痛くなった。
星の加護を備え、絶対無敵の強さを誇り、狩りの腕も一流な彼女なのに。
子供の頃のエルトゥリンは、か弱く可哀相な一人の少女だった。
その上、仲間のはずのエルフから集団的ないじめを受けていた。
「──見たわね、ミヅキッ……!」
気がつけば、目の前で屈むエルトゥリンに睨まれている。
わなわなと肩を震わせ、青い瞳をうるうると揺らしながら。
自分からあふれ出した記憶が、ミヅキと共有されたのがわかっていた。
「スケベッ! バカッ! ヘンタイッ!」
「痛いッ!?」
問答無用のビンタが飛んできた。
ぱァんっ、と耳鳴りがするくらいの破裂音が鳴り、ミヅキは吹っ飛ばされて草の上を派手に転がされてしまう。
回る視界の中、エルトゥリンは弾かれたみたいに走り去っていくのが見えた。
「エルトゥリン? どうし……」
よたよた近付いてきていたアイアノアの横を全速力で駆け抜ける。
走りながら、エルトゥリンは感情をぐちゃぐちゃにさせていた。
──私の心っ、ミヅキに見られたっ……! 男だけには私の弱いところを見られたくなかったのに……! それもっ、人間の男なんかにっ……!
自分の忌まわしき過去は誰にも知られたくなかった。
時を経て強くなって決別したはずの弱さ。
それがミヅキと地平の加護によって呼び起こされてしまった。
──でも、ミヅキに口づけしたら頭が真っ白になって……。身体がどこかに飛んでいってしまいそうな感じになった……。私ったら、ミヅキを心の奥まで招き入れてしまったんだ……! 私の馬鹿っ! 男なんかに気を許すなんてっ!
思わず逃げ出してしまったのは、過去を見られたからだけではない。
ミヅキと唇を重ねた瞬間、身体中を巡る活力とそのあまりの心地よさに身を委ねてしまったことが、エルトゥリンを自己嫌悪に陥らせていた。
──あんなの、知らないっ! 今まで味わったことのない感覚だった……! 嫌な気持ちじゃなかった……! 私っ、いったいどうしてしまったのっ……!?
彼女はきっと混乱していたのだろう。
神交法で浮つく姉に苛立っていたのに、いざ自分が同じ立場になったらあっさりと心を許してしまったのが恥ずかしくってしょうがない。
固持していた気持ちが簡単に変化していくのが怖くて堪らなかった。
様々な気持ちを胸の中で渦巻かせながら。
エルトゥリンは濡れた衣服と身体のまま、街のほうへと爆走するのだった。




