第17話 覚めない夢
「ミヅキーッ! 無事だったかー!?」
「うっぶぅ!?」
ダンジョンを出るなり、下腹部みぞおちめがけてキッキに全力でタックルを決められてしまった。
心配をして抱きついてきたのだろうが、獣人の身体能力で突進からのしがみ付きは相当に当たりが強かった。
「あっ、噂のエルフのおねーさんたち!」
強かに後頭部を地面に打ち付けるミヅキに馬乗りになったまま、キッキはエルフ姉妹の二人に気付いた。
素早く立ち上がり、畏まって頭を地面に付くくらい下げた。
「このたびは、うちのミヅキが大変お世話になりましたぁーっ! あたしや兵士のみんなも助けてくれて、ありがとうございますぅーっ!」
身体中で謝意を表すキッキに、アイアノアは笑顔でいえいえ、と応えた。
エルトゥリンも黙って頷いていた。
「……」
そんな三人の様子を見つつ、仰向けに倒れたままのミヅキは空を見上げていた。
日は高い位置にあり、まだ正午の時間というところだろう。
視界の半分は青空で、もう半分は山肌にせり出したパンドラの入り口とその物々しい装飾たちだ。
男と女の魔神を表しているであろう畏怖の石像を見上げている。
「……まぁ、いくら何でもちょっとなぁ……」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
選ばれし勇者に与えられた大いなる使命は、パンドラの地下迷宮の踏破。
だが、こんな恐ろしくて危険なダンジョンの攻略など真っ平御免である。
先ほどアイアノアに愛想悪くした通りで、使命なんてどうでもいいし、危ない目に遭わせられるのなんて論外だ。
何なら、今からでもこれらは全部夢で、ほら夢だった、使命だの勇者だのは一夜の妄想でしかなかったと、目覚めた後でせせら笑いたいくらいだ。
──何度だって思う。こんなときに、こんなところで、こんなことをしている場合じゃないんだ。とてもじゃないけどそんな気分にはなれやしない……。
「あっ、いかんいかん」
空を見ているつもりだったが、キッキの背中越しに仰向けの自分を見下ろしているアイアノアとエルトゥリンの脚線美が目に飛び込んできた。
この世のものとは思えない魅惑のローアングルである。
風にふわふわ揺れるアイアノアのスカートの裾から健康的な太腿がちらつく。
エルトゥリンの丈の短い衣服から引き締まった筋肉の脚が存在を誇示していた。
この上ない目の保養だが、あまり見ていては目の毒だ。
覗きだと思われる前にさっさと起き上がり、背後を振り返ってダンジョンの暗闇を見やる。
「……むぅ」
またひどい胸騒ぎがする。
頭の奥が重くもなった。
危険極まり、妖しい魅力を放つダンジョンだからという理由だけではない。
ミヅキはこの巨大な地下迷宮が何故だか気になった。
傲然とミヅキらを見下ろすパンドラは何も語らない。
底無しの深淵より畏怖を滲ませる。
おそらく、ここでいくら考えても答えは出はしないのだろう。
パンドラの踏破、それを成さない限りは。
但し、ミヅキにそれをやる気はさらさら無い。
「……よいっしょ、と」
立ち上がるとキッキが振り返り、アイアノアとエルトゥリンの視線が集中した。
「ゴメンな、ミヅキぃ……。ほんと迷惑掛けちゃった……」
「いいよ、みんな無事だったし。怪我はしてないか?」
殊勝な態度で首を縦に振るキッキに気を遣う。
「あのぅ、ミヅキ様……。先ほどの使命の話の続き、またさせて頂いてもよろしいでしょうか……? 色よい返事をお聞かせ願えますよう、どうかどうか、宜しくお願い致しますっ」
「ああ、うん、また後でね。一応、前向きに検討してみるよ」
両手を胸に、訴えかけるような上目遣いのアイアノアとはどう話したものか。
「ねえ、ミヅキ。さっき姉様のスカートの中、覗いてなかった?」
「えっ!? ばっ、馬鹿っ、覗いてなんていねえよっ!」
やっぱりしっかりと覗きを疑われていた。
じと目をさらに細めて睨んでくるエルトゥリンには相当泡を食った。
ともあれ──。
パンドラの地下迷宮での思わぬ騒動は、ひとまずのところ事態の収拾を見た。
その後、ダンジョン奥でドラゴンから逃れた他の兵士たちも、無傷ではなかったが無事に救出された。
レッドドラゴン以外の魔物が、他に全くいなかったことが幸いしたようだ。
仲間とはぐれて孤立した者には悲惨な結末が待っている。
それがダンジョンの通例だというなら、今回は不幸中の幸いであった。
「へぇぇー……」
ミヅキは初めて見る神秘に感心しきりであった。
兵士たちの詰め所にて、アイアノアの回復魔法による治療がひっきりなしに行われている。
何とか死地から脱したものの、負傷者はまだまだ多かった。
しかし、献身的な彼女の頑張りの甲斐あり、大事に至る兵士は誰一人いない。
「魔法って、本当にあるんだなぁ……」
詰め所内で簡素な丸椅子に座り、ミヅキは回復魔法なるものを観察していた。
跪いたアイアノアの手からゆらゆらと緑色の優しい光が波のように出ている。
彼女が使うのは、おそらくは風を元にする回復魔法だ。
床に横たわる兵士の傷ついた身体や患部から少し離れた位置に、片手ないし両手を掲げて、瞳を閉じて精神を集中させていた。
理屈は不明だが、人体の自己再生力を活性化させているのか、外部から直接癒しのエネルギーを送り込んでいるのか、明らかに容態は快方に向かっている。
魔法とは何とも不思議で、幻想的な力は神秘そのものだった。
「ミヅキ様も診せて下さいまし。お背中失礼致します」
「うわわっ?!」
重篤な怪我人から手際よく処置を済ませて、アイアノアはミヅキの元へとやってくる。
後ろからミヅキの服を遠慮無く捲くり上げ、背中の肌を露わにした。
麗しいエルフの女性の看護に、ミヅキは恥ずかしがって肩をすくめる。
「ああ、やはり火傷を……。すぐに良くして差し上げますねっ」
通りで背中がひりひりすると思った。
しかし、鉄をも溶かすドラゴンの炎を背中に受け、軽い火傷で済んだのはミヅキの付与魔法による堅固さを物語っていた。
「──優しき風の気流よ、傷付きしこの者を癒やし給え」
「おぉー……」
そして、自分も回復魔法の神秘を体験してみる。
様式美とも言える詠唱言葉の後、背中を伝って半透明な緑のカーテンがふわふわとかぶさってくるようだ。
瞳を閉じて、聞こえるか聞こえない小声で何事か唱えているアイアノア。
自分が付与魔法を使う際には何も必要としなかったが、これはこれで異世界情緒があって感慨深いと感じてしまう。
──傷が治ってくときに痒みや痛みを感じるかと思ったけど想像と違うな。じんわりと楽になっていく感じだ。あったかい春のそよ風みたいで気持ちいいなぁ。
背中の火傷が治癒していく快感をミヅキの心は享受する。
風の回復魔法を受ける、という得も言われぬ良い体験に心が躍った。
そうして、癒やしの風が途切れる頃、火傷の痕は綺麗に消えてしまっていた。
「お身体と、お心持ちはいかがですか? 楽になられましたか?」
「ああ、ありがとう。良くなったよ、魔法って凄いね」
「お加減良さそうで何よりです」
「う、うん……」
微笑むアイアノアにまた照れて、誤魔化すみたいに辺りを見渡す。
「ふうっ、大ごとだなこりゃ」
ミヅキは一息ついて呟いた。
負傷して横になる兵士たちで詰め所はいっぱいで、さながら野戦病院のようだ。
後から事情を聞いたミヅキは思い出していた。
──そもそも事の発端は、ダンジョンから響いてきた聞いたことのない魔物の鳴き声だった。歩哨中の兵士たちがどんな魔物なのか様子を見に行ったけど、いつまで経っても帰ってこない。だから、隊長さんが大勢を引き連れてダンジョン内に踏み込んでいったんだそうだ。そしたらまさか、あんなドラゴンに出くわすなんて夢にも思わなかっただろうな。
引き続きアイアノアは兵士の怪我を看て回り、キッキも率先して介抱を手伝っていて、昼食を摂る余裕はなかった。
空腹感を感じていると、エルトゥリンがいなくなっているのに気がついた。
そう言えば、詰め所に戻ってから姿を見ていない。
これも後から聞いた話である。
──蛮族エルフは、森に入ってドラゴンの尻尾を川で冷やしたり、木に吊して血抜きしたり、食べるための下処理をしてたらしい。人命よりも獲物が大事だなんて、ちょっとはお姉さんを見習えってんだよ。
「あっ、ミヅキ。こんなところに居た」
エルトゥリンに毒づいていると、ぱたぱたとキッキがやって来る。
その顔は少し赤くなって見えて、照れているようだった。
「そういえばちゃんとお礼言えてなかったって思って。──ありがとっ! ミヅキに命、救われちゃったなっ!」
にっかりととびきりのスマイルでお礼を言われ、こちらのほうが照れてしまう。
「あ、ああ。何事も無く帰れそうで何よりだよ。もう無茶はしないでくれよ……」
「ゴメンゴメンっ。じゃああたし、また手伝ってくるね」
目を逸らしながら言うと、キッキはまた猫みたいにぱっと走っていった。
そんな少女の背中を見送りつつ、自然と緩む口許に気付く。
──まあ、なんだかんだでいいことできたみたいだし、良しとするか。
まだこれが夢か現実かはわからない。
ただしかし、おかしなスキルを使って活躍し、それで誰かを助けて感謝されるのは気持ちの良いものである。
これも異世界転移に付きものな醍醐味なのだろう。
そう思い、ミヅキはとりあえずはほっと胸を撫で下ろすのであった。
「──事後処理はこちらでやる。もう帰ってもらっても問題無い」
そして、ようやく事態が落ち着いた頃──。
髭の兵士長ガストンはミヅキたちにそう言った。
もういつの間にか日は西に傾き始めている。
兵士詰め所前でお互いに向き合い、ひとまずの別れのやり取りを交わす。
知らない内にエルトゥリンも戻ってきていた。
肩にぐるぐると巻いて畳んだドラゴンの尾を担いで。
「荷物と代金は後で届けさせよう。世話になってしまったな、感謝するよ。帰ったらパメラさんによろしくな」
「ガストンさん、大丈夫かよ? ふらふらしてるぞ」
まだ多少よろめきながらも、ガストンは穏やかな笑顔でキッキに答えた。
「もう平気だよ、キッキ。そちらのエルフのお嬢さんの魔法がよく効いたようだ」
視線を向けられ、アイアノアはニコッと微笑み頷いて返した。
そうして、今度はガストンはミヅキに視線を向ける。
こちらは初対面だが、向こうはそうではないようであった。
「あんた、パメラさんところの居候だろう? 驚いたよ、まさかあんなに凄い魔法を使う魔術師様だったとはな……」
「いやあ、魔術師様だなんて、そんな大層なもんじゃ……。実際問題、あんなことができたなんて自分でも驚きっスよ……。ははは……」
愛想笑い付きのごく普通な受け応えに、ガストンは一瞬驚いた顔をした。
パメラ同様、ミヅキの記憶障害時の状態を知っているのだろう。
よほどボケボケしていたのか、そんなに驚かなくてもいいとも思った。
「もしや、記憶喪失だと聞いていたが記憶が戻ったのか? ──そういえば、エルフさんたちが探している勇者というのは、まさか……」
と、そこまでガストンが言うと、すっとアイアノアが一歩前に出た。
「兵士様、お願いがございます。ミヅキ様と私たち姉妹のこと、特に今日起こったことは秘密にしておいて下さいませ。まだあまり目立ちたくはありませんので」
険しい表情と言うには遠いが、凛々しさを増したアイアノアの顔と声色。
ミヅキと話すときとは随分と違う雰囲気を漂わせている。
ガストンは僅かに沈黙したが、すぐにため息混じりに言った。
「……わかった。ただ、トリスはああ見えて狭い街だ。しかも住む者も皆噂好きときているからな。そちらの動向次第ではすぐに話は広まるだろう」
「そうなってしまってからは仕方がありませんが、今はまだ……」
「うむ、今日の件の報告は濁しておくよ。安心してくれ」
「ご配慮、感謝致します。くれぐれもよしなに」
畏まって一礼をするアイアノアにガストンは、大変だなあんたたちも、と一言を付け加えていた。
或いは、とても重要なやり取りが交わされたようだが、ミヅキはとりあえず知らぬ振りで聞き流した。
どうしても深入りしたくないなあ、という気持ちは変わらない。
この世界の事情に明るくなれば、やはりあのダンジョンに近付くことになる。
ちらりと視線を向け、パンドラの地下迷宮の門を見やった。
神託の勇者の使命は、この伝説のダンジョンを攻略すること。
ダンジョン内の魔の空気と、レッドドラゴンの脅威を思い出して身震いする。
「……それにしたって、これはいつまで続くんだ……? 夢でも異世界転移でも、もうどっちでもいいから、そろそろ終わりにしてくれないもんかなぁ……」
ミヅキはげんなりとため息をついてぼやいた。
夢が覚めて明日が来れば会社に出勤しなくてはいけないし、こんなに疲れる思いをして元気に起きられるかどうか甚だ怪しい。
時間も異世界転移した当時に戻れるのならまだしも、知らず時間が経過していたともなると現実世界の自分がどうなっているか心配でならなかった。
うまく危機を脱し、仲間と無事に帰れてめでたしめでたし。
もういい加減、区切りの良い頃合いだろう。
それなのに、ミヅキを取り巻く異世界物語は一向に終わる気配が無かった。




