第213話 第四の加護
純白の袖が揺れ、アイアノアの白い手の平が上を向く。
すれば、そこからにわかに浮かび上がるのは光の球体。
彼女の操る神秘の権能、太陽の加護であった。
「ミヅキ様、エルトゥリンとの同期完了。我等の概念空間へとお導き致します」
途端、急激な勢いで世界が反転していく。
夕闇に落ちる黄昏れた現実世界がかき消え、全てが幻想の世界に包まれる。
足下のクレーター湖が見えなくなり、代わりに真っ白な大地に置き換わった。
慌てて立ち上がり、今度は空を見上げるとまた感嘆の声が口から漏れた。
「うわぁ……。何だここ……?」
驚く三月の上空に広がっているのは満天の星空が輝く夜の空だ。
夜空は宇宙であった。
暗黒空間の中心には燦然と眩しい日輪があった。
白い大地、宇宙にある数多の星々と母なる太陽。
降り落ちてくるほど迫る茫漠な天の世界には圧倒されるばかりであった。
「ここは時の狭間。世界概念の加護を備えた私たちだけが集える心象の領域です。緩やかなる時の流れの此処ならば、ミヅキ様にゆるりとすべてを伝えられます」
超常の空間を呼び出し、そこへと三月を招いたアイアノアは語った。
心象の世界、緩やかな時間の流れ。
三月には覚えがあった。
──これは、ピンチになると地平の加護が俺の意識を引っ張り込んで、止まってるのかと思うくらいゆっくりとした時間経過の世界になるあれと同じか。地平の加護が、いや、雛月が気を利かして使ってくれる意識だけのタイムアウト現象だ。今はアイアノアもエルトゥリンも一緒か。
暗い星空に対して目に影が残るくらい眩しく感じる白の大地には、三月だけではなく、当の空間を展開したアイアノアとエルトゥリンもしっかりと存在していた。
「あ、防毒マスクが無い……?」
さっきまで有毒ガスから命を守ってくれていた、顔のガスマスクが消えている。
広がる超常の世界が、現実とは隔絶された心象の領域である証拠であろう。
太陽の加護を手の中に従えながら、アイアノアは宇宙を見て言った。
「無限に広がる地平線、すべての母たる太陽、力強き星々、そして──」
彼女の仰ぎ見るその上方、星のざわめく宇宙空間に。
新たなる天体が淡い光をまとって昇る。
まん丸の美しい真円が満天の星空に姿を現した。
それは月だ。
望月、天満月とも呼ばれる、曰く満月である。
「これなるは月の加護。いずれ、ミヅキ様が手中に収められる第四の加護です」
「月の加護……。第四の、加護……」
神妙たる表情でアイアノアはそう告げ、三月は息を呑んで呟いた。
アイアノアの太陽の加護。
エルトゥリンの星の加護。
三月の地平の加護。
そして、まだ見ぬ四つ目の霊妙たる加護は「月」。
世界概念の加護なる彼ら三人の権能に、新しく加わるのは月の加護であった。
「地平の加護に新たなる因子を付与致します」
顔の回路模様をぞわりと輝かせ、アイアノアは両手を高く掲げた。
すると、月の加護の概念天体から光が落ちてくる。
彼女はそれを両手の平で大事そうに受け取ると、三月に向かって歩み寄った。
「ミヅキ様、お手を」
「う、うん……」
思わず三月も両手を差し出すと、アイアノアはその手を包み込むように握って光を渡す。
やはり実体の感触は無いが、温かさだけは感じた。
目の前で微笑むアイアノアの人間離れした美しさに三月は照れる。
顔に走る光の線模様のお陰か、文字通りに光り輝いて見えた。
「これは、鍵……?」
照れ隠しに渡された光に目を落とすと、手の平の中でそれは形を成していた。
光輝の輪郭でぼやけて見えるが、それは確かに鍵を象っていた。
鍵はウォード錠を思わせるもので、持ち手には丸い満月の意匠が凝らされ、歯の部分は三日月が付いている味のある形状だ。
サイズは両手の平ほどの大きめ。
「それは、ミヅキ様の地平の加護を完全な形へと進化させる引き金です。そして、ミヅキ様の願いを成就させるための呼び水ともなる。今はまだ儚い浮き雲のような祈りを、より強固に収束させてくれることでしょう」
笑顔はそのままに、アイアノアは一歩後ろへと下がった。
三月はそうして異世界の使者から「鍵」を受け取ったのだ。
「月の加護を起こす鍵はお渡し致しました。ミヅキ様が使命をお果たしになって、パンドラの地下迷宮を往かれれば、いずれは巡り会う時が来ます」
「パンドラの地下迷宮に月の加護はあるのか……」
三月の呟きに、アイアノアは何も言わず静かに頷いた。
すると、光の鍵はぱっと粒子状に散り、三月の身体に吸い込まれていく。
眩しくて瞬きをした瞬間にもう鍵は消えて無くなっていた。
必要となるその時が来れば、鍵は自ずと再び姿を現すのだろう。
月の加護の起動キーの受け渡し。
彼女たちの帯びる重要な使命の一つは完了した。
「ミヅキ様、時は満ちました──」
そして、いよいよとアイアノアは語り始める。
やがて三月が成すべき、大いなる試練とその委細、真実について。
笑顔は一転し、真剣な表情へと凜々しく変わる。
「私たちはいま、あなた様にとても大切なことを伝えるべく、別世界から語りかけています。私たちとの邂逅を果たすためにミヅキ様はこの因果の場所へと招かれたのです。此度の再会は、この重大な使命を告げることこそが真意です」
三月はごくりと息を呑んだ。
このアイアノアたちが伝えようとしていること、それを受け取ることが、かつての故郷へと三月を送り出した雛月の意図なのだ。
何かを掴めるかどうかは三月次第。
今がその時だ。
辛く悲しい過去に向き合った先で待っていたのは紛うことなき希望の糸。
「ミヅキ様、心してお聞き下さいまし。そして、魂にお刻みください。この滅びの世界、あなた様の故郷、神巫女町を災厄の運命から救う術をお報せ致します」
アイアノアは話す。
異世界渡りとタイムリープで行う世界変革の全てを。
今までは三月と雛月の間でしか確認できなかった物語の目的。
現実世界の三月への救い。
それを異世界のアイアノアの口から聞かされる。
「果たすべき使命は三つ」
言葉は改めての再確認であり、確信をさらなる確信へと昇華する意味があった。
「一つ、パンドラの地下迷宮の踏破」
迷宮の異世界、アイアノアとエルトゥリンが住まう世界にて、伝説のダンジョンであるパンドラの地下迷宮の深奥に至ること。
百年前の亜人戦争で、修羅と化したフィニスを追う目的もそこに含まれる。
何より、迷宮の奥底には滅んだ神巫女町が眠っている。
未だに行方不明な大勢の人たちを飲み込んだまま。
さらに、蜘蛛の着物の男、悪神八咫もどういう訳かそこに居るらしい。
おそらく波乱は避けられず、踏破への道は極めて厳しい。
「二つ、天神回戦、祈願祭での勝利」
神々の異世界で日々開催されている武の祭典は天神回戦。
大地の大神たる太極天の神通力を巡り、序列を争う神々の戦いである。
三月は神のしもべのシキとしての生を受け、何故だか落ちぶれてしまった創造の女神、日和の神格を取り戻すために試合に出て勝ち上がる。
天神回戦での勝利、とは雛月にも示された目的だが本当の意味はまだ不明だ。
日和を勝たせ、夜宵の破壊の神威を止められれば、故郷も朝陽も助かると踏んでいたが思わぬ早合点という可能性もある。
わざと意味をぼやかしたような言い回しも引っ掛かるが、彼女は自分の世界とは異なる世界の事情を知っていた。
天神回戦、祈願祭。
そのキーワードは絶対に知られざるものだったはずだ。
アイアノアが天神回戦を知っていたのには驚いたものの、三月にはそれとは別の思いも込み上げていた。
「そして三つ、神巫女町大災害の真相を解き明かす事」
その三つ目の使命を聞かされると、三月の心臓は跳ね上がった。
予想もしていたし、雛月からも散々関連を示唆されていた。
夜宵の神威が起こしたとされる10年前のこの惨禍が。
朝陽を失った悲劇が。
果たさなければならない使命に、しっかと関わっていた。
真相を解き明かす、とはどういう意味なのだろう。
いや、そんなことよりも、と三月は苦しい気持ちに駆られた。
どうやっても逃げられず、目を背けることもできそうにない。
やはり、過去に向き合うだけでは足りなかった。
毒を食らわば皿までと、とことん付き合おうと思った覚悟に嘘は無い。
しかし、それが三月にとっての苦難の道であることに変わりはないのだ。
──もう覚悟はしたろ。しゃんとしろ、俺。あれこれ考えるのは後だ。今はアイアノアの言葉に耳を傾けて手掛かりを掴むのに集中しろ。
「三つの使命を果たす時、この世界を救う術にミヅキ様は辿り着きます。すべては必然、無駄なことなど一つもありません」
アイアノアの話は続いていた。
苦悩に歪む三月の顔を見て、彼女もまた心苦しそうだった。
それでも、アイアノアにはアイアノアの使命を遂行せねばならない。
「すでにミヅキ様はいずれの使命にも挑む渦中にあります。……もう、理解も自覚もございますね。すべての運命は各々の時の中で多様に進みゆく只中です。どれをとっても乗り越えることは容易ではなく、それぞれの使命を並行して正しく行い、一つとして欠かす事無く果たさねばなりません」
アイアノアは三月に伝えている。
大いなる使命、女神様の試練、失われた過去への探求。
異世界渡りとタイムリープの旅の辿り方を。
「それぞれの使命にどう向き合い、どう挑むのかはミヅキ様次第ですが、ミヅキ様はミヅキ様の、己の信念に従ってお進み下さいまし。それこそが使命達成への正解に導く、正しき道しるべとなってくれることでしょう」
アイアノアは三月の背を押し、願った。
運命に大切なものを奪われた者としてではなく、使命を負って勇ましく戦う者としてでもなく、一人の意思ある人間としての三月に祈りを捧げた。
ただただ、三月のことを一途に想って。
「ミヅキ様は、不幸な運命に巻き込まれただけの被害者ではありません。あなた様は数奇な運命の巡り合わせにより選ばれし時空の旅人──。皆々様方の世界を破滅の呪いからお救いください。そして、ミヅキ様自身もどうか救われてください」
アイアノアの切なる気持ちを受け取り、三月は問い返した。
「──それをやれば、この町や俺の運命を変えられる……? あの二つの異世界の旅はその為……? そうなんだな、アイアノア」
「はい、その通りでございます」
そして、彼女も力強くしっかりと頷き、断言した。
三月が試練を乗り越え、すべての条件を満たせば現実世界を救えると認めた。
真に神からの啓示を受けたかの如く、三月の頭はくらくらした。
激しい動悸は収まらず、身体の震えが止まらない。
だが、目にあるぎらぎらとした光はやる気に満ちている。
そんな前のめりになる三月を見つめ、アイアノアは柔らかく微笑んだ。
「ミヅキ様は三つの使命の先に、何を選び、何をお掴みになられるのでしょうね。破滅の結果を変える奇跡の未来か、何をも変えられない悲しい未来か……。すべてはミヅキ様の双肩に掛かっております」
穏やかに激励の言葉を送った後、アイアノアは複雑な表情を浮かべた。
笑った顔のまま、眉根を下げて少し困った風の顔をする。
「……ミヅキ様、私は覚醒した太陽の加護を扱うのが上手じゃありませんよね」
そのときのアイアノアはいったい何を言いたかったのだろう。
不思議と笑顔が儚く見えたのは気のせいではない。
「またこちらの世界に戻られましたら、まだまだ未熟な私のことをどうかよろしくお願い致します」
アイアノアとは、次に巡るであろう迷宮の異世界での物語で再会できる。
彼女自身もそう言っていることだ。
きっとまた、すぐ会える。
「──そして、私に何があったとしても……。いいえ、何でもありません」
ただ、そう言葉を零したアイアノアは、今にも消えてしまいそうな物寂しささえ感じさせるのだった。
今現在の三月には、どうして彼女がそんな顔をしていたのかはわからない。
理由を尋ねる時間も無く、アイアノアは自らの使命を次の段階へ進める。
「アイアノア……」
思わず淡くも名を呟いた。
どうにも目の前に居るこのアイアノアは、三月のよく知っているアイアノアとは違う気がする。
そんな訳は無いのだろうが、どうしてかそう思った。
違和感の裏付けなのか、張り上げた声で言った言葉は三月を驚かせる。
アイアノアは三月の目を見つめ、心の奥深くを見透かしていた。
「地平の加護よ、ミヅキ様の心に住まう化身よ。お前の情報統制の段階解除を行います。しっかりと物語の因子を精査し、ミヅキ様を正しき未来へと導きなさい」
「雛月のことまで知ってるのか……」
恐れ入ったとばかりに目を丸くしてため息を吐いた。
アイアノアは微笑むだけで何も答えないが、地平の加護に付随する化身、雛月の存在までを認識していたのである。
果たして、どこまで三月の秘密について知っているのだろうか。
幻想なる乙女の緑色の瞳は、大海の水底の深遠を思わせた。
さておき、ここからは堰を切ったかのような怒濤の情報公開が始まる。
三つの大きな使命それぞれを大別し、分類分けした各世界ごとの詳細な攻略法がアイアノアによって惜しげもなく告げられる。
今まで雛月がもったいぶって話していたのが馬鹿らしくなるほどであった。




