第170話 運命の分かれ道2
■天眼多々良と日和と夜宵
「このようなみすぼらしい場所にご足労すまぬ。──多々良殿」
「構わないよ。私を招いてくれたということは、件の約束の話、受けてもらえると判断してもいいのだね」
今度の場面は日和の神社に、天眼多々良が訪れている時のものであった。
三月が復活を願う前で、神社はぼろぼろの廃墟同然だ。
あばら屋のように痛んだ拝殿舎の腐りかけた板間にて、二人の神が向かい合って座している。
座る座布団は生地が破れて木綿の綿がはみ出していた。
高位の神が在るべき場所には相応しくないだろうが、多々良は特に気にした様子は無い。
「日和殿にとって、屈辱的且つ苦渋の選択だということは重々と承知しているよ。だから私も誠意を持って事に当たろう」
多々良に相対して座る日和は、力を無くした小さく縮んだ子供の姿である。
そんな弱った女神に、高位の男神は調子を変えずに情け無用な宣告を下す。
「天神回戦の舞台にて日和殿を討滅し、眠りについた後を祀り、その領地も含めて私の庇護下ですべからく管理と世話をしよう。だから、安心して悠久の時を心静かに過ごしていて欲しい」
「……私が事切れるであろう最後の試合に、シキではなく私自身が出場して、最後まで戦うことがその約束の条件、じゃったな……」
日和は伏した顔で、黒ずんだ床に視線を落としたままだ。
日和亡き後、神の魂の在処を守り、決して廃れさせることなく祀っていくと多々良は申し出る。
その代わりに、神通力が底をつくまで戦い、決着を付けさせて欲しい。
甘んじて敗北の眠りを受け容れて欲しい、と言っている。
「決して悪いようにはしないよ。敗北して苦しい思いをするのは一瞬の内に済ませよう。後は安らかに眠れるよう手厚い配慮をすると、私の名において約束をする」
多々良が何を考えてそんな話を持ちかけてきたのか理由は不明だ。
しかし、信用のならない他の神々に敗れ、単に食い物にされるよりかは多々良の言う通りにしたほうが幾らかはましであったのも本当だ。
神が、神の名において、自らが滅ぼし、眠りにつかせた神の世話役をわざわざと買って出るなど聞いたこともない。
「う、うむ──、多々良殿になら、私を任せられるのじゃ……」
日和はおずおずと上目遣いに見上げる。
弱々しく覇気の無い目と、眼帯で片目を隠していても圧倒的で神々しい光を放つ目の視線が交わった。
夜宵との力の差もさることながら、この多々良との差とて歴然である。
日和には他に選択肢は無かったのかもしれない。
「但しっ、少し待って欲しいのじゃっ……。次の期日が来たるその時まで、情けを掛けてはもらえぬじゃろうか。多々良殿の手に掛かるのはせめてその後で……」
膝を擦って座っていた座布団から下りると、日和は床に手と額を付けて多々良に深く頭を下げた。
どうせ敗北するのでも、少しだろうが延命したいと訴える。
「……お願いじゃ、私は最後まで足掻きたい……」
ゆっくりと顔を上げる日和の目から、涙が一筋ぽろりとこぼれた。
その落涙を見下ろす多々良は何も言わない。
黙って日和を見つめている。
敗北を目の前にした失意と悲しみが全く無かった訳ではないが、日和の涙には情に訴えて往生際悪く時間を稼ごうという魂胆も見え隠れしていた。
無論、多々良もそれは承知の上だったようだ。
「──荒れているね、酷い有様だ」
ふと、多々良は顔を逸らして、殿舎の開いた扉から境内を見渡した。
割れ砕けた石畳の隙間から、ぺんぺん草みたいな雑草がまばらにに生えている。
苔むした石灯籠と鳥居、水の涸れた手水舎、落ちたままの本坪鈴と荒廃した状態に事欠かない様子がこれでもかと散見される。
両手を付いたまま、日和は重いため息を漏らした。
「いい加減、ぼろぼろだったところを夜宵にさらに壊されてしまってなぁ」
唐突な破壊の宣告を下しに現れた夜宵の怒りに触れ、神社を駄目押しに壊された記憶は新しい。
多々良は顔を境内に向けたまま独り言のように言った。
「神社の修復もままならないほどにやつれ果てている日和殿が不憫でならない」
その目は遠くを見ていて、何かを憂う光を備えていた。
「──私は、日和殿が健勝でいられるのなら、わざわざこのような話を持ちかけることはなかったろう。日和殿が強くあってくれればそれでいいと思っている」
多々良は日和の考えを何となしに見透かしている風である。
追い詰められ、打つ手を無くしたとて、日和がおとなしく滅びを受け容れるような殊勝な女神ではないのは容易に想像できる。
「ど、どういう意味じゃろうか……?」
その高遠な様子におどおどする日和を流し目に見て、なんでもないよ、と言うと多々良は音も無く立ち上がった。
もう振り返らずに殿舎を後にする。
「それでは天神回戦でまた会おう。武運を祈るよ、日和殿」
「……うむ、手柔らかに頼むのじゃ……」
手を床にして背中を丸めてうなだれ、日和は多々良を見送った。
強き男神の大きな背中を力無く見つめながら。
「慈乃、待たせたね。わざわざお供をさせて済まない」
「お気になさらないでください。多々良様のお側が、私の在る場所なのですから」
境内の中程に、白髪の瞑目した鬼の剣士が多々良が戻るのを待って控えていた。
従者であり、護衛の役も買って出ている夜叉の慈乃姫だ。
多々良は慈乃と連れ立ち、瞬転の鳥居へと向かう。
「さて次は、すでに日和殿に試合を申し込んでいる他の神々のところを訪ねようか。申し込みを取り下げてもらえるようにお願いして回るとしよう」
「──多々良様、一つよろしいでしょうか?」
根回しに奔走する多々良であったが、その背に慈乃は声を掛ける。
「どうして日和様にそこまで目をお掛けになられるのですか? 一視同仁に万事を公平にされる多々良様らしくありません」
慈乃は忠実な腹心で、普段なら多々良の行いに口を出すことはしない。
しかし、この度の日和に絡む事柄については随分と積極的に介入するのが気に掛かっていた。
敬愛する多々良が他の女神に肩入れするのが不服なだけだったのかもしれない。
ただ、公正な男神は如才なく言った。
「日和殿と夜宵殿は、私にとって浅からぬ縁の特別な方々なのだよ。だから、何もせずに捨て置くことなどできないんだ。──慈乃は私のすることに反対かな?」
ゆっくりと振り返り、わずかにも他意を見せない微笑みを浮かべている。
多々良がわざわざとこう言うのだから何かしら事情あってのことで、日和や夜宵にえこ贔屓をしたり、まして色目を使っているのでは断じて無いのだろう。
改めるでもなく、それが見て取れたので慈乃は安心して出過ぎた自分を恥じる。
「滅相もございません。多々良様は、多々良様の思うままにお振る舞いください。私はただ、それに付き従わせて頂くのみです」
「うん、宜しく頼む。慈乃の忠義にはいつも感謝しているよ」
目を細めてにこりと笑い、再び歩き出すと鳥居の境界面を越えていった。
慌てることなく、慈乃もその後に続いて姿を消した。
多々良は日和を思い、遠い昔を思い出しながら呟くのだった。
「昔ながらのよしみだ。──此度も日和殿のために剣を打とう」
多々良たちが鳥居の向こうに消えるのを見送るのは、過去を眺める三月と雛月。
本来、見守ってもらうのは三月ら人間なのに、神々の様子をあべこべに見ているのは何とも変な感じだった。
三月は長い鼻息を吹き出す。
「うーん、多々良さんも何を考えてるのかよくわからん神様だ。絵に描いたみたいな聖なる偉い神様って感じだけど、弱った神様を狙ってとどめを刺して回ってる節があるんだよな。正直、ちょっと胡散臭い」
正々堂々、猪突猛進な神が多いなかで、多々良は考えを巡らせる神である。
渋い顔の三月を横目に見て、雛月は薄い笑みを浮かべていた。
「首の皮一枚でかろうじて踏み留まっている日和からすると、厄介な相手に目を付けられてしまっているものだね。まともに戦っても多々良陣営のシキは強力無比で勝ち目は無い。ただでさえ、夜宵のことで手一杯でどうしようもない状況なのに、──いやはや、進退きわまる絶体絶命の大ピンチだ」
「他人事みたいに言うなよ。日和がいなくなったら終わりなんだぞ」
「そうさせないために三月が居るんだろう。活躍を期待しているよ」
ますます渋い顔をして不満そうな三月なのに、雛月は明るい調子で続けた。
状況を楽しんでいる訳ではなく、努めて飄々としているのだが、つかみ所のない態度にはやはり慣れない。
「夜宵も強敵だけど、あの多々良さんも相当に手強い相手だよ。特に、夜叉の慈乃姫さんは多々良陣営最強の懐刀だ。日和の話だと、夜宵のところの四神のシキにも匹敵する強さだとか」
「俺、あの鬼姫さん苦手だ。まぁだけど、多々良さんは日和と夜宵の事情に関係はないんだ。あんまり関わり合いにはなりたくないな。触らぬ神に祟りなしだ」
慈乃に脅迫めいて迫られた嫌な思い出が頭をよぎり、三月は身震いする。
とはいえ、多々良陣営との対決は特に必須であるということはない。
初めから強敵だとわかっているうえ、三月の試練には関係のない相手なのだからあえて事を構えることはしなくていいはずだ。
それなのに、雛月ときたら。
「関係はない、か。──果たして、それはどうなのかなぁ」
両手を頭の後ろに回して、わざとらしく含みのある言い方をする雛月に、三月はさらにさらに苦々しい顔をした。
どうせ聞いても教えてはくれず、教えてくれたとしても抱える情報と問題がまた増えてしまう頭の痛い話になるのが落ちだ。
その考えがわかっているようで、雛月は三月の顔を見返して愉快そうに笑った。
と、いつの間にか見ている場面が切り替わっている。
金色の日は落ち、辺りには夜の闇が訪れていた。
「……日和、本当に座布団抱いて寝てたんだな……」
三月は目の前の様子を見て、ぼそりと漏らした。
行灯の明かりも無く、月明かりだけの淡い光が差し込む殿舎の隅の壁に、日和が背を付けて座っていた。
綿の飛び出したぼろぼろの座布団を抱き締めている。
空虚に何もない空間を見つめ、日和はか細い声で独りごちる。
「いよいよと明日で試合に臨まねばならぬ期日を迎える……。私の最期になるやもしれぬ日じゃ……。うまくシキを生み出せれば良いのじゃが……」
その言葉からこの夜は、とうとう翌日に試合を迎える前の日のことらしい。
多々良は日和本人に試合に出るよう願い出たが、無論それに従う気はない。
この日のためになけなしの神通力を練りに練って、必死の思いで備えていた。
どうにか神通力を振り絞り、戦いの代わりを務めてくれるシキを生み出すつもりである。
しかし、もしもそれが叶わなければ日和は自ら試合に出なければならない。
そうなれば、衰弱した自分が多々良陣営のシキに勝てる道理などありはしない。
「──イヤじゃ……。敗北の眠りになどつきとうない……。誰か、どうか私を助けておくれなのじゃ。私は、朝陽の、人間たちの世界を守る務めを果たしたい……」
一人きりになり、日和は今度こそ本当の悲哀の涙をぽろぽろと流した。
涙で濡らした座布団をぎゅうと抱き締め、不安と心細さに押し潰されそうになりながら一晩を明かす。
憐れな日和を、三月も雛月も言葉無く見つめていた。
早朝、日和は境内の薄汚れた玉砂利をかき集めてきて、殿舎奥の廃れた祭壇の前に堆く積み上げている。
何度も境内と祭壇の間をせっせと往復していた。
「ふぅ、どうやら苦し紛れに捻り出した神通力で急場しのぎのシキを生み出せる。次も同じ事ができるかは甚だ怪しいが、今回ばかりは切り抜けられるのじゃ……」
満足な量の玉砂利の山の前に正座をすると、合掌して長い呼吸を繰り返す。
間もなく、霞のような白く透けた弱々しい神通力が日和から立ち上りだした。
どうやら何とかシキを生み出せるだけの目処が、自分の中で立ったようだ。
手を合わせて祈る姿は、捨て駒に使うシキに許しを請う様子そのものである。
「すまぬ、悪く思わんでくれ。今の私にはもう試合に勝てるほどの力を備えたシキを生み出すことは到底叶わぬ。私の身代わりとなり、僅かばかりだろうとも時間を稼いでおくれなのじゃ。何も報せず滅ぶ運命の道に立たせること、どうかどうか、許して欲しいのじゃ……」
玉砂利の山が震え始め、淡い光を放ち、粒同士が溶け合い、やがて一つの形へと変わっていく。
それは人の姿をしていた。
「目覚めたか、我が最後のシキよ……!」
日和の最後になるかもしれないシキの誕生であった。
「おぬしの名前は、白玉童子じゃ!」
創造主たる日和ですら知る由も無い。
この玉砂利を固めてつくったシキに、果たして三月の精神が宿るかどうか。
その奇跡が発現するか否かで日和の行く末は決定付けられ、破滅の未来が変わるかもしれないかすかな可能性が生まれるのだ。
新たなシキが生まれる瞬間に立ち会い、雛月は腕を組んだ格好で言った。
「ここが運命の分かれ道だ。日和が生み出した最後のシキに、三月が宿った場合と宿らなかった場合の二つの道さ。前者はもう知っての通りだけど、後者ならば日和は当然試合に勝つことはできず、近い将来に自ら試合の場に立って、非業の末路を辿ることになるだろう」
雛月が振り向き見る先で、日和と新生したシキを見る三月の目に使命に燃える光が確かにあった。
それを見た雛月は大層満足そうに頷いたものだ。
「無論のこと、前者であるもう一つの道は三月がシキのみづきとして、天神回戦を勝ち上がって日和を勝利に導く熱い展開の物語だよ。そしてその結果、夜宵による破壊の神威を見事に阻み、破滅の未来を回避して、恋人である朝陽を無事に助けることができるっていう、わかりやすくも王道たる物語でもあるんだ」
「……確かに、王道で燃える展開のストーリーだな。もう、雛月に頼まれるまでもない。ああ、やってやるよ! シキにでも何でもなってやる! 日和を敗北の眠りになんてつかせやしない! 望み通り、天神回戦を勝ちまくってやるよ!」
当初、無茶を言われて試合に突き出されたうえ、実は身代わりの捨て駒だと知らされて腹が立った覚えもあるが、今では最早記憶の彼方だ。
シキのみづきは、日和の無二の配下として、神々の武の祭典を勝ち上がる。
 




