第173話 龍脈の女神と、蜘蛛切りの剣士
むかしむかしの大昔。
人間の集まりがようやく国として体を成してきた頃の古い時代の話である。
とある地方の大地を巡る氣の流れ、龍脈には力ある地母神たちが宿っていた。
日和と夜宵、創造と破壊を司る姉妹の女神である。
龍脈とは、地中を流れる氣の道のことで、大地の氣は山の尾根伝いに流れているとされていて、その道が龍のように見えることからその名で呼ばれている。
そして、龍脈の節目に存在し、大地の氣が地上に噴き出す地点のことを龍穴と言い、その一帯に住めば人々は繁栄を約束されるのだという。
日和と夜宵が宿る御神那の大山、その龍脈と龍穴の上には由緒ある古社、女神社が建立された。
尽きない大地の氣の加護に包まれ愛された、天変地異とは無縁の霊場からすべては始まった。
超自然、大地の女神を祀る大地信仰の古代の人々が住まう麓の町は、その加護を受け、永久に栄える幸福に恵まれていた。
誰しもが女神たちの庇護の下、安寧の時を過ごしていけると信じて疑わなかっただろう。
遙か後世の三月たちの町、天之市神巫女町の前身となった人間の都である。
しかし、正統な女神への信仰を由としない邪悪なる者たちもまた、同じこの大地に巣くっていた。
聖なる神を敵視し、龍脈の氣に群がる人々を忌み嫌う。
彼らの名は「蜘蛛」という。
それらが人間だったのか、はたまた人外の者であったのかははっきりしない。
太古の昔に、土蜘蛛と呼ばれる存在があった。
帝たる皇室に従わない当時の土豪や豪族の蔑称であり、又は各地に伝説として残っている蜘蛛の妖怪、怪物の類いがそれである。
神巫女町の原型となった、太古の女神社とその麓の町を狙う「蜘蛛」と、伝説の土蜘蛛が同一の存在であったのかどうかは不明だ。
そして、彼らは大地の女神と同等の神格を持つ、男性の邪神を崇め祀っていた。
それため、女神信仰を謳うこの地の人々を異教徒とみなして憎んでいたのだ。
大地の女神たる日和と夜宵が居て。
敵対する蜘蛛たちの邪悪なる男神が居た。
三月はそれを聞き、思わず声をあげた。
「蜘蛛の、神様だって……!?」
「うん、身近なところに手掛かりはあったんだ。灯台もと暗しだよ」
天井には雛月が再現する、簡素化されたイメージ画が映っている。
姉妹の女神の絵と、それに対を成すように在る蜘蛛の絵だ。
それは、天井の平面を利用してのスライドショーみたいだった。
「大地の女神様のことは何となく知ってたけど、神巫女町に蜘蛛の神様が祀られてたなんて初耳だ」
「一般的には知られていない、古い時代の忘れられた神なのかもしれないよ。ともかく、じいちゃんには感謝しないといけないね。当の孫には馬の耳に念仏だった訳だけど、お陰で物語の核心に近付くことができるんだから」
「じいちゃん、当時は難しい話でよく聞いてなかったけど、今は本当に感謝だ!」
「現金だなぁ、三月は。このお伽噺が何に繋がっているのかをよく考えてみてね。これが今回公開してあげられる情報の一つなんだから」
盛り上がる二人の夜話が朝陽を救い、三月の人生の修正に繋がる。
日和と朝陽の関係を明らかにし、三月の故郷と神々の世界との結び付きに気付いたことで条件は達成された。
祖父の昔話からとうとう蜘蛛の存在に辿り着く。
雛月が三月の過去に触れた時に、大事なことだと言ったのは正にこれであった。
佐倉剣藤が三月に話した昔話はこうである。
蜘蛛と呼ばれる魔の者たちが崇めていた、額面通りの蜘蛛の神は龍脈の姉妹神の力を欲して、常ながら妬みと羨みの目を向けていた。
龍脈の力のみならず、容姿の美しい女神姉妹の身も心も手に入れたいと虎視眈々と狙っていたのだ。
おとなしく従うのであれば、自らの眷属に加えて可愛がってやってもいい。
傲慢で奔放な蜘蛛の神は、当然のように女神たちが軍門に降るものだと考えていたことだろう。
しかし、そんなわがままが聞き入れられるはずもない。
強大な神通力を持つ高貴な女神たちは蜘蛛を一切相手にせず、ちょっかいを再々と掛けられても歯牙に掛けることすらしなかった。
そんな女神姉妹に腹を立てた蜘蛛の神は、やがて実質的な嫌がらせを始める。
空を埋め尽くすほどの赤黒く分厚い雨雲を呼び寄せて、龍脈の地に自分の劇毒を含ませた死の雨を降らせた。
来る日も来る日も雨は止むことなく。
毒の水が染み込んだ大地は腐り、草花や木々は枯れ、田畑は荒廃し、住んでいた人々は次々と病に倒れていった。
当然、龍脈の女神たちは怒り狂った。
大地を激しく揺らし、山を噴火させて火の玉の雨を国中に撒き散らし、蜘蛛の神とその手先たちとの戦いを始めた。
傍若無人な蜘蛛の男神と、怒らせると恐ろしい大地の女神姉妹。
蜘蛛の男神は支配欲に駆られたうえに痴情にまみれる。
女神の姉妹は龍脈の加護を穢され、堪忍袋の緒が切れて激怒の炎を燃やした。
かくして神同士の戦争が勃発し、龍脈の大地は荒れに荒れ、憐れな下界の人々は大変に困窮する事態に見舞われてしまったのである。
そこまで聞いて、三月は渋面にため息を漏らした。
「うへぇ、そりゃいい迷惑だな。神様たちの大喧嘩に巻き添えを食った昔の人たちはたまらんかったろうな。それでそれで、その後はどうなったんだ?」
「その食いつきの良さが少しでも子供の頃の三月にあったら良かったのにね。気を良くしたじいちゃんが、もっと色々なことを聞かせてくれていたかもしれないよ。年寄りの話は聞いておくもんさ」
「うむぅ、意地悪言わんでくれよ、雛月……」
「ごめんごめん。じゃ、続きを話すね」
ちょっとしたお説教の雛月だが、秘密の情報を解放できるのは抑圧されていた心の疼きが晴れるみたいで何だか楽しそうでもあった。
語り部の雛月による神話は再開される。
神々の争いは収まることを知らず、戦いは激化する一方であった。
途方に暮れた人々は結束し、悪さを働く蜘蛛の神とその眷属共を退治する道へと動き出す。
蜘蛛の神の毒による被害だけに留まらず、祀る対象であるはずの大地の女神たちが起こす天変地異も、深刻な影響を都や人々に及ぼしていたからだ。
最早見ているだけでは済まないし、埒も明かない。
人々は女神社の神事を担う神官に協力を仰いで、女神姉妹とは別の鍛冶の神を祀り上げ、蜘蛛の神と眷属を討つ神剣を数多く鍛え拵えた。
神剣は人間たちの中でも精鋭たる剣士たちに授けられ、万全を期して蜘蛛の神の軍団との戦いが開始された。
戦いは苛烈で凄惨を極めたが、剣士の技と神剣の鋭さは凄まじく、蜘蛛の眷属は瞬く間に倒され、とうとう蜘蛛の神自体をも調伏するに至ったのであった。
蜘蛛の神は、女神たちが怒りと共に燃やした火山へと追い詰められ、神剣の刃を嫌というほど浴びせられると、灼熱の溶岩がたぎる火口へ落ちて最期を迎えた。
燃え尽きる最中、蜘蛛の神は憎悪の呪いを大地に残す。
戦いが終わってもなお、地中深くにまで染み渡った蜘蛛の毒は強い呪いとなって残り、火山の噴火や地震といった自然災害を引き起こすようになった。
滅んでも大地に害悪を及ぼす蜘蛛に、龍脈の女神たちの怒りも収まりはしない。
この呪いを鎮めるため、女神姉妹に仕える二人の巫女が祈りを捧げる。
日和と夜宵、陰と陽の女神にそれぞれ、陰と陽の双子の巫女が祈りを捧げる。
荒ぶる地母神の怒りをなだめ、邪悪な蜘蛛の神の魂を慰める。
御神那の山に開く龍穴の氣の暴走を抑え、この地に常しえの平穏をもたらすために二人の、──双子の巫女は鎮守を願い、大地の女神を祀っていくようになる。
巫女の家の名は、神水流、といった。
「そうして、戦いの破壊が終わり、繁栄の創造が始まり、龍脈の地の人々は永くの平和な時代を過ごしていったんだそうさ。めでたしめでたし、と」
「神水流、その巫女様……。それが、朝陽と夕緋のご先祖様って訳か」
ひとしきり話し終えた雛月は満足そうに笑っていた。
三月は天井に映し出されている双子の巫女のイメージ画を眺めている。
「この昔話にはもう少し続きがあってね──」
雛月の声に合わせ、スライドショーの中の巫女の周りに屈強な男たちが集まってきていた。
揃って地に膝をつき、恭しく頭を垂れる。
「蜘蛛の神を調伏した剣士たちは「蜘蛛切りの剣士」と呼ばれ、人々からは英雄視されるようになった。剣士たちは、神水流の巫女と共に龍脈の大地を守っていくと誓いを立てた。その龍脈の大地というのが他ならぬ神巫女町であり、双子の巫女が古代より女神を祀ってきた神社こそ、今の女神社という訳さ」
「蜘蛛切りの剣士……」
天井を見上げて呟く三月だが、不意に映し出されたそれを見て露骨に嫌そうな顔をした。
そこには蜘蛛の神のイメージ画と、パンドラの地下迷宮深奥で見た蜘蛛の着物の男の姿があったからだ。
雛月は構わず続けた。
「お伽噺の悪い蜘蛛の神様と、日和たちが戦っていた蜘蛛は同じなのかもしれないけど、問題のあの蜘蛛の着物の男が同じ存在だと断じるのは早計だ。もう少し調査を進めよう。真実を突き止めれば、ぼくの中の秘された情報がさらに開封されるし、こいつを洞察することも可能になるだろうからね。逆にこっちから情報の網で絡め取ってやろうじゃないか」
獲物を糸で捕らえる蜘蛛のお株を奪い、三月の側から地平の加護で補足する。
蜘蛛の神と蜘蛛の着物の男が同一の存在だった場合、それは神を相手取るということを意味し、ただの人間の身でしかない三月では到底太刀打ちすることは不可能だろう。
しかし、地平の加護たる雛月は神殺しをやる気満々でいる。
ダークエルフのフィニスにしろ、危険な敵との戦いは避けたいところだが、多分そううまくはいかないだろう。
いずれパンドラの地下迷宮の底に辿り着き、蜘蛛の着物の男とフィニスと対峙する時が来る。
想像すると胃が痛くなった。
ただ、そんなことよりも三月は不安に思うことがあった。
──蜘蛛の神様がまさにこいつだっていうんなら、どうしてそんな危険な奴と夕緋が一緒に居たりするんだ? 本来、神水流の巫女と蜘蛛の神様は敵同士のはずだろ。嫌な予感しかしないな……。
夕緋は蜘蛛の着物の男をしっかり認識していて危険だと言っていた。
もし自分のそばで、三月がその姿を見たり感じたりするようなことがあればすぐに知らせて欲しいとも。
霊的な怪しげなものにはめっぽう強い夕緋だが、相手が神ともなれば対処は困難を極め、下手をすれば身を危険にさらすことにもなりかねない。
現に今も進行形であいつは夕緋の周りに出没をしている。
三月は急に夕緋のことが心配になってきた。
自分があちこちと異世界の旅をしているこの瞬間にも、もしかしたら夕緋が危険な目に遭わされているのではないかと思い、気が気ではなかった。
頭にふと浮かんだのは不吉のイメージである。
『三月……。助けて……』
それは両手両足を粘つく蜘蛛の糸で拘束され、ぼろぼろの衣服と傷ついた身体で宙づり状態の、助けを求める夕緋の悲惨な姿だった。
ベージュのリブニットの胸元は破かれ、白い下着と膨らんだ素肌が覗いている。
黒のロングスカートは縦に幾筋も裂かれて不自然なスリットをつくり、痛ましくも美しい脚線美を晒していた。
『あっ、イヤ……!』
そんな夕緋の隣に蜘蛛の着物の男が立っている。
あろうことか、夕緋の顎に手をやり、無理やりぐいっと持ち上げて自分のほうへ顔を向けさせた。
まるでそのままキスでも迫るか、首筋に牙でも突き立てるつもりかのように。
夕緋は薄目を開けた弱々しい表情で、視線を逸らすしかできなかった。
「夕緋っ、くそっ……!」
三月は怒りの情動に身体中を強ばらせた。
大事な夕緋にひどい目に遭わせようなど許せない。
これはあくまで想像上のことだが、現実のものとなりかねなかった。
ただしかし。
単に夕緋を心配する気持ちが見せる心象だったものの、思い描いたあられもないイメージは見事に天井のスクリーンに映し出されてしまっている。
お陰で雛月には白い目で見られる羽目になった。
「こらこら、三月。何を勝手な妄想を捗らせていやらしいことを考えてるんだい。やっぱり三月はエッチだなぁ。まったくもう、けしからんね」
「ばっ、馬鹿っ! これはそういうんじゃないって! お、俺は純粋に夕緋のことが心配でっ……。ああもう、早くこれ消してくれっ……!」
雛月は慌てふためく三月をやれやれといった感で見て、天井に意識をやると映っていた夕緋の憐れな姿ごと映像は消えてしまった。
薄ぼんやりしていた光が消え、心象の部屋に再び静寂の闇が戻った。
「三月、夕緋が心配ならわかってるね?」
再びころんと横向きになり、雛月は三月の鼻先まで顔を寄せた。
暗くなった部屋でも雛月の瞳の奥にある爛々とした光がよく見える。
「引き続き、日和から蜘蛛の神に関する情報を探って欲しい。とかく、蜘蛛の神と蜘蛛の着物の男が合致するのかどうかはっきりさせないといけない。声、姿やらの身体的特徴、どんな力を持っているのか、何でもいい。どんな些細なことだろうと何かしらの情報を掴めれば、こっちにはパンドラの奥底で命懸けで入手したあいつの記憶があるからね。それと照合さえすれば、同一の存在かどうかはたちどころに判明するだろうさ」
甦る辛酸の記憶は蜘蛛の着物の男に食らった、正体不明な精神攻撃だった。
頭を割られるかと思うほどの苦痛だったが、それと引き換えに雛月がしっかりと洞察を進めてくれていた。
後は確たる情報を得るだけである。
と、雛月は人差し指を唇に添え、念押しをして言った。
蜘蛛について調べるに当たり、三月に注意を払うよう釘を刺して促す。
「但し、日和に蜘蛛の神のことを尋ねるのはくれぐれも慎重にね。あの険しい様子からすると、下手を打つと三月の立場が危うくなりかねない。出方を見ながら波風を立てないようにうまく聞き出そう。そういう訳だからよろしくね、三月」
「結局俺任せかよ、気軽に言ってくれるなぁ」
げんなりとため息を吐く三月だが、雛月の言うことには賛成である。
蜘蛛の名を出した時の日和の豹変ぶりには驚かされたものだ。
「──そういや思い出した。日和に直接蜘蛛のことを聞こうって考えてもそんな気が起きなかったのは、やっぱり雛月が止めてくれてたからなんだな」
ついでに思い出したのは、まみおから日和の秘密を聞き出そうとして、直接聞けばいいだろ、と最もな突っ込みを受けたときのことだ。
何故か日和に聞こうとする気が失せてしまい、ひどく億劫な気持ちになった。
ふふんと鼻を鳴らす雛月は得意そうだ。
「まぁね、蜘蛛のことを知らないはずの三月が、急に日和の仇敵の話をし始めたら流石に不審がられると思ってね。予感は的中していたって訳さ」
姿なき心強い相棒は三月の願いを叶えるために最大限に気を利かす。
行動の自由に強引な干渉をしてでも使命の完遂を求め続ける。
手段を選ばず、操られているみたいでまだ気持ち悪さは残るものの、三月にもう雛月を疑う気は無い。
今となっては、その協力はこの上もなくありがたいものだ。
「何でも疑問に思ったことを聞けるのは三月の長所であり、短所でもあるからね。でも安心してくれ。その辺りはぼくがきっちりとサポートしてあげるよ」
「そっか、助かったよ、雛月。頼りにしてる」
頼られて顔をほころばせる雛月。
三月も笑っていた。




