第232話 祟りの嵐
やはり夕緋は三月を許した。
嘘をついてまで、禁足地としていた神巫女町へ行ったことを許した。
夕緋は三月を大切に想う気持ちを優先させたようであった。
お互いに全部を打ち明けられない事情があるにせよ──。
だから三月も、一時しのぎだろうと夕緋の許しを得られたことに安堵した。
「……」
ほっとする三月の顔を見つめる夕緋の笑顔が一瞬だけ冷たくなった。
問いただすのをやめたのは三月を思いやる気持ちが半分。
残り半分は実は違う。
これ以上踏み込んで聞けば、あの場に自分が居たこともばれてしまう。
それは夕緋にとって、大変に都合が悪い。
フィニスと八咫、自身の黒龍の力は露見しても構わない。
しかし、付きまといや盗撮、監視といった、自分の醜い部分を知られるのはどうしても避けたかった。
腹に一物あるのは三月だけではなく、夕緋もまた同じなのだから。
「──だけれど」
安心したのもつかの間、夕緋の顔からまた笑みが消えた。
眉をひそめ、瞳を左右に油断なくぎょろぎょろと動かす。
「この部屋、誰か居る? 私と三月以外に誰か」
後ろを振り返ったり、天井や部屋の隅にまで視線をやったりと警戒している。
唐突に驚くべきことを夕緋は言い出した。
雛月に勘付かれている。
何となくそんな気はしていたが、思っていた通りの事態であった。
「えっ……!? い、居る訳ないよっ……! ここ俺の住んでる部屋なのに、怖いこと言わないでくれよ、はは……」
三月はぎょっとして、思わず夕緋の後ろの雛月を見る。
ひきつった薄ら笑いしか浮かばない。
「嘘だろう……? ぼくは三月の意識の中にしか存在していないのに……」
雛月も驚きに表情を失っていた。
「第一、夕緋に見えないんなら、そりゃ何も居ないってことの証明だろう……?」
「……おかしいなぁ。ほんと、私に見えないはずなんてないのに」
もう一度、後ろを振り向きつつ夕緋は小首を捻っていた。
居るはずのものが居ない、そう思っている風である。
霊的なものであれば、夕緋に見えない道理はないのである。
しかし、雛月の姿は夕緋の目には映らない。
「俺には何もわからないけど、夕緋には何かの気配を感じるのか……?」
「気配なんて感じないわよ。でもね、三月の目の動きとか微妙な仕草を見ていればわかるの。三月の意識が何かに向いていて、相手もそれに応えてる」
とぼける三月に夕緋はにべもなく答えた。
見えず感じずとも、雛月の存在は確かに捕捉されていた。
三月が意識をする限り、夕緋の感覚からは逃れられはしない。
「馬鹿な……。ぼくに気付くのかよ……。規格外過ぎるぞ、夕緋……」
これにはさしもの雛月も開いた口がふさがらなかった。
「そ、そんな……。ははは……。気のせいじゃないのか……?」
「私の勘は大体当たるわ。気のせいじゃないってことは確か。この部屋に私と三月以外の何かが居る。……ずっと見られてるのは気分が悪いけど、何も邪魔しないんなら見逃しておいてあげる」
但し、夕緋の雛月への追求はそこで一旦終わる。
感知はできない以上、悪影響が出ないならとりあえずは捨て置く。
度が過ぎない限りは泳がせて歯牙に掛けない、とは夕緋の常のスタンスだ。
「そ、そっか……」
「三月から意思を伝えられたら言っておいてちょうだい。妙なことをしたり、企んだりしてるなら、私がただじゃおかないってね」
釘を刺す夕緋の目の奥は冷たく光っている。
夕緋が寛容で理解があるのは三月のことだけだ。
それ以外には興味は無く、容赦も無い。
──ゆ、夕緋のこの目、本気だ……。こりゃ、絶対に雛月のことは秘密にしておかないと駄目だな……。まかり間違って除霊やら退治でもされたら堪らないぞ……。
三月は危機感を感じてごくりとつばを飲み込んだ。
雛月を危険視されては、いくら自分の中にしか存在しないとはいえ、この夕緋のことである。
何らかの方法で雛月の除去をされないとも限らない。
雛月も同じ気持ちのようで、うんうんと焦って頷いていた。
「──そんなことよりも、三月」
と、冷たかった夕緋の表情に感情が戻る。
打って変わり、過去を振り返っての悲しみを浮かべている。
「宗司君から私のこと聞いたって言ったよね。……じゃあもう、きっと聞いてしまったんじゃないかしら」
張り詰めた空気が弛緩し、立場が逆転したみたいに夕緋は言いづらそうだった。
うつむき加減に視線を落とし、沈痛な面持ちで言葉をこぼす。
「……私が恨まれてるということを。巫女の務めを、果たせなかったから……」
「宗司から、聞いたよ……。だけど、あんなに頑張って巫女さんのお勤めをやってたのに、夕緋が恨まれるだなんて……」
三月も表情を曇らせる。
それは宗司から聞いた信じがたい事実であった。
一途に、実直に、わずかの甘えもなく、日々巫女として町に尽くしていた。
来る日も来る日も神水流の巫女の務めを果たし、大地に平穏を祈ってきた。
巫女を崇める信仰は本物で、人々もいつもありがたがっていた。
しかし、町が滅ぶのを機に、彼らはまるっきり掌を返すことになる。
「ううん、いいの。本当は私から話しておくべきだった。それにね、三月にだけは知っておいて欲しいの。だから打ち明けるね、私が故郷に帰りたくない理由を」
夕緋は両手を伸ばし、三月の手をぎゅっと握った。
ひんやりとしたさらさらの手に包まれ、彼女の悲惨なる独白は始まった。
「いいえ……。戻れない理由、かな……」
そうぽつりと言った夕緋の手に、さらに力がこもる。
心の奥底に閉じ込めていた記憶をさらい上げ、静かに言葉を紡ぎ出した。
「宗司君のお爺様、恭蔵さんがお世話してくれて、私は一旦仮設住宅地に住むことになったの。父方の親戚から私を引き取るって申し出もあったのだけど、少し自分の身の振り方を考えたくて一人で暮らし始めたわ」
急激な火山活動に端を発した神巫女町大災害の後、体調を著しく崩した夕緋は長期間の入院生活を余儀なくされ、退院したはいいが着の身着のままであった。
当然、夕緋は自立できておらず、同郷人の鍔木恭蔵氏に世話をしてもらい、仮設住宅地に入ることになった。
「私もこれからどうしていいかわからなくて……。一人で悶々としていたわ……。一人ぼっちだと仮設住宅の住まいも随分広く感じたものよ。……あれは、そうして私が暮らし始めたときだった……」
最低限の生活用品に囲まれ、閑散とした一人暮らしを始めた矢先である。
仮初めの安寧は無残にも破られてしまう。
「……誰かが初めに悪口を言った。誰かが初めに石を投げた……。もう誹謗中傷や攻撃的な行為は止まらなかった……。私への迫害が始まってしまったの……」
「ゆ、夕緋……!」
三月は息を呑む。
握られた手から、夕緋の記憶の断片が流れ込んできたからだ。
相手が心を開いたなら、地平の加護はその記憶をはっきりと見聞きできる。
このときほど自分の能力を恨めしく思ったことはない。
『な、何ですかっ、貴方たちっ?! 人を呼びますよ……!?』
それは夕緋が戻ってきて間もない、とある晩のことである。
夕緋の仮設住宅に大勢の人々が押しかけ、家の周りを隙間無く取り囲んだ。
殺気だった人々は老若男女で、全員が神巫女町出身者であり被災者であった。
家を失い、家族を亡くし、皆々揃って恨み辛みの矛先を夕緋に向ける。
『いっ、イヤッ……! みんな、やめっ、やめてぇぇッ……!』
先頭切って土足で住居に侵入してきた、粗野で野卑な男たちの手が伸びた。
たちまち夕緋は捕まり、よってたかって床に押し倒されてしまう。
『嫌っ、いやぁぁぁぁッ……!』
泣き叫ぶ夕緋の悲鳴が夜のしじまをつんざいた。
白いブラウスの前を力任せにやぶられ、フロントボタンが弾け飛ぶ。
衣服の下に秘されていた、純白のブラジャーと素肌の膨らみをさらされる。
肢体を押さえ付けられ、まくり上げられたロングスカートから両脚がのぞく。
その足をばたつかせ、夕緋は必死の抵抗をした。
『やっ、やめてぇ! お願いっ……!』
しかし、いくら夕緋が多少力持ちで運動神経が良くても、複数の大人の男に組み敷かれてはどうしようもない。
夕緋は神聖な巫女であり、美しい女性だった。
貶めたい黒い欲望に火が点き、これを穢すことで贖罪を求めたのである。
いわれなき罪を突きつけられて、非情なる乱暴を受ける夕緋。
『……嫌ぁっ! こんなのっ、やだぁぁっ……!』
住居侵入罪、器物損壊罪、傷害罪、そして婦女暴行罪。
これらは当然ながら許されざる犯罪行為であった。
しかし、暴徒と化した住民、元信者たちの暴走はもう止まらなかった。
神巫女町という、特殊な信仰が根付いた土地ではそれは尚更であったのだ。
『た、助けて、お父さんっ、お母さぁんっ……! 姉さぁんっ……!』
夕緋は助けを求めて叫んだ。
今はもう亡き家族に、声を限りにして救いを訴えた。
『助けてぇっ……! 三月ぃぃぃッ……!』
そして、故郷を捨てて今はいない想い人の名をも大声で叫んだ。
泣いて喚く夕緋の悲痛な声は、記憶を通じて三月の胸を抉り、突き刺さった。
朝陽が死んだときと同じくらいの大きな傷を刻まれる。
「夕緋っ……! あぁァ、夕緋ッ……!」
記憶の映像を見ているだけで、今の三月には何もできない。
頭の奥に、直に夕緋が陵辱される姿を焼き付けられる。
「……あっ!? あぁっ……!?」
しかし、次の瞬間に起こった事態に、三月は愕然としながら声を漏らした。
「神巫女町大災害に被災して、恨みに駆られた人たちに私は乱暴されかかった……。──そのときよ。……あの二人に、私は助けられたの……」
抑揚のない声で言う夕緋から衝撃の記憶を見せられる。
すんでのところで、夕緋は嬲り者にされる憂き目に遭わずに済む。
ただ、しかし──。
『……ったく、どの世界でも人間ってヤツのやることは変わらねぇなあ』
いつの間にか、そうした暴行現場のすぐ近くに長身の女が立っていた。
銀色の長い髪に耳介の長い耳、人ならざる褐色肌の魔人。
ダークエルフ、フィニスの出現である。
夕緋にのし掛かっていた男たちを一人、二人と首根っこを掴んで引き剥がした。
筋肉質な豪腕で持ち上げた男を、無造作に次々と壁や天井に投げつけていく。
すると、恐ろしいことが起こる。
仮設住宅の何も無かった壁やら天井に、黒いもやもやが湧き出てきた。
形を持たない黒のそれらは、内部から鋭い牙の並んだ顎だけを剥き出しにする。
フィニスは家屋のそこかしこに現れた大顎に、男たちを投げ込んでいった。
ばくん! ばくん! ばくん! ばくんっ!
がりがりがりがりがり……! ばりばりっ、ぐしゃあっ……!
骨が砕けて、肉が潰れる凄まじい音が部屋中に響き渡り、むせかえるほどの血の臭いが立ち込めた。
現れた黒いもやもやたちは、フィニスの呼び出した闇の精霊だ。
人の血肉に飢え、その魂をも喰らい尽くす魔界からの使者である。
夕緋に乱暴を働いた男たちは、瞬く間に魔物たちの餌にされて消えてしまった。
『夕緋、大丈夫か? もう安心だ。これ以上は指一本触れさせやしねえからな』
呆然とする夕緋の傍らに、大柄なフィニスが片膝をついて寄り添った。
夕緋はやぶれた衣服の胸元を押さえ、まくれ上がったスカートを戻すのも忘れて、フィニスの顔を見上げる。
躊躇無く命を奪う魔女の顔に、粗暴ながら優しげな笑みが浮かんでいた。
夕緋に乱暴をしようとした男たちは排除されたが、復讐と狂乱の熱に浮かされた暴徒の波は未だ収まらない。
急に現れたおかしな格好のフィニス共々、夕緋に再び詰め寄ろうとする男数人。
ここで引き下がっておけば、あるいは犠牲は減っていただろうか。
いや、夕緋に憑く彼の悪神が居る限り、結果は同じだったに違いない。
『おれの夕緋に汚い手でよくも触れてくれたな。覚悟はできているな、ゲス共が』
狭い部屋に、形容しがたい悪声が不気味にこだまする。
瞬間、新たな狼藉者たちは糸が切れた操り人形みたいに膝から崩れ落ちた。
ばたんばたんと倒れ、もう起き上がってこない。
部屋の中に、妖しいきらめきを放つ糸が張り巡らされていた。
何本も何本も、夕緋に近付けさせまいと、壁から天井から白い糸が伸びている。
男たちはこの糸に触れ、次々と意識を失って倒れていったのだ。
さらにおぞましい事態は続く。
しゅうしゅうしゅうしゅうしゅうしゅうしゅう……!
倒れた男たちから湯気のような白い気体が上がっている。
すると、見る間に顔、手足、身体中が痩せこけて骨と皮だけになっていく。
眼球は落ち窪んで乾ききり、毛という毛が抜け落ち、骸骨そのものになった。
誰がどう見てももう生きてはおらず、亡者と化したのはいうまでもない。
累々と横たわる屍に目もくれず、陽炎のように上背の男がたたずんでいた。
ざんばらな黒髪に病的に青白い血色、蜘蛛の巣の柄の着物を着流している。
蜘蛛の禍津日ノ神、八咫が現界をしていた。
『──呪いあれかし。末代に至るまでの一族郎党、余さず貴様たちを祟ろうぞ』
八咫は薄い笑みを浮かべた。
慈悲の心など欠片も持たない邪悪の権化はすべてを呪い、祟る。
人々の生気を根こそぎ奪った糸は、八咫の放った蜘蛛の糸だ。
ぴんと張り詰めたそれらは、猛烈な悪意を生み出す結界にもなっていた。
矢継ぎ早に起こった殺戮を目の当たりにし、悪神から発されている闇の圧に捕らわれ、押しかけた人々は恐怖で動くことはできなかった。
「三月に話したことあったよね。銀色の髪で耳が長くて背の高い女と、蜘蛛の巣の柄の着物を着流した男……。二人のお陰で無事で済んだの……。だから、私の心配はしなくていいよ……」
夕緋は力無く笑っていた。
酷い目に遭わされたのではと、心配する三月を安心させるように。
曲がりなりにも、結果的に夕緋の身は助かった。
「だけれど──」
『フィニス……。八咫……。だ、駄目よ……。やめなさい……』
『夕緋、アタシは元の世界じゃ、人間の国を滅ぼそうとしたダークエルフだ。夕緋に何を言われようが、一切関係の無いこいつらをどうしようとアタシの勝手だね』
『元より夕緋に従う義理など無い。……おれは悪神であるぞ。人間を呪い、因果をもたらすのが宿命だ。気に食わぬ人間共など、皆殺しの憂き目に遭うがいい』
フィニスと八咫は、もう夕緋の言葉に耳を貸すことはなかった。
戦乱の魔女と、蜘蛛の禍津日ノ神の怒りに触れた人々は虐殺される。
夜の仮設住宅地に怒号と悲鳴が飛び交い、額面通りの地獄絵図となっていた。
『アーハッハッハ! 逃げろ逃げろ! 誰一人逃がしゃしねえからよッ!』
絶叫して逃げ惑う人々の背を追い、愉快そうに笑いながらフィニスは短剣を振り回して命を刈り続けた。
後始末でもするかのように、フィニスに追従する闇の精霊たちが人の死骸を平らげていった。
『くっくっ……。愉快愉快、人間共があげる痛苦の叫びの、何と心地よいことか』
八咫の眷属である無数の子蜘蛛が地を埋め尽くし、逃げ遅れた人間を片っ端から群れの中へ飲み込んでいく。
後には何も残らない。
血肉を貪り食い、骨まで噛み砕いてこの世から消滅させてしまう。
八咫はそんな血生臭い光景を嗤って見ていた。
山間に建設された仮設住宅地は、阿鼻叫喚の坩堝となっていた。
窓越しに垣間見える、屋外で何かに追い回される恐怖の様子の、何と物凄まじいことであろうか。
夕緋への迫害に参加しなかった人々は戸と窓を固く閉じて、恐怖の一夜が一刻も早く過ぎるのを怯えながら願っていた。
おそらく、宗司もこのとき家の中で外の恐ろしい騒ぎを聞いたのだろう。
三月に夕緋の過去を伝えようとした際の、暗い表情はこのためだったのだ。
「まるで、地獄のような一晩だった……。私は何もできずに眺めていたわ……」
失意に目を閉じる夕緋によぎるのは、後悔か自責の念か。
夕緋にフィニスと八咫を止めることはできただろうか。
強い神通力があり、不可思議な怪異にはめっぽう強いのだから。
しかし、このとき夕緋には何もできなかった。
何もしなかったのである。




