第179話 慈悲無き取りこぼし2
「待ちなさい、みづき」
そう大きな声を出した訳ではない。
常日頃の声量と変わりはなかった。
しかし、その一言でみづきは暴れて声を荒げるのを止め、日和も同じくだった。
声の主の隣に座る慈乃も、瞑目した顔を向けて少し驚いて見えた。
それは他でもない多々良の鶴の一声であった。
確かな上位の男神による声で、みづきと日和の喧噪ははたと止まった。
座ったままの姿勢で振り向き見ているのは、みづきのすぐ隣の多々良の顔。
みづきの驚く顔を見ながら、変わらずの穏やかな口調で言い始める。
「今、禁を犯せば、みづきだけでなく日和殿にまで責が及ぶ。シキの不始末はその主たる神の不始末となるんだ。そう日和殿を困らせるものではないよ」
それは多々良からの緩やかな叱責であった。
ぎくりとするみづきを見つめつつ、従容たる言葉は続く。
「日和殿と、何よりみづきの使命のためにもそれは越えてはならない一線だ。自重してはもらえないだろうか。これは私からの願いでもある」
どこまでを見通しているのか不明だが、眼帯に隠れた神の眼にはみづきの抱える背景が何となく見えているかのようだ。
日和の事情はさて置き、関知されるはずのないみづきの目的が多々良には知られている節があった。
しかし、それとこれとは話が別だ。
今回のまみおの命運を掌握する張本人はこの多々良であることに変わりはなく、思わずみづきは気色ばんだ。
「優しそうに見えて酷いことをしやがる。俺や日和にもあんな仕打ちをするつもりかよ。良い神様に見えて、その実は上っ面だけじゃねえか。順位が上だから、強い神様だからって好き放題していい訳じゃないぞ」
それは大変に恐れ多いみづきの暴言だったのだろう。
多々良の一言で場が静まり返ったのなら、みづきのそれは場を凍り付かせた。
「みっ、みづきっ、馬鹿者ッ! よすのじゃっ!」
愕然とする表情の日和がひきつった声の悲鳴をあげるのと同時に、怒りに燃える慈乃がみづきの前に堂々と立ちはだかった。
凄まじい威圧が見下ろしている。
「痴れ者が……! 多々良様への無礼な発言、決して許すまじ。この場でひと思いに手打ちにしてくれましょう」
腰にある長刀の柄に手を掛ける慈乃に迷いはない。
次の瞬間には鋭利の剣が一閃し、みづきの首は宙に飛ぶに違いない。
ただ、そうはならなかった。
気に障った様子のない多々良の声がそれを制した。
「慈乃、控えなさい。私は構わないよ。みづきと話がしたいんだ」
慈乃はしかし、と漏らして不服そうに多々良を振り向く。
主への非礼を許し難いと逡巡するが、暴れるみづきとは対照的に慈乃はおとなしく従って下がった。
忠実な従者を笑顔で見送ると、多々良は再びみづきの顔をじっと見つめる。
「──酷いこと、か。みづきの言葉は耳に痛い。この先、みづきと日和殿にも同じように刃を向けなければならないと思うと胸が痛む。悪趣味な見世物と言われれば何も言い返せないのも本当だね」
ちらりと試合会場のまみおと冥子の姿を見る。
今もまみおの劣勢は続いていて、金砕棒で叩き伏せられながら決死の抵抗をしている最中だ。
どう抗おうが冥子に一矢報いることはできそうにない。
見世物とすれば趣味が悪いどころか、見るに堪えない惨状だ。
「みづき、一つ聞かせてくれないかな」
高遠なる神の多々良は、みづきの心に問う。
今は荒ぶり、そして迷う気持ちに直に触れる。
「みづきもまた強き者だ。であるからこそ見えた境地があるのだろう。今のみづきが感じている憤りは、勝者がゆえの傲慢なのではないかい? 決してそうではないと、言い切れるかい?」
「なんだって……? そんなこと──」
すぐにみづきは言い返そうと思った。
しかし、何故だか言葉が詰まる。
心に何かわだかまりがある。
多々良はその迷いを汲み取り、一度ゆっくりと頷くとさらに質問を投げた。
「私がやらずとも、まみお殿の討滅は遅かれ早かれと誰か他の神が果たすだろう。言葉を借りるけれど、みづきとてまみお殿を「弱い奴」であるとし、標的に定めて試合を挑んだのではないかな?」
「うっ、そ、それは……!」
痛いところを突かれ、みづきは苦々しく表情を歪めた。
定石通りだと調子付き、低位な順列の神を相手取って順当に勝ち上がろうとしたのは図星だ。
もう何となく自分が何故こんなに苛立っているのか理由がわかってきていた。
みづきの返答を待たず、多々良は先を続ける。
「日和殿とみづきの順列は末席だった。だから次に低い順列のまみお殿との戦いが起こった。まみお殿も苦しい状況で、自らより低位の相手からの挑戦は望むところだったのだろう。双方の選択は正しかったよ。必然たる試合の運びだったと思うし、秩序ある正統な争いが行われた」
八百万順列の末席と準末席の戦い。
天神回戦を勝ち上がろうとするのなら、その組み合わせでの試合は当然の流れであった。
みづきだってそう思っていた。
困惑する表情のみづきに対して、多々良の表情は憂いの笑顔。
「そして、みづきが勝利する結果に至った。まみお殿が敗北する結果と同じくね」
「……何が、言いたいんだよ……?」
呻くように、やっとの思いでみづきが問い返すと、多々良は短い息を吐いた。
そして、俯き加減に前へと向き直り、自嘲の言葉を漏らす。
「いいや、私には何をも言うことはできない。何の答えも持ち合わせてはいない。天神回戦が始まり、無秩序な戦いは無くなったけれど、私たち神は結局のところ、残酷な争いを愚かにもやめることができてはいない」
眼下で繰り広げられる惨憺たる試合を眺める目はどこか遠い。
眼帯に隠れた神の眼に映るのはまみおの悲壮な闘争心か、みづきの心の葛藤か、果たしてそれとも。
「この有り様をあるがままに受け容れなさいとは言わない。そして、みづきがこの結果に責任を感じる必要もない。これは、私たちとまみお殿の問題なのだからね。良くない結果を、自分が関わったがゆえのことだと気に病む必要はないんだ」
多々良にはみづきが何に腹を立て、何に恐れを抱いているのかが見えているようだった。
みづきが思い知らされるのは、心にある負い目である。
この天眼多々良という神は、やはりとてもではないが安く見積もれるような存在ではない。
遙か高みに在る、大いなる超常の神様であった。
「しかし、それでも心を鎮めてよく見ておきなさい。ともすれば、今のまみお殿は明日のみづきたちの写し鏡となるやもしれない。みづきが負ければ今度は日和殿がその憂き目に遭う。それだけは間違いない」
静かだが凄みのある言葉に、みづきは息を呑み、日和は肩をびくっと震わせた。
優しく穏やか、善良な聖なる神だろうと多々良は第二位の強き男神であった。
「天神回戦は終わらない。ならば、私たちは戦うしかない」
刹那の静寂が流れた。
空気が言いようもなく張り詰めている。
そんななか、まみおの悲鳴が響いて聞こえた。
打たれても打たれても絶対に負けを認めず、何度も何度も起き上がっている。
神々の戦いは果てしなく続いていく。
と、多々良はみづきに振り向き、再び問いを投げ掛けた。
もうその表情は柔和な微笑みを取り戻している。
「──それとも、みづきにはこの闘争の円環から抜け出せる妙案があるのかい? 少なくとも、悪趣味な見世物などをやらなくていいようにするための」
「……」
そんな問い、みづきには答えられるべくもない。
無論、多々良にもそれはわかっているだろう。
答えのわからない問いの真意は何だったのだろうか。
単なるみづきを諫めるための方便だったのか。
正真正銘の高等なる男神が抱える純粋な悩みであったのか。
多々良の心は誰にも見通せない。
答えを返せず困り果てるみづきを間もなく見かね、多々良は頭を下げた。
「すまない。我々神にさえ答えの出せない問題をシキのみづきに問い質しても詮の無いことだったね。どうか忘れて欲しい」
慈愛の笑顔を浮かべ、それでいて申し訳なさそうにしている。
みづきという迷えるシキを思い、本気で神々の世の現状を儚んでいる。
「みづきは優しい子だ。まみお殿の背景にある事情を垣間見たのだろう。だけど、事情を抱えていない神などいない。私も日和殿もなべて同じだ」
そして、みづきがまみおにしたことと、それを気にしている心に触れる。
諭すように、未来ある悩めるシキにせめてもの気遣いを送る。
「私はみづきが試合う相手に手心を加えることに、何らかの口を挟む気はないよ。でもその結果、どんなことが起こり得るのかは覚悟しなければならない。まして、悔いなど残すようなことはあってはならない。天神回戦は遊戯の場ではない。神々の闘争の儀式なんだ。それをゆめゆめ忘れてはいけないよ」
それは多々良自身が長らく天神回戦を戦い、達した結論のようであった。
すべてを受け容れ、成るべくして成っていった無情の時の中で、ただひたすらに神として責務を淡々と果たしていく。
多々良は最後に言った。
「神はすべからく、眷属であるシキもまた、神と同様の矜持を求められる。日和殿のためを思うなら尚のこと強くあって欲しい。みづきとは長い付き合いでありたいと願っている。──いいね?」
「ぐっ……!」
言い聞かせようとする多々良に、みづきは口をつぐんで返事をしない。
日和のためを思い、自分の使命のことを考えればここで荒事を起こすのは間違いでしかない。
しかし、後ろ暗い苛つきの原因を思うと、聞き分け悪く八つ当たりをしてしまいたい衝動に駆られる。
──俺は迷ってる……。いや、怖くなったんだ。日和がまみおを見下して、馬鹿にしたときに感じたのは恐怖だったのか。天神回戦のルールに絡め取られて、結局は神殺しに加担してしまう。目的のためとは言え、無関係な神様を手に掛けてしまうことがこのうえもなく恐ろしかったんだ……。
多々良の言う覚悟を決めるのなら、試合に勝利し、時として神の滅びを受け容れなければいけない。
自分と日和を生かすため、まみおのような神が眠りにつくのをおとなしく諦め、見送っていかなければならない。
それは、信心深く育ってきたみづきにとって、とても辛い仕打ちであった。
「……」
ただ、そうして苦悩するみづきの顔を見つめる多々良は悲しそうであった。
迷い子のシキ一人に救いを与えることもできず、行き詰まった天神回戦の行方に答えを見出せずにいる。
多々良もまた、それを憂い、悔やんでいる、そんな風に見えた。
「まみお……」
みづきは試合場でいたぶられ続けているまみおの傷つく姿を見やる。
胸に去来するのは心の迷いが生じさせる戸惑いの渦。
──俺は間違ってはいない、と思う。地平の加護の新しい力に目覚めた俺は、確かに多々良さんの言う通りに強く在った。だからまみおに勝てたんだ。強いのなら、弱い相手の運命を左右させられる自由が発生する。俺は情けを掛けるのを選んだ。まみおにとどめを刺すのを躊躇ったからそうした。そうすることが可能だったんだ。だけど、その結果に弱肉強食の摂理を突きつけられる羽目になってしまった……。
自分の判断は概ね正しかったと思う。
神々の性質を鑑みれば、天神回戦の攻略法としては妥当だったはずだ。
あくまで、理屈のうえででは。
──天神回戦のルール上、上位に行くためには戦って勝つしかない。勝者は敗者に何をしてやれるのか。最後まで正々堂々と戦い、潔い最期を与える覚悟を強く持つことがそうなのか。それとも同情をして歯牙に掛けないのがそうなのか。どちらが正解でどちらが誤りなのか……。そんなこと、俺にはわからない……。
「……けど、物凄く嫌な気持ちになるのは紛れもない事実だ……」
みづきの心から零れた苦悩を多々良は聞いていた。
日和も聞いていた。
その怒りと悲しみを知りながら、神として何の言葉も掛けてやれず、救うこともしてやれないもどかしさに沈痛な面持ちを浮かべていた。
勝者には栄光を。
敗者には無慈悲なる現実を突きつける。
救いの手から零れ落ちた先に、さらなる救いは用意されてはいない。




