第172話 奇妙な時間差
雛月は夕緋との再会にひどく懐疑的だった。
三月にも疑いを持つように促している。
「雛月、それってどういう意味……」
答えてくれずとも、聞かずにはいられない。
三月は声をあげようとする。
雛月は沈黙して三月を見つめ続けている。
そんな二人を取り巻いていた過去の映像が不意に消えた。
自宅アパートを俯瞰する空間は暗闇に落ちる。
代わりに、三月と雛月を薄ぼんやりとした光が照らしていた。
異様な光源の正体は、まるで電子機器の画面に映ったような羅列の数字群が見せる目障りな光だった。
そこには威圧的に大きくこう表示されていて、音も無く動きを続けている。
884Day 11Hour 34Min 41Sec
現れたそれらはデジタル式のカウントダウン表示であった。
三月は息を呑みつつ、声を絞り出す。
「これは……?!」
「──言うまでもなく、運命の日までのカウントダウンだよ。この世界の時間軸で残り2年と半年弱、というところだね。今後、意識を向ければ視界のどこかに映るようにしておくから目安にしておいてくれ」
そっけなく答える雛月。
ただ、さっきまでのぴりぴりと醸し出していた緊張感は消えていて、もういつもの感じに戻っているみたいだった。
「ふぅ……。余裕があるのかないのか微妙な数字だな……」
浮かんだ疑問を一旦は引っ込め、三月は何も無い空間に浮かび上がった不思議な数字を見てぼやいた。
2年と半年ほどとは、目先にまで期限が迫っているようで、まだそれなりな猶予があるようにも思える時間だった。
だから、三月は率直に感じたことを言った。
「とはいえ、あれだけぎりぎりで後がない、最後だって焦ってた割に、日和は長いこと天神回戦をやられずに粘ってたんだなぁ」
明日にも命運尽きる瀬戸際の日和だが、夜宵の破壊を迎える日まで随分と長い間があったものだと感心させられる。
にっちもさっちもいかない窮地に立たされていたというのに、よくも2年以上も持たせられたものだ。
いったいどうやって凌いでいたのやら、と思っていると。
雛月は冷徹に言い放った。
「──いいや、多分それはないよ。近い内に、2年半なんて掛からない内に、日和はやむを得ず試合に駆り出され、神通力を失うまで疲弊した挙げ句、無残にも討滅されてしまうことになる」
「何だって……? そりゃどういうことだ?」
驚いた顔で振り向く三月に構わず、雛月は先を続けた。
「日和はこの後も身代わりのシキを生み出すことを繰り返し、しぶとく生き残ろうとするだろう。でも、ぼくの見立てじゃ、同じ事ができるのは精々あと1回か2回が限度だろうね。三ヶ月を跨げない期限がある以上、シキを生み出せないなら自ら試合の舞台に上がらなければならない。そして、力を失った今の日和では到底試合に勝つことはできない」
ふぅ、と一つ息を切ると、雛月は三月のほうに視線をやった。
感情の読めない複雑な顔をして、わずかに潜めた声で問い掛けてくる。
三月の顔を見つめる雛月は大真面目な表情をしていた。
「日和は早々に滅んでしまうのに、何故か夜宵は破壊の神威をすぐに起こさない。そこにはいったいどんな理由があるんだろう。──三月はどう思う?」
唐突に妙な問題が浮上してきた。
夜宵が破壊を行うには日和との合意が必要だった。
合意が得られないのだから夜宵は日和を滅ぼそうと目論み、或いは滅ぶのを待っている。
日和による邪魔立てが無くなったのなら神威の発動は可能なはずだ。
しかし、どういう訳だか即遂行はされず、決して短くはない時間が運命のその時まで空白だったということになる。
当然、三月にその答えがわかろうはずもない。
「俺に聞くなよ……。そんなのは夜宵に直接聞いてくれ」
妙な間をつくって見つめてくる雛月に、三月は弱る思いに目を逸らす。
背けた顔のまま、目線だけを戻して問い返した。
「答えられんのだろうけど、一応聞いとく。雛月はその理由を知っているのか? いいや、この空白の2年半の間に何があったのか知っているのか?」
三月がそう聞くと、雛月は少しの沈黙の後に肩をすくめて困り顔で笑う。
おどけた風にお手上げの仕草をして言った。
「知っている、と言いたいところなんだけどね。残念ながらぼくも知らないんだ。正直言って、ぼくだって不可解に思っている。本当、困ったものさ」
妙なタイムラグが発生していた。
日和が滅んでから夜宵の破壊が起こるまでの空いた時間。
雛月の言う通り、そこには確かに不可解で何があったのかがわからない「間隙」があった。
現実世界の三月で言うなら、高校1年生の中頃から卒業する前後くらいまでの間の話である。
合理的に事が進んでいないのなら、何かしら事情があるのかもしれないが現時点でそれは全く不明だった。
それにどんな意味があるのかも同じく不明。
「まぁ、限りない時間を存在し続ける神様たちのことだ。ぼくたちの感覚で時間を測っても仕方がないことなのかもしれないけどさ」
不穏な空気に三月が言葉を失っていると、雛月は締めくくるように言った。
「但し、これだけは言える。このカウントダウンが終わるのを待たず、確実に日和は敗北の眠りにつくことになる。それは間違いない」
生み出したシキに三月がタイムリープで宿らずに、日和が試合に勝てないとなると、雛月の断じた結果はおそらく近い内に現実のものとなる。
それだけは何としても阻止しなければならない。
もうこうなった以上、三月のやるべきことは決まっているのだから。
「──さぁ、おさらいと現状の把握はこのくらいでいいだろう。戻ろうか」
無造作に伸ばした雛月の人差し指の先が三月の額にちょんと触れる。
すると、視界いっぱいに広がっていたカウントダウン表示が消えて暗闇が戻り、意識がすぅっと遠のいた。
どうやら、一旦は三月のアパートの部屋の、心象空間に戻るようだ。
その最中にふと思う。
おかしな言い方で惑わされるだけ惑わされた、夕緋に関する事柄について。
──雛月め、夕緋がいったい何だって言うんだよ。感動の再会に水を差すみたいな嫌な言い方しやがって。……仮に、また会えたのが偶然じゃなかったとしても、俺を想って捜し回ってくれてたなんて、俺からしたら感無量のことじゃないか。変な風に考えすぎなんじゃないか、まったく。
雛月は何を言いたかったのだろうか。
三月は怪訝に思うばかりであった。
だからもうそれ以上、夕緋について何かを問う気は起きなかった。
多分、聞いたところで雛月は答えないだろうし、あの様子からすると自分なりに考えておくように、とのお達しなのだろう。
フィニスと蜘蛛の男にしても、まだ三月の動向を勘付かれている訳ではない。
注意は必要だろうが、今はまだ警戒をするに留めておいても問題は無いはずだ。
「むぐ……!」
気がつくと、甘い匂いと柔らかな感触に顔面を包まれている。
今回の過去を見せてくれたのは、雛月の胸に抱き締められたことから始まったのだと今更思い出した。
悪い気はしないが、言うほどいい気もしない。
記憶を巡る旅は終わり、アパートの部屋に戻ってきていて、今回の雛月との逢瀬が始まったとき同様に、敷いた布団で枕を共にしている最中だった。
「朝陽の命を奪う「あれ」が起こるまでのタイムリミットはこれで理解できたね。それまでの間に、この破滅の運命を覆す条件を模索していこうじゃないか。タイムリープも、異世界渡りの旅も、すべてはこのときのためなんだから」
居心地悪そうな三月にお構いなしで、雛月はまったく調子を変えようとしない。
身動きのできない三月を抱き竦め、甘やかす風に頭をなでなでしている。
「あ、あの、雛月さん……」
「んん、何かな?」
「それはよくわかったから、そろそろ離して欲しいんですけど……」
「ふふっ、駄目駄目、まだ甘え足りないだろう? せっかくだから、もう少しだけぼくの胸でくつろいでいってよ。よしよし、三月はいい子いい子」
いつまで経っても解放してくれない雛月に、三月は力を振り絞った。
雛月の両肩を掴み、ぐいっと押して距離を放す。
やはりその身体つきは華奢で、か弱い女の子そのものだ。
圧倒的な力で三月を支配してくれれば、抵抗のし甲斐もあるというのにこういうところが始末に悪い。
「も、もう十分甘えさせてもらったよ……。いい加減に本題に入ってくれ」
「──やれやれ、つれないなぁ。朝陽のお願いを聞いてたみたいに、ぼくにも三月を好きにさせてくれてもいいじゃないか。ふふふっ」
「雛月ぃ……」
「冗談だよ。三月とのおちゃらけが楽しくてついつい調子に乗っちゃうんだ。それじゃ希望通り、次に三月がどうすればいいかの手掛かりを指し示そうかな」
そう言うと、雛月は三月の横にころんと仰向けに寝転んだ。
横と言っても、同じ布団に入っているうえ、肩と肩が触れ合うほどの至近距離ではあるが。
「さて、それじゃあ──」
ようやくにして雛月が語るのは、神々の異世界と三月の現実世界の因果が繋がる物語の根幹、神と人との昔話である。
それも太古の昔の──。
「明らかにすべきは日和と夜宵の神話の起源。三月の故郷に古くから伝わるお伽噺がその鍵を握っている。きっと、三月もよく知っているはずだよ」
「お伽噺……? 雛月、今はそんなことを話してる場合じゃ──」
「まぁまぁ、焦らないで。はやる気持ちはわかるけど、順を追って一つずつ進めていこうよ。朝陽を救うためにどうすればいいか、物語の因子を集めて三月が自分で道を切り開かなければならない。これはそのために必要なことだからさ。ね?」
「むぅ……」
さっきの不穏な様子はどこへやらで、添い寝する横目の雛月の顔は愛嬌たっぷりに笑っていて、そんな風に言われては三月も言い返せなくなる。
くすくす笑いながら、雛月は話を先に進めていく。
「まみおが言っていた話を思い出してみて。何がきっかけで天神回戦は始まることになったのかな? 彼はとても重要な証言をしてくれていたんだ」
早速と提示された情報は、化け狸の神、まみおの言葉の想起である。
見上げる天井をスクリーン代わりにして、どこかに映写機でもあるみたいに再び記憶が映し出され、その時の言葉がありありと再現された。
『日和様と夜宵様は、ある悪い神様とそりゃあもう馬鹿でっけえ戦いを繰り広げてたんだってよ』
『そんときの戦いがど派手に過ぎて、世の様子に憂いを感じた太極天様がお始めになったのが天神回戦っていう神様同士の武芸大会なんだよ』
『日和様と夜宵様と敵対してたのは、二人の女神様と同じ土地に密かに祀られてた古い古い神様でさ。確か名前は、や──』
敵対する悪神の名を言い掛けた直後、日和の怒りに触れてまみおの口は封じられてしまった。
惜しいところだったと雛月は残念がる。
「天神回戦が始まった要因になったと言われている、日和と夜宵の姉妹神と、同じ土地の出自のとある悪神が起こした規模の大きな神話の戦い。そこに未来を変える秘密があるとぼくは踏んでいる」
天井の映像の中で、まみおが日和の雷に打たれて悲鳴をあげている。
それを虚ろに見つめながら、雛月は独自のロジックを組み立てていた。
その信憑性は確かだ。
「三月の住んでいた神巫女町の土地の女神が、日和と夜宵だったということはすでに周知の事実だね。じゃあ、その仇敵だった悪神も無関係なんかじゃないと考えるのがごくごく自然な流れだよ」
「関係あるのか。俺たちの住んでた故郷と、神様の世界のいざこざが……うわ!」
言い掛ける三月の目の前に、雛月はまた急に顔を近づけてきた。
その表情は生き生きとしていて、正に真実に迫る探究心の権化たる地平の加護そのものである。
「大ありさ。ほら、覚えてないかい? 子供の頃、じいちゃんがよく昔話を聞かせてくれただろう? 生憎と三月はそこまでの興味はなかったみたいだけどね」
「うぅむ、あったなそんなこと……。じいちゃんには悪いけど、どんな話だったか記憶が怪しいなぁ。懐かしいって気持ちだけはしっかり覚えてるんだが、小学生の低学年の頃だからな……」
「大丈夫だよ、ぼくがじいちゃんに代わってまた話してあげる。三月が小さい頃に聞いた話だからね、ぼくもよく覚えてるんだ」
「お、おう、それは助かる……。だから、ちょっと離れようか、雛月サン」
またやんわりと雛月の両肩を押し返し、適度な距離に戻す三月。
雛月は残念そうな顔をしながら仰向けの体勢に戻ると、昔話を始めるのだった。
出し抜けにしゃがれた変な声を出すので吹き出しそうになったが。
「──みぃ君、これは大昔に本当にあった神様と人間とのお伽噺だ。将来、みぃ君が大きくなって、子供ができて、孫ができたら聞かせてあげなさい」
「じいちゃんの物真似はしなくていい……。一言一句再現しなくていいから雛月の言葉で頼むよ。朝陽の顔と声でじいちゃんの喋り方とかまた頭が混乱する……」
「あははっ、ちょっと似てただろう? それじゃ、ぼくが噛み砕いて話し聞かせるとしようか。仲睦まじい男女の寝物語のようにねっ」
「寝物語は余計だよ……」




