第188話 茜色の帰り道
「ふにゃあーっ……! 疲れたぁーっ! もうたまらんのじゃあーっ!」
鐘楼門を出て参道を少しも歩かない内に、情けない悲鳴をあげたのは日和。
後ろ向きに尻餅をついて座り込んでしまった。
「おい、日和。大丈夫かよ?」
「一時はどうなることかと思ったが……。安心したら気が抜けて、腰まで抜かしてしもうたわ……。あんなにも恐ろしい多々良殿は初めてじゃ……」
平然とした声で心配するみづきに対して、日和は弱々しく安堵の声を漏らした。
どうやら極度の緊張状態から急転直下に安心を得て、腰を抜かしたらしい。
多々良が恐ろしかったのはみづきも同じだ。
苦笑いを浮かべて弱り顔をする。
「仏の顔も三度までってやつだ。……慈乃さんにはちょっと気の毒だったな」
「あんな凶暴な女狐のことなぞ気にせずともよいのじゃ。ちょっとばかし腕が立つからと増長しておったゆえ、たまには灸を据えられるのも良い薬となるじゃろうよ。さもありなんじゃ」
座ったまま頬を不機嫌に膨らませて日和は悪態をつく。
温和な多々良と違い、何かと突っかかってくる慈乃は本当に苦手であった。
何なら、少しは痛い目に遭って然るべきだとさえ思っている。
と、尻餅状態の日和は期待に満ちた目でみづきを見上げ、手を差し出した。
「そんなことよりも、みづき。どうやら、しばらく立って歩けそうにないのじゃ。身を粉にして働いた天晴れな私に手を貸すがよいぞ」
順列を下げ、せっかく取り戻した力を手放し、身を張って落とし前の話をつけに多々良の本拠地へと赴いた功績を讃え、哀れなる自らを助けよと言うばかり。
そんな日和にみづきは。
「……やれやれ、しょうがないな」
そう言って、迷いなく日和に背中を向けて屈み、両の手を逆さにして寄越す。
予想外のみづきの対応に、日和は目をぱちくりさせて面食らっていた。
戸惑う日和に顔だけ振り向き、みづきは当然のように促した。
「えっ……。み、みづき……?」
「ほら、おんぶするから早くつかまれよ」
「おんぶっ!? ……わ、わかったのじゃ。世話になるのじゃっ……」
「子供の姿だけあって軽いなー、日和ー」
えらく驚いた様子の日和だったものの、おずおずと手をみづきの背に伸ばした。
シキの肉体のお陰もあり、子供そのものな日和の身体は軽々と持ち上がる。
無遠慮に他意なくお尻を支えられ、日和はひゃっと小さく悲鳴をあげた。
日和の応答を待たず、みづきは夜の訪れを感じさせる夕闇の参道を歩き出す。
「……手を貸せとは言ったものの。まさか、おんぶしてもらえるとは思わんかったのじゃ。やや子でもあるまいし、誰かにおぶさる日が私にも来ようとは……」
みづきの背で、もじもじと居心地悪そうにしている日和の顔は赤い。
それは茜色の空の光に照らされているからというだけではないようだ。
「なんだ、嫌だったのか? 抱っこのほうがよかったか?」
「いいや、このままでよい……。ふふっ、みづきの背中は広いのう。頼りになる男らしい背中なのじゃ。こうして身体を預けておれば、何とも言えず心が安らぐものじゃなぁ」
歩きながら振り向くみづきの顔のすぐ前にあるのは、日和の満ち足りた安らかな笑顔。
ぎこちなくおんぶされていたが、安心したようで改めて体重を預ける。
「日和が小さい子供の姿だからそう感じるんだろ。元の大人の姿じゃそうでもないだろうさ。……それにさ、子供のままじゃないと、身体が色々と当たって、その、まずいだろ?」
「みづきめ、また助平なことを考えておるな。大人の私の肢体と密着するのは役得となるじゃろうが残念じゃったのう。しかし、今の私は萎んだ稚児そのものじゃ。ゆえにそれはそれ、これはこれじゃ。あははっ……」
見た目通りな子供みたいに笑い、日和は指の短い手の平でみづきの背中をさすりさすりして、頬ずりをしている。
顔と身体で温もりを感じているようだった。
「この矮小たる小さき身体でいるのも悪いことばかりではないのじゃ。こうして、みづきに甘えられるのなら、力を取り戻した後も小さいままで居ようかのう」
「寝込みを襲われなくて済むんなら、精力旺盛な美しい女神様でいられるよりか、今の小さくて可愛らしい日和のほうが断然ましってもんだよ」
「此奴め、ぬかしよるわ。ならば今夜はこの姿で同衾をさせてもらおうなのじゃ」
「へいへい、それなら腕枕で良い子良い子して、ぐっすりと寝かしつけてやるよ」
悲惨なまみおの試合に始まり、多々良陣営との緊迫したやり取りが終わり、二人の間にも軽口を叩き合える余裕がようやくにして生まれていた。
ひたすら慌てふためいていた日和は元より、平然として見えたみづきも強い緊張を覚えていた。
「それはそうとしてさ」
心的圧迫からようやく解放され、言えていなかったことを口にする。
「──日和、今日は本当に色々とありがとうな。まみおを生き返らせてもらったり、多々良さんとこに着いてきてもらったり、神様相手にわがまま言い放題だな」
それはみづきから日和への感謝の言葉であった。
思えば、朝から主である日和を連れ回し、困らせ、混乱させて、身から出た錆の後始末をしてもらった。
そのうえ、危険と恐怖にさらして相当な迷惑を掛け、負担を強いてしまった。
「正直、悪いと思ってる。埋め合わせはきっちりやるよ」
「……なんじゃ、水くさいのう」
ただ、続けた謝罪の言葉に、日和は億劫そうな声をため息と一緒に吐いた。
目尻を下げ、穏やかな声でみづきの耳元に囁く。
「他ならぬみづきの頼みじゃ。無下にはできぬよ。みづきが試合で勝利してくれたゆえあっての今の私じゃからな。我がままなどと気にせずともよいのじゃ」
と、優しいことを口にしたのも束の間、酸っぱい苦言もすぐに飛び出した。
義憤に振るい、勝ち気に振る舞った結果とはいえ、みづきはぐうの音も出ない。
「しっかしじゃ、みづきが天神回戦に乱入しようとしたのには肝を冷やしたわい。失格にされて全部が水の泡になるところじゃった……」
「うぅ、それは本当にすまん。俺もどうかしてたよ……。頭に血が上っちまって、日和が止めてくれなきゃどうなってたことか……」
「それだけではないぞっ。多々良殿に対してもそうじゃっ。よくもまあ、あれだけの啖呵を遠慮無しに切れたものじゃわい……。身をもって思い知ったじゃろうが、多々良殿は強い神じゃ。軽々しく楯突いてよい相手ではないのじゃからな」
「まぁ、そうなんだろうな……。多々良さんとは勝負してどうこうとか、もうそういう次元じゃないんだろうな……。そりゃ、神様なんだから当たり前か……」
しかし、そんな多々良相手にみづきが口八丁に渡り合えたのには理由があった。
みづき自身が多々良と対話をするに当たって、ずっと感じていたことだ。
「だけど、俺の言ったことに多々良さん、別に怒ってなんかいなかったぞ。むしろ、言いたいこと言わせてくれたし、こっちの話を聞いてくれてた感じだったけどな」
力と格の差は歴然なのだから、みづきの言動を一笑に付しても何の問題はない。
なのに、懐深く話に最後まで付き合ってくれていた。
恐ろしい一面を見せたのも、慈乃との荒事を諫めてくれた助け船だったのは間違いない。
「まぁ、付き合いは長いが多々良殿が何を考えておるのかは私とてよくわからん。おお、そうじゃ、わからんことついでじゃが──」
と、長年の知己に思いを馳せる最中、日和は思い出したそれをみづきに尋ねる。
みづき自身も唐突に問われて、思わずはっとしてしまったことであった。
「みづきよ、おぬしには私に叶えて欲しい願いがあるのか?」
すべての力を取り戻した日和に、創造の力を頼り、願いを叶えてもらうこと。
これが受け容れられるなら、みづきの悲願は達成されたも同然である。
日和は以前に怒りを剥き出しにした時とは違って、優しくみづきに問い掛けた。
「その願いとは朝陽のことを気に掛け、蜘蛛の奴を知りたがる理由と関係しているのか? もう何を聞かれても怒ったりせぬから、教えてはくれぬか?」
「……」
みづきは黙って、前を向いて歩くだけ。
思い切って打ち明けてもいいものだろうか。
みづきは迷う。
密着する二人の身体には自然と氣が巡っている。
神交法でお互いの心を通わせてわかり合っているお陰で、感情に荒立った波が起きることはない。
神交法の確立は、みづきと日和の心の壁を取り払い、曖昧に溶け合わせている。
雛月による心の内からの反発も無い。
「……」
しかし、みづきは口をつぐんだまま、何も言うことができなかった。
理由は何故だかよくわからなかった。
今の日和なら、きっと話を聞いてくれるだろうに。
強いて言うなら。
漠然と、取り返しのつかない未来が決定してしまう、そんな風に感じたからだ。
顔が見えずとも、日和にはみづきの困惑の気持ちが伝わる。
「その沈黙を答えとして受け取っておくのじゃ。とはいえ、みづきが何かを望んでいようとも天神回戦を勝ち上がり、私の神格を取り戻さぬことにはそれらもすべて取らぬ狸の皮算用じゃ。願いを聞くのはそれからでも遅くなかろう」
機嫌は上々のまま、くすくすと笑っている。
とも思えば、自嘲気味に哀愁を漂わせてまた笑う。
「取らぬ狸といえば、まみお殿を討つどころかその魂を救い、またもや力を失って振り出しに戻ってしまったのじゃ。順列を上げようと試合に臨んだ結果がこれとは、何とも皮肉な巡り合わせじゃなぁ。あっはっは……」
「……すまん、日和……」
ようやく開いたみづきの口が言ったのは、ぽつりとした謝罪だ。
日和の順列を下げたこと、願いを言えなかったこと、どちらへの謝罪か。
「詫びずともよいのじゃ。それさえもがみづきのもたらしてくれた奇跡の結果よ。おぬしは紛うことなき私のシキじゃが、確かに多々良殿の言う通り、不思議なシキであるのじゃ。本当に何らか大きな運命に準ずる特別なシキなのかもしれぬなぁ」
日和の小さな手が、みづきの肩をぽんぽんと叩いた。
安心させるように、はたまた念を押すかのように。
復活した暁の、女神としての言葉をみづきに示した。
「みづきの願いに言えぬ秘密があるのなら、気が向いた時でよい。その時が来たら話しておくれなのじゃ。みづきの願いを叶えられるかどうか、はたまた叶えるに値するかどうか。力を取り戻した後、どのみちとそれを判ずるのは私じゃからな」
そう、みづきの願いが通るかどうかは、そのとき日和に決めてもらえばいい。
一人で悩まずとも、本物の神様が目の前に居るのだから言う通りにしよう。
そう思うと、心のわだかまりがすぅっと晴れるのだった。
「すまん、恩に着るよ。日和って良い奴だな。それにやっぱり頼りになる神様だ。陰険で自分勝手なだけの奴かと思ってたよ」
すると、また軽口を叩けるようにもなった。
聖なる女神に良い奴も何もあったものではないが。
みづきのからかいを小気味良く思ったみたいで、日和も楽しげにそれに応じた。
「陰険で自分勝手は余計じゃっ。まぁ、こうしてみづきを思いやれるようになったのは、確かに私にも余裕が生まれたがゆえなのかもしれぬ。ならば、それをもたらしてくれたみづきに報いぬのはバチが当たろうというものじゃよ」
「はははっ、神様なのにバチを当てられるのか。だけど、俺が何を願ってるのかって質問、何も答えられないのに納得してくれて助かったよ。俺自身、まだわからないことも多くてさ。どうやったら俺の願いに辿り着けるのか、はっきりしないんだ」
何が正しくて、何が誤りなのかはまだわからない。
今歩んでいる道は、試練の茨の道。
踏破するのは困難極まる。
先行きは不透明で、目先の問題にとにかく取り組んでいくしかない。
明確なのは、この神々の世界でひたすらに勝ち上がること。
「だから俺、ひとまずは日和のためにもっと試合に勝って、いつかまた日和を凄い神様にしてみせられるように頑張るよ。──約束だ!」
もうその取り交わしにおける、特別な意味はわかっている。
夕緋に説教じみて言われるまでもない。
流石の日和も、迷いなく約束をするみづきに困ってしまっていた。
「まったく次から次へと、神との約束事を気楽によくもまぁ……。私のために尽力するだけでなく、まみお殿には仇を取るといい、多々良殿とは度重なる試合をすると約束を交わしおってからに……。後で後悔しても知らんぞ?」
背からの微苦笑に紛れ、みづきが思い出すのは必死な様子で約束を結ぼうとする日和の、あの時のことだった。
『但し! 誓っておくれ、決して私を裏切らぬと……! 私と歩む道を違えることは決してせぬと誓っておくれ……! 約束を、して欲しいのじゃ』
『この通り、頼むのじゃ! みづきのことを信じるためにもどうか約束を……!』
まみおとの試合を勝利すれば、朝陽との秘密を教えてもらえる。
但し、決して裏切らないこと。
日和の望まない道を行かないこと。
みづきはもうその時に、引き返すことの叶わない道に足を踏み出していたのだ。
今となっては笑い飛ばせる話である。
「よく言うよ。神様との約束の重要性を黙ってたくせにさ。制約は何も無いとか、枷も罰も無いって言ってたけど、今思えば全然話が違うじゃないか。もし俺が約束を破ったなら、日和が力を取り戻した後に罰を与え放題だったってことだろ。日和も相当狸だな」
「ぎくっ! 他でもない朝陽のことだったんじゃっ。念のためにみづきの首に縄を掛けておきたかったんじゃよーっ。すまぬーっ!」
「それなのに、よくも多々良さんに向かってあんなこと言えたもんだよな。天上の神ならざる外道の所業なんだって? まったく、どの口が言ってんだか」
「ひーっ! 堪忍しておくれなのじゃーっ! 反省しておるのじゃーっ!」
痛いところを突かれ、日和は真っ赤にした顔をみづきの背中にうずめた。
結果的に、用心深い日和にまた一杯食わされていた訳だが、みづきに腹立たしく思う感情は少しも湧かなかった。
笑い飛ばしてそれで終わりだ。
もちろんそんなみづきの気持ちは伝わっていて、日和はか細い声で言った。
まだ頬は赤いままで、慌てたり、戸惑ったりだけが原因ではないようだった。
「……だのに、みづきときたら……。私のそんな思惑などお構いなしに、悉く神との約束を交わしまくりおって……。おぬしには正直参ったわい……」
「じゃあ尚更だ。そういう代償があるからこそ、約束をするっていう行為が信頼を意味するようになるんだ。ならこれからも、俺は日和と約束をしていくよ」
みづきの潔い気持ちが言葉になって、日和の思惑を吹き飛ばす。
神との約束の制約など物ともしない、力強く誠実な意思の表れであった。
「み、みづき……」
今度こそ日和は、かぁっと顔を桃色に染め、胸の奥をじんと熱くさせた。
舌先が震え、ごくりと息を呑んだ。
鼻の奥がつんとして、目がうるむ。
みづきにいま顔を見られたら、日和は恥ずかしさに悲鳴をあげてしまいそうだ。
「……そうかっ、では約束じゃっ! 是非ともよろしく頼むのじゃっ! みづきが約束を守り続けてくれるなら、私もできうる限りの力を貸そうなのじゃっ!」
高まる感情と高鳴る胸の鼓動は、多分伝わってしまっている。
でも、それらを隠す気はない。
隠し事はもうしない、そう決めたから。
「はぁぁ……。みづきの背中はほんに温かいのじゃ。心地よくて、このまま眠ってしまいそうじゃわい……。これほど心底より安堵できたのはいつぶりかのう……」
「すっかり遅くなったけど、帰ったら飯にしよう。それまで起きててくれよ」
夕日が落ちる夜空の下、みづきと日和の影が重なって伸びている。
長い参道の先に朱く佇む、瞬転の鳥居へと二人は消えていった。
ぐにゃり、と空間が歪み、家路へ着こうとする刹那。
みづきの背に頬を寄せ、日和は囁くほどの声でやんわりと言った。
「私を良い奴と言ってくれるみづきのほうこそ、──良い男じゃぞ」




