第205話 夕緋の朝ご飯2
夕緋はお守りの黒い石を渡し、三月の手ごと自分の手で包み込んだ。
そのままの格好で、伏せていた夕緋の両目が三月をじろりと見る。
手の温かさとは裏腹、夕緋の声は冷えて聞こえた。
「あとね、さっき三月に抱き付いたときなんだけど。……変な匂いを感じたわ」
「匂い?」
「何だか人間じゃない、獣みたいな匂い」
「えっ!?」
すっ頓狂な声をあげて驚く三月だが、獣と言われて思いつくのは一人だけ。
甲高い子供みたいな声で、きゃーきゃっきゃっ、と笑う化け狸の神、まみお。
夕緋がまみおのことに勘付いたようだ。
「変なものに取り憑かれてない? 低級な動物霊か何かかもしれない」
「て、低級な動物霊って……」
あれでも立派な神様なのに、低級な動物霊呼ばわりはあんまりである。
流石の夕緋からすれば、まみおぐらいの神様は有象無象の部類に過ぎないというのだろうか。
安く見積もられて憤慨するまみおを想像すると、思わず笑ってしまいそうだ。
そう思っていると、夕緋の次の行動に色々な意味でどきりとさせられる。
「何だろう……? 他にもいろいろな匂いがするわ……」
「ちょっと、夕緋……」
出し抜けに、握った三月の手に顔を近付け、夕緋は鼻をすんすんと鳴らす。
匂いを通じて人ならざる者たちの気配を感じ取っているようだ。
手を引っ込めようにも、夕緋ががっちりと両手で掴んでいて離してくれない。
相変わらず、こんな細腕なのに男顔負けの腕力と握力である。
「──お化粧の匂い、炭の匂い。何だか森の中っぽい匂いまでする」
次々と異世界で関わった対象を嗅ぎ分けられてぎょっとしてしまう。
化粧の匂いは日和のもので、炭の匂いは多々良のものだろう。
森の中の匂いはおそらくエルフのもので、アイアノアとエルトゥリンのことにも気付いている。
見えないものを見て、存在しないものを感じる。
鋭すぎる夕緋の知覚能力には、下手な嘘も隠し事もすぐに看破されるだろう。
「それだけじゃない。魂が生き生きしてる。何か良いものと触れ合ったみたい」
夕緋はさらにずいっと前のめりになり、無遠慮に三月の胸の辺りに顔を寄せる。
力強く手を握られたまま、夕緋は首を横向きに捻る。
そのまま、噛みつかれそうな勢いでまたも匂いを嗅がれた。
「ゆ、夕緋……。近い、近いって……」
夕緋の無頓着な急接近に三月はどぎまぎしてしまう。
やはり、夕緋は美しい女性だ。
吸い込まれそうになる黒い瞳、きめの細かい肌の顔が目の前にある。
朝も早いのにちゃんと化粧をしてきていて、ほのかに良い匂いがした。
異世界のエルフの美少女姉妹や、自らを絶世の美女と謳う女神にも決して引けを取っていない。
「この感じ、女神様……? むぅ、随分と親しげな感じがするわねぇ」
「べ、別に変なことをしてきた訳じゃないぞ……」
そう言われ、たじたじの三月が真っ先に思い当たったのは神交法のことだ。
それは房中術の奥義で、心と心を通わせて日和と氣を高め合った経緯がある。
心同士が仲良しになった三月と日和に、夕緋は焼き餅を焼いている風だ。
但し、そこに邪な気持ちやふしだらな目的があった訳ではない。
三月は心の中で正当性を訴え、そう決め込むことにした。
「……」
夕緋は押し黙って、至近距離でちらりと三月と目線を合わせた。
やがて、一瞥の後に手を離して身を引くと、対面に座り直した。
机の上で両腕を組み、じっとりとした目つきで三月を見つめている。
そして、半ば諦めたみたいにため息交じりに言うのであった。
「三月……。また神様たちと約束をしてきたでしょう」
「うっ、そ、それは……」
何でもお見通しの夕緋に、三月はわかりやすくぎくりと身体を震わせた。
案の定、日和だけでなく、まみおや多々良と約束を交わしたのを見破られる。
「神様とみだりに約束をしては駄目だって、あれほど言ったのに……。三月ったら全然わかってくれてないじゃない。私との約束も守ってよね、まったくもう」
頬を膨らませて、むくれる夕緋。
ただ、そんなには怒っていないようで、その様子は何だか可愛らしくも見えた。
「まぁいいわ。悪い感じはしないし、もう交わした約束は果たされたのかな。三月を守ってくれる良い加護を感じるわ。だから、お小言を言うのはよしておくね」
最後には困り顔をして、夕緋は微笑みを零す。
言いつけを守らなかったのがばれたのはヒヤッとしたが、夕緋の機嫌が悪くなる事態は避けられたようだ。
一安心して苦笑いが浮かんだ。
「でも、どうして神様って約束をしたがるのかしら。私たちの物質世界もびっくりな契約社会よね。何をするにしても約束約束って……」
多分、神様の事情について、三月よりも詳しそうな夕緋はその後もしばらくぶつぶつと文句めいたことを呟いていた。
夕緋は夕緋で、神様に対して思うこともあるようである。
「あ、そうだ、夕緋──」
だから、和やかに弛緩したと思った空気に三月は油断した。
何気なく言ったつもりの一言が、二人の雰囲気をがらりと変えてしまう。
うかつだったと後悔してももう遅い。
「久し振りに神巫女町で住んでた頃の夢を見たよ。あのことがあってから、ずっと帰ってなかったから今はどうなってるのか気になっちゃってさ」
三月は故郷のことを口にした。
これまで頑なに話さなかった過去のことを。
それを聞いた途端に、夕緋の表情はさっと冷たいものへ変わった。
生まれ育ったあの場所へ帰りたい、そう言った訳でもないのに。
10年前の禁忌の出来事に直接的に触れた訳でもないのに。
「三月、駄目よ」
夕緋は真剣な眼差しでぴしゃりと言った。
笑顔はもう消えていて、冷徹な両の眼が真っ直ぐと三月を見つめていた。
さっきまでの可愛らしい様子とは打って変わり、厳しくて怖い夕緋が顔を出す。
「三月、いい? お願いだから聞いて」
正した姿勢で身じろぎせず、射すほどの視線を向けて言った。
三月はあまりの迫力に夕緋から目を離せない。
「もう神巫女町へは近付かないで。絶対に行っては駄目よ!」
はっきりと、夕緋は言い放った。
それは言い含める説得というより、反論を許さない命令であった。
「ど、どうしてだ……? あんなことが起こってしまったけど、他でもない俺たちの故郷じゃないか──」
「──どうしても何もない! あんなところ、もう私たちの故郷じゃない!」
問い返せば即座に言い返す。
圧倒される三月に構わず、夕緋は恐ろしげな剣幕のまま続けた。
「今よりももっと危ない目に遭うわ。あそこはそういう場所になってしまったの。三月を心配して言ってるのよ、これ以上辛い思いをすることはないわ!」
「ゆ、夕緋……」
ごくりと息を呑む三月だが、納得のできない気持ちもあった。
夕緋の厳しい言いつけは、雛月が示した導きとは真逆のものだった。
信頼する相棒の意思に反する態度に、三月は反発を覚えたのかもしれない。
よせばいいのに、子供が親に反抗するみたいに聞いてしまう。
雛月も気にしていた、あの時の夕緋のことを。
「──あの時さ、夕緋ってどうしてたんだ?」
唐突な三月からの質問に、夕緋は肩をぴくんと震わせる。
表情は変わらない。眉を吊り上げて、三月を正面から見返していた。
「10年前の、神巫女町大災害が起こったあの時のことさ……」
三月は勇気を振り絞って踏み込んだ。
それが、言うまでもない蛮勇であると気付かずに。
「夕緋が、どうやって助かったのか聞いたことなかったなって……」
降りしきる噴石に打たれて朝陽は亡くなり、火山性ガスに巻かれて両親の神水流宗佑と怜も亡くなった。
そんな壮絶な災害に見舞われたのに、夕緋は傷らしい傷も負わずに無事で三月と再会を果たした。
そもそも三月があの場所に居たことさえ夕緋は知らなかったはずなのに、偶然に幸運に、巡り会うことができた。
すべては夕緋が、破格の才覚を持つ神水流の巫女であるから。
そんな現実離れした理由で、何もかもが片付けられてしまうのだろうか。
「……どうしてそんなことを気にするの?」
ようやく口を開いた夕緋は、凍り付いた表情のまま問い返してくる。
そして、感情を排し、瞬き一つせずに冷淡に答えた。
「私は居たよ。あのときの神巫女町にね。三月とも会ったじゃない」
堂々として当時の事実を述べるだけ。
彼の災禍の中心にありて、破壊の女神の寵愛を受ける巫女は不幸を免れる。
『姉上、私は彼の地に破壊をもたらし、悉く滅ぼすと決めた。当代の我が巫女、夕緋を除く人間たちには滅亡の運命を押しなべて共にさせよう。破壊と創造の儀式を始めるゆえ、姉上も来るべきその時に備えておくがいい』
それは当の破壊神、夜宵が直々に言ったことである。
贔屓か偏愛か、歪んだ女神の加護が自らの巫女だけを破滅から守護した。
そのお陰でせめて夕緋だけでも助かったのなら不幸中の幸いとするべきだろう。
だのに、三月は納得がいかず、やり切れない気持ちになってしまう。
と、渋面に黙り込む三月を見て、今度は夕緋が問いを投げてきた。
「三月、10年前のこと、話せるようになったんだね。あんなにも怖がって悲しんで、今まで全然見向きもしなかったのに。……どうしたの急に?」
その口許には笑みが浮かんでいる。
トラウマに塞ぎ込んでいた大事な恋人が、急に心変わりして驚いている。
はたまた、従順だった子供の思い掛けない反抗を可愛らしく思っている。
そんな風な笑顔であった。
「あの大災害の中、私が無事だった理由、か……」
三月が黙ったままなので、夕緋は独り言のように言い始めた。
空中に漂わせた視線を怯える三月の目に戻す。
「──さあ、どうしてなんだろうね? 運良く生き延びられたじゃ、駄目?」
探られても痛くない腹に触れられ、動揺する様子もなく、穏やかな口調で夕緋ははぐらかす。
曇りの無い笑顔は、妙に冷えて見えた。
その瞬間である。
「……ッ!?」
三月は声にならない悲鳴をあげた。
夕緋のすぐ後ろ、両脇の位置に尋常ならざる存在を感じ取ったからだ。
それは二人。
視線は上げられない。
座る夕緋の左右に、立つ二人の両足が見える。
一人は、筋肉質な足にぴったりと張り付く黒いレギンスとヒールの高いブーツ。
一人は、着流した漆黒の着物の裾から覗く、尖った爪の青白い素足。
もう二人の正体はわかる。
──フィニスッ……! 八咫ッ……!
喉まで出掛かった二人の名を、必死の思いで飲み込んだ。
もしも声に出して叫んでいたなら、どうなってしまっていただろう。
それは端から見れば風変わりな光景だったに違いない。
アパートの一室に、最強のダークエルフと、邪悪の男神が立っていた。
何もせず、何も言わず、三月を威圧的に見下ろすばかり。
フィニスは冷淡な表情で口を真横につぐみ、八咫は悪し様に薄く笑っている。
次元の壁を越え、異世界の仲間たちが敵対する二人が揃い踏みをしている。
だから、三月は本能的に問うのをやめた。
「……あぁ、夕緋のつくったご飯は美味しいなぁー」
誤魔化す風を装い、朝食を慌てて食べ始める。
異常なまでの恐怖と殺意を感じたから。
心臓どころか、五臓六腑を乱暴にわし掴みにされているかのようだ。
今はシキの強い心は無く、三月は普通の弱い人間でしかない。
フィニスと八咫がその気になれば、一瞬で自分は殺される。
しかし、夕緋が笑っている内は生きていられる、何故だかそう思った。
目の前の三人がどういう関係なのかなど、考えている余裕は無い。
「ふふっ、おかしな三月っ」
引きつった笑みを浮かべた三月の顔を見て、屈託無く夕緋は微笑んだ。
片頬杖をついて小首を傾げ、眩しい笑顔で三月を見守るその様子は。
まるで、お気に入りの愛玩動物に餌付けをするご満悦な飼い主そのものだった。
そうした例えがぴたりと当てはまる情景に見えた。
「三月、ほっぺたにご飯粒がついてるわよ。しょうがないわね、取ってあげる」
「あ、ああ、ごめん……。ありがとう……」
「うふふっ。うふふ……」
夕緋は綺麗な笑顔で微笑む。
三月は恐ろしい気持ちに縮こまっていた。
身に迫る現実的な命の危機、死を突きつけられながら。
夕緋の庇護下で、慈悲深く、愛情深く、守護されながら。
三月はもう一度、夕緋のつくってくれた味噌汁をすすった。
お椀を持つ手はずっと震えていた。
さっきはあんなに美味しいと感じたのに、もう何も味はしなかった。




