第224話 現実世界での戦い
「──私を呼ぶのは誰じゃ? 我が神名、合歓木日和ノ神を呼ぶのは誰じゃ?」
三月と雛月の祈りに応じて、この地に眠る女神は一時だけ目覚める。
金色の光が道路の亀裂の隙間から滲み出て、ぼんやりと浮かび上がった。
光の輪郭はやけに小さい。
精々、大振りな南瓜くらいの球体である。
光球の中に居たのは、三月の知っている姿よりもさらに小さく縮んだ女神だ。
朱色の目弾きと口紅は鮮やかで、お団子状に毛束をまとめた可愛い髪型。
着用するだぶだぶ丈余りな、赤紅色の着物まで縮小されている。
この地に祀られている氏神の一柱、創造の女神、日和であった。
「今の私は起きておるのやら眠っておるのやらもわからぬ夢現の狭間におる……。このような落ちぶれた神に用事とは、酔狂な人の子も居たものじゃ」
空中に浮かんだまま薄く目を開け、じろりと目の前の三月を見据える。
そんな神々しい日和に向かって、三月は歓喜の大声をあげるのだった。
「日和ッ、呼び出したのは俺だっ、三月だっ! 良かった、日和なら呼べばきっと来てくれると信じてたよっ……! 流石は俺たちの女神様だっ!」
「よ、呼び捨てぇ……? か、神を畏れぬ無礼な輩じゃなぁ……。敗北の眠りから叩き起こされたかと思えば、これはとんだ罰当たり者に呼び出されてしまったものじゃわい……」
対して日和は唐突に礼を欠く三月にひどく面食らっていた。
女神社の神事に携わる者にしか伝わらない女神の名に、畏れ多くも触れる蛮行は程度甚だしい。
しかもやたらに親しげで、呼び捨てときたものである。
そもそも、この世界線の日和は三月のことを知らないのだ。
「みづき、か……。おぬしからは私の神通力を感じる。はて、これはどういう了見じゃ? 不思議と、我が神名に直接触れられても嫌悪の情を抱かぬのじゃ」
日和は初めて会うはずの三月の顔を不思議そうに眺めていた。
すでに三月が日和のシキとして働いていることが影響しているのか、時空の壁を超越して二人の絆を邂逅させようとしているかのようだった。
「みづき、おぬしはいったい……」
目をぱちくりさせ、ふわふわと近寄ってくる日和。
しかし、敵たちは新手の出現によって強い警戒心を露わにしていた。
グリフォンがキィッと鳴き、ヘルハウンドは三月と日和に向かって口から灼熱の火炎を吐き出した。
炎の奔流が夜を再び赤く照らし上げる。
「ふん、小癪な!」
眉を上げて炎に振り向く日和の目は不敵。
人形みたいな小さな手の平を口許に添え、ふぅっと息を吹き出す。
すると、吐息は金色の炎になって、ヘルハウンドの炎を容易く押し返した。
聖なる炎に自慢の火炎を相殺され、地獄の猟犬は怯んで後じさった。
金色の火の切れ目から、日和は魔物に対して睨みを利かす。
「──どうやら、悪しき妖怪変化に狙われておるようじゃのう。まったく、邪悪で陰険なこの気配、不愉快極まりないことこの上無しじゃ」
子供よりも矮小ななりだが、凄まじい神通力を発現させる日和。
とはいえ、今の日和の経緯を知っている三月はその身を憂う。
今や日和の神格は無いに等しく、神の力の残りも僅かばかりのはずである。
「日和、大丈夫かっ? 眠ってるところを急に呼び出しちまって悪い……」
「安心するがよい。この程度、どうということはない。悪びれる必要も無しじゃ。久方振りに祈りを捧げてくれたおぬしを見捨てはせぬよ。残り滓めいた私の神通力じゃが、できうる限りに救って見せようなのじゃ」
日和は胸を張って、精一杯ふんぞり返って答えた。
三月が昼間に女神社に参拝し、賽銭を放り込んできたのもちゃんと知っている。
その祈りの分だけでも、女神は御利益を授けてくれるのである。
「護ってやるのじゃ、みづきとやら!」
左右に鋭い目線を交互にやると、日和は三月に背を向け、護る。
残り少ない神通力を駆使し、邪悪な魔物から弱き衆生を救う。
それがこの地に祀られていた大地の女神の務めである。
「いいや、俺も戦う! 日和が一緒なら俺だっていっぱしの戦士になれるっ!」
ただしかし、三月は護られるだけのただの人間ではない。
勇気の雄叫びをあげ、日和の隣に立つと最後の切り札をここで使った。
アイアノアの使者、光の妖精がくれた三つ目の加護の欠片。
念じれば眼前に現れる眩しい光の球。
これはアイアノアの力そのもの、三月を助けてくれる希望の太陽である。
太陽の加護の欠片が発動した。
ただの光球の内に、黒と白の陰陽勾玉巴を顕現させて。
「《女神日和の拵え・不滅の太刀》・洞察済み記憶格納領域より召喚」
跪いたままの雛月が再び祈りを大地に捧げた。
地平の加護の発現力と成功度合いを高め、ここ一番の効験を呼び起こす。
三月は何も無い腰の辺りから、洗練された動きで白刃を抜き払った。
存在すると信じ、戦える力を願った結果、三月の手には一振りの太刀が宿る。
日和太刀拵え──。
その名も不滅の太刀だ。
日和はそれを見開いた目で見て驚いた。
「驚いたのじゃ! その太刀、見たこともないのに私の神気が込められておる……。みづき、おぬし本当に何者じゃ……?」
「俺は佐倉三月。蜘蛛切りの剣士の末裔、日和を助けるために戦う戦士だっ!」
驚嘆する日和に三月は力強く答え、勇ましい名乗りを上げた。
様になった正眼に不滅の太刀を構え、日和に並んで魔物たちと相対する。
太陽の加護の奇跡はまだ終わってはいない。
最後の最後まで力を燃やし尽くし、さらなる力を三月に宿らせた。
「対象選択・《人間の三月》・効験付与・神降ろし・《シキのみづき》」
三度、雛月が祈る。
三月が戦えるよう仕上げのお膳立てをやり遂げる。
覚醒した太陽の加護を使い切り、日和が仮初めに復活している今ならば、この力を使えると信じてイメージは通りやすい。
地平の加護は概念を形にし、授け与える力を持っている。
生身の人間の身体でありながら、擬似的にシキへと変身することも可能となる。
三月はこの現実の世界においても、神に仕える戦士と化したのだ。
「おおっ! この氣、おぬしシキかっ!? しかも、蜘蛛切りの剣士じゃと……!」
日和はなお驚き、喜びの混じった声で叫んだ。
姿や出で立ちは変わらなくても、三月の内に流れる神々しい氣が確かにシキだと感じ取れた。
さらにそのシキが、太古の昔に共に悪神と戦った剣士の末裔だったとするなら、突発的に召喚されたこの出来事にも何か運命めいた意味がある。
「通りで……。なれば、相対するのが貴様らなのも頷けるというものじゃ……!」
日和にも思うところがあるのだろう。
グリフォンとヘルハウンドにそれぞれ一瞥をくれると、ほぅと息をついた。
そして、胸の前でぱんと柏手を打ち、日和は猛々しく吠える。
「みづき、私の力を使え! おぬしがシキなら話は別じゃ! 仮初めではあるが、我が黄龍の神通力を授けようなのじゃ! 残り物の力じゃが、必ずや福をもたらすと約束しようっ!」
「神様直々の約束とは心強い……! こりゃもう、負ける気はしねえなっ!」
神との約束には特別な意味がある。
約束を果たせば、待っているのは確約された願いの成就である。
神が神の名において約束を交わすのは、必ずや願いを叶える宣言と同義だ。
「はァッ!」
気合いの一声を発し、日和の身体が金色の炎に包まれた。
すれば、女神は炎に溶けて別の形へと変じていく。
それは黄金色の龍だ。
日和の黄龍なる形態であった。
しかし、その大きさはこれまで見たものの中で最も小型で、大きめの鰻かドジョウくらいである。
日和の神通力がいかに弱っているかが一目にわかってしまう。
但し、三月のシキの力も完全ではなく、全力の日和の力を御しきれる訳もない。
今の自分たちにはこれが現界、且つ充分な神通力の現れであった。
日和の黄龍は空中をぐるりと旋回すると、三月の胸の中へと飛び込んだ。
身体の中へとずぶずぶと入って消えると、全身の隅々にまで力が行き渡る。
神気の力強さと温かさを感じつつ、三月の疑似シキ化は完了した。
「……ようし、これならいける。身体が強くなったり、軽くなったりするだけじゃない。シキになれば心が恐れを忘れる。蛮勇なんかじゃない、困難に立ち向かえる勇気が湧いてくるんだ!」
シキとなった三月の心は強い。
戦闘マシーンと化した身体と精神は、戦士としての気概を体現するのである。
勇気が湧いてくるのはそれだけが理由ではない。
──アイアノアとエルトゥリン、雛月だけじゃない。日和だって俺を助けてくれる。ここまでしてもらって負けてるだけなんて笑えねえ! 断じて否だっ!
「戦って証明する! 行くぞ、押し通るッ!」
行く手を阻むグリフォンに向かい、三月は突撃を開始した。
身体が軽い。
さっきまでの星の加護だけを頼りにした動きとはまるで違う。
戦闘を行うならシキの身体以上の強化方法は無いだろう。
「三月、気をつけて! そのシキの身体はあくまで一時的なものだっ! 言うほどの無茶は出来ないから、自分が人間だってことを忘れちゃ駄目だぞっ!」
雛月の叫びを背に受け、三月は堂々と構えるグリフォンの懐に飛び込んだ。
猛禽の魔物も、接近をしてくる三月を黙って見てはいない。
キィッと一声鳴くと、両翼をはためかせて無数の羽根を飛ばしてきた。
羽根の一枚一枚が鋭い刃物となって、迫る三月を切り刻もうとする。
「ええぇぇぇぇいッ……!」
気合いの声を張り上げ、戦いの息を吐き出す。
隙間無く空間を埋め尽くす羽根の刃に、真っ向から立ち向かった。
凄まじい速度で不滅の太刀を乱舞させる。
ただの一枚も身に届かせることなく、三月は飛び交う羽根を切り落とした。
刀剣で戦う、という幼少の頃から叩き込まれた技術は、シキ化による能力向上でさらなる増幅加減を見せていた。
息をするのと同じに、どう刀を動かせばいいかは身体が覚え込んでいる。
羽根の刃の嵐を弾き返すだけでなく、グリフォンに向かって突き進んだ。
そのまま至近距離に迫り、横薙ぎに太刀を一閃させる。
「ちぃッ!」
舌打ちして見上げる上空に、グリフォンは巨体ながら身軽に飛んで逃れた。
三月の一撃は空を切る。
相手取っているのは雑魚の魔物ではない。
「三月っ、後ろだっ!」
雛月の叫びが背後から届いた。
無論、三月も気付いている。
シキの感応力なら見ていなくても感付ける。
アオーン、と遠吠えの如き咆哮をあげ、ヘルハウンドが突進してきていた。
黒く巨大な全身を業火に包み、三月を跳ね飛ばそうと体当たりを仕掛ける。
「すゥッ……!」
短く息を吸い込み、手足に力を込めた。
さっきまでの無様な人間の動きとは比較にならない。
最低限の無駄の無い動きで、巨犬の直線的な体押しを回避する。
身体を横にずらしていなし、高速で通り過ぎるヘルハウンドにすれ違いざまに逆に太刀を浴びせた。
手には硬い獣毛に刃を滑らせた、ざりりっという感覚が残る。
手応えはあったが、ダメージが入ったかどうかはわからない。
「はァッ!」
今度は吸った息を吐き出し、上空に振り向きざまに太刀を振るった。
空中に逃れたグリフォンが急降下し、前足の鷲の鉤爪で三月を襲ってきていた。
鉤爪と不滅の太刀が、渾身の力同士でぶつかった。
ガキン、と金属音が響き、目の前で火花が散った。
衝撃は三月の足下まで通り抜け、アスファルトの地面に大きなひび割れを刻む。
空気がびりびりと振動していた。
グリフォンの鋭いイーグルアイと、三月の気合いの眼の視線が交差する。
「……効いてるのか、これっ!」
颶風そのものに反撃を繰り出す三月の表情が歪む。
剣を横に滑らせ、もう一方の前足へと回転しながら斬りつけた。
ヘルハウンドを切った時同様、硬い毛と皮膚の防御を抜けられた気がしない。
まるで、厚手の革に包まれた大木に剣を打ち込んでいるのと同じ感覚だ。
「ぐっ、このっ、離せよっ!」
さらにその場で回転して横薙ぎの一撃を叩き込むが、今度はグリフォンの嘴に太刀を受け止められる。
上嘴と下嘴に咥えらて止められ、押しても引いてもびくともしない。がっちりと万力に締め付けられているのと同じだ。
グリフォンの巨体からすれば、指先で針をつまむほどの精密な動作なのに平然とやってのけた。
攻守だけでなく、技巧にも秀でた強敵である。
「……そのうえ、魔物同士で連係もできるのかよ!」
後ろを振り向かずともシキの感覚でわかる。
グリフォンが三月の動きを止め、背後に居るヘルハウンドがここぞとばかりに炎のブレスを吐きかけてきた。
背中側の空気が瞬時に熱くなる。
このままでは身動きが取れないまま炎の直撃を受けてしまう。
但し、三月だってじっとしていて敵の連係攻撃に甘んじるつもりもない。
不滅の太刀の柄から手を離し、武器を捨てて即座に離脱する。
人間離れした跳躍力で後方に飛び下がる最中、グリフォンの嘴に挟まれて残った神剣に叫んで命じた。
「一旦消えて戻れ!」
すれば、不滅の太刀はグリフォンの元からすっと消え、三月が道路を滑りながら着地するのに合わせてその手中に戻った。
攻撃目標を失ったヘルハウンドの炎は、待ち構えていたグリフォンに直撃する。
キィィッ、と地獄の業火に灼かれて苦悶の悲鳴をあげる猛禽の怪物。
当然、それでグリフォンを焼き殺せる訳ではないが、連係が失敗した責任を押し付け合うかのように二体の魔物は吠え合って喧嘩を始めている。
その間に体勢を直し、立ち上がる三月。
「くそっ……!」
敵を見据える目には焦りが浮かんでいた。
──こっちの太刀の刃が通らない鉄壁の耐久性。剣を受け止められたら離してくれないくらい力も強い。二対一でそもそも分が悪い。そのうえ地平の加護の虎の子、付与魔法も使えなけりゃ、洞察も正確にいかないときた。
二体の魔物を倒すには力不足は否めなかった。
シキの戦闘技術と不滅の太刀の威力を持ってしても攻撃は通じない。
炎に巻かれているグリフォンがピンピンしている辺り、防御力、生命力にも優れている。
太陽の加護と日和のお陰で、疑似シキ化、不滅の太刀召喚の実現までは良かったものの、如何せんそれだけではこの強大な魔物たちには勝てない。
三月は唇を噛み、敵の強さと己の弱さを思い知るのだった。




