第211話 故郷で待つもの
「……現実の世界で俺一人だけは、やっぱり心細いよ……」
一人きりの帰郷で三月は何も見つけられないでいた。
虚無の現実に打ちのめされ、希望となる不可思議を見出せない。
女神社の石段に座り込んでうなだれていた。
「……」
どれくらいの間、そうして小さくなっていただろう。
長く座り込んでいたようにも、さしたる時間の経過は無かったようにも思う。
身体を折り曲げていたから自然か無理やりか、その変化に気付かされる。
冬の空気に心身を冷やされていたからというのもあった。
「あっ、熱ちっ……!?」
三月は驚いて尻餅をついてしまった。
腹の辺りに異様な熱を感じた。
熱さの正体は、またもやポケットの中の黒瑪瑙による発熱現象だ。
「何だっ?! また、夕緋のくれた石が熱くなってる……!」
尻を地に付けて身体を起こして見た先、上着越しに石が赤く光っている。
無味乾燥な現実の中において、この石だけが不可思議の象徴であった。
しかも、町中を練り歩いていたときに感じた熱より遙かに熱い。
石の反応の強弱が何かを表すなら、この熱さは近付いてくる超常なる存在の強さを物語っているのだろうか。
さらに石は熱くなり続ける。
このまま爆発でもするのかと肝を冷やしていると。
それは、三月のところへ高速で飛んできた。
「あ……! ひ、光の、球……?」
三月は呆然とした声を途切れ途切れに漏らした。
自分の少し上空に、夕焼けの空よりも明るい光の塊が浮かんでいる。
それは光の球の形をしていて、目の前でくるくる円を描いて飛翔していた。
オーブとも玉響現象とも呼ばれるものに酷似している。
しかし、そうした類いのものなら肉眼では見えず、写真や映像を通してのみ確認されるはずである。
何より光の球はかなり大きい。
直径30センチ程度はありそうだ。
自然現象か霊的現象の発光体ならこんなに大きくないだろうし、目視は不可だ。
三月の見間違いでなければ、光の球は町の中心、巨大クレーターのほうから飛翔してきたようであった。
「えっ……? これって……?」
戸惑う三月は目を凝らす。
初めは眩しくて光る物体が何なのかわからなかったが、段々と目が慣れてくると球体の中に何かが居るのが見えてきた。
それは間違いなく現実世界のものではなく、現代の人知が及ばない不可思議。
今の三月が求めて止まない、──異世界からの使者であったのだ。
「あっ、待ってくれッ……!」
光の球は三月をその場に置いて、神社の階段を下に向かって飛んでいく。
かと思えば、叫んで追いすがろうとする三月を待つみたいに空中で停止する。
そして、三月が近付いてくると再び飛行を再開した。
どう見てもその動きは誘いの所作である。
光の球は三月をどこかへ連れていこうとしている。
「はぁっ、はぁッ……! はっ、はぁっ……!」
転がり落ちないように石段を下り、土砂ででこぼこした道を一心不乱に走った。
そこら中の陥没した穴を避け、光の球を見失うまいと必死に追い掛けた。
もうその頃になると、光の中の正体は明確に捉えることができていた。
光の中のそれは、小さい人の姿をしていた。
せわしなく背の羽根をぱたぱた動かし、穏やかな表情は微笑んでいて地上を走る三月に目配せしていた。
ふわりふわりと風になびく長い髪から尖った耳が飛び出している。
身体は光そのもので衣服を着ているようには見えない。
発している光は太陽ほど眩しい。
まさに、ファンタジー世界から具現化した妖精の少女、としか表現できない。
そんな不可思議の存在が、災害で滅んだ故郷の空を飛んでいる。
倒れ掛けた電柱の間を縫い、もう点かない信号機の下をくぐり抜けていく。
置き去りにされることはなかったのかもしれないが、消えかけた道路標識のアスファルトを蹴り、三月は決して足を止めずに妖精の少女を追った。
「はぁっ、はぁっ……。こ、ここは……」
息が切れる現界まで走り、三月は足を止める。
いや、足を止めざるを得なかった。
これ以上は、もう進めないからだ。
三月は知らずに到達していた。
神巫女町大災害の爆心地と呼ばれる、町の中心部へ。
学校や市庁舎、その他の多くの建物や大勢の人間を飲み込んだ大穴の縁へと。
最大規模の地面陥没地帯、超巨大なクレーターである。
勾配の厳しい斜面がかなり下まで続いており、穴の底には大量の水が溜まって湖の状態になっていた。
クレーターの湖は直径数キロメートル以上の広大さを見せている。
誤って滑落でもすれば、奈落の底までノンストップで真っ逆さまだ。
この深さなうえ、これだけの窪地なら火山性ガスが溜まっていてもおかしくない。
硫化水素、亜硫酸ガス、二酸化炭素、いずれも濃度が高ければ短時間で昏倒し、誰も助けの来ないこの状況なら待っているのは確実な死である。
絶対に行ってはならない場所であることは間違いない。
しかし、妖精の少女はクレーター上の空中に滞空し、背の後ろで手を組んで立ち止まった三月を何も言わず遠く見下ろしている。
「まさか、ここを下りろっていうのか……?」
ようやく息が整ってきた三月は、妖精が自分をどこへ誘っているのかを察した。
三月の問いに答えず、妖精は飛行を再開する。
クレーターの斜面を真っ直ぐ下り、穴底の湖の中心へと飛んでいってしまう。
一瞬で遠くまで行った妖精の発する光が水面に浮かんで見えている。
やはり、来いと言っているようだ。
危険極まりない地獄の穴を前にして三月の足はすくんだ。
「……冗談じゃない。こんなところを下りていくなんて、命がいくつあっても足りやしないぞ……。まったく、無茶を言ってくれるな、あの妖精さん……」
戦々恐々と言ってみるが他に道がある訳ではない。
異世界から差し伸べられたであろう手を、何が何でも掴まなければいけない。
この機会を得るために今回の里帰りを決行したのだから。
「時間は午後4時前……。もうそろそろ暗くなってくるな。何かをやるならこれが最後のチャンスだ。……逃がしてたまるかよ!」
自分を鼓舞して両頬をぱんと強く打つ。
冷えた顔に痛みが走り、幾分かの気合いが入った。
よし、と声を張り、背中の大きなリュックを足下に下ろす。
もしかしたら、高低差の激しい場所を上り下りする場面に出くわすのではないかと、念のために準備してきた道具を取り出した。
まずはザイルとも呼ばれる多目的登山用ロープである。100パーセントポリエステル製で破断強度の優れた代物である。
三月が持ってきたのは20メートルの長さのもので、何とか穴の底まで届きそうである。
次に取り出したのはスリングだ。
抱っこ紐の意味でもあるそれは、すでに輪っか状に加工済みで身体や物に結び付けて使用される。
ロープとスリングを繋ぐ環状の器具、カラビナも幾つか取り出して手早く準備を進めていく。
「確か、こうして、こうだ。付け焼き刃の知識だけど、これで何とか……!」
一人呟きながら、即興で勉強してきたロープの使い方を自分に施した。
スリングを身体に巻き付けて簡易チェストハーネスを作り、その先端にカラビナを取り付ける。
近くの無事そうな電柱に、もう一つのスリングを取り付けてカラビナに通す。
これで万が一、足を滑らせても地の底へ転落して即死亡とはならないだろう。
最後に火山性ガス対策で、鼻と口を覆う防毒マスクをぴたりと装着した。
いくら猛毒の気体が充満していようと、多少息苦しいが呼吸が可能となる。
簡易ハーネスと併せ、死と隣り合わせの危険地帯での心強いアイテムであった。
「い、行くぞ……! ハァ、ハァ……!」
革手袋をはめて、三月は急勾配の斜面を慎重に下りていく。
ロープを先に下まで下ろし、おっかなびっくりに後ろ向きで身体を下ろした。
さすがに垂直の懸垂下降とまではならないため、登山素人の三月にでもどうにかなりそうではあった。
斜面からは水道管やら下水管の断面、砕けた岩盤の一部が突き出していた。
ここら一帯の陥没した地盤は、地面の下へと町ごと引きずり込まれた。
クレーター湖の水面下に埋まっているはずだが、未だにその痕跡さえ行方不明になっている大勢の人たちと同じく見つかってはいない。
ただ、三月だけがそれらの行方を予感している。
──この下にはもう何も残っていない。沈んだ町といなくなった人たちは、きっと別の世界に行ってしまったんだろう……。俺の予感が間違ってなけりゃ、神巫女町の地下はあの場所と繋がってしまったんだ……!
「……パンドラの地下迷宮……! まさか、この下にあるってのか……!?」
切れる息と震える身体を抑えつつ、三月は戦慄の事実を感じていた。
地平の加護を介して見てきたのだ。
迷宮の異世界、パンドラの地下迷宮の深奥に眠る現実世界の廃墟の姿を。
あれは間違いなく、消えてしまった神巫女町の一部だった。
つまり、災害をきっかけに地底へ飲まれたものはすべて転移してしまったのだ。
次元の壁を超越し、異世界のダンジョンの底へと。
あまりにも突拍子がなく、とんでもない大事変が起こったのである。
「何がどうなったらそんなことに……。夜宵のやった破壊の神威っては、いったいぜんたい何だったっていうんだ……?」
革手袋越しにロープを握る手に力がこもった。
脆くなった足下が崩れ、斜面を土砂が流れ落ちていく。
身体中に吹き出す汗はそのままに、三月は息を呑んでさらに下降していった。
まだクレーターの底には着かない。
下りることに集中しながらも、三月は思いを巡らせていた。
──女神社は土地の神、地母神を祀る大地信仰だ。日和も夜宵も、創造と破壊の神である以前に大地の女神だ。神巫女町に伝わるお伽噺では龍脈の女神って言われていた。日和の力の源は金色の龍だった。あれは、きっと黄龍なんだろう。
黄龍は五行思想の土行を司り、四神の中心を護る聖なる神霊である。
大地を走る龍脈が乱れれば、土地は荒れ、天変地異が起こると言われている。
それは黄龍の怒り、地母神の神威として大地を破壊してしまう。
荒れた神霊の御業が下界の現実世界に災害となって顕現する。
──迷惑な話だよ、くそったれッ! 俺たち人間の世界を何だと思ってるんだ! だけど、夜宵の破壊のせいで神巫女町がパンドラの地下迷宮に転移したってんならそれはどういう理屈なんだ? 現実の世界はともかく、神様とパンドラの世界には何の関係も無いだろうに……。
胸に湧き上がる強い感情に、ザイルロープを握る手に力がこもる。
迷宮の異世界、神々の異世界。
何の関連も持たない二つの世界は、これまでもこれからも決して交わらない。
その理は揺るぎなく、次元を隔てる世界と世界は絶対普遍の平行を保つ。
そう、そのはずだった。
事実、もう交わってしまった世界の状態については不明な点だらけである。
しかしたった一点、双方を結びつける接点はすでに存在していた。
三月は半ば確信めいたものを感じていた。
──どういう訳だか、あいつがパンドラの地下迷宮の奥底に居やがった。だから、もうそれが一つの可能性を証明してしまっている。神々の異世界出身の、日和と夜宵の宿敵、蜘蛛の禍津日の神、八咫……! あいつが居たってことは!
異世界の悪神が、さらなる異世界のダンジョンに居た。
とうの昔に一度は滅び、いつの間にか復活を果たし、パンドラの地下迷宮深奥に転移したと予測される神巫女町の廃墟に八咫は居たのである。
即ちそれは、もうすでに異世界同士の存在が行き来をしていたことの証しだ。
「もう世界は繋がってしまっているんだ……! 俺の知らないところで三つの世界はぶつかり合って、悲しいことや良くないことを引き起こしている……!」
三月は防毒マスク越しに興奮して叫んだ。
それが仇になり、危うくも勢い余って足を滑らせてしまう。
声にならない悲鳴をあげ、ずざざっと後ろに倒れ込みそうになった。
「……ッ!? ……う、ハァ……。た、助かった……」
しかし、三月の身体は転落しなかった。
それどころか、しっかりと二の足が地面に着いている。
無心で脇目を振らずに下降している内、いつの間にかクレーターの底に到着していたのである。
とりあえずは一旦の命拾いだ。
下りてきた方向の斜面を見上げる。
目測、15メートルくらいの高さを下りたようだ。
また上がれるかどうかと不安を覚えつつ、三月は後ろを振り返った。
深い穴の底は日の光が届きにくく、暗い地下世界のようだった。
ざざぁ、ざざぁ、とクレーター湖の岸に白波が立っている。
間近で見てみると、大穴の底に溜まった水の量はおびただしいものであった。
溜め池や貯水池というには広すぎて、向こう岸がはるか遠くに霞んで見える。
水は濁っていて水深がどれくらいなのか見当も付かない。
「むぅ……。どうしろってんだよ……?」
静かな波音を聞きながら、三月は湖の中心へと飛んでいった妖精を見やる。
波立つ湖面にかすかに明滅する光が見えるが動く気配が無い。
まさか、この冬も近い厳しい季節に寒中水泳でもしろというのだろうか。
さすがにそれは無理筋だと思い、三月は渋い顔で湖とにらめっこである。
防毒マスクの呼吸缶から荒い息を、ぶぉーっと噴き出して不服を表す。
こんな危地へと招いたのだから、少しは手掛かりのほうから譲歩して欲しいものだとふてぶてしく思った。
命からがら、危険を冒してクレーターの底へとやって来たのに、こんなところで立ち往生となってとはあんまりである。
と、そんな三月の不安を払拭するかのように事態は動き始める。
この場所、巨大クレーターの中心近く。
此処へと三月が至ることこそが、次なる物語の鍵を掴むための起点なのだから。
いよいよと、条件は満たされたのだ。
「あっ、湖が光ってる……」
妖精の少女が放っていた光がぱちんと弾けた。
すると、湖の真ん中から波紋状に淡い光が水面に広がっていく。
水自体が光っているのか、水底にある別の何かが光源となっているのか。
圧倒的な現実感がなりを潜め、非現実な幻想が繰り広げられ始める。
広大なクレーター湖全体が白く眩い輝きを放っていた。
「……ミヅキ……」
そして、三月は視界を埋め尽くす光の中、確かにその呼び声を聞いた。
気のせいでも聞き間違いでもない。
三月は前のめりになり、わなわなと揺れる足を一歩踏み出した。
もっと不可思議を信じさせて欲しい。
だから何度でも声を聞かせて欲しかった。
「……聞こえますか……。届いておりますか、この声が……」
声は期待に応えてもう一度聞こえた。
水の中からではなく、水面から立ち上る光の中から声は響いてくる。
「……ッ! きっ、聞こえるっ! 聞こえるよッ! 俺はここに居るッ……!」
感極まった三月は叫び、歓喜して飛び上がった。
あれだけ一人きりにされ、心細い思いをしてきたのだ。
とうとう見つけた希望の手掛かりに、ひときわの嬉しさと安心が込み上げる。
「……今からいくよっ! そっちに……!」
三月は思わず岸から足を踏み出し、冷たい水の中へと入っていった。
無意識だったためか、寒さも冷たさも麻痺したみたいに感じない。
寒中水泳など真っ平だと思っていたのに、水着を着てくれば良かったとか、簡易的なゴムボートを用意しておけば良かったなどと気を動転させていた。
興奮に我を忘れ、ざぶざぶと進むとすぐに水は腰の高さにまで達した。
泳ぐしかない状況に陥るものの、マスクや衣服を身に着たままでは泳げない。
そもそも三月は泳ぐこと自体が苦手なのに、それを忘れてしまっている。
「あ、あぶぶっ……!」
案の定、水に足を取られて体勢を崩し、顔の防毒マスクが水に浸かった。
これまであんなに慎重に進んできたのに、このままでは溺れてしまう。
それでも止まろうとしない三月を見かねてか、水面の光は揺らめいたり、点滅したりしている。
まるでそれは無茶をする三月に慌てている風に見えた。
「うわぁっ……!?」
突然の変化に驚きの声をあげた。
沈むしかなかった身体が、足下のほうから持ち上がって浮かんでくる。
白い光が三月の身体にも伝わり、浸透して光っていた。
浮上した三月は、水面に足の裏を付けて立ち上がれるまでになっていた。
「よっし!」
今は何事もおかしいとは思わず、確信を得たとばかりに光の近くへと行く。
水面の上を歩く不可思議を体験しながら、湖の中心へと足早に歩いた。
水に濡れていた服は、光に包まれて歩く内に自然と乾いていく。
やがて、三月は光の下に辿り着き、波立つ水面の上に立った。
見上げるのは何とも言えず、穏やかで包容力のある優しい光であった。
心がぽかぽかと温まり、物柔らかく抱き締められているようである。
「もう、溺れてしまったらどうされるおつもりですか……。泳がれるのは苦手ではありませんでしたか? 本当にもう、無茶をいたしますね。相変わらず……」
湖の中心に着くと、はっきりとした声がまた聞こえた。
ノイズの混じっていないクリアな音として三月の聴覚に届いた。
どこか呆れ、心配をする気持ちの、しょうがない子供を見守るような声だった。
この柔和な女性の声にはとても聞き覚えがあった。
「お待ちしておりました、ミヅキ様。心の痛みを克服され、この約束の地へと赴きになられたこと、まずは感謝致します」
光は三月を労い、やがて形を取り始める。
水面から立ち上る輝く粒子は収束して、人型の姿をふわりと現した。
長い袖の純白の和装束を身につけ、足首までの丈の緋袴が鮮やかに映る。
紛うことなきそれは巫女装束たる神職の衣服で、清楚な雰囲気を醸し出す。
ブロンドのロングヘアーを後ろで一つにまとめていて、ぴんと立った長い両耳が強調される容色。
緑の目の人間離れした美しさの、──異世界の女性。
驚きやら喜びやらが混ぜこぜになった気持ちで、三月はその名を呼んだ。
辛さ悲しさ、心細さなど吹き飛ぶほど快活に彼女の名を叫んだ。
「──アイアノアッ……!」
三月に名を呼ばれ、長い耳を生やした巫女服姿の美しい女性は微笑んだ。
この現実世界、破滅を迎えた天之市神巫女町の中心にて。
迷宮の異世界の仲間、太陽の加護を操るエルフのお姉さん──。
アイアノアとの再会を果たしたのだ。




