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第231話 夕緋の怒り、巫女の慈悲

「ちょっと強めにいくね。……歯ぁ食いしばって!」


 幼い見た目の夕緋が低い声で言った。

 年の頃は小学生の高学年といったところであろうか。


 ぱちんと、乾いた音が朝の空気に響いて消える。

 右手を振りかぶり、夕緋が放ったのはきつめの平手打ちだ。


 事が終わり、手を下ろした夕緋の前に立つのはしょげた顔の三月だった。

 その顔の頬は赤くなっていて、ビンタの標的であったことを物語る。


「ごめん、三月。痛かったよね、大丈夫?」


 眉根を下げ、すぐに夕緋は三月にすり寄るとぶった頬に手を添える。


 二人は白のワイシャツとブラウスという小学生時分の制服姿。

 早朝の登校風景の一場面であった。


「派手に喧嘩しちゃったね……。大騒ぎだったじゃない……」


 目立たないよう路地裏に隠れて平手打ちをし、その頬を慈しみさすっている。

 夕緋が言うのは、三月が繰り広げたクラスメイトとの大喧嘩の話だ。


 父である清楽の悪口を言われ、三月が激昂げきこうしていさかいへと発展した。

 夕緋のこれは、その落とし前であった。


清楽せいらくおじ様は優しいから、三月に罰を与えていないんじゃないかなって思ってね。だから、これで許してあげる」


 父、清楽はお説教こそすれ、三月に体罰は与えなかった。

 暴力に訴えて喧嘩をしてしまった三月からすれば、まだどこかに罪悪感が残っていて悶々としていたところであった。

 だから、夕緋にぶたれてせいせいしたのは正直な気持ちだった。


神水流かみづるの巫女の名において、もう貴方の罪は精算されたと宣言します」


 夕緋はじっと三月の目を見つめ、微笑んで言った。

 打った頬に添えた手はそのままに、幼いながらに慈愛に満ちた表情で。


「喧嘩した理由わけは聞いたわ。三月が怒ったのも仕方がないのかもしれないね。誰だって家族のこと悪く言われたら気分が悪いよね。本当、私とお姉ちゃんの巫女派閥みこはばつにも困ったものだわ」


 夕緋は腕を組んでため息を漏らした。


 三月が怒って暴れていると聞いたときには何事かと思ったが、その理由を聞いてみると確かに納得がいったものだ。

 喧嘩の発端ほったんが自分たち姉妹にあるとすれば、他人事ではないとも思えた。


「でもびっくりしちゃった。三月があんなに凄く怒るだなんて」


 三月の剣幕を思い出して、夕緋は目を丸くしていた。

 何でも知っているはずの幼馴染みの、意外な一面を見た気がした。


「みんなには謝って回ったんでしょ? 三月は罪を償ったわ。もう乱暴しちゃ駄目よ? 三月は強い男の子なんだから」


 夕緋は三月を許し、三月も夕緋の許しで安心を得た。


 自信満々に神水流の巫女である権威に胸を張り、不思議な神通力を心身に備える夕緋のことを信頼している。

 優しく寛大かんだいな心ですべてを包んでくれると、信仰にも近い思いを抱いている。


 だからなのだろう。


 例え後ろ暗い秘密があろうと、最後には夕緋は許してくれる。

 きついお仕置きが待っているかもしれないが、きっと笑って許容してくれる。


 三月はそう思っていた。



◇◆◇



「夕緋……」


 三月は少女だった彼女の名を呟き、ふと我に返った。


 耳には流し台で水を流すジャーという音と、食器を重ねて片付けるカチャカチャという音が届いていた。

 ここは三月の住まうアパートの一室だ。


 炬燵こたつテーブルに座り、ぼうっと物思いにふけっていた。

 時刻は午後8時前、夕食のひとときを終え、一息をついていた頃であった。


「ん、呼んだ? 三月」


 台所に立っている背姿が振り返って言った。

 それはエプロンを着けた大人の夕緋であった。


「あ、いや、何でもない……」

「そう」


 思わず目を伏せると、夕緋はにこりと笑って答えた。

 また流し台に向き直り、食後の片付けを再開する。


 10年振りに故郷である神巫女町かみみこちょうに帰り、滅んだ町を舞台に命からがらの脱出劇を繰り広げた翌日のことである。

 三月はそそくさと帰宅し、こうしていつも通りに夕緋との夕食を済ませた。


 昨日に味わった異世界絡みの出来事や、魔物との死闘が嘘みたいな日常が戻ってきている。

 現実世界での不思議体験は、一旦なりを潜めたかとも思えた。


「……」


 片付けの終わった夕緋は、水道のハンドルを上げて水を止めると濡れた手をタオルで拭き、エプロンを外した。

 スリッパを脱いでくるりときびすを返し、すたすたとこちらへ歩いてくる。

 そして、三月の前まで来ると、ロングスカート越しに両膝を床に付けて座った。


「あ、後片付けありがとう……。今日もご飯美味しかったよ……」


「……」


 しどろもどろ風に言う三月の顔を、夕緋は何とも言えない無表情で見ている。

 一瞬の沈黙の後、夕緋からの問いに三月の息は止まった。


「──ねえ三月、私に何か言うことはない?」


 それはとても冷えた声だった。


 夕食のときはおくびにも出さなかったのに、夕緋は急に三月に迫ってきた。

 三月が自分から言い出すのを待っていたのだろうか。


「えっ……!? 夕緋に、い、言うこと……?」


 驚く三月には思い当たる節しかない。


 夕緋の言いつけを破り、危険な故郷に帰っていたこと。

 会社の飲み会があるから食事は要らない──。

 そう嘘をつき、秘密にしてまで決行した帰郷のことである。


宗司そうし君から聞いたわ」


「うっ……。宗司、から……?」


 三月は絶句した。

 昨日、ちょっとした同窓会気分で楽しく過ごした、現地の友人の名が出てきた。

 その当人に確認をされたのでは言い逃れをしようもない。


 パチンッ!!


 アパートの部屋に乾いた音が響き渡った。

 三月には何が起きたのかわからない。


 気がつくと左頬に熱い痛みがあり、目の前の夕緋は伸ばした手とてのひらを振り抜いた格好になっていた。

 目にも止まらないほどの速さの平手打ちだった。


「いっ……?! ゆ、夕緋……?」


「どうして叩かれたか、三月にはわかるよね?」


 夕緋は眉を吊り上げて怒っていた。

 何故なのかは考えるまでもない。


「神巫女町には帰っちゃ駄目だって言ったじゃない……! あそこは未だに危険な場所だし、三月にとって辛くて悲しいことばっかりなのに、どうして黙って帰ったりしたのよ? ……私に、嘘をついてまで……!」


 平手打ちをして下ろした後の手が震えている。


 忠告をしたのにそれを無視して故郷へ帰った。

 危険な目に遭ったり、嫌なことを思い出したりするのを心配していたのに。


 嘘までつかれて言う通りにしてもらえなかったのが腹立たしく、悲しい。

 わなわなと肩を揺らす夕緋の様子は、そんな感情をありありと表していた。


「……うぅ」


 当然、三月に反論する余地は無かった。

 夕緋が怒るのは当たり前だ。


 言うことを聞かず、黙って帰ってしまった。

 そのうえ、実際に命の危機に直面した。

 心配ばかりかけて、これでは夕緋に申し訳が立たない。


「宗司君のこと悪く思わないでね。三月が神巫女町に帰ってきたら教えてくれる、そういう約束だったのよ。先約があったのなら守らなくちゃいけない、三月にならわかるでしょう? それに、宗司君が私と通じてるってわかってたら、素直に宗司君のお世話になれなかったんじゃない?」


 夕緋はまだ怒りが収まらない感じで先を続けていた。

 いつの日か、また三月が故郷に戻るのを夕緋に予見されていた。

 だから先手を打っていたのである。


「私は神水流の巫女だったから、まだそれなりにあの土地の人には顔がくの。私に問い詰められたら宗司君は断れないわ、宗司君は私の信者だもの。三月が神巫女町に戻るのを見つけたら連絡をするようにって頼んでおいたの。だから三月との秘密を喋ったことは許してあげて。ね?」


 もちろん、宗司のことを悪く思うつもりはない。

 本人から聞いた通り、宗司は今でも巫女派閥は夕緋派なのである。

 先だっての夕緋からの頼みであれば断れる理由も無い。


「ねえ、三月。教えてちょうだい」


 ずいっと顔を近付けて、夕緋は三月を問いただす。

 深淵しんえんを覗き込む、ブラックホールのあなのような瞳で問い掛ける。


「あれだけ帰っちゃ駄目だって言った神巫女町で、貴方はいったい何をしてきたのかしら? ──誰かに会って、何かを見たり聞いたりした?」


 隠すまでもなかった。

 夕緋から秘密に肉薄してくる。


 三月は知らない。

 神巫女町で誰に会い、何をしていたのかを夕緋に知られていることを。


 黒龍の神通力を通じ、アイアノアとエルトゥリンに会っていたのも──。

 日和の力を借りて、異界いかい神獣しんじゅうを撃退したのも知っているのだ。


 夕緋はそれを、三月の口から語らせようとしている。


 と、眼前の迫力ある夕緋の顔の後ろ。

 必死の形相で三月が白状するのを反対する者が居る。


「三月、駄目だっ……! 喋っちゃいけないっ!」


 三月にだけ聞こえる声が叫んでいた。


 視界をいっぱいに埋める夕緋の顔の端に、彼女とよく似た少女の姿が映る。

 詰め寄る夕緋の後ろから、三月に向かって必死に訴えていた。


「夕緋にアイアノアとエルトゥリンのことがばれちゃ駄目だっ。日和と通じてるのも同じだっ。フィニスと八咫やたにきっと見られてるっ……!」


 それは雛月であった。


 危険を冒して三月の脳に居場所をつくり、こうして現実世界に現れた。

 地平の加護を介した間接的な干渉ではなく、直接的に三月に意思を伝えている。


 夕緋に異世界渡りとタイムリープの秘密を話す訳にはいかない。

 こちらの立場が明らかになれば、敵対関係のフィニスと八咫にたちどころに命を奪われてしまうだろう。


「絶対に言わないでっ! お願いだっ、秘密を守ってっ……!」


 地平の加護としても全力で三月の意思を操ろうとする。


 加えて、朝陽と同じ顔と仕草で秘密を守って欲しいと懇願こんがんしていた。

 押しも押されもしない夕緋の詰問きつもんに、ぎりぎりのところで抵抗する。


「……い、いや、わからない……。俺も、無我夢中むがむちゅうだったから……」


 脂汗あぶらあせを浮かべながら、舌の根を震わせて言った。

 ひねり出されるのは、苦しまぎれに並べた言葉でしかない。


「確かに夕緋の言う通りだよ……。あの場所で色々なことがあった……。危ない目にも遭ったと思う……。だけど、俺にはあれが現実だったかどうかの判断をするのは難しい……」


 我ながら答えになっていない答えだったと思う。

 何を見聞きしたのかも、誰に会ったのかも答えられていない。


「ごめん……。多分、夕緋が聞きたい答えじゃなかっただろうけど……」


「うん、そうね。変にはぐらかさないで、私の聞いたことに答えて欲しかったのだけれど。──誰かに会ってない? 何を見て、何を聞いたのか教えて欲しいの」


 案の定、夕緋に歯切れの悪い誤魔化しは通用しない。

 同じ質問をもう一度返されるだけだ。


 雛月は目をきつく閉じ込み、くしゃくしゃの顔で祈るように手を合わせている。

 それを見つつ、三月は言葉を選んで何とか答える。


「……宗司には会った。ゆ、夕緋の当時のことを聞いたし、今の俺たちの暮らしのこととか飲みながら話した……」


「それだけ? 神巫女町にも行ったんでしょう? 私はあの故郷だった場所で何があったのかを聞きたいの」


 嘘は言っていないが、夕緋の聞きたいのは宗司との再会のくだりではない。

 明確に、神巫女町あのばしょでの、不可思議なる体験を話させたいのだ。


「う、うぐ……」


「三月っ、しのいでっ……! お願いっ、ぼくを信じてっ……!」


 進退窮まる三月と、夕緋の勢いに負けないよう祈るのみの雛月。


 夕緋に嘘をつこうとしたり、隠し事をしたりとするとこうなってしまう。

 一枚上手(うわて)な幼馴染みの彼女との関係は、子供の頃から変わらない。


「か、神巫女町に誰かが居る訳ないだろう……? あそこにはもう……。生きてる人間なんて誰もいなかったよ……。見てきたのも、俺の家やお女神さんの神社と、でっかい穴が開いちまった壊れた町だけさ……」


 一時逃れの言葉でもう一度答えた。

 肝心なことは伏せ、あからさまな嘘は言わないように取り繕った。

 エルフや女神は人間ではないのだから、と苦しい言い訳を胸に抱えながら。


「──町を見てきたのは何故? 危ないのに何のためにそんなことを?」


「き、急に捨てた故郷が気になったんだ……。夕緋とこれから付き合っていくなら、辛い過去に向き合うのも大事だと思った……。久し振りに宗司と会えて話せたのは良かったよ……」


 さらにもう一度の問答を経て、夕緋は口をつぐむ。

 その間、ずっと恐ろしい目で見つめられ、瞬きも許されない圧力にさらされた。


「……」


「……それだけだよ……」


 三月が言葉を止めた後も、夕緋はじぃっと鋭い目線を向けていた。

 しばらく、そうしていた。


「……ふぅ」


 やがて、夕緋は大きなため息をつく。

 つり上がった眉尻を下げ、まぶたを閉じて首を横にゆっくり振った。


「──もういいわ。本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいのだけど……。あの場所であったことが三月に関係無いって言うのなら、これ以上を問いただすのはやめるわ。三月も辛いと思うし……」


 再び瞳を開いたときには、夕緋はもう笑顔になっていた。


「こうして三月が無事に帰ってきたんだもの。それで充分」


 怒る気持ちがある反面、また会えたのを喜ぶ気持ちがあるのも本当だ。


 怒って泣いても三月への想いは変わらない──。

 とは、夕緋自身が言ったこと。


「痛みによる罰により、貴方の罪を許します。元、神水流の巫女の名において、ね。……ぶってごめんね、三月。痛かったでしょ……」


 夕緋は自ら打った三月の頬に再び触れる。

 慈しむようにひとさすりすると、三月の頬の痛みは嘘みたいに消えてしまった。

 多分また、不思議な力で治療をしてくれたのだろう。


「夕緋、ごめん……。ありがとう……」


「ううん、いいのよ。私こそまた怖い顔してごめんね」


 三月が謝罪の言葉を口にすると、夕緋も同じく謝った。

 さっき思い出していた、幼い日の場面と記憶がかぶる。


 あれは地平の加護の権能ではない。

 自分自身が想起していた過去だと、今更ながらに気付いたのだった。



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