第200話 10年前の惨禍
「もしもし、三月だけど──」
何度目かのコール音の後、電話は繋がった。
受話器の向こうから聞こえてくるのは三月の母、佐倉祥子の声だった。
ファックス機能付きの白い固定電話から電話を掛ける三月が居るのは、新生活のために借りたアパートの一室である。
広めな間取りで個室が一部屋、居間と台所と食事室を兼ねた大部屋の1LDK。
高校を卒業し、隣県の大学に合格した三月は、駅から程よく近い賃貸住宅に新居を構えていた。
もうすっかりと大学に通う準備は万端である。
季節は春、4月を迎えたばかりの頃。
これから始まる新しい暮らしを思い、期待に胸を膨らませていた。
もちろん、高校卒業と共に想いを告げ合った恋人──。
神水流朝陽と一緒に。
「ああ、うん。そっちへ帰るの一日遅れるよ。朝陽は家の手伝いがあるから、先に帰ってるって。うん、まぁ、一緒に帰れないのは残念だけどさ」
三月はため息交じりに言った。
新生活の準備が整ったところで、三月は朝陽と連れ立って一度故郷に戻る予定を立てていた。
しかし、三月だけが急に帰れない状況に陥ってしまっている。
電話で話しながら、視線を窓のほうへ向けた。
「──なんか急に窓のガラスが割れちゃってさ。近くを通った車のタイヤが石でも跳ねたんだろうって大家さんが言ってたよ」
困った三月の声の先、リビングの南向きの窓に白い亀裂が複数走っていた。
中央から外側に向かって、窓ガラスが放射状に割れてひびが入っている。
その割れ方は大きな蜘蛛の巣のようにも見えた。
「修理代は気にしなくていいって言われたけど、家財入れちゃってるから業者さんとの立ち会いだけはしといて欲しいって。そう、だから帰るのは明日になるよ」
アパートの大家は気の良い初老の男性で、特にガラスの様子を見ずに三月の過失かどうかを問わなかった。
ただその代わり、業者の立ち会いを面倒がったのか三月に丸投げなのであった。
降って湧いた災難に見舞われ、久し振りの帰郷に足止めを食った形である。
と、そのとき、ピンポーンと玄関からドアチャイムの電子音が鳴った。
「朝陽が来たみたいだ。じゃあ、そういうことだから俺だけまた明日ね」
三月は電話を切って受話器を置き、玄関へと向かった。
玄関ドアの向こうに居るのはやっぱり朝陽で、手荷物に鞄一つ、笑顔を浮かべて待っていた。
一緒に帰ることはできないが、三月は駅まで見送る約束をしていた。
「朝陽、一人で大丈夫か? 夕緋ちゃんや、おじさんおばさんによろしく」
もうお互い18歳にもなるが、三月は朝陽のことが心配でならない。
実家最寄りの駅まで乗り換えが一回あるだけだが、一人で帰れるかどうか不安である。
三月の過保護な心配をよそに、朝陽は改札口をくぐり、一度振り返って無邪気に微笑んで手を振っていた。
やがて、駅のホーム内に発車ベルが鳴り響き、朝陽を乗せた電車は神巫女町へと向かって発進するのであった。
三月はそれが見えなくなるまで見送っていた。
「朝陽、また明日な」
そう言い残し、三月は駅を後にした。
ガラス業者の立ち会いが待っている。
今でも時々思い出す──。
思えば、改札口越しのあの笑顔が、三月の見た朝陽の最後の顔になった。
あの時の後ろ姿、もう二度と手の届かない恋人の姿。
まさかあんなことが起こるなんて思いもしなかったのだ。
「それじゃ、昼までには帰るよ。昼飯、頼んでいい?」
翌日、窓ガラスの交換の済んだ三月も帰郷の支度を終えていた。
出発前に実家に電話をして、しばらくぶりに息子に食事をつくる気合いの入った母の声を聞いた。
受話器を下ろし、連絡を終える。
母の声を聞いたのもそれが最後だ。
父の声はいつ聞いたのが最後だったのかもう思い出せない。
三月も朝陽と同じく電車に乗って、一日遅れで故郷へ帰る。
クロスシートの座席に座り、けたたましく鳴る発車ベルの音を聞いた。
途中で電車の乗り継ぎを済ませ、後は最寄りの駅まで一路向かうだけである。
そして、一つ二つと駅を過ぎた頃のことだ。
一ヶ月程度しか離れていないのに、車窓から見える見知った光景に妙な懐かしさを三月は感じていた。
空は晴天で気温はほど高く、絶好の行楽日和である。
時刻は午前10時少し前。
運命のその時は唐突に訪れた。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォッ……!!
窓の外、遠くのほうでくぐもった大きな音が轟いた。
電車のモーター音とレールのジョイント音を軽くかき消し、ロケットエンジンの噴射音を彷彿とさせる音が進行方向から聞こえてきた。
轟音は空気を震わし、形容しがたい恐怖感と不安感をあおった。
「なんだ……?」
列車の前方で何かあったのかと、三月は思わず窓に顔を近づけようとした。
その瞬間。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ……!!
唸るが如き地鳴りと共に、これまで体験したことがないほどの揺れが激しく襲い掛かってきた。
とてもではないが、立っても座ってもいられない。
「うわあぁっ……!?」
たまらず三月は電車の床に這いつくばって頭を抱えた。
天井の全てのつり革が狂ったように揺れている。
これは地震だ。
しかもとびきり大きい。
巨大な地震が電車ごと容赦無く地を揺るがしている。
すぐさま電車は急停車のためのブレーキを掛け、社内は地震と急な制動の衝撃で悲鳴と怒号が飛び交う混沌の場と化した。
運良く脱線せずに停車することができた電車内に、遅れて間に合わなかった緊急地震速報がそこら中から鳴り響いた。
三月の手元でも不安を煽る音が同様に鳴る。
速報が間に合わないのは、震源が内陸の近い位置であったことの証拠だ。
「うっ……!?」
三月は座席前の床にうつ伏せのまま、恐怖と不安に呻く。
立て続けに合図花火のような破裂音が何度も何度も響き渡った。
依然として揺れは収まらず、まだ地震は緩やかながら続いていた。
これは尋常の事態ではない、と思っているとようやく電車放送が流れた。
『お客様に連絡致します。ただ今地震発生につき列車緊急停車致しました。路線の安全確認のため、一旦運行を見合わせます。繰り返し、お客様に連絡致します』
繰り返しの放送が流れようとした矢先、日中でわかりにくかったが電車内の照明が一斉に落ちた。
冷暖房も止まったようで、予備灯だけが点いている。
おそらく停電が発生したのだろう。
これではもう電車は動かない。
元より、未だ余震が続き、安全が確認できなければ運転再開は見込めなかった。
「電話が、繋がらない……!」
電話を片手に三月は苛立った独り言を言う。
まず、帰郷先の父に電話を掛けた。
しかし、呼び出し音さえ鳴らず、無音状態のまま繋がらない。
自宅に電話を掛ければ、ひたすら呼び出し音は鳴り続けるだけで誰も電話に出る気配がない。
「朝陽にも掛からない……! くそっ、なんでだよっ……!?」
朝陽に掛けても神水流の自宅に掛けても、電話が誰かに繋がることはなかった。
停まった電車内でやきもきしていると、間もなく車掌らにより乗客の避難誘導が始まった。
片側の扉を開くと座席のロングシートを取り外し、それを二つ合わせて滑り台状にして乗客を次々と降ろしていく。
三月もそれに習って電車から下車した。
大勢の乗客が線路から避難し、一般道に出る頃には方々から緊急車両のサイレンが聞こえ始めていた。
そして、甲高い音の不揃いな合奏の空の下、故郷の方角を見上げた三月の顔面は蒼白となった。
乾いた声が漏れる。
「あ、ああ……!」
遠く離れた空が暗黒に包まれていた。
さっきまで晴天の青空だったのに、三月の見やっているほうの空に真っ黒な雲がきのこ状に出来上がっていた。
雄大積雲を思わせるそれは見る見るうちに発達して大きくなり、青い空を黒く塗り潰していく。
丁度、故郷の上空を覆い尽くし、どんどんと広がりを見せていった。
それを見て瞬間的に悪い予感がした。
今なお続く遠くからの破裂音、収まらない地震、空に広がっていく暗雲。
何が発生してしまったのかは簡単に予測ができた。
「くそっ……!」
三月は顔を苦々しく歪め、混乱と喧噪の中、帰る場所の神巫女町へと向かう。
公共の交通機関は多分使えない。
となれば、徒歩で行くしかない。
家まではまだまだ距離がある。
ずっと走って行ける訳もない。
大人の足で2時間以上は掛かるだろう。
しかも、地面が揺れているままともなれば、もっと長い時間を要することは必至であり、危険さえ伴う。
三月の生家がある地域は海が近い。
津波の恐怖も頭をよぎった。
しかし、家族と恋人、友人の居る故郷で大変な事態が起きている事実に、とてもではないが冷静でいることは出来なかった。
「はぁっ、はぁっ……! はぁ、はぁっ……!」
息を切らせて三月は走った。
ひび割れたアスファルトの道路を蹴りつけて、無我夢中に走った。
苦しくて心臓が爆発しそうになっても、最悪の状況を想像すると足は否応なしに動いた。
前へ前へと必死に進もうとする。
天之市は御神那山を含む山岳地帯を背景にして、両側を山地に挟まれ、一方が海に面した広い平野の地形となっている。
神巫女町はその中心にあった。
三月は片側の山地を隔てた隣の市方面から向かってきていて、必然的に山を越えなければならない。
通常なら自動車で峠の道路か高速道路で行くか、電車で鉄道のトンネルを抜けて行くかであるが、今の状況ではそのどちらも望めない。
自転車も無い以上、自らの足で辿り着くしか方法は無かった。
やがて、1時間くらいは経っただろうか。
山林に囲まれた国道を進んでいると、断続的に続いていた破裂音は徐々に収まり、大地を揺るがしていた地震は僅かずつ落ち着いてきた。
代わりに風に乗って、嫌な臭いが辺りに漂い始める。
卵の腐ったような臭いと、鼻をつんと刺す刺激臭である。
「こ、この臭いは……! くッそっ、はぁっ、はぁっ……!」
三月はその臭いを嗅ぎ、もう何が起こったのかを確信するに至っていた。
絶望感に足が止まる。
途端に激しい胸の痛みと絞扼感に苛まれた。
疲労による息切れと早い動悸に目まいさえ感じる。
割れるかと思うほど、頭が芯から痛みを訴えていた。
三月は道路脇の電柱に背中からもたれ掛かり、気を失うまいと意識を強く持って何とか持ちこたえようとする。
ここで倒れる訳にはいかない。
早く息を整えなければ。
そう思っていたところ、突然と声を掛けられる。
「三月っ? 三月かっ!?」
その声は三月のよく知る声だった。
驚いて荒い息をつきつつ、声を掛けた人物のほうを見て呻いて言った。
「そ、その声……。宗司、か……」
口をついて出たのは、つい最近まで同じ高校に通っていた友人の名だった。
スクエアフレームの銀縁眼鏡の青年は、鍔木宗司といった。
三月よりも少し身長が高く、細身ながらがっちりとした体付きである。
背中には頭部を負傷し、意識が朦朧とする彼の祖父が背負われていた。
気がつけば、三月の進行方向、天之市のほうから大勢の人が避難してきている。
スピードを上げた自動車が次々と走り抜け、徒歩や自転車で移動する人も居る。
宗司とその祖父、鍔木恭蔵も同じ理由でここまで逃れてきたのだ。
「宗司、教えてくれ……! な、何があったんだ……?」
呼吸も途切れ途切れに三月が問うと、宗司は苦しげに顔を歪めた。
怒りとも悲しみとも取れる苦悶の表情で、絞り出すような声でそれを告げた。
「──火山の噴火だよ! 御神那山が、噴火したんだっ……!」
「か、火山……。噴火……!?」
予想通りの災いの発生に、三月は全身を電気で打たれるほどの衝撃を受ける。
宗司は両肩をぶるぶると揺らし、苦しそうな声で言った。
「町中、酷い有様だよ……。なかでも神巫女町はもう滅茶苦茶だ……!」
「そんなっ……!」
それは死刑宣告にも等しい言葉であった。
そこは三月の生まれ育った場所で、これから帰ろうとしている場所だ。
大切な人たちがそこに住んでいる。
なのに、火山の噴火などという非現実のせいで滅茶苦茶になっているという。
「あっ! 三月、待てッ! 駄目だ、行くなっ!」
宗司の叫びはもう遙か後ろで聞こえた。
三月は弾かれるばかりの勢いで走り出していた。
一刻も早く行かなければ、その思いだけが三月を突き動かした。
宗司の制止は聞こえない。
故郷へ、神巫女町へとひた走る。
「そこら中に火口が開いている! 低いところには行くなっ! 火山性の毒ガスがあちこちから噴き出してるぞっ!」
もう遠くに行って見えなくなる三月の背に、宗司は精一杯の大声を掛けた。
自分は三月について行ってやることはできない。
傷を負った祖父と共に、安全な場所まで逃げなければならない。
戻ったところで自分たちに出来ることはもう無いと悟ってしまっているから。
その非情なる事実は、間もなく三月にも突きつけられた。
「あ、あぁっ……!」
力無く呻き声をあげ、その場によろめく。
峠道を越え、天之市が見え始める場所までやってきた。
背の高い木々の隙間から、遠目に町全体から火の手が上がっているのが見えた。
町を一望する御神那山の複数の箇所から噴煙が噴き上げ、麓へ向かって幾筋もの猛然たる火砕流が帯を伸ばしている。
ただでさえ、卵の腐ったような臭いや刺激臭が濃くなってきている。
さっきからの頭痛や目まいは、ただの疲労からくるものではない。
噴火で発生した水蒸気に含まれる火山性ガスは、硫化水素や二酸化硫黄、二酸化炭素が大半を占め、空気中における濃度が高くなれば人体に悪影響を及ぼす。
火山ガスの濃度は不明だが、町へ近付けば近付くほど中毒による命の危機にさらされることになる。
このまま低い場所へは下りていけない。
「ちっくしょうっ……!」
三月は諦めきれない。
町には家族が居て、朝陽が三月が来るのを待っている。
少しでも町へ近付こうと、舗装された道路を外れて山の中を突っ切っていく。
方角を見失わないように、町から上がる黒煙を目印に道なき道を走った。
草木の茂みや枝葉が身体中にぶつかってくるが気になどしていられない。
獣道とも呼べない悪路を行き、三月は小高い山の開けた場所へ出た。
そこは町を見渡せる天然の展望台で、子供の頃によく遊んだ山の一つだった。
「な、なんてこった……! どうしてこんなことに……!」
三月は変わり果てた町の姿を見下ろし、絶望に立ち尽くす。
宗司の言った通り、火山の噴火は御神那山からだけではなかった。
地中から急上昇してきたマグマに押し上げられ、町の至る所が隆起してそれぞれが火山と化している。
学校の運動場に、商店街の通りに、住宅街の真ん中に、子供たちが遊んだ公園に、作物を実らせる田畑に、無数の火口が姿を現し、灼熱の溶岩を噴き上げていた。
自宅のある町の中心へは危険過ぎて近づけない。
女神社のほうも御神那山の噴火が続いていて、行けば確実に命を落とす。
これ以上は進むだけで無駄死にとなる。
それは一目にわかってしまった。
「町が、大穴に……! 地面の中に飲み込まれて……!」
うわごとのように言う三月が見るのは、自然の驚異と呼ぶにはあまりにも残酷な災害の爪痕であった。
天之市の中心、神巫女町のあたりが丸ごと陥没してしまっている。
何が起きたのか町の中央に巨大なクレーターが開いていた。
大穴はそれだけではなく、大小様々な円形の窪地が市中に数多く点在している。
上空は黒煙が立ち込めて空を包み、灰色の火山灰が町を白く染め、赤い火災の炎が無数に見えた。
誰がどう見ても、市が、町が壊滅しているのは一目瞭然であったのだ。




