第242話 三巡目の異世界転移
「ん……」
ぼんやりとしていた意識が徐々に覚醒してくる。
見上げる視界は、もう見慣れてきた自分の部屋ではない天井。
頭と背中に感じる硬い枕と、ベッドの感触には確かに覚えがあった。
「──おはようございます。お休みのところ失礼致しますねえ」
自分の寝ているベッドの隣を、幻想世界の彼女がふわりと横切った。
そのまま窓際まで歩いていくと、朝の光が差す窓を開いた。
吹き込んでくる爽やかな風を受けて、金色の長い髪を揺らしている。
彼女は振り返り、優しげな声と共に微笑みかけてきた。
「今日もいい天気ですよ。本日はお加減いかがですか?」
長い両耳をぴこぴこっと上下させてそう言った。
朝日を背にした眩しい姿を見て、反射的にベッドから跳ね起きる。
口から飛び出したのは麗しい彼女の名前だった。
「──アイアノアッ!」
窓際に立って微笑むのは迷宮の異世界での仲間、エルフのアイアノア。
願ってやまなかった再会に、すぐに彼女に駆け寄ろうする。
「おわっと……!」
「えっ?」
しかし、ベッドから急いで下ろした足がもつれて、堪らずよろめいてしまった。
身体に力が入らず、思ったように動けない。
そのまま、きょとんとした顔のアイアノアに向かって飛び込んでいく。
「ふぁんっ!?」
バランスを崩して転びそうになったところ、柔らかなクッションがぽよんと受け止めてくれた。
同時に、すぐ近くでアイアノアの声があがって聞こえた。
「そのようなところに、お顔をうずめられては困ってしまいます……。もう、朝からお元気なのですから。──ミヅキ様ったら」
名前を呼ばれ、今の状況が鮮明に感覚に伝わってきてそれはもう凄く驚いた。
顔から突っ込んだ先は、アイアノアの豊満が過ぎる胸の双丘であった。
ぶつかっていった勢いのまま、飲み込まれてしまいそうになる柔軟性だ。
「ああっ、ごっ、ごめんっ……!」
「うふふっ。いえいえ」
溺れたみたいに魅惑の柔らかさの中から、ぶはっと顔を上げる。
すると、笑顔のアイアノアと至近距離で目が合い、否応なく照れてしまった。
その緑の瞳は吸い込まれそうになるくらい魅力的で目を奪われる。
いつの間にか腰に回されていた手が身体を支えてくれていて、エルフ美女の腕の中でまだまだと夢見心地のようであった。
今回の目覚めもまた強烈なインパクトだ。
勇者ミヅキの、三巡目の異世界巡りが始まったのである。
「お身体はもう大丈夫ですか? お顔のしゃんとされたその様子だと、すっかりとお目覚めになられたようですね。回復に向かわれているようで良かったです」
「……起きていきなりこんなことしてごめん……。何だか頭と身体が重たくてさ。あ、もう一人で立てるよ。ありがとう、アイアノア……」
そんなつもりはなかったものの、たっぷりアイアノアの胸の感触を堪能してからミヅキはふらふらしながら立ち上がる。
アイアノアは心配そうに笑みを浮かべ、これまでのいきさつを話してくれた。
「ミヅキ様は三日三晩寝込まれておいでだったのですよ。覚えておられますか? パンドラの地下迷宮で伝説の魔物、雪男を倒したあの日、ここ冒険者と山猫亭にてアシュレイさんの記憶をパメラさんとキッキさんにお伝えいたしました。その後、雪男の魔の意思を覗いた瞬間、ミヅキ様はお倒れになったのです」
「三日も……? そっか、あのときに俺は気を失って……」
思い出すのは頭の深奥に響いた耐えがたい激痛。
図らずも覗いてしまった、悪神八咫の精神攻撃でミヅキは気絶してしまった。
この頭と身体のだるさはそのときのダメージがまだ残っているためだろう。
さらに、あれから三日もの時間が経っているそうだ。
「途中、何度か意識を取り戻されはしましたが、すぐにまたお眠りになってしまわれて……。とても心配致しましたけれど、キッキさんはいつものことだから大丈夫だと……。ミヅキ様はよく記憶障害を起こされるとうかがいましたので……」
眉根を下げた困り顔でアイアノアが言うのは、記憶を失う前の自分の話である。
この迷宮の異世界での、勇者の身体の記憶──。
その頃の自分のことは何も知らないし、わからない。
いつもぼーっとしていて、何度も記憶障害に陥っていたと聞いている。
「今度もそれと同じ症状で、お目覚めになってはいるものの、ミヅキ様は心ここにあらずといった感じで、ずっとぼんやりとしていらっしゃいましたよ?」
「うーん、全然覚えてない……。本当に記憶が無いな……」
アイアノアの話では、気を失って倒れてからの間、何度か意識を取り戻していたらしい。
しかし、心配してくれている再三の呼び掛けに反応は薄く、何を言っても上の空であったというのだ。
それが聞いていた通りの、この世界におけるミヅキの記憶障害なのだろう。
そんな寝たり起きたりの状態が三日間続いていたそうである。
「──あっ、そうだっ!」
と、ミヅキは大声をあげた。
そういえば、真っ先に確認したかった大事なことがあった。
あれからどうなってしまったのか気になり、気が気ではなかった。
絶対に忘れられない、ミヅキの脳裏に刻まれた無残な記憶。
現実の世界にて、災害で滅んだ故郷で再会したアイアノアは黒い龍に噛み砕かれ、目の前で消えてしまったのである。
最期に、ミヅキに逃げるように言葉を遺して。
「あれから大丈夫だった?! どこか怪我はしてないかっ!?」
アイアノアの両肩を荒々しくつかみ、その身が無事かどうかを確かめる。
今度の彼女の身体は精神体などではなく、手にはちゃんとした感触がある。
華奢な細腕なのに、意外に力持ちなアイアノアの両腕だった。
「あ、あらあらあら……。ミヅキ様、そんなに慌てていったいどうされました?」
ただ、血相を変えて叫ぶミヅキに、アイアノアは目を丸くして驚いていた。
困惑した顔は何を言われたのかわかっていないように見える。
一見して何事もなく無事で、身体に怪我などは確認できないが、あれだけのことがあったのだからただで済んだとは思えない。
「どうって……! あの黒い龍に襲われてっ! 俺を逃がすためにアイアノアたちが犠牲になって──。本当に大丈夫かっ? ちょっとよく見せてっ」
「ふぁぁぁぁんっ、いけませんミヅキ様っ……! そのようにあちこちを丹念に撫で回されてはぁっ……!」
ミヅキは至って真面目に、アイアノアの肢体に異常がないかを見て触って回る。
もちろん他意などなく純粋な心配がさせた行動だったが、出し抜けに身体をまさぐられては何ともたまらない。
アイアノアは顔を真っ赤にして、恥ずかしさとくすぐったさに身悶えていた。
「ほっ、何ともなさそうだな……。良かっ──、ぐえっ!?」
一仕事終えたとばかりに、安心して一息をついた矢先。
いきなり後ろから襟首をつかまれ、乱暴にベッドに引き倒されてしまった。
どすん、と硬いベッドに背中をぶつけるのと同時に、怒鳴り声が降ってくる。
「姉様に触るな! 朝から何やってるの! 寝ぼけてても駄目なものは駄目ッ!」
仰向けに寝転がって見上げる先に仁王立ちしているのはもう一人のエルフ。
白銀色のショートボブの髪型で、長い前髪の隙間から不機嫌な片目に見下ろされている。
大事な姉を守るため、両手を広げた格好でミヅキの前に立ちはだかった。
「だから言ったでしょ。寝起きのミヅキは見境無いから危ないって」
「あっ、うふふっ、別にいいのに……。──エルトゥリンたら」
いつの間にか目の前に立った、頼りになる妹、エルトゥリンの背にアイアノアは呟いた。
あまり嫌がっていなさそうな姉の様子に、エルトゥリンはますます機嫌悪そう。
「……もうっ、姉様はミヅキに甘いんだから……」
正反対にふわふわと機嫌良さそうにしているアイアノアに口を尖らせている。
それはエルトゥリンが後で聞いた話だ。
アイアノアはミヅキに一目惚れをされていたと言い、自分にめろめろのくびったけであることをとても嬉しそうにしていた。
当初、人間とエルフの仲は最悪だったのに、随分と仲良くなったものである。
「……いてて、エルトゥリンも無事かあ」
未だに重い頭をくらくらさせながら、ミヅキはまたむくりと起き上がった。
そして、こりずに今度はエルトゥリンの片方の手を取り、両手で握りしめる。
その手は透けることなく温かい感触があり、ミヅキは安堵のため息をついた。
「無事で良かったぁ……。俺はもう二人が心配で心配で……」
神巫女町からミヅキを逃がすために犠牲になったのはアイアノアだけではない。
殿の務めを果たし、時間を稼いで黒龍に自爆攻撃を仕掛けた。
目の前でエルトゥリンに爆散され、ミヅキは相当なショックを受けたものだ。
「ちょ、ちょっと、ミヅキ……!? 何を手なんか握って……」
「あらまあ、うふふふっ」
しかし、姉と同様にエルトゥリンにも何が何やらわかっていないようであった。
そんな様子をアイアノアは目を細めて微笑ましく見ている。
エルトゥリンは予想もしなかったミヅキの行動に顔を赤くしてうろたえた。
「は、恥ずかしい、離して! ……ぶつよ?!」
「うぶうっ!?」
言うが早いか、手を離す間もなくエルトゥリンのもう片方の握りこぶしが飛んできて、ミヅキの顔面にめり込んでいた。
起き上がって引き倒されて、またもベッドへノックダウンさせられる。
「きゃあ、やりすぎよっ、エルトゥリン!」
「だ、だって、ミヅキが変な触り方するから……」
一瞬、目の前が真っ暗になって意識を失いそうになるなか、アイアノアの悲鳴とエルトゥリンの弱り声が遠くに聞こえた。
顔面のじんじんとした痛みは、紛れもない現実感を感じさせる。
アイアノアとエルトゥリンに現実味を覚えられることが無性に嬉しかった。
──安心した……。現実世界の俺に会いに来てくれて、あんな酷い目に遭ったのに二人はこうして無事だった。もしかしたら、もう会えないんじゃないかって不安で不安でたまらなかったんだ……。
ミヅキはぼやける視界で天井を眺め、安堵に頬を緩めていた。
神巫女町で遭遇した、あの恐ろしい怪異によって二人は倒されてしまった。
アイアノアとエルトゥリンの安否はとても気になっていたところだ。
目の前に無事でいてくれて、取り越し苦労に終わって本当に良かった。
「俺は大丈夫だよ。アイアノア、エルトゥリン」
勢いよくベッドの上で上体を起こし、二人の口論に割って入る。
ミヅキは心底安心した表情を浮かべていた。
「何はともあれ二人が無事で良かった……。アイアノアが龍に食われて、エルトゥリンが戦って自爆したときはどうしようかと思ったよ……」
「──えっ?」
と、それを聞いたアイアノアはぽかんとした顔になった。
エルトゥリンは怪訝そうに眉をひそめている。
妙な雰囲気を感じたが、ミヅキは構わず先を続けた。
「それにしても驚いたよ。二人が俺の居る世界にまで会いに来てくれるなんてさ。巫女さんの服、すっごく似合ってたよ」
「ミヅキ様……?」
目をぱちぱちと瞬かせ、アイアノアは不思議そうにしていた。
喜々として語るミヅキの様子に少し驚いているように見える。
「アイアノアとエルトゥリンのお陰でこうして無事に帰ってこられたんだ。まずはお礼を言わせてくれ。俺を助けてくれて本当にありがとうっ!」
「……」
開いた両膝に手を置き、ミヅキはがばっと頭を下げた。
誠心誠意、感謝の気持ちを表したつもりだった。
身を挺して命を救ってくれたアイアノアとエルトゥリンには、どれだけお礼を言っても足りないくらいだ。
それなのに──。
二人の反応はミヅキの思っていたものとは全然違っていた。
すがすがしく下げられたミヅキの頭を見つめ、おろおろするアイアノアは明らかに困惑している様子だった。
お辞儀をした格好のミヅキからは見えないが、かぶりを振るエルトゥリンと顔を見合わせては、全く話が見えてこないといった感の表情をしている。
「……えぇっと、恐れ入りますがミヅキ様、先ほどから何の話をされておられるのでしょうか? それはミヅキ様の見られた夢の話ですか?」
そうして返ってきたのはそんな言葉であった。
アイアノアはミヅキが何を言っているのかわからない様子である。
が、ミヅキのほうこそ何を言われたのかわからない。
「何の話、って……。ゆ、夢の話の訳ないだろう?」
ミヅキも驚いた顔を上げる。
三者三様の不審そうな視線が交じわった。
「何とぼけてるんだよ……。俺をかつごうとしてるのか? 二人とも人が悪いなー。あんなとんでもない目に遭ったってのに、夢を見てたなんて冗談きついって」
「ミヅキ様、私たちにはもう嘘偽りはありませんっ。あの日に話したことがすべてでミヅキ様をかつぐだなんて滅相もないことです……」
少しの焦りを覚えつつ、ミヅキは参った風に苦笑いをする。
対して、アイアノアは深刻そうな顔色ですぐさまに弁明をした。
何だかお互いに話が通じていない。
不気味な気持ち悪さが、部屋の空気を濁し始めたみたいだった。
「えぇ? 何を言って……? 本当に俺の言ってることがわからないのか?」
「は、はい、申し訳ありません……。私たちには覚えのないことです……」
色々と負い目のあるアイアノアは、じんわり顔を青ざめさせて謝った。
ミヅキの話を理解できないことをひどく気にしている。
種族間の諍いで知らず不興を買ったことや、フィニスを追う任を隠していたことが彼女を臆病にしてしまっているようだった。
そんなアイアノアを気遣うのも忘れ、ミヅキは興奮気味に立ち上がった。
困惑するのはミヅキだって同じだったから。
「そんな馬鹿な……! 俺が故郷の神巫女町に戻ったら、アイアノアが世界の壁を越えて会いに来てくれて、これからどうしたらいいかの情報をいっぱい教えてくれたんじゃないか……!」
「ミヅキ様っ、お気を確かに……。私はそのようなことはしておりませんっ。この三日の間、ミヅキ様はずっとこの部屋でお休みになられていたのです……。私たちも同様に、どこかへ出かけてなどおりませんっ」
すがるみたいに食って掛かるミヅキを、アイアノアも必死な顔をして押し止めようとしていた。
困り顔で表情歪ませる彼女が嘘をついているとは思えない。
それならと、今度はエルトゥリンに問い掛けてみる。
「エルトゥリンはどうなんだっ?! 絶対無敵の星の加護だったのに、あの黒い龍には全然歯が立たなかったじゃないかっ! 何か覚えてないかっ!?」
「黒い竜……? パンドラの地下迷宮で追っ払った赤い竜の間違いじゃないの? 私は知らないわ。何かと戦って負けた覚えなんてこれっぽっちも無い」
但し、こちらも結果は同じであった。
星の加護を顕現させ、黒い龍とど派手なバトルを繰り広げた事実をエルトゥリンは知らないと言う。
ミヅキの記憶違いだと一笑に伏し、何なら無敵であることにけちを付けられたと不機嫌そうにさえしている。
「……は、はぁ? 二人して、そんな、何で……」
急に立ち上がって、激しくまくしたてたせいか身体からへなへなと力が抜ける。
ミヅキはよろめきながら脱力してベッドに腰を落ろすのだった。




