第210話 一人ぼっちの三月
滅んだ故郷で朽ちた女神社を見た三月は再び思い出す。
それは子供の頃にあった登校の時分の記憶。
夕緋と肩を並べて歩いている。
「どうしたの、三月? 私の顔に何かついてる?」
「あ、いや……。最近の夕緋ちゃん、何か素っ気ないなって思って。怒らせるようなことしたかなってさ……」
今日もいつもの合流地点で出会い、登校を共にしている状況である。
ちらちらと窺い見てくる三月に、怪訝な目をして夕緋が振り向いた。
三月には夕緋の様子が素っ気なく無愛想に感じる時期があった。
それが丁度その頃、高校1年生の秋のことだった。
因みに、気のない素振りを見せていたこの頃の夕緋は、長かった髪を肩口くらいまで切っていた時期でもある。
この容姿だと一見して姉の朝陽と区別がつかない。
おずおずとした三月に、夕緋は少し困った風の顔をして口許に笑みをつくる。
「別に怒ってなんてないし、素っ気なくしてるつもりもないんだけど」
「そ、そう?」
三月の若干慌てる様子に夕緋はくすくすと笑う。
ドライでつれない雰囲気だったのは気のせいだったのかと思わせる。
「そんなことより姉さんとはうまくいってるの?」
出し抜けに夕緋が聞いてきたのは朝陽との仲らいについてである。
三月は多少照れながら頭を掻き掻き答えた。
「うん、まぁね。朝陽は命の恩人だからなぁ。あれ以来、一段と良くしてくれるし前にも増してべったりだよ」
「……そう、良かったわね」
相槌を打つ夕緋は笑顔だった。
少しの影も感じさせない笑顔だったと思う。
その年の夏の終わり、三月はある事故で川で溺れて生死の境を彷徨った。
朝陽による奇跡の活躍で、奇跡の生還を遂げた、尊い奇跡の出来事。
以来、三月と朝陽の仲は急速に発展し、睦まじい男女の仲となった。
「あっ、そうだ。夕緋ちゃん、弁当つくってくれてありがとう。美味しかったよ」
三月の言葉に、綺麗な笑顔だった夕緋の表情がきょとんとしたものになる。
それはお昼に朝陽から振る舞われたお弁当のことであった。
提供は朝陽からだったものの、実はつくったのは夕緋だったという話だ。
「……気付いてたんだ。私が三月と姉さんのお弁当つくってるの」
「朝陽には悪いけど、あんな美味い弁当はちょっとつくれないかなって……。朝も弱いだろうから、尚更つくる暇も無いんじゃないかな……」
命の恩人たる朝陽を悪く言うつもりは毛頭無いが、できることの幅がどれくらいなのかは三月にはある程度把握できていた。
それを鑑みると、弁当の出来はあまりに良く出来過ぎていたのである。
何でもこなす万能の夕緋がつくったと考えるのは当然の帰結なのであった。
「ふふっ、そうね。姉さんはお寝坊さんだからね」
思い掛けず三月が本当のところを見抜くものだから夕緋は顔を綻ばせる。
三月は昔からそうだった。
双子でよく似ている朝陽と夕緋の顔はもちろん、声も聞き間違いもなかった。
肝心の部分は常に押さえてきたのである。
この髪型にしてもそうだ。
三月は一目にどちらがどちらかを見抜いていた
さしもの夕緋も、そんな三月の抜け目のなさには一目を置いていた。
息を一つ吐くと、夕緋は心持ち愉快そうに言った。
「二人のお弁当を用意したり、色々と面倒を見たりするのは毎日のお勤めみたいなものだから気にしなくていいよ。私のつくったお弁当で、三月と姉さんが仲良くできるんなら早起きした甲斐もあるってものね」
「そっか、ありがとう夕緋ちゃん。お世話になります」
三月もにっと歯を見せて笑って答えた。
二人は基本的に早起き早出である。
今朝も寝坊をして、必死の思いでお勤めをしてから学校に遅刻寸前でやって来る朝陽とは大違いである。
育ちのいい坊ちゃん気質の三月と非の打ちどころがない夕緋。
その二人と並べて比べられる朝陽は可哀相と言えなくもなかった。
「──そういえば、夕緋ちゃんこそ身体は大丈夫なのか?」
と、自分の川で溺れた件の繋がりではないが、しばらく聞けていなかったことを三月は問い掛けた。
事故当時の自分には他人を思いやる余裕は無かったが、喉元の過ぎた今なら夕緋の身を心配に思うこともできる。
「俺が退院した後もしばらく入院してたそうじゃないか。急に体調を崩したって。後から朝陽に聞いたよ」
溺れた三月は三日三晩意識を失い、検査も含めて一週間程度を入院していた。
その退院後、三月は朝陽から夕緋も身体を壊して入院したと聞かされた。
入院期間は三月よりも長く、一ヶ月もの間を療養していたそうであった。
「……はぁ、言わないでって言ったのに。姉さんたら……」
大きなため息をついて、夕緋は呆れたみたいに頭を大げさに振った。
この件に関して夕緋はあまり触れられたがらない。
以降も事あるごとに聞いてみたことはあるものの、何故入院していたのか理由は結局語られず仕舞いであった。
「うん、もう平気。単なる疲労よ、大事を取って入院になったの。少し、お勤めに疲れちゃったのかもね。三月にあんなことがあって凄くショックだったし」
「うう、心配掛けてごめん……」
そう言われては三月に立つ瀬はない。
大勢に心配を掛けてしまったのだから。
三月には三月の、夕緋には夕緋の事情がある。
それで話は終わっていた。
「うふふ、いいのよ。三月が無事で良かったわ」
夕緋は弱る三月の顔を見て微笑み、そして無事で済んだことを心から喜んだ。
合皮のスクールバッグを持つ手とは逆の手で握りこぶしをつくる。
力強い感じで手の甲を三月に見せ、夕緋は不敵に笑って言うのだ。
「とにかく私は大丈夫! 何せ、私には女神様が着いてるんだもの」
己に課された使命を果たすためか、単に三月を安心させるためか。
夕緋は今日も明日も、皆のためにこの先もずっと平和を祈り続ける。
「この町の平和のため、お勤めを果たして鎮守を祈り続けるから。三月も姉さんも何も心配しなくていいよ。みんなみんな、私が守ってあげる。うん、頑張るね!」
破格の才能を秘めた当代の神水流の巫女は町の泰平を願った。
事実、その願いは叶えられるはずであった。
土地の氣は安定していて、陰と陽を司る大地の女神姉妹の加護が町を護ってくれている。
破壊の神威が町を滅ぼす道理など微塵も無かったはずなのに。
神の祟りは爆発し、運命のあの時を迎えてしまうのである。
「……朝陽と夕緋、日和と夜宵……。おめがみさんの神社……」
無情な現実に引き戻され、三月は心寂しい風に吹かれて呟いた。
視線は御神那山の女神社に向けられたまま。
お参りする墓は無く、廃れた自宅への挨拶は済んだ。
次に三月が向かおうとするのは神巫女町の信仰の中心、女神社である。
「……よし、まずはあっちに行ってみるか」
誰に言うでもなく呟くと三月は歩き出した。
朝陽と夕緋の生家であり、日和と夜宵に祈りと願いを届けていた女神社へと。
そこへ至るまでの道路の状態が無事ならいいのだがと、一抹の不安を抱えつつ。
「うわ、何だこりゃ……!」
三月は女神社へと続く長い石階段の下まで来て驚いた。
境内は山の中程にあるのだが、そこに伸びている石段が半分近くが大量の土砂で埋まってしまっている。
それは山の噴火によって発生した火砕流が流れてきて出来た跡であった。
溶けた岩や軽石や火山灰が混ざり合い、冷えて固まった状態のものである。
階段の上がり口には鳥居が建っていたが、すっかりと土砂の下に埋没していた。
苦労して小山と化した土砂を登り、途中から粉砕された石段をふらふらよろめきながら何とか上がっていく。
幼い頃、父と母と連れ立ってこの石段を何度も往復し、よく神水流の家と交流を深めたものである。
10年振りに思う、感慨深い思い出だった。
「──んっ?」
ふと、石段を八割方上ったくらいのところで。
三月は不意に何かを感じて辺りをきょろきょろと見渡した。
冷や水を掛けられたみたいにぞくりと背筋に悪寒が走る。
「……」
視線を感じたからだ。
誰かに見られているような気がした。
誰も住む者のいない無人の町のはずなのに、それは気のせいだったのだろうか。
「うぅ……」
もう今は何も感じない。
石段の下を振り返れば何の音もしないクレーターの町の光景が広がっている。
山を見上げれば木々がざわめく不気味な静けさが凄然と見下ろし返してくる。
「……こ、これ以上俺を怖がらせんでくれ……」
びくびくと背中を丸め、三月は急ぎ足で崩れた階段を上っていった。
神社の境内に到着すると、そこにもひどく荒れた惨状が広がっている。
鐘楼門は崩れ落ち、敷地を囲う塀はことこどく倒れてしまっていた。
清浄な神苑は石畳が割れ砕け、白かった玉砂利の色はくすみ、雑草がぼうぼうに生えてしまっている。
比較的原形は留めているが社殿はほぼ倒壊していて、屋根は瓦が剥げ落ち、噴石の数え切れない直撃で穴だらけになっていた。
朽ち果てた合歓の木と、涸れた池の睡蓮の残骸が言い知れない寂寞感をあおる。
神社の裏側の斜面にさらなる上への石段が続き、その先に山の壁をくり抜いた洞がある。
そこは人身御供の因習を残す祭壇の社だが、崩落する危険性が高く、わざわざ近付く理由は果たしてあるだろうか。
別の方向を見ると、神社の敷地から離れた山裾に神水流の家が残っていた。
遠目にはそれほどの被害は受けていなさそうに見えるものの、数え切れない噴石が降り注いだのだからもう人が住める環境では無いだろう。
「……朝陽、うぅ……!」
境内の一角を見つめて三月は苦しげに呻いた。
崩壊した手水舎の前辺り、一見して何も見当たらない荒れた砂利の地面。
あの時、災害を逃れてきた夕緋を通じて伝わってきた記憶で、朝陽がどこで最期を迎えたのかが三月には生々しくわかってしまった。
三月はその場所で目まいを感じつつ、立ち尽くしていた。
朝陽はここで絶命する運命を辿ったのだ。
飛び交う弾丸の如き噴石を受け、身体をばらばらにされた朝陽が倒れていた地面に三月は目を落としている。
「……朝陽、朝陽……」
こんなところで命を落とした朝陽を思うと、ただただ可哀相でたまらなかった。
瞳ににじんだ涙を拭い、三月は我に返って足早にそこを去る。
朝陽の最期を思えば思うほど、もう動けなくなってしまいそうだったから。
「……」
今度は三月は拝殿の前に立っていた。
殿舎は今にも崩れそうで、鈴緒もつるしていた本坪鈴もどこにも見当たらない。
チャリン……!
苔むして破損した賽銭箱に小銭を放り込んで手を合わせた。
そうして祀られていた女神に思いを馳せる。
無論、夜宵ではなく日和にである。
「……日和、助けてやれなくてごめん……」
合掌したまま三月は小さく呟いた。
こんな結末を迎えてしまったのを申し訳なく思う。
シキとして日和を助け、神格を取り戻してあげていたらこうはならなかった。
この世界線の日和は力を失い、天神回戦に敗北して眠りに着いている。
シキのみづきは存在せず、日和の運命が救われることはなかった。
本来、放置されて朽ちた神社に近付くのは良くないとされている。
あくまでスピリチュアルな意味合いでの話だが、溜まった不浄の気によって霊障を受ける、信仰心が失われて祀られた神が怒っている、等の理由がそれに当たる。
しかし、三月は恐ろしさなんて少しも感じなかった。
哀れにも力尽きてしまった女神の終焉に胸が痛むばかりである。
「今度こそ、タイムリープで俺が運命を変えてやるからな、日和……」
神さびた霊場を振り返り、悲惨なる現況の修正を静かに誓う。
この女神社に勧請された守護神である日和を、破滅するしかなかった運命から救って見せる。
そうすればこの災害は起こらず、朝陽も死なずに済むのだ。
しかし、息巻く三月の勢いとは裏腹、女神社を一通り見て回ってみるも特に何かが見つかる気配は無かった。
ひたすら虚しい時間が過ぎていく。
刻一刻と時間だけが経過する。
神々の異世界と関連が深いこの場所に来れば、世界を変革させられる要素を見つけられると思っていたのに何も起こらない。
時刻は午後3時を回ろうとしている。
空には早くも夕焼けが射してきた。
焦りだけが募る。
せっかく故郷を訪れたのにこれといった収穫は無い。
「ふぅ、ふぅ……。何か、何か無いのか……?」
答えの返ってこない問いを口にする。
神社内を散々歩き回った挙げ句、崩れた鐘楼門まで戻ってきていた。
石階段の上から荒廃した町を空虚に見渡す。
広がる光景は何の音もせず、何の動きも無い時間の止まった穴だらけの廃墟。
心身に疲労が蓄積し、抗いがたい無力感に苛まれる。
いたずらに時を浪費しているのではないかと一人苛立ち、ひりひり喉が渇いた。
眼下の絶望的な景色と、どうしようもない孤独感が強い気持ちを折ろうとする。
目の前に横たわる現実世界の圧倒的なリアル感に押し潰されてしまう。
パンドラの地下迷宮も、天神回戦も、夢の中の相棒も、すべて己の妄想が見せた幻覚だったのではないかとさえ思ってしまいそうであった。
自分はいったい何をしているのか。
こんなところにまで来て何も無かったらどうするのか。
実は馬鹿なことをしているだけなのではないかと自らへの疑念がよぎる。
三月は挫けかけていた。
一人ぼっちは辛い。
心が著しく弱った。
誰の助けもなく、ただの人間に過ぎない自分一人でいったい何が出来るだろう。
挫折にも似た感覚に何が現実で何が幻想なのか判断がつかなくなってきた。
──孤独には慣れてると思ってたんだけどな……。迷宮の異世界にはアイアノアとエルトゥリンが居て、神々の異世界には日和やまみおが居て……。現実の世界には夕緋が居てくれた……。ちょっと誰かと触れ合っただけですぐこれか……。俺ってつくづく寂しがり屋の弱い人間なんだな……。
滅んだ町の空を冷たい風が吹き、三月のところにまで届いて顔を撫でていく。
西に傾く日を仰ぎ、三月は心神耗弱して弱音を吐き出した。
弱音は問いかけであった。
こんな場所まで赴くよう働きかけた雛月へ向けた言葉である。
「なぁ、雛月……。俺はいったいどうしたらいいんだ……?」
見上げる空は空気が澄んで、克明に流れる雲が茜色の光を受けていた。
寒々しい天空は、殺風景な大地にぽつんと佇む三月に何も答えない。
憔悴の三月はなおも空に向かって言った。
「せっかく気合いを入れて帰ってきたんだぞ。気の利いた土産の一つでも持たせてくれよ……。このままじゃ、宗司の言った通りだ。こんなひどい光景を改めて見せつけられて、本当にまた悲しくなっちまうよ……。ここなら泣いたって誰にも見られないだろうけどさぁ……」
冬の始まりを告げる小雪の風が、全身に浮かぶ汗を冷やして体温を奪う。
三月の声が震えているのは寒さのせいだけではない。
10年前に味わったどん底の失意を再び思い出し、そのうえ必死の思いで行動を起こしたというのに手応えを感じられずに焦燥感が胸中を満たしている。
今の自分は、強い心を備えたシキのみづきではないのだ。
「……現実の世界で俺一人だけは、やっぱり心細いよ……」
極度のストレスと共にため息を吐き出し、自然と膝が折れてしまう。
その場に力無くしゃがみ込み、がっくりとうなだれた。
視界を埋めるのは薄汚れた灰色の地面である。
頭の奥がちりちりと熱くなる。
雛月が何かを言っているのだろうか。
ただ、ついぞ地平の加護が三月に何かをしてくれることはなかった。




