第204話 夕緋の朝ご飯1
ピンポーン、と玄関チャイムの電子音が部屋に響いた。
意識がぼんやりとしている。
五感を徐々に実感するようになってきた。
そこは相変わらずの三月のアパートの一室である。
雛月と居た心象空間は三月の住むアパートと瓜二つのため、まだそれが夢の中の続きかと勘違いしてしまう。
もう一度、ピンポーンと音が鳴る。
一度目の音からの間が短く、切羽詰まった印象を感じた。
その時になって気付いた。
もう目は覚めている。
「……あ、戻ってきてる……」
三月は天井を見上げ、仰向けに寝ている状態で呟いた。
視線を向ける壁掛け時計が指す時刻は、5時50分頃。
窓の遮光カーテンの隙間から覗くのは、じんわりとした日の光。
どうやら早朝の時間帯のようである。
下半身を炬燵の中に突っ込み、机の上には昨晩の夕食の食器が残っていた。
三月を心から案じ、最後の晩餐にならぬようにと、あの子が丹精込めてつくってくれたハンバーグの味を思い出す。
相変わらず、とても美味しかった。
ここは夢の中ではない。
現実世界の、本物のアパートの自室だ。
もう雛月の姿はどこにも見当たらなかった。
二巡目の異世界巡りが終わり、とうとう元の世界に戻ってきたのである。
「三月っ……! ねえ、三月っ……!」
三度目のチャイムが鳴り、玄関ドアの向こうからくぐもった声が聞こえる。
気持ちのゆとりが無く、不安を隠しきれない悲壮な女性の声だ。
「夕緋……!」
三月は反射的にがばっと立ち上がり、玄関へと急いだ。
身体がふらつくのも忘れ、無我夢中に鍵を開けてドアを開放した。
「み、三月っ……!」
ドアの外に立っていたのは、三月の無事に表情を驚きと喜びに変える夕緋の姿であった。
感極まって両手で口を覆い、立ち尽くしている。
アイボリー色の長袖ニットに、黒いレースロングスカートという現代的な冬服の装いは、本当に元の世界に戻ってこれたのだと実感させてくれる。
「三月ぃっ!」
静かな早朝であるに関わらず、夕緋は大声をあげて三月に抱き付いた。
勢い余って、二人はアパートの玄関に倒れ込む。
廊下の床に押し倒される格好で、夕緋は三月の胸に顔を突っ込んだ。
「ああ、三月……。私の大事な三月……。よく無事で……」
目に涙を溜め、愛おしそうに頬ずりをする様子は無垢な少女のよう。
異世界へと旅立った三月が生還できるように祈り、思い悩んで一晩を明かした。
願いは叶い、大切な恋人は自分の元へと返ってきた。
「三月、三月……。うっ、うぅ……」
背中を揺らして嗚咽する夕緋を見て、本当に心配を掛けてしまったものだと申し訳なく思う。
こんなにも思ってもらえるのは素直に嬉しかった。
夕緋にしてみれば、ハンバーグを振る舞った夜から一晩しか経過していないが、三月にとってはそうではない。
迷宮の異世界への転移に始まり、神々の異世界での激闘を巡ってようやく現実の世界へと帰還した。
体感する時間の経過は、数週間くらいに相当する。
「……ただいま、夕緋。俺、帰ってきたよ……」
「うん、うん……。おかえりなさい、三月」
三月が言うと夕緋は目を細め、満ち足りた顔で何度も頷いた。
久方振りに帰ってこられた三月の言葉を、夕緋はどのような気持ちで受け止めただろうか。
夕緋からすれば、たった一夜が明けたに過ぎない。
いや、時間の経過などは問題ではないのだろう。
三月が何らかの危機的状況に巻き込まれているのは確かで、試練と称される危難から無事に戻ってきてくれた事実だけで充分である。
「あっ、ごめんなさいっ。痛くなかった? 私ったら、嬉しくてつい……」
「大丈夫、平気平気。心配掛けて悪かったよ」
はっと我に返った夕緋は、タックル気味に三月を組み敷いてしまったことを恥ずかしがり、顔を赤くしながら立ち上がった。
三月もゆるゆるとそれに習う。
背中に感じた痛みは、普通の人間である自分を強く思い出させてくれた。
「約束通り、朝ご飯つくるね。ううん、つくらせて」
そう言うと夕緋は嬉しそうに部屋へと入っていく。
「もう、三月。食べてそのままにしちゃ駄目じゃない。いいよ、片付けとくから」
炬燵テーブルの上、昨晩そのままな食器類を見て夕緋は軽く小言を漏らす。
ただ、甲斐甲斐しく机に残ったそれらを片付ける様子はいそいそとしていた。
食器を片付け、そのままてきぱきと朝食の準備に取りかかっていく。
三月は安心した顔でそんな夕緋を眺めていた。
ややあって。
「──三月、今度もその、大変だった? ……女神様の試練」
キッチンに立つ後ろ姿のまま、夕緋はどこか遠慮がちにそれを聞いてきた。
異世界巡りなどという非現実を笑い飛ばさず、それを女神様の試練と称して厳然と受け止めている。
炬燵の前の定位置に座った三月は言葉を濁して返した。
「ん、ああ、うん。まぁ、それなりにね」
「そう、お疲れ様」
ただ、夕緋はそう言ったきり。
もしかしなくてもどこで何をしていたのか、根掘り葉掘り聞かれるのではないかと覚悟していたのに、何とも拍子抜けをしてしまう。
「詳しくは聞かないのか?」
「聞いても、私にはどうすることもできないから……」
逆に三月が問うと、夕緋は弱々しく答えた。
いくら夕緋が優れた感覚や、或いは神通力を備えていたとしても、世界の次元を越えた異世界の三月を手助けしてあげることはできない。
当事者の三月にすべてを委ねるしかない、とは夕緋自身も言ったことだ。
「それに、三月がどんな恐ろしい目に遭っているか知ってしまったら私……」
助けてあげられないばかりか、想い人がどんな危険にさらされているか具体的に理解が及んでしまったら、心労だけがますますと募ってしまう。
手が届けば力になれるのに、と無力感を感じて夕緋はきっと耐えられない。
「そっか、わかった」
そんな気苦労を察して、三月もそれ以上を聞くのはやめた。
正直、問い詰められたらどう答えていいかわからなかったのも事実である。
ほっと胸をなで下ろしながら、三月は朝食をつくる夕緋の背を見ていた。
「──でもね、本当はね」
エプロン姿の夕緋が遠慮がちに振り向いた。
その表情には複雑な気持ちが浮かんでいる。
「三月がどういう試練に挑んでいるのか、聞きたくて聞きたくてしょうがない……。三月のことならどんなことだって何でも知っておきたいの……」
詳しく聞いても仕方がないとはいえ、知りたくない訳では決してない。
三月を心配する一心で、せめてもの願いを言葉にする。
「お願いだから無事でいて頂戴ね、三月……。結婚もしてないのに、未亡人になるなんて、私、嫌だからね……?」
「夕緋……。うん、気をつけるよ……」
三月もまた、大切に想われているのを感じ、神妙に頷くのであった。
「張り切った割には簡単なご飯でごめんね」
「いやいや、いつもありがとう。大変お世話になってます。昨日の今日なのに夕緋のご飯、何か凄く久し振りに感じるよ。それじゃ、いただきます」
夕緋が用意してくれた朝食のメニューが炬燵テーブルに並ぶ。
サラダ菜のレタスを添えたハムエッグの皿と味噌汁の椀。
昨日の白米の残りを温め直し、常備菜の南瓜の煮付けを加えた朝食だ。
まずは、味噌汁をずずっと音を立てて啜る。
喉を通り抜ける温かい味が身に染み込んでいく。
何とも言えず、ほっと安心する家庭的な味であった。
自分でつくるより、夕緋がつくってくれた味噌汁のほうが格別美味しい。
グラスに麦茶を注ぎながら、夕緋は柔らかな表情で問い掛ける。
「三月、美味しい?」
「うん、美味しいよ。って、あれ、夕緋は食べないの?」
三月にだけ朝食を準備して、夕緋はテーブルの対面に腰を下ろした。
昨晩のハンバーグに続き、自分の分は用意していない。
「……私はいい。三月は今日はお仕事でしょ? 見送ってから頂くから」
「あっ、本当だ。今日、仕事か……。はは……」
言われるまですっかり忘れていた。
現実世界の時間上、今日という日は仕事へ行く日であった。
長らくと現実世界を留守にしていたが、今日は夕緋との新居を下見するデートに行ったつい翌日のことなのだ。
二巡目の異世界渡りに出向いてから長い時間が経っているように感じるが、まだあれから一日しか経っていない。
時差ぼけにも似た、何とも妙な気分になるものだ。
さらに、仕事と言われてもっと気持ちが複雑になった。
行かなくてはいけないという気持ちの反面、そんなことをしている場合だろうかとも考えてしまう。
しかめっ面に三月が箸を止めていると、夕緋は思い出したみたいに言った。
「そうだ、三月。渡しておくものがあるの」
ロングスカートのポケットをごそごそと片手で探っている。
そして、取り出した何かを食卓の上に、コトリと置いた。
それは黒瑪瑙だろうか。
差し出されたのは、宝石めいた光沢のある球状の黒い石であった。
まん丸なのに不思議と転がっていかず、三月の前でぴたりと止まっている。
「これは魔除けの石よ。昨日のあの後、私がつくったの」
淡々とした口調で夕緋は言った。
どうやら現実世界での昨晩のこと、三月を異世界へ送り出した後に、夕緋はこの黒い魔除けの石をつくってくれていたようである。
魔除けの石などと聞けば胡散臭く感じるものだが、他でもない夕緋が魔除けと銘打って作成した代物である。
どうやってつくったのかという疑問はさて置き、高い効果が期待できそうなのは言うまでもない。
「冷たい。すべすべしてる」
三月は思わず手に取って確かめてみる。
ひんやりとしていて、吸い付いてくるみたいな感覚が手の平にあった。
霊妙の力が秘められている気がするが、生憎と勇者でもシキでもない人間の三月には何も感じられない。
ふとエルフの彼女、アイアノアの顔が頭によぎった。
だからこれは、何だかエルフの魔石みたいだ、と思った。
「これが反応したらよくないものが近くにいる証拠よ。仕事に行くときや外出するときは肌身離さず持っていて。きっと三月を護ってくれるから」
夕緋は黒い石ごと三月の手の平を両手で左右から包み込む。
ふんわりと添えられた手の中で、石はわずかに温かくなったように感じた。




