第222話 手を取り合って
「──これじゃあ、地平の加護の案内人として失格だ。本当にごめんなさい……」
現実の世界に現れた雛月はしゅんとして悲しそうだった。
雛月は地平の加護の領分を越え、三月の命を救う決断を下した。
脳に自分を焼き付け、不完全な能力を使って三月を危険にさらしてでも。
しかし、三月にとってそんなことはさしたる問題に過ぎなかったのである。
「そ、そんなのいいって……! ほらっ、雛月のお陰さっ! 雛月が助けてくれたから俺はこうして無事なんだっ……!」
申し訳なさそうに頭を下げる雛月に驚き、身体をがばっと起こそうとする。
途端、喉の奥に激痛が走り、湿った咳を苦しげに繰り返した。
「まだじっとしてて。回復魔法の魔力も微弱だから時間が掛かるんだ」
「げほげほっ……。ああ、わかった……。雛月の言う通りにする……」
再び自分の首に手を当てて、三月は癒やしの風の為すがままになる。
それは三月の力だが、雛月の意思でもあった。
さっきは魔物から助けてくれて、今は傷を治そうとしてくれている。
機械だろうが疑似人格だろうが関係ない。
三月は雛月の気持ちを感じ、素直にありがたいと思うのであった。
自然と口許には笑みがこぼれる。
「嬉しそうな顔をしないでくれ。ぼくは三月を傷つけてしまったんだ。サポートをする対象の三月の身体を壊してしまっては、ぼくの存在意義は失われる……」
雛月はまだ不本意そうだった。
片肘を抱いた格好で、面目なさそうに三月を見下ろしている。
雛月だって、三月がどうして嬉しそうにしているのかわからない訳ではない。
こうすることが正解だったと思う反面の、加護として葛藤なのだ。
雛月のこれまでを振り返り、三月は思わず吹き出してしまう。
「勝手とか暴走って……。俺の自由を制約したり、何かをやらせようと仕向けたり、そんなの今更じゃないか。そんなに気にしなくたって……」
「それは三月を傷つけない前提があるからで、今回のことはぼくの自立行動の範疇を明らかに超えてしまっている。慰めは無用だ、完全にぼくの落ち度さ……」
自分に正直になれない雛月は、うじうじと自責の念に駆られてばかりである。
犯した過ちを気に病んで、後に引きまくってしまうところは自分にそっくりだと三月は微苦笑した。
「雛月には雛月の事情があるんだろうけど、それでも言わせてもらう」
当然、三月はそれを明けすけに口に出す。
照れも恥もなく、受け取った厚意には率直な気持ちを返すだけだ。
「雛月が助けてくれなかったら俺は多分死んでいた。無理して助けてくれて、俺は嬉しいよ。ありがとな、雛月!」
「三月……」
或いは本当に無理をして、救いの手を差し伸べてくれた雛月にお礼を言う。
すべて自分の中で起こった自助だったとしても、雛月を命の恩人だと思う。
わずかに顔を上げた地平の加護は、今にも泣き出しそうな不安げな表情だった。
「よし、もうこの通り大丈夫だ!」
いつまでも倒れていては、雛月は意気消沈したままである。
多少無理をしてでも、元気でぴんぴんした姿を立ち上がって披露する。
物憂う顔の雛月を正面から見据えて三月は言った。
「また一人きりになって心細かったんだ。雛月が出てきてくれて本当に助かった。もう駄目かと思ったけど、何とかなりそうな気さえしてきた! これもきっと雛月のお陰だ! だから雛月に落ち度は無いし、間違ってもいない!」
それは激励の言葉であり、偽りのない三月の真心だった。
地平の加護こと、雛月は三月に残された唯一の希望なのである。
そんな雛月がしてくれたことを間違いだなんて思いたくなかった。
「……」
心からの励ましを受け、雛月は口をつぐむ。
人間と変わらない複雑な表情が思うのはいったい何だろうか。
二人はしばしの間、お互いを見つめていた。
こうして現実の世界で、二人で立って向かい合うのは初めてのことだ。
夜風が吹けば、雛月の肩までくらいの髪がさらさらと揺れる。
美しくも可愛らしい顔立ちが、月明かりに淡く映える。
円らで透き通る瞳が、物言わずにじっと見つめてくる。
はっきりとした感覚で正面から見る雛月は、寸分違わず朝陽そのものであった。
思い出は遙か遠く、胸に去来する感慨はひどく懐かしい。
「ふふっ……」
雛月から笑みが漏れた。
埃と土で汚れたぼろぼろの格好の、堂々とした笑顔の三月を見て笑う。
「そう言ってもらえるなら幾らか救われる。この埋め合わせは精いっぱいやるよ。こんな機能不全なぼくを元気づけてくれるんだね。ぼくのほうこそありがとうだ」
やっと雛月は笑顔になって、ほぅ、とため息をつく。
暗くてわかりにくいが、頬を赤らめ照れた微笑みは少女のように愛らしい。
むず痒さでも感じているのか、雛月の呆れた口調は少しわざとらしく聞こえた。
「やれやれだよ。人でも何でもないぼくにそうまで気を遣ってさ。三月なら本当にポンコツの機械相手にもよしよしいい子いい子して、壊れるその時が来るまで後生大事に使い倒してくれそうだね」
「大事なものを大事にするのは当たり前だ。そういうもんだろ?」
雛月のからかうみたいな笑みに、にやりとした得意げな笑みを返す三月。
寝ていても覚めていても、二人の関係は変わらない。
三月は雛月を頼り、雛月は三月を助ける。
「なら、ぼくも少しは機械らしくしよう。機能を果たしてこその地平の加護だ」
相変わらずな感じに戻った雛月に、三月は安心して長い息を吐く。
迷っても後悔しても始まらない。
こうなったなら、地平の加護は本来の役目を果たすことだけを考える。
「この神巫女町は特別な場所だ。少しなら地平の加護を使えるはずだよ。少しだけ黄龍氣の供給が可能なんだ。早速、三月の役に立ってみせるよ」
先ほどの炎ブレス、風の回復魔法然り、地平の加護が機能していた。
どういう理由からか、神巫女町の地なら雛月の動力源たる黄龍氣をまかなえる。
龍脈の大地の伝承が起因し、神々の異世界と迷宮の異世界と繋がっている因果が地平の加護にも影響を与えているようだ。
しかし、火竜の炎を噴こうにも肉体を竜に変え切れず熱と火勢に耐えられない。
魔法を使うにしても出力源がやけに弱々しく、不完全と言わざるを得ない。
本来の力を発揮できない地平の加護は、再びしゅんとして項垂れた。
「だけど、どうしよう? 地平の加護を使えるとは言ったけど万全とはいかない。洞察力は精度が低いし、あまり突飛な能力は使えないうえ、さっきみたいに三月の身体を傷つけてしまうかもしれない。黄龍氣不足が深刻だ。かなりの制限を掛けてしまう……。こうなると地平の加護も形無しだよ……」
力不足は雛月の弱気が全部物語っている。
アイアノアもエルトゥリンももういない。
神々の異世界の権能、シキの力も使えない。
頼れるのは僅かばかりの地平の加護の力と、人間のこの身ひとつだけ。
「大丈夫だ、雛月!」
落ち込む雛月に反して三月は快活に答えた。
雛月に力を貸してもらえるとわかった瞬間から、三月には考えが次々と浮かんできていた。
神巫女町から脱出するための打開策の数々である。
追い風が吹き始め、不安と恐慌で凝り固まっていた三月の頭は回転を始めた。
こんな時でもスロースターターな自分に苦笑いもする。
奇抜な付与魔法は使えない、身体が持たないうえ魔力不足、そうならば。
「地平の加護が使えるんならやりようはある。常識外れのことができないんなら、逆に常識内でできることをやればいいんだ」
「……あっ、なるほど! わかった、命じてくれ、三月!」
雛月は三月の考えていることを察し、ぱっと明るい顔になった。
地平の加護に与えられる指示を受け止め、できる範囲の効験を発動させる。
自然な所作で胸の前で合掌し、雛月は静かに瞳を閉じた。
その祈りは在りし日の朝陽の巫女姿を連想させる。
「対象選択・《人間の三月》・効験付与・《健康保持と十代の身体能力》」
呟くように、付与する対象と効験を声に出す。
頭の中で響く地平の加護の無機質な声と違って、今は雛月の感情がこもった声となっている。
「それ、本当に雛月が言ってるんだな」
「復唱は基本。三月が思い描いた効験が、イメージ通りにできているかの確認さ」
片目を開けてちょっとした照れ笑いを浮かべるのは、自分の本領を三月に改めて見られている羞恥からのようだ。
機械らしくとは言ったものの、疑似人格が起きている間の雛月は人間と何ら変わるところはない。
「よし、これなら星の加護に何とかついていけそうだ。ありがとな、雛月」
「どういたしまして。……もう、また嬉しそうにして。三月は呑気だ、まったく」
地平の加護が付与した効験を実感し、三月は両手を握りしめて笑顔で言った。
手を腰にやり、眉根を下げた雛月は呆れ混じりに失笑する。
三月が願い、雛月が付与した効験は突出してわかりやすい変化ではなかったが、今のがたがたで身動きするのも厳しい身体には覿面な効果があった。
いくら地平の加護がパワーダウンしていても、自分自身の洞察は瞬時に可能だ。
過去の記憶を辿り、自己の肉体の最盛期を思い出す。
健康を最高の状態で保持し、十代の頃の万能感を自身に付与する。
非力な人間の三月でも、尽きない体力と瞬発力を出し続けられる状態ならばこの窮地を脱出できるはずだ。
「三月、待って」
と、再び駆け出そうと姿勢を低くする三月に雛月は声を掛ける。
先ほどまでの照れ笑いとは打って変わり、怜悧な印象の真剣な顔をして。
「脱出の前に──。夕緋から御守りを持たされていたよね。ちょっと見せて」
「いいけど、ポケットごとばらばらになっちまってな……」
雛月は三月の服の、はじけ飛んだポケットがあった辺りに顔を近付ける。
夕緋が持たせてくれた御守り、黒瑪瑙は龍の氣に当てられて粉微塵に砕けた。
その破片は衣服の繊維の隙間に僅かばかりに残っている。
雛月は目を細めて、それらの欠片を凝視していた。
地平の加護による洞察を行っている。
そして、表情を険しくし、三月に聞こえないくらいの小声で呟いた。
「──そうか、そういうことか、夕緋。あの時、もうぼくたちのことを……」
瞳を重く閉じると、軽く息を吐いた。
雛月は黒瑪瑙が何であったのか、何の目的で持たされた物なのかを悟った。
驚く様子はなく、それは雛月の予想通りの洞察結果だったことを物語る。
「雛月?」
「何でもない。急ごう、早くこの町から脱出しなきゃ!」
訝しむ三月の顔に視線を戻し、先を急ぐのを促す。
考えるのは後でもゆっくりとできる。
今は一刻も早くここを離れなければ。
辺りに漂う魔物の気配が濃密になってきている。
周囲の草むらをざわざわ揺らして、もうすでに獲物を取り囲んできている。
仲間の飛び散った飛沫の匂いを嗅ぎつけ、不定形の異形は集結していた。
三月と雛月の周りには、どこから湧いて出たのかスライムが群れを成している。
またぞろとじりじり距離を詰め、三月に飛び掛かるつもりだろう。
「三月、行こう!」
「ああ、頼む。雛月!」
二人は視線を交わして頷き合った。
利き足を地に着け、思い切りに蹴りつけて踏み切る。
地平の加護の補助によって限界の筋力を引き出し、星の加護のフィジカル強化に身を任せた。
土の地面が蹴った拍子にえぐれ飛ぶ。
すると三月の身体は風に吹かれる羽根のように軽く、空中をふわりと跳躍した。
スライムの群れの上を触れられることなく飛び、土手の上まで一気に到達する。
「おっとと……! どうだ、見たかよ!」
勢い余ってよろめきつつ、河川敷に置き去りにした魔物たちに振り返る。
いつの間にか隣に移動していた雛月に目配せすると、三月は再び走りだした。
今度こそ、魔物の追跡を振り切って神巫女町から脱出を果たす。
もう止まる必要も、そうせざるを得ない理由も発生しない。
「よしっ! 後はあの峠道を越えるだけだっ!」
「うんっ、最後まで気を抜かないでっ!」
そこからは町の出入り口である峠道まで順調に逃げることができた。
途中で何度か怪物との遭遇があったものの、星の加護の効果をどうにか維持してそれらを躱した。
隠遁魔法の効果もまだ持続していて、すぐにも三月の気配は霧散し、偽物の分身が追っ手を引きつけてくれた。
そうして、天之市の境である坂の道路を駆け上がる。
鬱蒼とした森の峠道。
この山間の連絡路を抜ければ人里はもう目の前である。
体力は尽きない。
瞬発力を持続して発揮する。
隣を一緒に走る雛月のお陰で、三月はとうとう死地から脱することが出来る。
腕を横に振る女の子らしい走り方ではなく、手足を大振りする力強い走りを見せている雛月に口許が緩んだ。
「こんなときに何を笑っているんだい? まだ危険地帯を抜けられていないんだ。気を抜いては駄目だぞ!」
「すまん、自然と顔が緩むんだ。地平の加護が頼もしくて、何か凄く安心してさ」
危機感を絶やさない調子の雛月に対し、三月は安堵の表情を浮かべていた。
息切れもしなくなったので随分と余裕を感じさせる。
「一人じゃないっていいもんだな。雛月が一緒で良かった。せっかく会えたアイアノアとエルトゥリンもいなくなって、逃げ出して死にそうになっても何か現実味が無くてな。このままここで死んでしまってもこれは夢で、また明日には普通の朝が来るんじゃないかって気がしてたんだ……」
続いていた極度のストレスが和らぎ、三月の緊張は気が抜けて弛緩していた。
雛月の助けが、よほどに心の負担を軽減してくれたお陰だろう。
三月の精神がリラックスできているのは芳しいが、雛月は怒号を飛ばした。
「馬鹿野郎! ぼくなんて居て居ないようなものだ。これは、紛れもない現実だ。意識をしっかり持って、生き延びることを考えるんだ。三月がやられたら何もかもお終いなんだって、忘れたら駄目だぞっ!」
三月の気は緩んでなどいない。
頼れる相棒の救いに心底安心を得て、恐怖と絶望に打ち勝ったのである。
足取りは軽く、雛月に向ける表情は清々しい笑顔だった。
「大丈夫だ、俺はまともさっ! こんなところで諦めるつもりはない! だからさ雛月、手を繋いでくれ! 雛月が現実に居るんだって感じていたい! 俺たち二人なら何だってできそうだ!」
三月は走りながら手を差し出した。
実際には存在しない雛月の存在を信じて、その手を取りたいと願った。
すぐ横に伸ばされた三月の手を驚いて見て、雛月は半ばやけくそに叫んでいた。
感情をむき出しにして、顔を真っ赤にしながら三月の手を取る。
もうそれは、朝陽のそれが規範となった借り物とは違う、雛月自身の感情だ。
「もうっ、こんなときなのにしょうがないなっ! ぼくに間違いを起こさせたうえこんなことまでさせてっ! 後でみっちりと反省会だっ! 死なせやしないぞっ、絶対にっ! いいね、三月っ!?」
「ああ、わかったよ! よろしく頼む、雛月っ!」
三月の手には雛月の手の温かな感触が確かに伝わっていた。
雛月のほうから握り返してくる力強ささえ感じられた。
脳がそう感じさせているからという単純な理屈だけではない。
三月が居ると信じ、三月が認めるならば、雛月は現実に存在する。
手を取り合い、ひび割れだらけの道路をひた走っていく二人の後ろ姿。
文字通りに、希望の未来を目指して駆けていく三月と雛月。
もう決して後ろは振り向かず、前へ前へとがむしゃらに足を進めた。
10年間苦しめられたトラウマとの完全な決別。
それはたった今、成し遂げられたのかもしれない。




