第207話 10年振りの里帰り
晴天の空の下、森林の深い山間を高速道路が突っ切っていて、一台の高速バスが一路目的地へと走っている。
他に走行する車両は少なく、交通状況は閑散として見えた。
「……」
バスの車窓から眺める風景が横にゆっくりと滑っていく。
言葉は無く、虚ろな目つきで流れる緑の景色を見送るのは三月。
冬物のTシャツにダウンジャケットという、旅行者風の出で立ちである。
二人掛けのシートの窓際に座り、空いた席には大きなリュックに詰まった荷物。
高速バスの行き先は天之市神巫女町、三月の生まれた故郷だ。
実に10年振りにもなる帰省の旅だった。
災害に遭った過去に向き合い、タイムリープで破滅の現在を改変する。
そのための「何か」をかつての故郷で掴むことが今回の帰省の理由である。
「まったく、雛月め……」
景色を見ながら、この里帰りを促した夢の中のあいつの名を呟いた。
三月は釈然としない風で思い出していた。
あれは神々の異世界から現実世界へ戻る逢瀬の時。
「三月、頼みがある」
今はもういない恋人、朝陽と同じ姿をしている物語の案内人、雛月は言った。
現実世界への覚醒の間際、奮起する三月の背に抱き付いていた後のことである。
二人は心象空間のアパートの玄関で向かい合って立っていた。
雛月は眉尻を上げた真剣な顔をして、真っ直ぐに三月を見つめている。
「夕緋には行き先を言わないでくれないか。理由は言えない」
行き先とはこの帰省のことで、生まれ故郷の天之市神巫女町を指す。
災害を生き延びた幼馴染みの夕緋に、どこへ行くのかを伏せるよう雛月は言う。
「なんでだ? 夕緋にだって無関係な話じゃないんだぞ」
当然、三月はそうして反論した。
同郷の出身の身として、故郷を或いは救えるというのなら夕緋にも事情を理解してもらったほうがいいはずだ。
「もしもあの災害を無かったことにできるんなら、昔の幸せだった時間を取り戻すチャンスのはずだろ? 夕緋にとっても願ってもない話じゃないかよ」
「そうだよね、取り戻せるのは朝陽だけじゃない。犠牲になった家族や友人、生活や環境の規範、これから生まれるはずだった物や命、返ってくるもの盛りだくさんだよね」
雛月は表情を変えず、深く何度か頷いて答えた。
しかし、当初の三月への要望は変わらない。
「三月が積極的に過去と向き合ってくれるようになってぼくは満足だよ。だけど、やっぱり夕緋に事のあらましを話すのは待って欲しい」
三月は怪訝に思って顔をしかめる。
雛月は夕緋の言動にいちいち不審を感じている。
警戒していると言ってもいい。
「不可解なことが多かったのは間違いないけどな、雛月は夕緋の何をそんなに警戒してるんだ? ちょっと変わってるけど、夕緋は元々ああいう子だぞ」
長い付き合いの三月にしてみれば、たまに怖い顔を出す時はあるものの、基本的に夕緋は夕緋で、幼い頃からの印象は変わらない。
ただ者ではない不思議ちゃん、それは大人になった今でも相変わらずだ。
「他でもない朝陽や故郷が絡むのに、夕緋に後ろめたいことはしたくないなぁ」
「ふぅ……。夕緋がどう思うのかは今は関係ないよ」
夕緋の悪口を言われたみたいで、眉をひそめる三月を見て雛月は息をついた。
胸の前で腕を組み、三月を見つめ直す。
「フィニスと八咫にこちらの動向を知られたくない。これから行こうとしてる場所や、三月のやろうとしていることを夕緋に話せば、フィニスと八咫にもぼくたちの存在が露見してしまう可能性が高い」
夕緋も気掛かりだが、それ以上の脅威が背後に居る。
そして、秘しておきたい自分たちの存在とは、何も雛月だけを指すのではない。
「いつかどうせばれるにしても、アイアノアとエルトゥリン、日和っていう後ろ盾はぎりぎりまで隠すべきだ。ぼくたちの立場を考えてみてよ」
忘れてはならない事実は、世界を隔てての互いの敵対関係だ。
迷宮の異世界のアイアノアとエルトゥリンは、パンドラの地下迷宮の奥底に潜伏しているとみられるフィニスを追っている。
神々の異世界の日和は、元より八咫とは不倶戴天の敵の間柄。
そして、勇者のミヅキも、シキのみづきも異世界の仲間を通じ、フィニスと八咫と敵対する立場にある。
「三月がフィニスと八咫と敵対してるのがばれたら、夕緋にも危険が及ぶかもしれない。それは絶対に避けなきゃいけないだろう? 何せ相手は最強のダークエルフと、禍津日の神なんだからさ」
「そ、それもそうか……」
用心に越したことはないし、知らぬ存ぜぬを通せる内は通したい。
何より、夕緋が危ない目に遭うのだけは避けなければならない。
半ば丸め込まれる形で三月は納得せざるを得なかった。
但し、行き先を告げずに家を空けるのだから、夕緋には何らか断りを入れておく必要がある。
それも虚偽を交えた不義理な内容での断りだ。
後日、いつものように夕食を一緒にした後、キッチンで後片付けをしている夕緋に三月は渋々と声を掛ける。
「……夕緋、明日の夜なんだけどさ。俺、帰りが遅くなるから夕食はいらないよ。急な話でごめんよ……」
「あら、そうなの? 別にいいけど、何かの用事?」
洗い物の手を止めた夕緋が振り向く。
仕方がないとはいえ、事情を知らない夕緋に嘘を言うのは気が引けた。
「か、会社の飲み会なんだよ。二次会とかあるかどうか、その場の盛り上がり次第だからいつ帰れるかちょっとわからなくてさ」
「ふーん、そうなんだ」
ありもしない予定を告げると、夕緋は一瞬だけ押し黙った。
ただ、すぐににっこりと微笑みを浮かべる。
「うん、わかったわ。あんまり飲み過ぎないでね。三月、お酒強くないんだから」
くすくすと笑い、夕緋は再び背を向けて洗い物を再開する。
やけにあっさりと了承された感はあったが、変に詮索されてぼろが出てしまってはタイムリープの重大事も早速頓挫しかねない。
「はは……。俺が弱いんじゃなくて、夕緋が強すぎるんだよ……」
それはそうと、三月は呆れたみたいに苦笑いを浮かべた。
三月の飲める酒量はごく平均的な成人男性相当なのに対して、夕緋の飲める量は並外れていた。
いくら飲んでもけろりとして、顔色の一つも変わらない。
澄ました顔をして、凄まじい酒豪なのである。
前に一度、よせばいいのに飲み比べをした時、早々に酔い潰れてしまった三月は白湯でも飲むかのように杯を空ける夕緋に介抱してもらったことがあった。
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる夕緋の膝枕に甘えながら、酩酊した真っ赤な顔でまた一つ敵わない分野が増えたと思い知ったものだ。
「あっ、そうだ。三月がまた酔い潰れたらいけないから、いっそのこと私も飲み会に着いていこっか? 三月の会社の人たちに挨拶もしたいし。……将来のお嫁さんですって、うふふっ」
「えっ!?」
思わぬ申し出に目を丸くする。
それでは嘘がばれてしまう。
その一方、婚約者として心躍らせている夕緋を欺かなければならないのはやはり心苦しかった。
「──冗談よ。じゃあ、また明後日ね。気をつけていってらっしゃい」
ほんのり赤くした顔で笑った後、夕緋はもう一度振り向いてそう言った。
ほっと胸を撫で下ろすやら、良心の呵責に胸が痛むやらである。
週末の休日を利用して、秘密裏に帰省を決行する。
明後日、夕緋とまた夕食を共にする時間までには帰る予定である。
「雛月め……。夕緋に嘘をついちまったじゃねえかよ」
ゆっくりと流れていく山林の景色を車窓から眺め、三月は渋面でため息を吐く。
しかし、どこへ行くのかを正直に言えないのも事実だ。
三月が神巫女町のことを口にしただけで、夕緋は途端に感情を荒げたのだから。
『もう神巫女町へは近付かないで。絶対に行っては駄目よ!』
有無を言わせぬ剣幕で、三月が神巫女町へ行くのを強く言い含めた。
嘘を言った挙げ句、夕緋の言いつけを守らないのだから本当のことなど言える訳がない。
やはりこの帰省は秘密の内に実行する必要があった。
「うわあ、パパママ見てー」
と、同乗している他の乗客の声が聞こえてきた。
シートの背もたれに隠れてよく見えないが、前方席に座る家族連れのようだ。
やんちゃそうな小さい男の子が車窓にかじりついて、外の景色を指している。
「あの町ぼろぼろだー! でっかい穴が開いてるよー、すっげえ!」
無遠慮な大きな声に三月の心はざわついた。
ごくりと喉を鳴らす。
もう三月の目にも入ってきている。
車窓の景色の山が切れ、峠道を行く高速道路から麓の町が見渡せた。
いや、それは町と呼ぶにはあまりにも悲惨な様子の、廃墟であった。
廃都の中心にはあの時と変わらない巨大なクレーターが口を開けていて、大小の似たような大穴が至る所に散見される。
全体が薄く白んで見えるのは、未だに撤去仕切れていない火山灰が堆積しているからだろう。
地盤はめちゃくちゃに抉れてでこぼこしている。
町中に降り注いだ巨大な噴石があちこちに残ったままになっていて、散々な有様であった。
「……痛ましい光景ね。もうあれから10年も経っているのに……」
隣に座る母親が、こら、と騒ぐ子供を咎めてから言った。
同じく窓から廃墟の町を見渡し、座席間の通路を隔てたシートに座る父親が重々しい声を漏らす。
「ひどい災害だったね……。まだ復興は進んでいなさそうだ。あの様子じゃ危なくても人も重機も入っていけないのかもしれないね」
かの天変地異から10年もの年月が経過しているのに関わらず、あの町はあの時から変わっていないように見える。
相変わらずぼろぼろに荒廃していて、時の流れからすっかりと取り残されていた。
天之市神巫女町、それがあの廃墟の町の名である。
10年前の御神那山噴火の発災に始まり、大規模な地殻変動に見舞われて惨憺たる被害が出た。
全国的にも誰もが知る、未曾有の災害、神巫女町大災害。
その傷跡は未だなお色濃く残り続けている。
「どうしてなかなか元通りにならないのかしら」
「復興が遅れているのには色々と理由があるらしいよ。それにもう、住んでた人も帰りたがらないって話だそうだ」
静かな車内でいやがうえにも母親と父親の話が耳に入ってくる。
三月はますます渋い顔をして、大きなため息をついた。
故郷についての情報には疎い。
まだ復興の目処が立っていない事実は三月の気をさらに重くさせた。
「……」
改めてバスの窓越しに町の惨状を眺める。
心に込み上げてくるのはやはり悲しみと恐怖だ。
全身に震えが走る。
過去に向き合うと決めたものの、この負の感情に折り合いをつけるのは骨が折れそうだ。
一生掛かっても気持ちの整理はつかないかもしれない。
全てが嫌になり、何もかも置き去りにして逃げ出した。
逃避行の先でひっそり暮らしていく人生だったはずが、すでに終わってしまった災いに対し、時を遡って起こらなかったこととするために奔走している。
迷宮の異世界や神々の異世界といった幻想の中でなら真実味も湧くが、現実世界で非現実的な行動をしようとしている自分には滑稽さを感じた。
エルフ姉妹のアイアノアとエルトゥリンはいない。
故郷に祀られていた女神の日和もいない。
せめて、頭の中にだけ存在する相棒の雛月が居てくれれば、これから取り組もうとしている絵空事を信じ切ることもできるのだが、と弱気にもなってしまう。
二つの不可思議な異世界であれだけ不可思議な出来事を体験してきた身なれど、文字通りの現実世界のリアリティには思わず屈してしまいそうだ。
──しっかりしろ、俺。夢みたいなありもしない異世界を二つも渡ってきただろ。タイムリープで過去を改変して、現実の現在を修正しようなんて非現実をやろうとしてるんだ。誰も味方がいないからって、俺が俺を信じられんでどうするんだ。
早くも心折れそうになる考えを、頭を振って払拭する。
やる前から自分を否定するのはやめよう。
最低でもやってから判断しよう。
三月はそう思い直し、目的地が表示されたバス内の電光掲示板を見上げた。
天之市のバスターミナルはもう存在しない。
隣の市に設置されている停留所の終着点名が表示されていた。
さあ行こう。
今更足踏みをするな。
不可思議なる第一歩を踏み出すのだ。
「……立ち入り禁止、か」
木枯らしの吹く県道のアスファルトの上で三月は呟いた。
目の前にあるのは、工事現場などでよく目にする柵と看板であった。
この先「工事」の為、全面通行止め。
天之市方面災害の為、通行禁止。
年季の入った看板には、ややかすれた文字で立ち入り禁止の旨が記されていた。
高速バスを下りた三月は一般路線バスに乗り換え、天之市最寄りの停留所に到着していた。
そして、故郷へと続く県道の途中で立ち尽くしている。
「……」
三月は辺りを見回してみる。
ここは山間を跨ぐ国道から、天之市方面へと向かう連絡路の入り口だ。
深い山に周囲を囲まれており、いかにも地方都市へと続く道らしく、人気は無く閑散としている。
いくら耳をそばだてても聞こえるのは木々を揺らす風の音だけ。
三月から左手方向の山裾に、道路に隣接して大きな建物が見えた。
それは今はもう使われていない廃校の校舎のもので、昔は小学校だったそうだ。
グラウンドに整然と並んでいるのは、同じ形状をした住宅施設の数々だ。
御神那山噴火災害に被災し、住む家を失った人たちに供与されている仮設住宅、その集合団地であった。
ほとんどの被災者は各地の公営住宅や新天地へと転居していったが、未だに退去が出来ていない住人たちが少なからず残っていて、生活を続けている。
三月も故郷に留まっていれば、あの仮設住宅の一つに住んでいたかもしれない。
一方、右手には仮設住宅地で暮らす住人の生活を支えるスーパーがあった。
昼食は簡単なものを用意しているが夕食をどうするか考えていなかった。
神巫女町から戻った後、ここで何か食べるものを買おう。
と、三月が思っていたそんなとき。
「おーい、お兄さーん! そっちの道は立ち入り禁止ですよー!」
仮設住宅地のほうから声が掛かった。
若い男性の大きな声だ。
声を聞いた途端、三月の目は丸くなった。
とても馴染みのある声だったから。
「その声、まさかっ……!」
勢いよく振り返った視線の先、道路脇にスクエアフレームの眼鏡を掛けた男性が立っていた。
線は細いが身体はがっちりしていて、ファー付きのジャケットを羽織っている。
眼鏡の男性も三月の顔を見て声をあげた。
「あっ! もしかして三月、三月かっ?!」
駆け寄ってくる顔を見て、昔馴染みの知己であるのを再確認する。
三月は友人の名を口にした。
「宗司っ! 鍔木宗司だよなっ! そうだ、俺だよ、佐倉三月だよっ!」
久しく会った友の顔に三月の表情も綻んだ。
再会した友人の名は鍔木宗司。
小学生から高校を卒業するまで同じ学校に通っていた同級生だ。
奇しくも、災害が起きた時に三月に町の悲惨さを伝えたのも宗司であった。
「うわぁ、久し振りだなぁ! 三月、すっかり見違えたよっ!」
「お互い歳取ったからなぁ。色々あったし、多少老け込みもするよ」
あの頃と同じく、子供の時分と同じ顔に戻った二人は笑い合う。
10年振りの帰省先で待っていたのは旧友との再会であった。
しばらくは自分たちの近況を言ったり聞いたりする話に花が咲く。
三月は引っ越し先の生活やどんな仕事をしているかを話す。
宗司は災害後もこの地に留まり、辛くも難を逃れた祖父と共に今も仮設住宅地で暮らしていると語った。
「──それにしても驚いたな。本当に三月だ。けど、急に帰ってきていったいどうしたんだ? 今まで連絡一つ寄越さなかったのに」
「あぁ、いや……。それは、ちょっとな……」
言い淀む三月の泳いだ目線が通行止めの看板のほうを向く。
宗司も立ち入り禁止となっている道路の先をちらりと見た。
二人の間に妙な沈黙が流れる。
「……まぁ、立ち話もなんだし。三月、ちょっと寄ってけよ。茶くらい出すぞ」
「宗司、俺は……」
「いいからいいから。久し振りに会ったのにつれないこと言うなよ」
「あっ、引っ張るなって。わ、わかったよ、じゃあ少しだけ寄らせてもらうよ」
肩に手を回され、半ば強引に三月は宗司に連れていかれることになった。
行き先は目の前に見えている仮設住宅地のようだ。
仮設とはいっても簡素なプレハブ住宅ではなく、しっかりとした造りの移動式の木造住宅が軒を連ねていて、理路整然とした集落になっていた。
住宅地内はどことなく閑散としていて、排他的な雰囲気を感じさせる。
井戸端会議をしている年老いた女性らが、見慣れない客の三月を見てひそひそと何事かを話している。
横切った仮設住宅の窓のカーテンの隙間から、目つきの悪い老年男性が睨むみたいに外を窺っている。
それを横目に、あまり歓迎されている様子ではなさそうだと感じつつ、宗司の家へと着いていくのであった。




