第185話 御法度の場外乱闘2
やはり、予想通り。
多々良に遠慮のないみづきは慈乃との荒事を避けられない。
電光石火の如くに襲い掛かってきた夜叉の姫との戦いが始まる。
「みづきっ!」
「日和っ、神交法を頼むっ!」
みづきは振り向くと同時に、日和の驚き怯えた瞳を覗き込む。
地平の加護を介した房中術の奥義、神交法を迷わず発動させた。
ここは力の源泉たる太極山ではないのだから、日和の力を借りなければ単独での戦闘は心許ない。
にわかにみづきと日和の瞳に円環の光が浮かび上がった。
「あっ!? あっふぅーんっ!」
但し、創造の秘術を使い、身体が萎んでしまっている日和は神交法の氣の巡りに耐えられない。
瞬間的に込み上がった腰が抜けるほどの感覚に当てられ、飛び上がって後ろ向きに卒倒する。
顔を真っ赤に染め、そのまま失神してしまった。
日和の状態は万全ではない。
それでも当面戦えるだけの神通力は体内に取り込むことができた。
「日和様ッ、お気を確かに! 牢太ッ、多々良様をお守りしてっ!」
「おう、心得たッ!」
のびてしまった日和をひょいっと小脇に抱え、冥子は後ろに飛び下がった。
牢太も言われるより先に、主の身を守ろうと多々良の前へと跳躍していた。
多々良配下の神職の鬼たちは唐突に始まった荒事に恐れをなして、悲鳴をあげながら散り散りに逃げていってしまった。
そんな喧噪を露とも気にせず、みづきの顔の目の前で、血走った目を爛々と光らせる慈乃が口を開く。
「よくぞ私の剣を受け止めましたね。褒めてあげましょう」
「く、首を狙うってわざわざ教えてくれたからな……! そうでなきゃ、こんなに速い剣見えやしないよ……。流石は多々良さんの一番のシキだぜ……!」
ぎりぎり反応して、何とか剣を合わせることができた。
シキとしての強靱な身体能力と勇壮な胆力あってこその賜物である。
だが、少しでも意識を途切れさせると、力負けしてそのまま首を切られそうだ。
人間と差して変わらない見た目と体格の慈乃ではあるが、その中身はまるっきり化け物である。
「空世辞など結構。目障りなその首を落とせば、軽口も叩けなくなるでしょう」
喋る度に上下の鋭い犬歯と真っ赤な舌がちらちらとのぞいた。
紅い血色の両の瞳が血走り、憎悪の火を燃やしている。
普段は美しい女性の慈乃だが、怒りに燃ゆる形相は鬼女そのものだ。
「多々良様への非礼の数々、絶対に許しはしない! この聖なる領地に土足で踏み入った罪深き狼藉、死をもって償いなさい! 降りかかる火の粉は、この私がしかと払って差し上げましょう!」
眼前で慈乃が右に左にととてつもない速さで回る。
音を置き去りにして、尋常ならない速度で二撃目、三撃目の太刀がみづきに襲い掛かった。
いずれも執拗に首を狙う水平の回転切りである。
「うぐっ! くっそ……!」
今度もかろうじて不滅の太刀を立てて、みづきは自分の首を必死に守った。
とてもではないが反応できる速さの太刀筋ではない。
首目掛けて剣が振るわれると予め予測できているから防御できているだけだ。
不意に別の場所を狙われては、まず間違いなく対応は不可能である。
──大して戦闘経験がある訳じゃないけど……。この慈乃さん、これまでに戦ったどの相手よりも遙かに強い……! パンドラの地下迷宮に巣くってる、伝説の魔物のレッドドラゴンやミスリルゴーレムでさえ、慈乃さんに掛かれば簡単に倒されてしまうだろうな……。悔しいが、今の俺に勝てる相手じゃない……!
頭の奥が熱い。
みづきの中で地平の加護がフル回転しているのがわかった。
以前、脅しに斬り掛かられたことと、今回の幾度かの切り結びを何とか洞察し、致命の一撃を文字通りに首の皮一枚のところで凌いでいる。
一瞬たりとも気の抜けない鍔迫り合いが続き、恐ろしき夜叉の姫は呪いの言葉をみづきに投げ掛ける。
余すところなく、慈乃の禁忌に触れてしまったから。
「……初めて見た時からお前のことは気にいらなかった。多々良様の御心のまま、日和様討滅の成就は目前だったに拘わらず、お前が邪魔をしたっ! それだけでも許し難く、腸が煮えくり返る思いだというのに、多々良様はお前のような下郎をお気に掛けられる……! 嗚呼、忌々しいシキめ……!」
敬愛する多々良に対して、礼を欠くみづきと日和に腹を据えかねていたのは当然ながら、邪魔立てをしようとするなど到底許せない。
そのうえ、自分を差し置き、得体の知れないシキのみづきに多々良が興味を持つのが心底恨めしい。
牙を剥き出しにした顎を震わせ、がちがちと音を鳴らしている。
その牙の隙間、口腔内から黒い火が漏れ、怒りの炎となって溢れ出す。
それは慈乃の吐き出す地獄の業火だった。
口が裂けるほど大きく開く。
黒焔、地獄罰!
ゴゴゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォッ……!!
剣と剣を合わせた至近距離から、灼熱した呪いの火炎が浴びせ掛けられた。
みづきに回避できる余裕などない。
身体中が黒い炎に巻かれる。
「ぐあぁっ、あっちぃっ……!」
とっさに後ろへ飛びながら、目には目を歯に歯をとばかりに自分も火炎放射を繰り出して応戦する。
肺が熱く焼けるのは慈乃の黒炎を吸い込んだからか、自らの火炎による熱放射ゆえか。
『対象選択・《シキみづき》・効験付与・《レッドドラゴン・ファイアーブレス》』
みづきのすぼめた口から烈火の息が轟々と噴き出された。
次の瞬間、真っ赤な炎と黒い炎は真っ向ぶつかり合った。
大きな火炎の爆発が起きる。
但し、火勢は明らかに慈乃の黒い炎のほうが強い。
拮抗して見えた火の勢いは、すぐさまみづきのほうへと怒濤の如くに流れた。
「ちくしょうっ……!」
無念の声をか細く残し、みづきの姿は漆黒の爆炎の中に消えた。
黒い大渦が天に向かって荒々しく伸びて散りゆく。
やがて立ち込めていた煙が消えると。
「ふん、しぶとい」
吐き捨てる台詞の慈乃の口から、未だ収まらぬ黒い残り火が吹いた。
煙の中から健在な姿のみづきが現れる。
「アイアノア、ありがとう……」
少々と焦げたみづきの傍ら、隣立つのは金色の光に包まれた幻想の乙女の姿。
呼び出した概念体のエルフ、アイアノアが後ろ手にみづきを庇い雄々しく在る。
発動させた風の魔法、エアフローカーテンが火勢を逸らせていた。
炎を炎で散らし、余波を風の魔法で何とか防いだ。
苦肉の戦法である。
心配そうな表情を浮かべたまま、アイアノアの姿は空気に溶けて消えていった。
「小癪な真似を。それで凌いだつもりですか?」
冷酷に言い放つと、慈乃はゆっくりと血に飢えた長刀を一旦鞘へと納めた。
そして、刀の柄を掴んだ手はそのままに姿勢を低く構える。
再び、心を抉るほどの殺気を全身から隠すことなく発した。
手を止める気などない。
「今度は先ほどのように優しくありませんよ」
それは居合抜きの構えだ。
気合いと共に鞘から剣を抜き放つ必殺の一撃である。
みづきは慈乃の居合い抜きを一度見たことがあった。
八百万順列六位の死の神、御前の操る大化け物、千腕がしゃどくろを事もなげに葬った絶技たる抜刀術。
──鬼哭ノ一閃だ。
その剣の速さは当然、先ほどよりも数段速く、首を狙ってくるとわかっていても防御できるような速さでも切れ味でもない。
十中八九、受ければやられる。
しかも神通力が残り少なく、日和が目を回しているので新たに氣を練るのも無理ときている。
まずい、逃げるしかないか、とみづきが焦燥しているそんなとき。
「慈乃、もう十分だ。争いをやめなさい」
極限に高まった緊張感の最中、不意に多々良の声が凜と響いた。
いつの間にそこにいたのか慈乃のすぐ横に立ち、殺気立つ背中にぽんと無造作に手を置いている。
牢太の後ろに庇われていたはずなのにその姿は消えていて、何の気配も感じさせない動作で神出鬼没に現れたかのように見えた。
「多々良様、お止めにならないでくださいませ。このような下郎、のさばらせては多々良様の聖地が穢れます。この場でひと思いに切り捨てるのが上策でしょう」
ただ、慈乃はここでやめる気はない。
忌むべきみづきをここで屠りたい。
多々良を振り返らず、柄を握る手に力を込める。
「慈乃、私の言うことが聞けないのかい?」
尚も静かなる男神の声が通る。
この時、慈乃は制止する多々良の顔を見て、冷静に事を考えられれば或いは手を止めることができたかもしれない。
普段の賢明な副官の通り、穏便にこの場を収められたことだろう。
「多々良様のためでございます。みづきめはここで討ち倒しますゆえ……!」
だが、頭にすっかり血が上ってしまった慈乃は失念をしていた。
滅多に心を荒げない優しい男神にも、いざというときに見せる物恐ろしい、寒心に堪えない憤怒の顔がある、ということを。
「──慈乃、私はやめなさい、と言ったよ」
多々良の冷えた声が空間を走り、張り詰めさせた。
瞬間、世界が一変していた。
もうそこは神社の境内などではない。
ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……!
夕暮れの空の橙色は消え、赤黒く濃い煙が頭上を覆い尽くしている。
辺りは紅蓮の炎と熱風吹き荒れる、赤く燃える世界に変わり果てていた。
地面から噴き出す揺らめく大炎と、赤熱した巨大な鉄の塊に囲まれている。
みづきや日和、慈乃、冥子と牢太を取り巻く空間は製鉄の炉へと変じていた。
「うおっ、何だっ!? 急に世界が変わった……! ここ、窯の中かっ?!」
瞬きする間もなく一瞬で環境が変わり、みづきは汗を吹き出して驚いた。
炎の熱さは幻ではない。
ちりちりと服と身体を焦がしていく。
「う、熱いのじゃ……。いったい何事じゃ……?」
気絶していた日和が、あまりの熱さに冥子の腕の中で目を覚ました。
抱えられたその格好のまま、何気なく視線を上げた。
「うぎゃあーっ!! ゆ、許しておくれなのじゃーっ!!」
そして、また気絶してしまいそうなほどの衝撃に驚き、阿鼻叫喚に騒ぎ散らす。
同じように上を見上げる冥子も牢太も、畏れに表情を歪めて言葉も無い。
僅かに遅れて顔を上げた慈乃は赤い目を見開き、引きつった悲鳴をあげた。
「あっ、あああああぁぁっ……! た、多々良様ぁっ……!」
熱く燃える炉の底から空を見上げた。
するとそこには巨大なる神の姿が在った。
鍛冶を行う白装束を身につけた半裸姿の──、山のような大きさの多々良がそびえ立っていた。
手には鋼鉄を鍛える大槌を持ち、両手で高く高く振りかぶっている。
口許の穏やかな笑みは消え去り、眼帯をしていないほうの見下ろす眼は怒りの炎を噴き出していた。
ぎょろり、と熱くも冷たい目線を眼下の者どもに向ける。
「我が領地にて神意に背く半端な者たちをどうしてくれようか。赤く熱して強かに打ち据えてやろうか。さすれば、不純は鉱滓の如く火花と散って正しく鍛えられるであろう。善き美鋼たるか、はたまた悪しき屑鉄たるか、汝らはどちらか?」
低く太い、凄みの利いた恐るべき男神の声が、熱風を震わせてこだまする。
みづきたち一同は恐怖に凍り付き、立ち尽くした。
身じろぎ一つできない。
そして、多々良は巨大なる槌を、容赦無しに愚か者たちに振り下ろす。
「うわあぁぁっ……!?」
悲鳴をあげ、為す術もないみづきは今際の際に思った。
──考えが甘かった! 本物の神様なんて俺にどうにかできる相手じゃないっ!
視界を埋め尽くすほどの槌が、轟音と共に目の前まで迫り、さながら金床の上の鉄材となったみづきたちは、ぺしゃんこに叩き潰されて一巻の終わりとなった。
額面通りの神威、天眼多々良の鉄槌である。
カアアアアアァァァーーンッ!!
鋼材を打つ非情なる金属音が、果てなき異空間の彼方まで響き渡った。
荒神が如き怒れる男神の前に、みづきには何をどうすることもできなかった。
 




