第189話 対決、牛頭鬼の冥子1
金色の空の下、今日の天神回戦会場は湧いていた。
試合は午後の部に入っており、次第と観客の熱は高まっているようだ。
客席から見下ろす和風な円形闘技場で取り組みが始まる度、目当ての顔合わせが登場するのを今か今かと待ちわびている。
それは一般の観客だけでなく、神々の特別観覧席でも同様である。
「うむむ……。何やら視線を感じるのじゃ。くすぐったくて敵わん……」
こじんまりと縮んでしまった日和は、だぶだぶな丈余りの着物の袖で顔を隠す。
気のせいではなく、周囲からの注目を集めているのはきっと自分だ。
日和はその理由に気付かず、気が重そうにため息をついた。
「はぁぁ……。ともあれ、今日も今日とてこの場所に足を運ぶことになろうとは。まったく、多々良殿ではあるまいし」
じと目でちらりと横を見やると、そこには最早天神回戦の常連となっている男神の姿があった。
日和の視線に柔らかく答える。
「ふふ、起きて働けるは果報者だね。健常に忙しくあるのは良いことだよ」
片目を隠した眼帯に、深い緑の狩衣をまとうのは鍛冶と製鉄の神、天眼多々良。
正した姿勢でゆったりと特別観覧席に着き、輝かしい笑顔をたたえている。
穏やかで慈悲深い聖なる神であるのは間違いないが、今の日和にとっては厄介な疫病神以外の何物でもない。
露骨に嫌な顔をする日和をよそに、多々良は愉快そうに問い掛けてきた。
「それより日和殿、見たかい? 今日の試合観戦の客の入りを」
「ん、ああ、観衆の行列が出来ておったな。久しく見ていなかった光景じゃ」
多々良と日和が言うのは数多の神々を信奉し、天神回戦を一目見ようと集まる、所謂ところの一般客のことである。
普段でも賑わいを見せている天神回戦ではあるが、今日は一段と盛況さが増して見えた。
当然のような満員の客席を見渡し、多々良は微笑ましく言った。
「そろそろと注目が集まり始めたようだ。日和殿の類い希なるシキに、ね」
「私のシキ? みづきにか?」
きょとんとして聞き返す日和に、目を細めてゆっくり頷く多々良。
「……やれやれ、再び末席に転落した惨めな女神とそのシキをわざわざ見物しようなどと、昨今の客たちは何とも物好きじゃなあ」
また大きなため息をついて、日和はげんなりと疲れた顔になった。
かつての隆盛であった頃ならともかく、こんな弱り果てた自分には注目して欲しくない。
しかし、多々良はそんな日和を一瞥すると首を横に振った。
目線は試合会場に向いたまま、涼しい笑顔でそれを口にする。
「──いいや、皆々期待しているのだよ。天神回戦に吹くる、新たな風の到来を」
今度は日和が多々良をちらりと見上げる。
高遠なる男神は、またぞろ何らかの未来を垣間見ているようだ。
少し遠い目をした多々良は、ふっと短い息を吐いた。
「……今の天神回戦は、少々と息が詰まってしまっているからね」
「ふむ……」
多々良が何を言いたいのか大体察した日和は、ちょこんと座布団に座り直す。
強大な力を持ち、天の高みに居る多々良にも手の届かない至境がある。
第二位と言えば聞こえはいいが、さらなる上位には決して至ることはできない。
破壊の神、夜宵の一強は動かない。
諸々の陣営がひしめき合うも、夜宵との力量差は天地ほどの開きがあると言っても過言ではない。
「新しい風、か。……ふふっ」
日和は思わず吹き出した。
自分が最もよく知るあの夜宵との戦いに、みづきが一石を投じる存在になるなど想像がつかなかった。
なにせ力の差は歴然なのだ。
「確かにみづきは我ながら良いシキじゃと思うが……。ちと、持ち上げ過ぎやせぬかのう。近頃の多々良殿は、やたらとみづきを高く見積もっておるようじゃ」
大げさだと感じて、日和は苦笑いを浮かべた。
いくらなんでも多々良のその見通しは途方もない、そう思っていた。
しかし、多々良は如才なく答えるのである。
「その通りだよ、みづきのこれからには期待をして止まない。無論、それだけではなく、日和殿の明るい未来に寄与してくれることを心より願っている」
明け透けな多々良の言葉に、日和は眉根をひそめて呆れた顔をする。
相変わらず、底の知れないこの男神には他とは違う何かが見えているようだ。
「ご自慢の千里眼で何を見られたのやら。私やみづきの心配をしてくれるのは結構じゃが、お付きのシキめがめっぽうおっかない顔をしてにらんでおるぞ」
と、日和が多々良とは逆の隣を顎でくいと示す。
するとそこには、他のシキを褒めそやす多々良に不機嫌そうな表情をしている、こちらも相変わらずな瞑目の夜叉姫の座す姿があった。
白く長い髪、額から突き出た双角、黒衣の和装の佇まい。
敬愛する主のみづきへの過大評価が面白くなくて仕方がない、慈乃姫である。
「ふん……!」
二人の神の視線が向くと、慈乃は一層機嫌悪くそっぽを向いてしまった。
昨日のいざこざもあり、今日の試合には自分が出場して、手ずからみづきの首を討ち取りたかったのにと物騒な不満をあからさまに醸し出している。
もうこうなっては結果はどうあれ、みづきと一戦を交えなければ慈乃の気は絶対に収まりはしないだろう。
そんな慈乃を多々良が困り顔で横目に見ていると。
いよいよと次の試合を戦う戦士たちの呼び上げが始まった。
広い試合会場に、高らかで通る声があがった。
「東ノ神! 八百万順列第二位、製鉄と鍛冶の神、天眼多々良様のシキ! 地獄の獄卒、牛頭鬼の冥子殿、おいでなさいませ!」
声の主は、本日の審判を務める若き審判官、姜晶であった。
白い狩衣と浅黄色の袴姿で、手にした木笏を振り上げている。
まず呼び上げられたのは格上の東からで、多々良のシキ、牛頭鬼の冥子の名。
瞬間、待ってましたとばかりに試合会場は大きな歓声に包まれた。
大太鼓の重い音が連続して鳴り響き、鼓と和笛が狂騒の音色を奏でる。
派手な祭り囃子に乗って、屈強で巨大なシキが堂々と姿を現した。
「アーハッハッハッ! 昨日に続き、本日も宜しく申し上げ候ッ! 多々良様の忠実なるシキ、牛頭鬼の冥子、ただいま参上ッ!」
地の底よりの階段を上がり、選手登場門から今日の主役の一人が登場する。
ずしん、ずしん、と重々しい足音を踏み鳴らし、見上げるほどの牛頭の鬼が自慢の金砕棒を引っさげて、試合会場を中央へと進む。
鍛え抜かれた肉体の白と黒の斑模様は、まるでホルスタイン種の牛そのものだ。
軽装の鎧で申し訳程度に隠している度し難く露わになった大きな両乳房は、鍛えられた大胸筋と区別がつかない。
人の形態も豪壮な外見であり、鬼の正体を見せた姿は一層と迫力が増している。
天眼多々良陣営上位のシキ、牛頭鬼の冥子である。
「多々良様、この私めの活躍をとくとご照覧下さいませ! 必ずやご期待に添えるよう粉骨砕身の思いで試合に臨む所存でございますっ!」
歓声と拍手に包まれ、冥子は金砕棒を地に力強く突き立て、神々の観覧席で座している多々良に向かい、忠誠と勝利を誓った。
「うん、今日の取り組みは重要な一戦となる。冥子、頼んだよ」
遠くから冥子を見つめ、多々良は笑顔で微笑んだ。
やっぱり強そうな牛頭の勇姿にはらはらする日和と、同門のシキ登場であるのに愛想笑いの一つもしない鉄面皮な慈乃に挟まれ、多々良は此度の試合にとある思惑を巡らせる。
そして、日和や多々良の居る特別観覧席とは別の場所。
北側にある神の座席ではなく、南側の一般の客席、その片隅で。
「……うー」
複雑で難しそうな顔をした少年が低い声で唸っていた。
緑色の布地に白色の葉や茎が絡む唐草模様の手拭いを鼻掛けにして、ほっかむりをしている。
何とも見るからに怪しげな様子の幼い少年であった。
座席の座布団に腰を下ろし、膝の上にやった両の拳を握り込んで、緊張でもしているのか肩を小刻みに震わせている。
「結局、気になって観に来ちまった……」
小声でぽつりと漏らす。
それは、童子転身の秘技で人の姿に変化したまみおだった。
昨日の試合で冥子に手酷くやられ、敗北の眠りに着きかけていたところを日和の力で命を救われた化け狸の神。
ほっかむりで顔を隠しているのは変装のつもりで、神の身でありながら一般客席に紛れているのは、こうして試合を観戦に来るのが気恥ずかしかったからだ。
まみおの脳裏によぎるのは、半身であるお地蔵様の言葉であった。
自分の命が救われた後の顛末を知らないまみおに、今日の試合のことを知らせてくれていたのである。
『確かに、此度のみづきの試合はまみおには関係の無いことなのかもしれません』
試合を観に行くのを渋るまみおに、お地蔵様は静かに優しく語りかけた。
良縁を結び、まみお自身と守護の対象の山や村に幸を与えるために。
『だけれど、多々良様のシキと戦い、仇を討とうとしてくれているのは、まみおを思ったみづきの気持ちであることに間違いありません』
だから、みづきの試合の結末を見届けてきなさい、と。
お地蔵様はそう言った。
「ふ、ふんっ……。お師匠様の言いつけだからな……。し、仕方なしだっ……!」
ふてぶてしく鼻を鳴らして言うものの、言われるまでもなくまみおだって今日の試合が気になり過ぎてやきもきしていたところだった。
俯いて下を見たり、明後日の方向を向いたりと落ち着かない様子だが、顔を赤くしながらちらちらと試合会場を見ている。
と、そわそわしているまみおの耳に。
「──今日の日和様と多々良様の試合、観に来られたのは本当に幸運だった」
「本当ね。こんなにも人気が高いと、会場に入るのも叶わないからねぇ」
隣に座り、神職が纏うゆったりとした白衣に身を包んだ、仙人か神族の客の声が聞こえてくる。
恰幅の良い壮年の男性と、目の細い黒髪の女性だ。
「多々良様のシキが凄いのはいつものことだが、私は近頃と日和様のシキが気になって気になって仕方がないのだよ。そう、みづき殿と言ったな」
「私も同じく。太極天様のお力を操り、一度は多々良様のシキに勝利なさった武勇は素晴らしかったわ。今日もそのご活躍に期待したいものねぇ」
楽しげに歓談する二人の話題は他でもないみづきのことだ。
面白くなく思うのが半分、何を話しているか気になるのが半分で、まみおは興味津々に聞き耳を立てている。
それは気付かず、無意識のままに。
「そういえば、一昨日のまみお様との試合も凄かったな。あれほど見栄えする取り組みは久方振りに見たよ。幻術を競う変化合戦、見応えがあったものだ」
「うふふ、そうね。みづき殿とまみお様の試合には感動すら覚えたわ」
二人の話の種は、みづきとまみおの試合のことになっていた。
変化術と地平の加護による、幻術のお披露目対決。
それをこの二人、いや、他の観客たちもきっと見ていたのだ。
驚きと興奮と共に賞賛を送りながら。
「……」
こっそりと聞き耳を立て、人目を憚っていたのも忘れ、まみおはぽかんとした顔で話に聞き入ってしまっていた。
低位でちっぽけな自分のことが話題になっているなんて思いもしなかったのだ。
「まみお様か。多々良様のシキに敗れ、その後どうなってしまったのか……」
「おいたわしいことだわ。できるのなら、敗北の眠りになど着いて欲しくはない。再びと、ご健勝な姿を見せて頂きたいものね……」
まみおはどきっと胸が高鳴るのを感じた。
惨めに敗れた自分を心配してくれている声がある。
誰に見向きもされることなく、これまで一人で戦ってきたというのに。
「そして次もきっと、みづき殿との心躍らせてくれる試合を見てみたいわ」
神族の女性がしみじみ言うと、壮年の仙人もうんうんと頷いた。
もうまみおはたまらなかった。
黙っていられなくなる。
「だっ、だっ……! 大丈夫だってっ……!」
思わず大声をあげ、ほっかむりの顔のまま座布団の上につい立った。
隣で話していた二人の神族以外の観客たちも何事かとまみおに振り向く。
「またあんな試合は見られるさっ! 日和様と、みづきが助けてくれたんだっ! だからまたっ、皆が望んでくれるんなら物凄え試合を見せてやれ、る──」
そこまで叫んだところで我に返り、まみおはやっちまった、と言うばかりの顔でかちこちに固まってしまう。
周囲から見れば、顔を唐草模様の手拭いで隠したおかしな子供が騒いでいるようにしか見えなかっただろう。
「あっ……。いや、その……」
しどろもどろに青ざめるまみおだが、心の中には赤く温かい火が灯っていた。
皆に気に掛けていてもらえたのが嬉しくて、抑えがきかなかったのだ。
みづきと試合をしたことで知らずに注目を集め、負けてしまったのに関わらず、あろうことか勝負の内訳を褒めてもらえた。
またみづきとの試合を見たい、とも。
あまり利口ではないまみおではあるものの、少しだけ、みづきたちとの縁を大事にするようお地蔵様に言われた意味が理解できた気がした。
と、客席に立ち上がったまみおが不審がられているそんなとき。
「西ノ神! 八百万順列末席、創造の女神、合歓木日和ノ神様のシキ! みづき殿、おいでなさいませ!」
いよいよと、もう一方の試合の担い手を呼ぶ声が姜晶からあがった。
すると、冥子の登場の時よりもさらに大きく会場が湧いた。
割れるほどの歓声と拍手の騒々しさが今日の真の主役が誰なのかを物語るようであった。
凄まじい喧噪と鳴り響く楽器の音の隙に、まみおは何食わぬ顔でささっと小さく座り直す。
まみおを訝しんでいた視線はすべて試合会場へと奪われていた。
「凄ぇな、みづきの人気……。こんなにも皆に歓迎されてら……」
しかし、姜晶の呼び上げを聞いて、まみおの胸はずきんと痛むのだった。
──順列が末席に落ちてる。おいらを、日和様が創造の術で助けたから……。
自分を救うため、日和はせっかく上がった順列を下げ、みづきにも迷惑を掛けてしまったのかもしれない。
いやしかし、あれはみづきたちが勝手にやったことで、助けてもらう義理も無いうえ、そんなこと頼んだ覚えもなかった。
まみおが気にすることなどない。
それなのに。
「胸が痛ぇ……。心が疼きやがる……。な、なんだってんだよぉ……」
一張羅の着物越しに胸をぎゅっと掴み、まみおは声を絞り出した。
息苦しく、声が出づらくなるほど、腹の底がずんと重く感じる。
そんな苦悩の思いは、試合前の歓声にかき消されて誰にも聞こえはしなかった。
「──なんだなんだ? 今日はやたらと盛り上がってるなぁ」
試合会場で待つ大勢が湧く声を知らず、みづきは登場門の階段を駆け上がる。
眩しい太陽の光が差し込む、地上への出口から勢いよく飛び出していく。
もう、びくびくおどおどとした情けない登場の仕方ではない。
何なら勢いが余り、階段を上がりきってそのまま空中高く浮かび上がっていた。
気合いを入れ過ぎたせいで、シキとしての身体能力の高さが遺憾なく発揮される。
「へへっ! 今日は格好良く登場できたろっ! 三点着地、一度やってみたかったんだよなぁ!」
軽やかに空を舞い、一息に試合会場の中央まで飛翔すると、それもまた長年の夢の一つであった見栄えの良い着地方法を成功させる。
所謂、両足と片手の三点を使い、地面すれすれに低身で着地するという、実際にやるには衝撃を一切殺さないために非常に危険極まりない手法である。
ご満悦にみづきが顔を上げると、そこには見慣れた審判官の顔があった。
「みづき様、本日はようこそおいで下さいました……」
そう声を掛ける姜晶はどこか恐る恐るとした様子だ。
『俺はそんな趣味の悪い見世物に付き合う気はねえよ。凄惨だってわかってるなら初めからやらなきゃいいだろうが。姜晶君もそんなのが見たいってのか?』
理由は前回の試合のことで、まみおに敢えてとどめを刺そうとしないのをみづきに問い質したところ、思わぬ怒りに触れてしまったからである。
本来は高大な神たる日和のシキ相手に、不興を買ってしまったのは姜晶にとって大変に反省すべきことであり、気に病む心痛であったのだ。
「あ、あの……」
「おっ、今日の審判も姜晶君なのか! 俺のする試合に何か縁があるみたいだな。今日もよろしく頼むよ!」
ただしかし、何か一言謝罪を口にしようと逡巡する間もなく、みづきは何も問題など無かったかのように活気あふれて姜晶に声を掛けた。
「あっ、は、はいっ! 宜しくお願い致しますですっ……!」
虚を突かれたみたいに呆気にとられていた姜晶だったが、慌てて地面に着くほど頭を深く下げて答えた。
伏せた顔を真っ赤にしながらまたもや、お優しいみづき様に気を遣って頂いた、などと思っているに違いない。
但し、みづきにしてみれば、今日の試合で頭がいっぱいで、もういちいちそんなことを覚えている余裕がなかっただけなのも言うまでもなかった。
今日の試合は、真にみづきの意思でやりたかった試合であるのだから。
 




