第240話 勝負の誓約
「三月のやりたいことって、もしかしなくても女神様の試練? その果てに何か希望でも見出してしまった、ということなの?」
「ああ、そうだよ……。この先、夕緋と結婚するんでも、それまでにどうしても済ませておきたい用事があるんだ……」
夕緋の問いに、物怖じするのをこらえてはっきり答える。
心臓がばくばくと早鐘みたいに鼓動を打っていて、頭が芯からぐらぐらと揺れていたが、決して目を逸らさないように勇気を振り絞った。
「嗚呼、いい目ね、三月。凄くぎらぎらしてる。ゾクゾクしちゃう……」
きっと夕緋には、それが向こう見ずな蛮勇だと映ったのだろう。
自分に真っ向から楯突いてくるのを逆に好ましく思う。
可愛い盛りの幼い弟が、決して勝ち目の無い勝負を姉に挑んでいるかのよう。
怒りと悲しみと併せて湧いた、興奮と愉悦に夕緋は身震いをする。
「昔っからそうだったよね。テストの点数でも、体育のかけっこでもそうだった。他の皆は私を褒めそやし、崇めるだけだったのに、三月だけは違ったよね。本気で私に立ち向かってきてくれた。──だったらこうしましょう」
清楚で可憐な見た目とは真逆で──。
女傑は好戦的に目をきらきらさせていた。
思い出しているのは子供の頃の楽しい記憶の数々。
畏れ多くも、神水流の巫女に張り合おうとするのは三月だけだった。
「三月は三月で気が済むようにやってみたらいい。得体の知れない誰かに何を吹き込まれたかのは知らないけれど、世界を救える力とやらでいったい何をするつもりなのか、見届けてあげるわ」
それが猶予の期間だというのなら、特別に許してあげてもいい。
自信と余裕に満ちあふれながら、夕緋は神々しささえ見せて言った。
「貴方が打ち勝つべき女神様の試練、──そう、これは使命ね。三月が本当に使命を果たせるかどうか、その身命を賭して試みなさい」
両手を開いて三月に差し向ける。
絶対強者たる高位な己に、果敢にも立ち向かう挑戦者を迎え撃つ。
その様子は、さながら戦いの女神が勇者を試す絵面そのものであった。
「世界を救うほどの成果を得られるのなら、三月の気持ちに応えてあげなくちゃね。だけど、私もただ待ってるだけじゃ張り合いがないわ。これまで散々待たされて、婚約までしてもらってるんだから、もうじっとなんてしてなくていいよね」
しかし、女神は勇者の行いを黙って見ていてくれるほど優しくはない。
自ら戦いの地に降り立ち、ためらいなく威厳ある神威を下す。
「勝負よ、三月」
そう言って、夕緋は人差し指を立て、三月の顔に突きつけた。
「三月が頑張るのなら、私だって努力する。どう足掻いても私と結婚して、幸せに仲良く暮らしていくしかないって思い知らせてあげる。いつもいつも、最後に勝つのは私だったでしょう?」
これは宣戦布告であった。
交戦に当たり、お互いに勝利条件と戦いの着地点を宣言し合う。
三月は冷や汗を浮かべて武者震いし、夕緋は楽しげに微笑んでいた。
「俺は使命を果たす。世界を救って、結婚できる気持ちになるのを整えたい」
「私はそれを待たない。使命の成否に拘わらず、私と結婚するしかない、そう認識を改めさせる」
傍目には結婚を懸け、何やら大げさな言い合いをしている三十路前の男女にしか見えないだろう。
男は何だかんだと婚期を先延ばしにし、女は必死になって結婚を迫っている。
さぞや、滑稽で見るに堪えない場面なのかもしれない。
但し、このやり取りには本当に三つの世界の命運が掛かっている。
三月の身にもしものことがあれば──。
パンドラの地下迷宮はいずれ暴走を起こし、女神日和は敗北の眠りにつき、大切な故郷は滅んだまま復活しない。
「いい、三月? これは勝負の誓約よ、私と三月の」
立てていた人差し指が折られ、代わりに小指を立てた手が差し出された。
夕緋は笑顔で指切りを三月に迫る。
「この約束、結んでくれるよね?」
「約束、か……」
ずい、と突き出された小指に視線を落とす三月はたじろいでいた。
何故だろう、ただの人間に過ぎない夕緋との約束なのに、とてつもなく重苦しい何かを感じる。
「どうしたの? 指切りしないの?」
「す、するよ……」
張り付いた微笑みを浮かべる夕緋に促されるまま、おずおずと小指を差し出す。
すると、いきなりひったくられるように、三月の小指は夕緋の小指に強引に絡め取られてしまい、無理やりにも約束を結ばされてしまうのであった。
「はいっ、ゆーびきーりげーんまん、うそつーいたらっ──」
朗らかな声で子供みたいに歌い、必要以上に結んだ小指同士を上下させる。
と、途中まで明るい感じで指切りのフレーズを口ずさんでいたかと思うと。
一拍歌うのを止めた後に、夕緋の表情はがらりと変わっていた。
「──針千本飲んだって、いくら三月でも許さないから。……覚悟してね」
無表情で、抑揚無くそう言った。
冷え切った声は、心臓を凍り付かせられるほど恐ろしく感じた。
フック状に引っ掛け合った小指がぎりぎりと締め上げられている。
うっ血するほど力強く、指を千切られそうなほど。
当たり前かもしれないが、夕緋は怒っていたのだろう。
「わかったよ……。約束は、守る……」
ここに至り、もう選択の余地などなかった。
夕緋との約束を結ばされ、ますますの窮地へと追い込まれる。
「うん、いい子、三月っ! これで私と三月の間には、決して破れない約束が結ばれたわ! 大丈夫よ、例え使命がうまくいかなくったって、絶対に私が何とかしてあげるから。安心して頑張ってきてね!」
途端、夕緋はまた弾けるばかりの笑顔に戻っていた。
それどころか、両手を背中に回され、力いっぱい抱きつかれてしまう。
胸に顔を寄せてきて、愛おしそうに頬ずりまでしている。
「三月、お互いベストを尽くしましょう。くれぐれも身体には気をつけて。次も絶対に生きて帰ってきて。私の大事な大事な三月……」
そう囁く夕緋の声はいつもの優しい声だ。
危険な試練に臨まなければならない三月のことを、心から心配している声。
さっきの冷徹さは嘘のように影を潜めていた。
覚悟をして、とは単なる脅し文句だったのだろうか。
──いいや、夕緋に限ってそんな冗談を言うはずはない。約束が履行されない場合、どんな罰が待っているのか想像するのも恐ろしい……。
三月の武者震いは、いつしか恐怖の身震いに変わっていた。
これは、神巫女町から命からがら逃げ帰ってきた翌日の一夜の出来事である。
夕緋に叱られ、地平の加護を壊されそうになった。
まだまだこれからも異世界を巡る試練は続くというのに、現実の世界でも厳しい制約を掛けられる羽目になってしまった。
雛月の懸念通り、夕緋はもうじっとしていてくれそうにない。
夕緋に抱き締められながら、三月は前途を思って気が重くなるのであった。
◇◆◇
夕緋が三月を解放したのは、あれからしばらく経ってのことであった。
時刻はもう午後10時を回っている。
それじゃあまた明日、と別れの挨拶を残し、夕緋は三月宅を後にした。
「フィニス、八咫、いいわね? 三月は二人の世界に何かしら関与している可能性があるわ。しっかりと調査を進めておきなさい。私が憂慮せず、度が過ぎない程度ならば、三月に手出しするのも許可します」
そろそろ夜も更けた頃、夕緋は暗い住宅街の道を歩いていた。
そして、周囲の何もいない空間に物騒な言葉を投げ掛けている。
「三月との真剣勝負よ。貴方たちの力を私に貸しなさい」
ひときわ力の入った夕緋の声に、闇の眷属たちは姿を現し、応える。
暗い夜に紛れ、異世界の悪玉は雁首をそろえた。
「ああ、いいぜ。くっくっくっ、こりゃ面白くなってきやがった。ミヅキに泣いて謝らせて、夕緋と添い遂げるしかねえって身体に教え込んでやろうじゃねえか」
「まったく、面倒を掛けてくれる。まあいい、暇を持て余していたところだ。夕緋のお遊びに付き合ってやろう」
夕緋の背後、ダークエルフの女と、蜘蛛の男神が左右に立ち並ぶ。
フィニスは心おどらせ、下弦の三日月みたいな笑みを浮かべた。
八咫は気だるそうにしながらも、気に入らない三月に害をなすことができそうで珍しく機嫌が良さそうだ。
「行きなさい。良い報せを待ってるわ」
夕緋の指令を受け、ほどなく二人の姿と気配は消えた。
後には電柱の街路灯の光を受ける夕緋だけが残った。
「……」
フィニスと八咫が完全にいなくなったのを感じ取ると、決まりが悪そうに目を右へ左へと泳がせる。
そうして、困った表情になると盛大にため息をつくのであった。
「はぁ……。勢いで勝負だなんて言っちゃったけど……。これでまた、三月と結婚するのが遠のきそうだわ……。もうっ、三月の馬鹿馬鹿っ! 往生際が悪いったらありゃしないんだからっ!」
思わず口から飛び出したのは後悔のぼやきと、潔くない三月への抗議。
何やら世界を救うだの言い出して、煙に巻かれてしまった感さえある。
これもきっと、三月の中に巣くう何かに良からぬことを吹き込まれたからに違いない。
「今日の私、やり過ぎなんだろうなぁ……。多分、また怖がらせちゃったわ……。こんな変な女を引き受けてくれるの、三月だけなのに……。私も馬鹿……」
寒空の下、がっくりと肩を落として独り自己嫌悪に陥ってしまう。
どうしてあんな風にすぐ高圧的な態度になってしまうのか、自分の性格の問題を感じずにはいられない。
脅して無理やりキスした挙げ句、結婚を迫る約束までさせて、さぞかし重たい女だと思われたことだろう。
しかしさて置き、急に夕緋はぱっと表情を明るくさせた。
「で、でもでもっ! やったわ、私! とうとう三月とキスしちゃった……! 私の人生の、ファーストキッス……!」
感情と勢いに任せた蛮行だったものの、一線を越えて踏み出せたのは立派な進歩であった。
子供の頃から大人になるまで伏せ続け、災害の後から今までも押さえ続けてきた気持ちをようやく行動で表すことができた。
あんな形となってしまったが、さっきのあれが夕緋の初めてだったのだ。
「はぁはぁ、身体が熱くて落ち着かないっ……。と、とてもじゃないけれど、今晩は眠れそうにないなぁ、もぉうっ……!」
思い出せば思い出すほど、身体が芯から熱くなった。
口や鼻、毛穴という毛穴から蒸気を吹くみたいに体温を放出させる。
両手を胸に当て、たまらずその場でぴょんぴょん跳ねてしまっていた。
かと思えば、次の瞬間には夕緋はその場から忽然と消えていた。
大地を離れ、高い高い空へと超高速で飛翔していく。
天に昇る最中、背に巨大で猛々しい黒龍を従えながら。
興奮冷めやらぬ龍神の巫女は、瞬時に夜の成層圏にまで上昇し、楽しそうに空を舞い踊っていた。
冷たいというには低すぎる温度の、薄い大気の中を軽やかに飛び回り、一晩中を掛けて火照った心身の熱を冷ますのであった。
「三月っ! 三月ぃっ! この世で一番っ、愛してるわぁぁぁぁーっ……!!」
ピイィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ……!!
遅まきながら、神水流夕緋は青春を取り戻す。
夕緋が愛を叫び、黒龍が吼える。
しかして、天空に響かせる甲高い咆哮は喜びに満ちあふれていた。




