第227話 新たなる旅立ち
帰りのバス停に到着し、簡易な上屋下のベンチに腰掛け、同じく隣に座る雛月の横顔を見ながら三月はぼうっとしていた。
鞄は持っていないが紺色ブレザーとプリーツスカートの学生服でバスを待つ雛月はいかにも女学生の風体だった。
と、三月がじっと見つめている視線を横目に見返し、雛月はくすくす笑う。
「なんだい? ぼくの顔をじっと見たりして」
何を考えているのかは筒抜けなのだろうが、相変わらずな朝陽と同じ顔で見つめ返されるとどうにも照れくさい。
誤魔化して言い訳を取り繕うが、言ってみて確かにそれもそうだとも思った。
「ああいや……。雛月が朝陽の顔と姿で良かったなって。こうやって現実の世界で雛月と居るとさ。何だか朝陽が生き返ったみたいな感じがするんだ」
今までは文字通りに、夢見心地で雛月を感じていた。
但し、ここは意識も明晰な現実の世界である。
いつも通りに五感が働く世界に存在する雛月は、在りし日の朝陽をより強く思い出させてくれた。
昨晩に生死の狭間を共にさまよい、戦った体験がそれを後押ししていた。
しかし、感慨に耽る反面、自分の分身を相手に変な申し訳なさも感じてしまう。
こんな見た目だが、雛月は朝陽ではない。
「何か悪いな。雛月は朝陽じゃないのに代わりみたいに見ちまって……」
「やれやれ、何を言ってるんだい。ぼくを相手に何の気を遣ってるんだか」
ただ、三月のよそよそしい態度に雛月は呆れるばかりである。
清々しいほどさっぱりとした口調で言い切る。
「朝陽の代わりになれるんならぼくは本望さ。この姿形で三月の精神を安定させるのは役目の内だ。さあほらほら、気兼ねしないで思う存分愛でるがいいよ。ぼくの存在を信じて手を握ったみたいに、遠慮なく抱き締めてくれたっていいんだよ」
存分に可愛がり給えと表情で語り、身体を横向きに両手を広げて三月に向ける。
三月が信じれば雛月の感触を感じられ、実際に居るのとほぼ変わらない触れ合いをすることができる。
それは昨晩に手を繋いだ時に実証済みだ。
「そ、そこまで甘えようなんて思ってないってっ。気持ちだけ受け取っとくよ」
雛月とのスキンシップが容易になってしまったと改めて感じ、三月は今更みたいに焦り出すのであった。
「残念だなぁ。せっかく無理して三月の中にぼくの居場所をつくったってのにさ。どうせだから、ついでに現実の三月の生活も色々とサポートしてあげるよ」
雛月は妖しげな笑みを浮かべ、身体を三月にすり寄せて腕にしなだれかかる。
顔を近付け、耳元で吐息混じりに囁いた。
「──ぼくのこと、好きにしてくれていいからね」
声だけでなく、本当に息を吹き掛けられるのを感じた。
捕まえられた手に押し当てられる、むにゅりとした胸の感触も確かなものだ。
蠱惑的な魅力を感じないと言えば嘘になる。
本当は存在せず脳が見せる幻覚に過ぎないのに、三月が信じれば信じるほど雛月が居るのを感覚が完全に認めてしまっていた。
悶々とする顔をして、三月は雛月との今後に思いやられる。
「前言撤回だ……。雛月が朝陽の姿形なのは色々と困る……。そういうのは夢の中だけでもうたくさんだよ……」
「あっはっはっは。これからは寝ても覚めてもぼくと一緒だ。仲良くやろう」
開き直った疑似人格は愉快そうにけらけらと笑う。
雛月を常に感じて頭が重いと言い、からかったことの意趣返しなのだろう。
少しは気落ちして懲りたかと思ったが、それもまた幻覚だったようだ。
「なんだよ、最初に出てきた時はこの世の終わりみたいな顔して落ち込んでたくせにさ……。まったく、そうやって俺を誘惑するのは節度を守ってくれよ。雛月は他の奴には見えないんだから、振り回される俺の身にもなってくれよな……」
「ふふっ、つれないなぁ。それじゃあ、三月が人前で堂々と甘えたり癒やされたりできるように、ぼくみたいな紛い物じゃなく、本物の朝陽がいなくならなくて済む世界を目指して頑張っていこう。それまでは、ぼくが朝陽の身代わりとしての役目を果たそうじゃないか」
気に掛かる言い方に三月は一瞬言葉に詰まる。
複雑な表情のままに相槌を打った。
「……そう、だな」
小悪魔っぽくけらけら笑う雛月。
自分を紛い物だと言い、朝陽の代わりになれるのを本望だと言う。
自虐でも自己犠牲心でもなく、当然のように自分を消耗品だと考えている。
雛月のそういうところは三月は少し苦手であった。
正直なところ、三月はこの雛月にだって感謝をして信頼を置いていた。
──いつか雛月を心配したのを呆れられたことがあったっけ。テレビが壊れるのを心配するのと同じだって……。俺が感じているのは単なる愛着心なんだろうか? なまじ人の姿形をしていて、何より朝陽そっくりな見た目のお陰ですっかりと情が移ってる。道具として扱え、だなんてもう無理な相談だ……。
三月にとって、雛月はもう掛け替えのない大切な存在となっていた。
そんな雛月との行く末を憂いている。
──全部の使命を果たして役目を終えた後、雛月はどうなってしまうんだろう? いつまでもこのまま、とはいかないんだろうか……?
そんなことを思ってまだ笑っている雛月を見ていると。
「ねえ、三月」
横目で三月を見上げ、打って変わって静かな声で問い掛けてきた。
不意打ちを掛けられたみたいに胸がどきっと高鳴った。
そうして繰り出される雛月の問いは、未来を変えて朝陽を救う、との願いが現実味を帯びれば帯びるほどに悩ましい問題であった。
「──三月はさ、もしも朝陽を助けることができたらどうしたい? 夕緋に結婚を前提にした交際を申し込んだよね。朝陽を助けちゃったらそっちはどうするつもりなんだい? やっぱり今でも朝陽のことは好きだろう?」
「そっ、それは……」
三月は答えに窮する。
唐突な質問に聞こえて、その実結構前から感じていた悩みでもあった。
わかっていて考えるのを後回しにしていたのである。
三月が悩むところまで見越していたようで、すぐに雛月は助け船を出してくる。
「その答えを出すのはすべての試練を終えてからでいい。朝陽を救える希望が生まれたのは後出しだったからね。朝陽と夕緋との間で気持ちが揺れてしまうのは仕方がないことさ」
「……」
それも自分の中で言い訳をしていた事実である。
夕緋との仲が進展してから、雛月は三月の前に「ご褒美」をぶら下げてきた。
異世界渡りとタイムリープで過去を改変すれば、朝陽と故郷を救える、と。
だから、朝陽を助けることに傾倒すれば、夕緋に対して不誠実となりかねない。
夕緋と結ばれ、将来を夫婦として過ごしていこうと思うなら尚更だ。
しかし、無論のこと雛月はそれも考えのうちに入っている。
「だからさ、三月にお願いがある。不誠実だと思うなら何もかもぼくのせいにして構わない。──だから」
三月が夕緋に申し訳なく思うのもわかっている。
二人が近しい関係であるよう仕向けたのは、雛月の思惑通りであるのだから。
嘘や冗談などではない。
ふざけず、真面目な面持ちで言った。
「夕緋との交際は今のまま続けて欲しいんだ。ぼくを含めた、異世界を渡る試練のこと全部を秘密にしたままで」
「……何だって?」
三月が眉をひそめるのも雛月の予想通りだった。
反感を恐れずに全部自分の責任だと言い張りながら。
「何もかもぼくに指図されてやることさ。良心の呵責なんて気にせず従ってもらいたい。元々、三月を夕緋に迫るよう焚きつけた張本人はぼくなんだ」
ややもすれば不義理を強要され、三月が怒り出しそうな提案をしてきた。
事実、むっとする気持ちが胸に湧き上がる。
しかし、自分だけでやっていることなら短絡的にもなれただろうが、アイアノアとエルトゥリンの自己犠牲に生かされ、無念のまま再びの眠りについた日和を思うと怒り出す気にはなれなかった。
夕緋とのことはさておき、異世界の彼女たちの気持ちは尊重してあげたいという思いに駆られる。
それさえも自分への言い訳だったかどうかはわからなかった。
「それは、これからの俺の使命に必要なことなのか……?」
「うん、絶対に必要なことさ」
雛月には一切の迷いはない。
地平の加護として絶対の自信を持ち、三月の願いを叶えるべく導こうとする意思には真実しかない。
雛月の言う通りにすることが朝陽と故郷を救う道へと繋がっている。
この不誠実にも何かしらの理由があるのは間違いないのだろう。
しかし、そう簡単に割り切れないのも三月の性格だった。
表情を暗くして雛月から目を逸らしてしまう。
「……でもなぁ、全部黙ったままなのは、夕緋に申し訳なくてな……」
朝陽を救う運命に臨み、もしもそんな奇跡を起こすことができれば夕緋にだって返ってくるものは計り知れず、喜んでもらえるに違いない。
願いの結果、夕緋ではなく、朝陽を選ぶ結末になったとしても、である。
やはりそう思うと、いっそ全部話してしまったほうが筋が通るように思う。
三月は顔を横に振り、意に決して雛月に言った。
「雛月、やっぱり夕緋には話そう。こんな大事なことを黙ったままだなんていくらなんでもあんまりだ。もしかしたら夕緋なら話をわかってくれて、協力だってしてくれるかもしれない。だから……」
普通の女の子ならば、タイムリープで過去を変えるだなんて絵空事を信じてもらえるはずがない。
しかし、夕緋なら話は別である。
超常現象や霊妙の不可思議に精通している夕緋なら、突拍子のない話にも理解を示してくれるかもしれない。
「いいや、それは駄目だ」
ただ、雛月はそれにぴしゃりと反対した。
不服そうな難色顔の三月が何か言い出す前に、雛月は厳しい表情で言う。
「今回のことで身に染みただろう? 三月の使命にはそれを由としない敵が確かに存在している。前にも言った通りさ。こちらの立ち位置は限界まで伏せておかなければならない」
だけど、と食い下がろうとする三月に雛月は現実を突きつける。
誠実であろうとする気構えは大切かもしれないが、事は三月と夕緋、二人だけの間で起こっているのではない。
「考えるまでもない。もしも今、八咫かフィニスに出てこられたら対処のしようがないぞ。奴らの配下と思われる異界の神獣相手にも歯が立たないのに、その親玉が相手となったら絶対に勝ち目は無い。もう一巻の終わりで詰みだ」
「うぅ、それは……」
もう言葉に詰まるのも何度目だろう。
雛月が言うのは最悪の事態であり、充分に起こり得る絶体絶命の可能性である。
イシュタール王国を相手にたった一人で戦い続けた修羅、フィニス。
天神回戦が始まるきっかけとなったほどの戦いを繰り広げた悪神、八咫。
今の三月の力を総動員したところで勝ち目は無いに等しい。
「夕緋に全部話すのは、せめて三月に奴らと戦えるだけの力が備わった後だ。それまではどうか自重して欲しい。三月にもしものことがあったら夕緋も悲しむぞ」
「夕緋が、悲しむ……」
雛月の言葉がやけに重く感じた。
三月はもう一人ぼっちではない。
三月の命は一人だけのものではないのである。
自分のせいで悪しき者たちの手に掛かり、夕緋を悲しませてしまっては本末転倒もいいところである。
雛月はさらに理由を並べ立てていく。
「夕緋と言えば、八咫とフィニスとの関係も明らかになってはいないんだ。三月の立場をはっきりさせたばっかりに、夕緋の身にもしものことがあったならそれこそ一大事だよ」
夕緋、八咫、フィニスの関係性も三月にはまだまだ調査不足である。
下手に動きを見せて悪い方向に綻びが発生しないとも限らない。
夕緋を大事に思うなら、夕緋の安全は最優先に考えておかなければならない。
そして、次に雛月の言葉が秘密を秘密のままにしておく決め手となった。
そう言われては三月はぐうの音も出なくなってしまう。
「それに、ただでさえ押しも押されもしない夕緋を刺激するようなことを言うのはまだ先送りにしたほうがいいよ。……大体、夕緋に何を言うつもりだったんだい? まさかとは思うけど、過去を変えて朝陽を助けるから、けじめのために一旦別れてくれだなんて言うつもりだったんじゃないだろうね? そんなことを言ったら、どんな恐ろしい目に遭うのか、三月にならわかりそうなものだけどね。……そうだろう?」
「う、うぐぐ……! それは確かに……!」
夕緋を怒らせるのは怖い。
あの黒龍に睨まれるのと同じくらいに。
夕緋を悲しませ泣かれるのは心が凍り付く。
あの黒龍の怪鳥の如き咆哮を浴びるのと同じくらいに。
三月の顔面は蒼白となり、嫌な脂汗が滝のようにしたたり落ちる。
秘密を告白し、家族や故郷を救う目的はともかく、夕緋ではなく朝陽を選ぶなどという話になろうものなら結果は火を見るより明らかだった。
夕緋は怒り、悲しむだろう。
雛月の言う通りの修羅場が間違いなく待っている。
進むも地獄、退くのも地獄。
前門の虎後門の狼である。
八方塞がりの運命の道に、三月は否応なく足を踏み入れてしまったようだ。
但し、三月はそれでも雛月に食い下がった。
「だけど、雛月……。その修羅場で俺がどんな恐ろしい目に遭ったとしても、夕緋ならきっと許してくれるよ……。子供の頃からそうなんだ。俺や朝陽を叱っても、最後にはちゃんとわかってくれたんだ。夕緋はそういう子さ……」
力無くもそれを言わせる拠り所は、三月が夕緋に対して思う人となりだ。
厳しく怖い一面を持っているが、心根は面倒見が良くて慈愛に満ちている。
そうでなくては、密かに想っていたのに三月と朝陽の恋仲を応援したり、お弁当をつくってくれたりはしないだろう。
「……だけど雛月の言う通り、八咫とフィニスとやり合えるくらい強くなるまではおとなしくしてるよ。だから、そのときがきたら全部話して俺が何をしようとしてるかを夕緋に伝える。そのくらいの誠意は持っていたいんだ」
今は雛月の言う通りにする。
他に選択肢は無い。
夕緋に甘えを許容してもらっての釈明ではあるが、三月は甘んじて夕緋に叱られようと思った。
誠心誠意謝れば、きっと許してもらえるはず。
そう思ったから。
それを聞く雛月は釈然としない風であったが、一応納得の様子を見せた。
「ふぅん、そっか……。それが三月の答えなんだね。わかった、今はそれでいいよ。差し当たり、夕緋に秘密を打ち明けるのを保留にしてくれれば文句は無い」
俯いて憂鬱そうな三月を傍目にして、雛月は空を仰ぐ。
聞こえないくらいの小声で、先が思いやられる思いで呟くのであった。
「──だけれど、十中八九、もう夕緋はじっとはしていてくれないだろうね」
やがてバスが到着し、目の前で乗車ドアが開いた。
重い腰を上げると三月は乗客の少ない車内に乗り入り、奥の座席の窓際に座る。
車窓から見える故郷の風景を名残惜しく眺め、これからのことを考える。
そう、何かもすべてがこれからなのだ。
──うちに帰ったら、待っているのは異世界渡りの三巡目の開始だ。希望の未来を掴むため、俺の戦いはまだまだ始まったばかりって訳だ。どれ一つ取ったって大変な使命なのに、それを同時にまとめていっぺんにこなしていかなくちゃいけない。おまけに夕緋との今後もある……。こんなに大変なマルチタスク、実際の仕事でもやったことないぞ……。
やる気に満ちあふれる反面、気が重くて仕方がないのも本当だ。
隣の席にはちゃっかり座った雛月の姿。
目が合うとにこりと微笑む。
「……へへっ、やれやれだよ。ほんと……」
力の抜けた顔で笑い、呟くみたいに言った。
バスの扉が閉まる音が響き、帰る方面を告げる車内アナウンスが聞こえた。
ゆっくりと発車するバスの後ろ姿が道路の向こうに遠ざかっていく。
空は雲一つの無い晴天で、何も変わらず三月たちの世界は継続しようとする。
破壊の天命が下り、三月の掛け替えのない大切なものを多く奪ったままで。
思いも掛けず巡ってきた、運命を変えられる千載一遇の機会に懸ける。
これは、三月の人生を掛けて果たすべき大いなる使命である。
パンドラの地下迷宮の踏破。
天神回戦、祈願祭での勝利。
神巫女町大災害の真相の解明。
三つの世界を股に掛けて、すべての使命を完遂させた時に三月の願いは叶う。
待ち受ける果てしない道程は、大いなる使命、女神様の試練、世界変革の重大事に相応しいほどに過酷で困難に満ち満ちている。
願いの成就の先に三月が見るのは全部が元通りになる希望の世界か。
それとも、何をも変えられない今のままの不変の世界か。
三月の望む理想の世界は、夢幻のように遙かなる彼方である。




