第233話 奇襲
『私、何もしてません……。乱暴されたのは私のほうなのに……』
翌日の早朝、夕緋は最寄りの警察署の取調室に居た。
昨晩に起きた、大勢の人の「行方不明事件」について重要参考人として任意同行させられていたのである。
フィニスと八咫の手に掛かり、間違いなく夕緋を迫害しようとした人々は殺されてしまったはずだった。
しかし、多少の血痕はあるものの、遺体が一つも見当たらない。
多数の人間が忽然と姿を消してしまった、としか言いようがなかった。
夕緋以外の二人組を見たと証言する者も居たが、そんな人物はどこにもいない。
兎にも角にも、証拠らしい証拠は何も挙がらなかった。
『あっ、痛いっ……。わ、私に触れちゃ駄目ですっ……』
取調室の硬いパイプ椅子に座る夕緋が小さく悲鳴をあげた。
事情聴取に当たっていた強面の刑事の手が、がっしりと夕緋の肩を掴んでいた。
与り知らないことだったが、この刑事の両親も災害当時の神巫女町に住んでおり、被災した犠牲者となっていた。
神水流の巫女などという存在を胡散臭く思っていて、夕緋本人のみならず、騒ぎを起こして行方不明になった者たちにも苛立ちを覚えていたという。
『フィニス、八咫……。やめて……』
座ったまま振り仰ぐ視線の先、刑事の後ろにフィニスと八咫が立っている。
きっと夕緋以外の誰にも見えていない。
ほどなく、刑事は胸を押さえてその場に崩れ落ちた。
心臓が止まり、絶命してしまったようだ。
死因は心不全だと診断されたが、無論そんな疾患を持っていた訳ではない。
魔女と悪神の怒りを買った。
命を落とした理由はそれで充分であった。
「私は何とか助かったけど……。私に乱暴をしようとした人たちは大変な目に遭うことになってしまった……。それだけじゃない、あの夜を辛くも生き延びた人たちも無事じゃ済まなかったわ……。──凄まじい祟りが襲い掛かったの」
悪夢はまだ終わらなかった。
刑事の突然死で大騒ぎになり、証拠不十分で夕緋が釈放された後もなお続いた。
フィニスと八咫から、あの晩を逃れられた人々にも呪いの追っ手が掛かる。
「雷に打たれたり、交通事故に遭ったり、川や海で溺れたり、急な病気で倒れたりして……。全員が一人残らず、一週間もしない内に命を落としてしまった……」
不審死が終わることなく続いた。
巫女に仇をなした者たち全員が息絶えるまで、死の嵐は収まらなかった。
つまるところ、夕緋への攻撃に加わった人々は鏖殺されてしまったのである。
「はぁ、はぁ……」
気付くと夕緋の記憶から解放されていた。
三月は目を見開いて、肩を大きく揺らして呼吸を繰り返す。
「そんなことが相次いだものだから、周りの人たちは神水流の巫女を穢そうとしたから女神様が祟りを起こしたと恐れて、私を避けるように……。いいえ、忌み嫌うようになっていったのよ……」
巫女に害を及ぼした者に呪いと祟りがあった。
大災害を起こしただけでは飽き足らず、大地の女神が未だに怒り狂っている。
そうした噂はすぐに広まった。
気味悪がられるどころか、もう夕緋は恐怖の対象でしかなかった。
「もう私には居場所も行く当ても無かった。行く先々で祟りの犠牲者が出るのなら、親戚の引き取りの申し出も断らざるを得ないわ。ひどい迷惑を掛けてしまう……」
はれ物扱いを受けていた彼女は淡々と語った。
夕緋の行くところ、常にフィニスと八咫が付いて回る。
親戚や近縁を頼るなどもってのほかだ。
どうあがいても呪いと祟りが関わる者すべてに撒き散らされる。
「だったら、もう一人で居るしかない……。私は故郷を捨てた……」
夕緋はすぐに苦渋の決断を下した。
周りを取り巻くのは、何も夕緋を憎む人たちだけではない。
友人の宗司や、その祖父の恭蔵氏のような味方をしてくれる人も居たのに。
夕緋は故郷と知人らに背を向け、一人で去ったのである。
「それから何年かの間は、誰にも会わないように過ごしたわ……。どこで何をしてたのかは聞かないでいて欲しいな……」
人知れず子供から大人になり、ひっそりと孤独に生きてきた。
大災害と入院期間を経て、19歳になってから現在に至るまで10年近く、女性の花の盛りな時期を夕緋は一人きりで暮らしていたのだという。
その間の苦労の程は想像しがたく、安易に詮索するべきではないだろう。
「──その頃よ。三月のことを見つけたのは」
夕緋は三月の目を真っ直ぐと見つめた。
灰色しかなかった、彩りの無い世界に希望の色が浮かび上がったみたいに。
夕緋の瞳には一縷の輝きが戻ってきていた。
「今だから正直に言うね。もしかしたら三月も気付いていたかもしれないけど、私たちの再会は偶然じゃない。この身に宿る、女神様の力で三月を探し当てたの」
「そう、だったのか……」
当初、雛月が疑問に思っていた事実を、夕緋は自らの口で語った。
今更驚くことでもなく、三月は自然と受け容れる。
夕緋には特別な力があり、そのくらいならできてしまっても不思議ではない。
「……三月にも故郷の人たちみたいに迷惑を掛けてしまうかもしれない……。そう思ったけど、私は自分の気持ちを抑えきれなかった……」
夕緋は葛藤していた。
三月に会いたい気持ちと、三月に祟りが及ぶのを避けたい気持ちがせめぎ合う。
結局、長く抑圧されていた気持ちが溢れ出すのを止められなかった。
それに、子供の頃とは決定的に違う、確かな算段もあったのだ。
「私の神通力も自由自在に使いこなせるようになってたから、三月一人くらいならあの二人の祟りや呪いから守ってあげられる……。そう思ったらもう、止まらなくなってしまって……」
夕緋の神通力は当時よりもさらに飛躍的に高まっていた。
未だ天井知らずに力を増し続ける成長の真っただ中、とは日和の太鼓判である。
女神さえもが一目を置くこの霊妙の力があれば、フィニスと八咫の魔の手を退けることができる。
身勝手とは思いつつも、夕緋はとうとう踏み切った。
「三月にまた会えて、三月は全然変わってなくて……。そして、私を受け容れてくれた……。本当に、本当に嬉しかった……」
勇気を振り絞って夕緋は三月と再会した。
住所を探し出し、仕事から三月が帰宅するのを待った。
アパートの一室の前で、秋の夕空を見上げていた時間は随分長く感じたものだ。
「三月と一緒に、また頑張って生きていこうって、そう思った……。だけど──」
しかし、久方振りに訪れた幸福な時間はそう長くは続かなかった。
今度は自分ではなく、三月に女神の試練が降りかかる。
「女神様はまだ私を離してはくれない……。三月を危ない試練に引きずり込んでしまった……。故郷を捨てて、神水流の巫女を辞めて、ようやく解放されたと思ったのに……」
どこまでいこうと人の世界の外側から、運命をからめ取る触手が伸びてくる。
せっかく手に入れた幸せなのに、水が手の平から零れ落ちるみたいに留まっていてくれない。
自らの意思で逃げていってしまう。
「このうえ、三月までもが進んで危険に飛び込んでいこうとする……。神様と約束をしちゃ駄目だって言ってるのに、嘘を言ってまで言う通りにしてくれない……。だから、考えたくないけど思ってしまったわ……」
誰よりも意思の強い夕緋でも揺らいでしまう。
三月の裏切りとも取れる行為に、酷くネガティブな思いを抱いてしまう。
「──三月も私を恨んでる? 私が駄目な巫女だったから町があんなことになってしまったんだって……。三月のお父様お母様、姉さんが死んだのは私のせいだって思ってる……?」
この三月も同じだろうか。
自分を迫害した故郷の皆と同じく、腹の内では嫌っているのではないだろうか。
平穏を望むのとは裏腹、不可思議へと身を投じる三月がわからない。
「私の知らないところで危ないことをしてたり、この世ならざるおかしなものたちと関わりを持ってたり……。何事も無く、穏やかに私と暮らしていくのがそんなに嫌なの……? 私のことが嫌いだから、みんなと同じに私を恨んで──」
夕緋の両目から涙が零れだした。
悲しみに暮れる表情が、とめどない滂沱の涙でくしゃくしゃになる。
「そんなことない! 嫌いだなんて思ってないッ! それにっ、あれは夕緋のせいなんかじゃない!」
思わず三月は叫んで言った。
そのまま夕緋を抱き締める。
その細い身体は小刻みに震えていて、切ない感情が伝わってきた。
「いくら何でもあんな恐ろしいこと、夕緋にできる訳ないじゃないか! あれは、あの災害は誰のせいでもないんだ! 夕緋が気にすることなんかじゃないっ!」
三月は知っている。
神巫女町大災害を引き起こした張本人のことを。
乱心した破壊神の気まぐれが、あの惨禍の正体であるのだ。
夕緋をこんなにも悲しませる夜宵には心底怒りが湧いた。
「私、三月に会えるのだけを楽しみにしていたの……」
抱きかかえた夕緋の声が耳元で聞こえた。
ぽつりぽつりと気持ちを吐露する。
これまでずっと秘めていた分、夕緋はもう思いを隠さなかった。
「身体を治して、生き残った皆の元に戻れば三月が待っている。そう思って帰ってきたのに三月はもう居なかった……。その時の私の気持ち、わかって欲しい……。とっても悲しかったわ……」
三月の背中を、夕緋もぎゅうっと強く抱き締めた。
もう離さないと、切なる願いを込めて。
「だからもう、私を一人にしないで……。三月、どうか私と一緒に居て……」
「今までごめん、夕緋……」
三月には謝ることしかできなかった。
どうすれば夕緋の辛い日々に報いられるだろうか必死に思い悩む。
「ううん、いいの……。三月だって辛かったんだものね」
それでも夕緋は三月のことを思いやる。
心安らげる日々はまだ遠いのかもしれないけれど、目の前にまで近付いているのもまた確かであった。
「私、今は幸せよ……。こうして三月と一緒にいられるし、恋人にもなれたしね。婚約までしてもらって、もう言うことはないくらい……」
三月と恋人になれた。
婚約までしてもらえた。
このままずっと一緒に居られる。
末永く、暮らしていける。
「ねえ、三月、そんな今だからこそ聞かせて」
夕緋は問いを投げ掛ける。
それはある意味での禁断の質問だったのかもしれない。
「──もしも、私が世界を滅ぼせる力を持った悪い女だったら、どうする?」
もしもの話。
あくまで仮の話。
それが本当に事実だった場合、三月のしている重大事の意味が変わる。
「本当に、あんな大災害を起こして、三月やみんなの大切なものを奪ったのが、私のせいだったなら……」
夕緋がどうしてそんなことを言い出したのかはわからない。
神通力を持っていたって夕緋は人間だ。
人間にあんな天変地異を絶対に起こせる訳がない。
「それでも私のそばに居てくれる? 私を見捨てないでいてくれる?」
きっとこれは、もしもの空想話を介した夕緋の可愛らしい質問なのだ。
そんな恐ろしいことに関わっていたとしても、自分を愛してもらえるかどうかを確かめたいと思っているだけに違いない。
「夕緋のそばに居るよ。見捨てたりなんてしない。もし夕緋にそんな恐ろしい力があったとしても俺がさせない。無かったことにしてみせる……!」
だから三月も気持ちに応える形でそう言った。
異世界を渡ってタイムリープを行い、過去を改変する。
そうすれば大災害は起こらなくなり、夕緋がこんな悲しいことを言わなくて済むようになるはずだ。
「三月、嬉しい……」
二人は一度、身体を離して顔を向き合わせた。
夕緋は頬を赤らめ、微笑んでいた。
瞳の端からきらきらとした涙が溢れている。
そして、瞳を閉じた。
しっかりと首に手を回して、顔を近付け、唇をすぼめた。
夕緋はキスを求めた。
三月もそれに応えようと、自分も目を閉じる。
恋人同士の気持ちを通じ合わせた大切なやり取り。
しかし──。
「三月、ごめんね」
目を閉じていたからわからないが、夕緋のかすかな声が聞こえた。
それは目の前ではなく、顔の真横、左側から聞こえた声だった。
途端、左の耳たぶあたりに軽い痛みが走る。
驚いて目を開けると、そこには予想していなかった行動を取った夕緋が居た。
三月の左耳に噛みついている。
力強く三月の首にしがみ付き、身動きができないようにして噛みついている。
「え……!? あ、ゆ、夕緋……」
身体中から力が抜けていく。
耳から頭部、首から全身へじんわりとしたまどろみが伝わっていく。
強力な麻酔薬でも投薬されたかと思うほど、急激に意識が遠のいていった。
「……うぅ……」
短く呻き、夕緋に抱き付かれたまま三月は気を失ってしまう。
両手がだらんと落ちて、身体を支えていられなくなる。
「三月、大丈夫……」
そんな三月を優しく抱き止め、夕緋はゆっくりと体勢を入れ替える。
その頭を抱え込むように両膝に乗せ、横向きに床に寝転がらせた。
「トラウマを克服して神巫女町に帰ったのも驚いたけど、それよりも……」
やや苦しげに眠る三月の顔を間近に見下ろしつつ、夕緋は言う。
昨日、件の神巫女町で起こった大捕物を思い出しながら。
「三月があんな不思議な力を持っていたなんて知らなかった。でも、危ない玩具を持っていては駄目よ。──三月の力、預からせてもらうね」
夕緋は三月の地平の加護を初めて目の当たりにした。
それは、ただの人間だと信じて疑わなかった三月が持っていた不思議な力。
下手にこんな力を持っているから余計なことを考えるのだ。
妙な入れ知恵をしている輩の存在もちらほらと感じる。
だからそんなものは不要だ、無くなってしまえばいい。
「安心して、三月。全部私に任せておいて。……いいえ、私たち、かな」
夕緋はにこりと微笑んだ。
仏の顔も三度までか、堪忍袋の緒が切れたのか。
龍の逆鱗に触れられたのと同じに、夕緋はじっとはしていてくれなかった。
邪魔をしないなら見逃しておく、とは方便に過ぎない。
初めから捨て置くつもりなどない。
禁断の領域に踏み込もうとする三月から、夕緋は「玩具」を取り上げる。




