第186話 約束と願い1
みづきと慈乃は御法度とされる、試合の外での場外乱闘を繰り広げた。
再三の制止を聞かず、違反を犯す二人にとうとう多々良の怒りは頂天に達した。
怒れる男神は大いなる真の姿を現し、大槌を神威に任せて振り下ろす。
さながらみづきや日和たちは、金床の上の鋼材であった。
カアアアアアァァァーーンッ!!
それは本当に轟いた音だったのか、神からの戒めの幻覚だったのか。
鍛冶の作業で鉄を槌で叩いた甲高い金属音が、身体の随にまで響いて渡った。
金属めいた残響がまだこだましている最中。
「慈乃、気持ちは鎮まったかい? もう下がっていていいよ」
すべてが打ちひしがれる打撃は嘘のようで、慈乃の背中をもう一度ぽんと叩いたのは多々良の優しい手だった。
いつの間にか、周りの風景は多々良の神社のものに戻っていた。
赤熱の窯の光景はどこにも見当たらず、世界は静謐な雰囲気で落ち着いていた。
今さっきの多々良が見せた地獄の様子は何だったのだろうか。
慈乃は居合抜きの構えを取ったそのままの体勢で固まっていた。
冷や汗をだらだらと顔から流し、絞り出した弱々しい声でようやく答える。
「う、うう……。申し訳ありませんでした……。多々良様……」
開眼していた眼をゆっくりと閉じ、いつもの瞑目した顔に戻ると、慈乃は身体を起こして背を向け、震えながらすごすごと後退していった。
一転して殊勝な様子の慈乃を申し訳なさそうに見送ると、多々良は改めてみづきに向き直る。
その顔はもう平静の微笑みを取り戻していた。
「みづき、慈乃が失礼をしたね。私に免じてどうか許してやって欲しい」
そうして、ようやく鉄の匂い漂う張り詰めた空気は弛緩する。
多々良は笑顔をたたえているが、みづきは油断ならない思いで見返していた。
長い息を吐いて、ゆっくりと口を開く。
「……やっぱり、多々良さんはおっかない神様だな。さっきの怖い顔も多々良さんの一面って訳だ。いつも優しそうだから、余計に恐ろしく感じるよ……」
みづきも冷たい汗でびっしょりだ。
次の多々良の言葉にはらはらする。
「怒るのは苦手なのだけれどね。勇猛果敢で忠義の厚い配下を持つのなら、時には厳しい顔も必要になるんだ。自分で言うのは憚られるけれど、躾には真心を持って当たることにしているよ」
「真心、ね……」
呟きつつ、項垂れた様子で背を向けて震えている慈乃を視線で見やった。
多々良を慮っての行き過ぎた横暴だったとはいえ、叱られてしまった慈乃には同情を感じないでもない。
一方で、どうにもならない障害が引っ込んでくれて胸をなで下ろす思いだった。
「多々良様ぁ……」
慈乃は吐息みたいな小声で主の名を呟く。
咎められた慈乃が己の軽率を悔やみ、悲しみに暮れているのかというと、その実はそうでもなかったりする。
表情の見えない後ろ姿が思うのは全く別の感情だった。
──先ほどの熱き炉の光景は、多々良様の神霊空間「炉ノ獄」……! 常日頃では滅多に見られないお怒りになった凜々しいお顔……。お優しい多々良様も魅力的なれど、激情される厳しい多々良様も格別です……。嗚呼っ、叱責されて背徳に喜悦する不出来な慈乃をお許しくださいませっ……。
身も心もどころか命も魂も捧げて惜しくはないと、多々良に心酔し切っている。
少し怒られた程度でしょげるような、やわな心臓は持ち合わせていない。
多々良の希少な側面を直に見られて喜んでさえいるようだ。
順列第二位の神に仕え、ほぼ不敗なるシキの気丈夫さと物好きさは到底計り知れるものではない。
「──憚られるって言うんなら、試合の外でのいざこざは御法度じゃないのかよ? 言っとくけど、先に手を出してきたのはそっちだからな」
そんな慈乃はさておき、みづきは戦々恐々としながらも挑戦的な顔で言った。
「それは戦いに応じたみづきも然りだ。荒事が始まってからでは、先に手を出したのがどちらだろうと詮無きことだよ。試合の外ではいかなる理由の争いも太極天の意に反する」
対する多々良も堂々と答えた。
腕を組んで、少し困った風に息をつく。
「但し、慈乃の怒りはもっともなところだ。私自身は気にせずとも、天眼多々良の信仰の下に集った者たちにしてみれば、みづきや日和殿の振る舞いは決して良くは映らないだろう」
多々良は強大な力を持つ神であり、他に比べて温和な性格の持ち主である。
しかし、その配下たちもなべてそうとは限らない。
崇拝する主に無礼を働かれれば、自分を侮辱されたと同じかそれ以上に憤る。
さらに言えば。
「結果的にこんな討ち入りめいたことになってしまっては、何の咎めも無く二人を無罪放免とするのは難しい。それでは配下の者たちに示しがつかない」
身内ばかりを罰して、同じく過ちを犯した罪人を大目に見たとあっては、いかな忠義の厚い部下とて面白くはないだろう。
現に、表だって文句は言わないが、冥子も牢太も表情を曇らせて感情を押し殺している様子だ。
「第一に、落とし前をつけると言ったのはみづきのほうではなかったかな?」
瞬きせず、心の深奥に届きそうな多々良の視線が刺した。
みづきは固唾を呑む。
顔は笑ってはいるが迫るようなその様子は、未だ怒りの只中であってもおかしくない。
高位の男神に罪滅ぼしをするために、いったい何を差し出せばいいのか。
「待って欲しいのじゃ、多々良殿っ!」
追い詰められるみづきの前に、血相を変えた日和が飛び出した。
転がるように石畳の地面に両膝を付けて跪き、必死の表情で多々良を見上げる。
「みづきは私の希望のシキなのじゃ。みづき無くしては、この先を戦っていくなど到底できぬ。身勝手は承知じゃが、多々良殿を邪魔立てしたことも含め、慈悲深い温情を掛けてはもらえぬじゃろうか?」
多々良への非礼を許してもらえても、肝心のみづきに重い処罰を課されては意味がない。
みづきを害されれば日和の未来は無いに等しい。
だから、叫び懇願した。
「みづきの首だけは見逃しておくれなのじゃっ! お願いじゃ、多々良殿っ!」
形振り構わず、土下座にも見える格好で両手を地に着け、頭を深く下げる。
元来、気位は高いほうの日和だが生き残るため、最後には勝利するためならこのくらいのことをするのは何とも思わない。
日和も懸命であった。
「日和……」
叩頭して身体を折る日和の小さな背姿は、さらに小さくみづきの目に映った。
自分にそれだけの価値を見出し、日和なりに身体を張ってくれていることに良心がずきずきと痛む。
日和にこうさせたのは、己の軽率さと身勝手が原因だ。
結局は日和に頭を下げさせる憂き目に遭わせてしまった。
但し、当の多々良はそんな物騒な贖罪は求めてはいないようである。
「首を差し出せなどとは言わないよ。それではせっかく争いを諫めた意味が無い」
顔を上げるよう日和に促し、多々良は先を続けた。
「それに、このような不穏当なやり取りをしなくても、私たちには雌雄を決するに相応しい舞台が用意されているのではないかな」
このような場外乱闘ではなく、正式な決戦の場での取り組みを望む。
そして、尤も千万で粛々とした計らいの中に、多々良の思惑が見え隠れする。
「落とし前、というのなら、その代わりにまたみづきに試合を受けてもらいたい。天神回戦を通じ、もっとみづきのことを知りたいな」
多々良はみづきに対して、並々ならぬ興味を抱いている。
魅入られていると言い換えてもいいほどに。
こうなってしまっては、後は多々良の思うままだ。
臆面も無く、赴く興味の通りに自らの要望を口にした。
「付言するなら、さらなる手の内を私に見せて欲しい」
「俺の、手の内……?」
そのまま聞き返すみづきは眉を怪訝そうにひそめ、身構える。
不安がるその様子を意に介さず、多々良は唸って言った。
「私も長く天神回戦をやっているが、みづきのようなシキは見たことがない。太極天の恩寵を自在に使いこなしたり、様々な不思議な術を備えていたり、何より良い気構えの魂を持っている。その心の有り様は神の世界では極めて希少だ。まるで、人間のようでもある。だからかな、とても興味深いんだ」
「に、人間……」
みづきは呻く。
日和にも言われたその事実を看破され、心の中で焦る。
今の自分は紛れもないシキだと言い聞かせ、平静を装おうと必死だ。
「これは私からの願いであり、譲歩でもある。私からの試合を受けてくれるなら、此度のまみお殿を巡る一件には目をつぶろう」
わななくみづきをよそに、多々良は話を進めていた。
贖いの方法を示し、平和な着地点を導いている。
さもなくば、憂慮すべき事態が待ち構えていると警鐘を鳴らすのも忘れずに。
「だがもし、この申し出を断ったうえ、別の形の落とし前を望むというなら、こちらも不本意ながら手荒なことをしなくてはいけなくなるだろうね。冷静に考えてみてもらえないかな。日和殿とみづきのためにも、ね」
言葉の終わりを念押しし、意に反した選択肢が選ばれないように促した。
それがわかっているから、みづきは迷わずに声を張って答えた。
「──わかった! 試合を受ける!」
「うん、みづきは物わかりの良い子だね」
その受け答えに多々良は満足そうに頷いた。
「但し、試合相手の指名をさせて欲しい!」
そして、みづきはすかさずとこちら側の望みを伝える。
後ろを振り返ると、指名を受けるのがわかっている冥子と目が合った。
みづきの意思を汲み取り、冥子はにんまりとして大きく首を縦に振って見せる。
この試合の顔合わせこそが、みづきがここに訪れた理由であったから。
「冥子と試合をさせてくれ! まみおと約束したんだ。仇を取るってな!」
それは思わず、みづきがまみおと結んだ一方的な約束であった。
まみおを完膚なきまでに打ちのめした冥子との勝負、その末の勝利。
仇討ちと称して、みづきは悔恨を残したまみおとの試合を憂いていた。
「くっくっくっ……。それは生憎なことです」
と、威勢良く試合相手の指名を叩きつけた矢先である。
もういつもの調子に復活した慈乃が冷たい声で笑っていた。
またもやと、みづきの思惑を妨げられて機嫌を良くしている。
「残念でしたね。天神回戦の取り仕切りは私の役目なのです。お前が多々良様との試合を受けるというのなら、その相手を決めるのは私の裁量次第……。この言葉の意味、わからない訳ではないでしょう?」
「何だって……? そんな話聞いてないぞっ……」
思い掛けない痛恨の横槍にみづきは慌てた。
事実、多々良陣営の天神回戦の関連事を仕切るのは慈乃の役目で、多々良の意思の下、相手に応じて試合うシキを選出している。
みづきはそれを知らなかった。
ならば、さっきは多々良の制止によってうやむやとなったが、場外でのいざこざではなく、正統なる戦いの舞台で慈乃はみづきを誅することができる。
予想通りに慌てるみづきを見ているのが、慈乃には愉快でならなかった。
「みづき、先ほどの続きは試合の場でやりましょう。お前を討ち取るのは私──」
「──いいや、それは待って欲しい」
ただしかし、さらに再びと横槍を入れるのは誰あろう多々良であった。
ぽかんとする慈乃を遮り、朗らかな雰囲気のまま多々良は言った。
「通例、天神回戦の采配は慈乃に任せているのだけれど、今回ばかりは私の我がままに付き合ってもらいたい。みづきには、特別に冥子と試合をさせてあげよう」
多々良の言葉に、慈乃は水を掛けられたみたいにひどく狼狽する。
今し方までの余裕はどこへやらで、悲鳴めいて切羽詰まった声をあげていた。
「た、多々良様っ、何を仰いますかっ!? そのようなご勝手は……!」
慈乃には多々良が何を言っているのか理解できなかった。
こんなことは通例には無い。
常ならば全てを任せてくれているのに、今回はそうさせてくれない。
我がままと前置きまでしたうえで。
「事の顛末に横槍を入れられたばかりか、試合う相手まで好き放題にされて……。うぅっ、言われるがままされるがままではありませんか……。畏れながら、慈乃は大変に情けなく思う所存でございます……」
しかも望まないほうへと話を持って行かれ、終いには泣き言を漏らす始末だ。
反して、嫌悪するみづきの思い通りになっていくのが腹立たしくて仕方がない。
しかし、先ほどきつく怒られた手前、がっくりと肩を落とす慈乃はもう食い下がろうとはしなかった。
仕方なく諦め、口をつぐんでしまう。
そんな慈乃を申し訳なさそうに見て、多々良は改めてみづきに向き直る。
「無論、ただでと言うつもりはないよ。みづきの望み通りにする代わりに、教えて欲しいことがあるんだ。正直に話してもらいたいのだけれど、言えないのなら強要はしない」
冥子との試合の実現に求められた代償は、とある問いであった。
多々良は何を思い、何を望んでそれをみづきに聞くのであろうか。
「──単刀直入に聞こう。君は何者で何が目的なのかな?」
表情を少しも変えない多々良、わかりやすく驚いて目を丸くするみづき。
何の事情も知らない者が聞けば、そんな答えは決まり切っている。
みづきは日和のつくり出したシキだ。
それ以上でも以下でもない。
「……どういう意味だ? 俺は日和のシキで、天神回戦を戦うのが目的だろ……」
但し、ただのシキではないみづきにとって、それは核心を突く質問であった。
低い声でしらを切るみづきの動揺を、多々良は見逃してはいないだろう。
だからなのか、今度はそれを聞く日和の心にも引っ掛かる問いを投げ掛ける。
「質問を変えようか。日和殿の順列を上げ、神としての力を取り戻させて、みづきはどのような願いを叶えてもらうつもりなんだい?」
「俺の、願い……? 日和に、叶えてもらう……?!」
問われてはっとした。
心臓がどきんと跳ね上がる。
たった今言われるまで思いもしなかったあることに、ふと気付いてしまった。
朝陽と日和の関係を知り、蜘蛛の神の情報を得るのが次の目的だった。
失われた過去を取り戻すためのタイムリープの秘密に迫るためである。
「みづき、どうしたのじゃ……?」
「日和……」
急に黙りこくってしまったみづきを、心配そうに日和が見上げている。
みづきの悲願、日和の神の力。
みづきが助け、日和の女神の格が復活する。
二人の手段と目的は、自然と一本の線で結ばれている、そう気付いたのだ。
頭によぎるのは、まみおを救った際の冥子の言葉。
『今は御力の大半を失われておいでだけど、万物の創造を司る日和様なら命を芽吹かせるのはもちろん、世界そのものだって創り出すことが可能なの。──みづき、貴方は大変な御方にお仕えしているのよ』
──日和はあらゆるものを創造できる。すでに尽きた命だけじゃなく、滅んだ世界でさえ創造し直せる尋常ならざる奇跡のわざの持ち主……。ってことは……!
創造の女神、合歓木日和ノ神。
彼の女神が全盛期の座に返り咲いた暁には──。
朝陽を生き返らせられる。
或いは、朝陽がいなくならない世界を創造できる。
それこそが、みづきが日和に叶えて欲しい願い、なのではないだろうか。
「……」
しばらくの沈黙を守っていたみづきだったが、やがて短いため息を吐き、何とも言えない笑みを浮かべた。
多々良が何を知っていて、何を知りたがっているのかはわからない。
しかし、みづきのやることには何の変わりもないのだ。
下手に動揺した素振りを見せるのは悪手である。
「多々良さんみたいな偉い神様にわからないことなら、俺みたいなしもべのシキにわかる訳ないよな。確か今日、多々良さんが自分で言ったことだと思うぜ」
それは、まみおと冥子の試合の場外にて、多々良がみづきに言ったことだ。
みづきの切り返しが意趣返しであると気付き、多々良は一瞬驚いた顔をしてから涼しげに笑うのであった。
「ふふっ、これは一本取られたようだ。だけど、参ったね。それでは冥子と試合をさせてあげられる口実が生まれない。みづきと試合をしたがっているのは冥子だけではない。それは、こちらの慈乃も同じだろう」
後ろに視線をやると、慈乃が無言で項垂れていた頭を上げた。
唇を噛みしめ、歪めた顔から、恨みの感情が瞑目していても伝わってくる。
「慈乃と相対するのなら、いかなみづきといえど勝つことは限りなく困難だろう。もしも取り返しのつかない敗れ方をすれば、志半ばで使命を果たせず、運命を無情に終えることになってしまう。それは、本意ではないはずだよ?」
穏やかながらも挑発的な多々良の言葉だが、みづきも負けてはいない。
冷や冷やする日和に構わず、遠慮無しに問い返した。
「それは紛れもなく事実だけど、──じゃあ、どうしようっていうんだ? お互い、交渉決裂で話に何の進展もない不毛な話し合いで終わりかよ?」
多々良は言葉無く、かぶりをゆっくりと振った。
「いいや、それならこうしよう。──二つほど私と取り交わしをして欲しい」
そして、質問の代わりにと、新たな代替案が示される。
みづきの反応を待たず、多々良は淀みなく言葉を並べ始めた。
この次なる交渉も初めから思惑の内であったと錯覚させるほどであった。




