第165話 異世界巡りの旅の正体
みづきは女神姉妹が決別する一部始終を見届けた。
一方的に破壊の神威をもたらすと告げた夜宵は去った。
後には、ぼろぼろになった境内に残された幼子の姿の日和だけ。
「日和……」
目の前で悲しみに暮れる過去の日和と、隣で冷淡に自身の記憶を見ている現在の日和を見比べた。
みづきには何も言うことができなかった。
弱々しく苦悩する日和の姿に、自らの手で倒したまみおの姿と声が重なる。
『弱いこの身が口惜しい……。おいらだって、神として強く在りてぇよ……!』
日和もまみおとまったく同じ立場であった。
まみおが故郷の村や山を守りたいように、日和は夜宵の破壊意思を無理矢理可決させないために敗北と滅びを拒み、必死の思いで生き長らえている。
そのうえで、もう一つ思い出す。
『みづきの言葉は誠であったのじゃっ! 見栄を張って勝てもせぬ強者とやり合う馬鹿はせず、順列の低い者から倒して勝ち上がるという定石が早道であったわ! このように簡単に事が運ぶんであれば、格好など気にせずに初めから弱い者を狙い撃ちにしておれば良かったわい! ……多々良殿のようにのう!』
それはついさっきのことで、日和が敗者のまみおを嘲笑する様子のことだった。
生き残るため、神の務めを果たすために、弱きを挫き、踏み付けにしながら願いを成就させていかなければならない。
天眼多々良がそうしているように、弱者は強者の食い物でしかないのだろうか。
日和も夜宵から同じ目に遭わされていた。
だから、立場が変われば日和もまみおを見下し、同じく虐げるのだ。
みづきは神々の世界にも当たり前に存在する、天神回戦の根底にある弱肉強食の摂理を悲しく思った。
と、ずっと黙ったままだった隣に立つ日和が口を開いた。
それと同時に目の前に流れていた日和の記憶の映像は、黒く塗り潰されていくみたいに消えてしまった。
「見苦しいものを見せてしまってすまぬな……。朝陽のことだけで良かったのじゃろうが、我らの置かれておる境遇を詳しく知っておいて欲しかったのじゃ。無論、夜宵も大地を守護する女神じゃが、あの様子ではとても放置はできんじゃろ?」
披露された記憶の通り、嫌なことを思い出した日和は両肘を抱いた格好で、身体を小刻みに震わせていた。
いつの間にか、周りは仄暗い水の中を思わせる心象空間に戻っている。
日和は顔を上げ、遙か高い水面から光が射すのを見つつ、呟くように言った。
「我らは天神回戦を勝ち上がるばかりか、夜宵の暴挙たる神威を止めねばならん。私が敗北の眠りにつけば、夜宵は彼の地の守護を続けるどころか、喜々として破壊をもたらすであろう。そうともなれば朝陽も、彼の地に住まう人間たちも皆、ただでは済むまい……」
日和亡き後、夜宵に神巫女町の大地の守護はとてもではないが頼めそうにない。
破壊の神は三月と朝陽、夕緋の住む町を大地ごと滅ぼそうとしている。
それを止めるには、あの強大に過ぎる夜宵を相手取り、戦わなければならない。
状況は極めて芳しくなかった。
絶望的といっても差し支えはない。
瞳だけを動かして、日和は自らを嘲る調子でみづきのほうを見た。
「どうじゃ、改めて失望したか? 我が事ながら、情けない主で面目ないことこのうえ無しじゃ。私のところなどに生まれたばかりに、苦労を掛けるのじゃ……」
日和は本当に申し訳なさそうだった。
主従関係にあるしもべのシキに、自分のこんな憂き目を話す心境はいかほどか。
さぞやみづきは、頼りない主だと軽蔑しているに違いない。
日和はきっとそう思っているのだろう。
実際には、みづきはそんなこと全然思ってはいない。
ふてぶてしく鼻で笑う。
「苦労だなんて思ってねえよ。あんなの見せられたら何か色々と腹が立ってきた。要は夜宵の奴がご乱心して、日和が大事にしてる人間の世界を壊そうとしてるって訳だろ。朝陽だってあの世界に居るんだ。そんなふざけた真似は絶対に許さねえ。いつか夜宵に一泡吹かせて憂さ晴らしをしてやろうじゃないか」
朝陽の近況を知り、この世界における自分の立場も理解した。
先ほどの両女神の剣呑なやり取りを聞いて、日和が負けられない理由が判明し、夜宵の物騒過ぎる目的が白日のものとなった。
女神たちの対立の結果、日和の敗北という結末が現実世界の三月や朝陽、さらには夕緋に破滅の定めが与えられる。
「そうか、そういうことかよ……」
鈍い怒りが胸の奥で沸々と湧き起こり、みづきは低く呟いた。
異世界を渡るこの物語、女神様の試練とやらの正体にとうとう気付いた。
すべての因果が繋がっている。
「──じゃあ、もう尚更だ。日和を敗北の眠りになんてつかせる訳にはいかねえ!」
「ふふ……。みづき、頼りにしておるぞ」
息巻くみづきを見て、日和は儚げな笑みを浮かべていた。
自らのシキが気を遣い、強がって元気づけてくれていると思っているのだろう。
日和にしてみれば、みづきが世界の次元の壁を越えて、大切なあの時を取り戻したいと願って奮闘している最中だなんて知る由もない。
けれど、結果的にみづきの願いは日和の願いさえも叶えることにも繋がるのだ。
「──この少し後じゃよ、みづきを生み出したのは。……まぁったく、言うことは聞かんわ、私の名を呼び捨てるわで、ほんにどえらいシキが出来上がってしまったものじゃと大層驚いたもんじゃわい」
それほど昔のことでもないのに、随分と懐かしく感じるものだ。
当時を思い出し、何も知らなかった自分を気恥ずかしく感じて悪びれる。
「ま、まぁ、でもさっ、日和だって俺のことを身代わりの捨て駒にしようとしてたんだろ? 多少の素行の悪さには目をつぶってもらえんもんかな……」
「ふっ、また言うか。それを言われては何も言い返せぬが、今となってはみづきが私のシキに生まれてきてくれて良かったと思うのじゃ。……衷心よりな」
日和の笑みに少し力が戻る。
朝陽と再会を果たすためにも、みづきはならなくてはならない。
夜宵の言った、千載一遇の奇跡が生み落とし、劣勢を覆しうる珠玉のシキに。
みづきは日和と笑顔を交わし、不思議と冷えた頭の中で思いを巡らせる。
──さぁて、今回も新たな情報が盛りだくさんだ。雛月に情報精査をよろしくだな。結局、夜宵が何故、朝陽と夕緋の住む人間の世界を破壊しようとしてるのかは皆目謎だったな。日和が敗北の眠りに着かなくて済むように、天神回戦で勝ち続ける。日和に太極天の恩寵を授けて、神通力を取り戻させる道が正解なのは変わらない。
この神々の異世界で何をすればいいのかは大体わかった。
それがどんな結果を生み出すのかも同様である。
──そのうえで、夜宵が強引に破壊の神威を発動させて神巫女町の破壊を行わないように、夜宵の力と神格を直接的に削る必要があるだろう。天神回戦で夜宵に挑戦して勝利することさえ成し遂げられれば、その悪行とも呼べる神威を止められる。破壊神夜宵との対決、異世界を巡る試練は色々とあるだろうけど、その中でもこいつが最高に至難の業になるだろうなぁ。
話の筋道は綺麗に通った。
実現にあたっての難易度の高さは甚だ異次元の域だが、これこそが女神様の試練の真骨頂なのだろう。
異世界渡りの旅の果てにみづきに与えられるご褒美。
在りし日の朝陽と再会すること。
みづきの大切なあの子の命を奪うのは、おそらく夜宵のもたらす破壊の神威だ。
それを止めることさえできるのなら。
雛月の言葉がありありと甦った。
『その答えを知りたければ、次の異世界巡りをどうか頑張ってきてよ。その果ての結果を見れば、察しの良い三月ならぼくの言ったことがどういうことなのか、何をどうすればいいのかはきっとわかるはずさ。ぼくが話せるのはそこまで』
「──わかったよ、雛月。よぉくわかった」
今なら雛月の言ったことがよく理解できた。
この天神回戦を戦う、神々の異世界での出来事は過去の物語なのだ。
自身の意識だけが過去へ時間を遡り、現在28歳を迎えるみづきが高校1年生の頃へと戻っている。
但し、みづきの意識が移動したのは当時の高校生の自分の身体ではなく、時を同じくして神々の世界で主の女神のために新生し、奮闘するシキの身体であった。
この不可思議極まる現象のことをみづきは知っていた。
「これは、──タイムリープだ!」
これは単なる異世界渡りの物語ではない。
日和の生み出したシキのみづきの身体を借り、10年以上先の未来から現実世界の佐倉三月の意識がタイムリープしてきている。
直訳すると、時間跳躍となるその言葉の意味は、タイムトラベル(時間旅行)のように自分の身体ごと過去に行くのではなく、意識だけが現在とは違う時間へ移動することを指す。
これこそが、異世界を巡るみづきに与えられた試練の正体だったのだ。
しかし、シキの身体に宿った未来の自分は高校生の過去の自分を認識できているのにその逆はそうではなかった。
タイムリープした先は現実世界の佐倉三月の身体ではなく、神々の異世界のシキの身体で、世界の壁を隔てた変則的且つ亜種のそれだと言えなくもない。
異世界渡りの旅やら、地平の加護の超常な権能やら、もう不可思議なことはお腹いっぱいで、今さら実は時空を超えていた、と言われてもそうは驚かない。
そんなことよりも、これは自分にとって絶好の機会であると強く確信している。
──日和を勝たせて夜宵を止める! そうすれば朝陽は死ななくて済む……!
それがみづきの立てた仮説であり、定まった確固たる目標であった
本当にこれがタイムリープを交えた異世界渡りだというのなら。
雛月の言った通りのご褒美が与えられるというのなら。
神水流朝陽を救うことができるかもしれない。
凄惨な運命を書き換え、希望の未来へとつくり変えられるかもしれない。
そう、その希望が生まれたのである。
「……おっと、すまんのじゃ」
「大丈夫か、日和?」
気がつくと、日和が見せてくれていた心象空間は消えていて、あたりは元の神社の風景に戻っていた。
二人は初めの、お互いの肩に両手を掛け合ったままの体勢で、日和は力が抜けたみたいに膝から崩れ落ちてよろめいてしまう。
慌ててみづきは日和をしっかと抱き留め、抱擁を交わす格好になった。
すっぽりと腕の中に収まった日和は、女神として気迫と凄みに溢れていた先ほどとは違って、今は線の細い普通の少女に等しい。
「ずっと、秘密にしておったことを明かした反動かのう……。話し終えたら、急に力が抜けてしまったようじゃ。膝に力が入らぬゆえ、少しこのままで頼む……」
「お、おう……」
顔を伏せて胸の中のすぐそばで小さくなる日和を抱いた格好のみづきは、心ならずも顔を赤くして居心地を悪そうにする。
幼子さながらに縮んでいた時と違い、姿だけは元通りとなった女神の容姿は確かに美しくあり、身体の温かさや柔らかさが直に伝わってきて妙に意識してしまう。
と、日和は垂れた頭をみづきの胸に預けつつ。
「──良かった。みづきは違ったのじゃ……。本当に良かった……」
顔が見えないよう下を向いたまま、聞こえるかどうかの小声でこそりと呟いた。
その表情は安堵に緩んで微笑み、目にはうっすらと涙さえも浮かべていた。
日和のそのときの言葉と気持ちにどういう意味があったのかはわからない。
「なんだ、何か言ったか?」
「いや、何でもない。……もうよい、立てるのじゃ」
気付かれないように袖で涙を拭い、日和はしっかりと立ち直る。
みづきと顔を突き合わせると、もうその表情に弱々しさはなかった。
溜まっていた鬱憤を晴らしたかのような、すっきり晴々とした様子だ。
「さぁっ、秘密の語らいはこれにて終いじゃ! 約束通り、みづきの願いはしかと叶えてやったぞ! 私は腹が減った、そろそろ飯の支度を頼むのじゃ!」
日和は満面の笑みを浮かべ、両手を腰に当てて高らかに叫ぶ。
それと同時にお腹がぐぅーっと盛大に鳴った。
勢いよく言い放ったはいいが、派手に騒いだ腹の虫に頬をほんのり赤くする。
「なに言ってんだ。さっきお菓子をあんなに食べて──」
呆れた風に言い掛け、みづきは空を見上げて言葉を切った。
金色の明るかった空は、いつの間にか夕焼けの橙色に染まっていた。
カラスの鳴き声でも聞こえてきそうな空の色である。
知らぬ内に随分と時間が経過してしまっていたようだ。
一瞬、呆然としていたみづきだったが、ふぅと一息をつくと。
「飯にするか。何かつくるわ。食べたいものあるか?」
「みづきのつくる食事なら何でもよいが、そうじゃなあ……」
二人は並んで拝殿向こうの母家へと向かっていく。
神の世界の夕焼けに照らされ、二つの伸びた影が遠ざかり、やがて消えた。
秘密を明かし、胸の内を語り──。
日和の顔には微かな微笑みが浮かんでいた。
みづきはまだ知らない。
未だ秘した日和のもう一つの胸の内。
蜘蛛のことに触れようとしたみづきに疑惑の目を向け、感じた不吉な気配を杞憂で済ませようと自身を納得させたときに、日和はある決心をしていたのだ。
そして、その決意の実行の結果、心底安堵をした。
その神めいた方法と、とある覚悟が何であったのやら。
みづきと神々の奇譚は今しばらく続く。
◇◆◇
「はぁーぁ、ちっくしょう……。負けちまったなぁー……」
同じく夕焼けの空を峠の道から眺めつつ、長いため息の狸がぼやいている。
お地蔵様の祠近くに生えている背の高い木にもたれかかり、人間みたいに両手を頭の後ろに回して枕にして、足まで億劫そうに組んでいる。
みづきに手も足も出せずに負けたうえに情けまで掛けられ、挙げ句悪さを働いた日和から仕置きの雷を落とされてしまい、もう散々な一日だったまみおの敗走姿。
「お師匠様、ごめんよ……。おいら、試合に勝てないだけで済まずに順列まで落としちまった。いよいよこれで、怖い者無しの正真正銘どんけつさっ……! きゃっきゃっきゃっ……」
甲高く笑う声に力は無く、落ち込んだ顔で途方に暮れる。八百万順列末席と成り下がってしまったまみおの明日はどっちだろう。
『……』
傍らのお地蔵様は何も語らない。
ただ、その顔は穏やかに微笑んでいて、試合に負けようがまみおが無事に帰ってきたことを喜んでいるみたいだった。
「お師匠様はみづきと日和様との縁を大事にしろって言ってたけど……」
横目にお地蔵様のほうを見やって、また大きなため息が漏れる。
二人との出会いが守護する村や山だけでなく、まみおにさえ幸福を与えてくれるとお地蔵様がお告げを授けてくれたものの。
変化術の完全上位互換たる地平の加護の権能を見せつけられ、手心まで加えられて敗北したことがやっぱりどうにも気に食わない。
「あぁーっ、くそっ! みづきの奴め、どうにか一泡吹かせてやれねえもんか!」
そうやっていきり立って叫んだところだった。
そのとき。
ひゅっ、すたんっ。
まみおのもたれている背の木の上めがけて、何かが風を切って飛んできた。
それは小気味良い音を峠道に響かせ、木に掛けられている霞的のような矢の的に一本の白羽の矢が命中した。
言わずと知れた、何処かの神によって啓示された試合の申し込みである。
「な、なんだぁ? 早速、どんけつのおいらを誰かが狙ってきたってのか……?」
戦々恐々と青ざめて突き立った白羽の矢を見上げるまみお。
少し迷った後、しぶしぶと木をよじ登って矢を的から引き抜いた。
矢を手に取ると、それが誰から放たれたものなのかがはっきりとわかる。
「──これは! この矢は……!」
木の上の枝に腰掛けて座り、手の中の矢を見て、ごくりと喉を鳴らす。
まみおは撃ち込まれた矢の差し出し主の正体を知り、何を思うのか。
白羽の矢を放った神、それは──。
八百万順列第二位の天眼多々良であった。




