第160話 勝者と敗者と
「──はっ! ここは? おいらは、いったい……」
まどろんでいたまみおの意識は唐突に戻る。
ぱちっと目を開けると金色の空が視界に広がった。
仰向けに寝転んでいた体勢から慌てて起き上がり、辺りをせわしなく見回す。
「……良かった。目が覚めたか、まみお」
それは傍らに跪いたみづきの掛けた声だった。
呆然として座っている狸の神、まみおはその顔をじっと見返していた。
そこは、天神回戦試合会場の西側選手入場門を出てすぐの背の低い草むらの上。
みづきとまみおが執り行った試合直後のことである。
「みづきに、日和様……」
まだぼんやりとした顔のまみおを、みづきは心配そうに見ていて、日和は腰に手を当てて冷ややかに見下ろしていた。
まみおはみづきから日和へと視線を移して、その姿が力を失って小さくしぼんでいたものではなくなっていると知り、落胆したようにため息を漏らした。
「日和様の元に戻ったその姿。そっか、おいら負けちまったのか……」
「うむ、これこそ美貌と威厳に溢れた私の本当の姿なのじゃ。ありがたく拝謁するが良いぞよ。……まぁ、中身はまだまだすっからかんじゃがな」
自信ありげに胸を張って立つ日和は、ちんちくりんな幼女の姿ではない。
試合に勝利し、太極天の恩寵を授かり、完全にはほど遠いが仮初めの神通力を取り戻して真なる女神の佇まいへと変じていた。
自分で言うだけはあって、美しい顔に透き通る白い肌、女性らしい丸みと膨らみに富んだ肢体は女神の美貌と呼ぶにふさわしい。
「まみお、身体は大丈夫か? どこか痛いところは無いか?」
みづきはまみおのふさふさした毛の身体をさすったり撫でたりして、大事が無いかどうかを確かめている。
竜の灼熱の炎で焼き払い、太極天の力や神殺しとやらの力をまとわせた刀でしこたま痛めつけてしまったのだ。
まみおが普通の狸ならとっくにあの世行きである。
「馴れ馴れしく触ってんじゃねえよっ! これくらい平気だってんだ! いらねえ心配すんじゃねえっ!」
両手をばたばた振り回してみづきを振り払うと、まみおはすっくと立ち上がる。
昏睡状態を付与して眠らせていたのに、僅かの時間で意識を取り戻したあたり、神の眠りの概念はやはりみづきの思う常識からかけ離れているらしい。
まみおは身体を震わせながら、不満たらたらにみづきを見上げた。
「──まったく、おいらはまだまだやれたのに口封じをするみてえに一方的に試合を終わらせやがってよ! あんなの卑怯だぞっ、納得がいかねえ!」
案の定、不完全燃焼な試合の結果にまみおは怒りを剥き出しにしていた。
審判官の姜晶が言っていた試合の矜持通り、最後まで戦いを続けたかった悔しさを全身から滲み出させて抗議する。
その戦いの結果、取り返しの付かない敗北が待っていたとしてもである。
「第一、眠らせておいらの自由を奪ったんなら、そのままとどめを刺せば良かったじゃねえか! なのに甘っちょろい真似しくさって、天神回戦舐めてんのか!」
興奮気味に唾を飛ばしてまくし立てるまみおに、みづきは何と言ったものやら。
やはりそう取られてしまったことを残念に思い、言葉を探して逡巡していると、呆れた風に後ろの日和が口を開いた。
「甘いのはおぬしのほうじゃ。あのまま続けておっても、みづき相手に到底勝ち目などなかったじゃろうが。聞くに耐えぬ見苦しい負け惜しみはやめるのじゃ」
「な、なにおうっ!?」
「──では聞くが、変化の術をすべて破られ、みづきに圧倒されたあの後、おぬしはいったいどうするつもりだったのじゃ? 不退転の覚悟で蛮勇を貫くはよいが、逆転の目を見出す算段はあったのじゃろうな? 遮二無二、戦い続けるだけで勝てるほど簡単ではなかろう。天神回戦を舐めているのは果たしてどちらなのじゃ?」
「そ、それはっ……! うぐぐっ……!」
あんまりなきつい日和の言い方だったが、それは間違いのない事実だったろう。
いきり立つまみおも、何をどうすれば今のみづきに勝てるか思いもつかない。
長く順列末席を温めていた日和の言葉はどこか含蓄がある。
但し、勝者の特権ゆえか敗者への同情は無く、憐憫の情とはひどくかけ離れた嘲笑を浮かべていた。
「かんらかんら! 試合に敗北してなお、せっかくにして拾った命じゃ! せめてもの情けにすがってこれからもたゆまず精進をすることじゃな!」
口許に手をやって有頂天に高笑いする日和はひとしきりそうした後、思いついたみたいに何も無い空中から大きな巻物の書物を取り出した。
独りでに開いて中身を晒す巻物は、八百万順列の番付表である。
一目見れば、各々の順列がたちどころにわかる不思議な道具の一つだ。
「そして見よ! ついに順列が入れ替わったぞ! これで私が準末席で、おぬしが末席じゃ! とうとう最下位から抜け出したのじゃっ! やったぁーっ!」
「あああぁぁーっ?! おいらがどんけつになってるぅーっ!」
誇らしげに鼻を鳴らし、順列入れ替わりの結果を突きつけて、日和は子供みたいに万歳しながら飛び跳ねて歓喜した。
対して、まみおは全身総毛立って悲壮な叫び声をあげていた。
みづきから見れば何ともその様子は目くそが鼻くそを笑う、どんぐりの背比べでしかなかったが、延々と末席の恥辱に甘んじていた日和にとって、今回の脱却は格別の喜び以外の何物でもなかったのだろう。
しかし、次の日和の言葉にみづきは何か引っ掛かりを覚えた。
「みづきの言葉は誠であったのじゃっ! 見栄を張って勝てもせぬ強者とやり合う馬鹿はせず、順列の低い者から倒して勝ち上がるという定石が早道であったわ! このように簡単に事が運ぶんであれば、格好など気にせずに初めから弱い者を狙い撃ちにしておれば良かったのじゃ! ……多々良殿のようにのう!」
再び、からからと愉快そうに笑う日和。
そんな日和を複雑そうな顔で見つめるみづきの胸中は曇っていた。
間違った判断や選択はしていないと思うし、思惑通り試合に勝利を収めて日和の順列を上げることができた。
だが、それでも何か心がもやもやしてすっきりしない気持ちになった。
言葉がまとまらない内に、思わず声がついて出る。
「おい、日和……」
いったい自分は何を言うつもりなのかと思っていた矢先。
言われっぱなしで黙ってはいられないまみおが奇声をあげて激昂した。
「きゃーっ、うーるっせぇっ!! いい気になってんじゃねえぞぉーっ!!」
怒りの雄叫びと共に、すかさず両手の刀印を胸の前で結ぶ。
出し抜けにまだまだ力の有り余ったまみおの神通力が炸裂した。
「変化ッ! 吹き上がれ、つむじ風ッ!」
組んだ刀印を地面に向け、不意に周りから風が集まってきたかと思うと、まみおの狸の姿が消えて激しい塵旋風が発生した。
それは、まみおの化けた意思を持った竜巻だ。
つむじ風とは、地表付近の大気が渦巻き状に立ち上がる強い上昇気流である。
「うおッ!?」
突如、巻き起こった真下からの突風に驚くみづきの横で。
まともに風を受けた日和の着物は盛大に捲れ上がって、金色の空の下にあられもない痴態をこれでもかと晒してしまった。
「うぎゃあああああああああぁぁぁーっ!? もっ、猛烈なのじゃぁーっ!!」
半狂乱に悲鳴をあげ、日和は真っ赤な顔で必死に赤紅色の着物の裾を押さえるが、容赦の無い風の吹き上がりに隠しきれない白い脚が露わになっていた。
しばらくの間、下半身を丸出しにされた日和の向こう側、いつの間にか遠くまで逃げ出していったまみおの叫ぶ声が聞こえた。
「やーい、ざまあみろー! 覚えてろよー、こんちくしょうー!」
あっかんべえをして、ついでにお尻をぺんぺん叩いて見せると、身を翻してあっという間にまみおは走り去って見えなくなってしまった。
試合の最中は手ひどく傷つき、大事が無いかどうか不安だったが、元気良く逃亡するその様子を見るに、確かに心配は無用だったのかもしれない。
心配なのはゆで蛸のように顔を紅潮させ、わなないている日和のほうであった。
「ぐ、ぐぬぬぬぅ……! おのれぇ、あんの色狂い狸めがぁっ! 何たる無礼者、……この私に、とんでもない狼藉を働いていきおってぇ……!」
ぼさぼさに乱れた髪の日和は、はだけた着物の端を握りしめて怒りに震えている。
その赤い顔の涙目がじろりとみづきを睨んだ。
「みづきぃっ、おぬしっ、見たなっ!? 私の、何者にも見せたことのない秘密の花園をまんまと見おったなぁっ!? さてはこれ幸いとばかりに私の秘部をその両の眼に焼き付けおったじゃろうっ!?」
「い、言い掛かりはよせっ! 不可抗力だろ、俺のせいじゃねえ!」
見目美しく艶やかに変じた日和は、ただでさえ丈の短い着物を着ている。
つむじ風で派手に捲れ上がってしまい、間近な位置に居たみづきが魅惑の股座を見てしまうのは避けようがなかった。
羞恥と悔しさで恨めしそうな顔をしていた日和はうずくまって喚き出す。
「うぁーんっ、聖なる女神の純潔がーっ! くそ狸とみづきに穢され、辱められてしまったのじゃあっ! 私の清い貞操が絶体絶命なのじゃぁー!」
「へ、変な言い方すんなって……! 見ちまって悪かったよ、災難だったな……」
幸い、選手入場門付近には一般客の往来は無く、他の誰にも見られてはいない。
ぶるぶる震えて丸くなる日和の背中をさすって慰めるみづきだが、何故か苦笑いをしながら安堵した表情を浮かべていた。
「まぁ、ただ、何か安心したよ。日和、ちゃんと穿いてたんだな。着物だから下は穿いてないんじゃないかと思って一瞬ひやっとしたわ……」
「穿いとるわいっ! くぅー、しっかりと見られてしもうたぁ。……恥辱じゃあ」
しゃがみ込んだまま顔を両手で覆い、下着を見られて恥ずかしさに悶える日和にも女神とはいえ普通の女の子らしい一面もあるようだ。
日和がそうした下着を着用していたかどうかはさておき、紐を腰に巻いて帯状の布を両脚の間を通して背中側の紐に掛ける、という形状の下着類がある。
ふんどし(パンドルショーツ)型、ロインクロス型等の名称で、まじまじと直視した訳ではないが、白い布地面積の形状がそうした着衣に類似していたので日和のものも多分そうなのだろう。
伏せっていた日和は顔を上げ、涙目にみづきをまた睨む。
「しかも何じゃっ! せっかく私の脚線美を拝めたというのにちぃっとも嬉しそうにしとらんではないかっ! いったいぜんたいどういう了見なのじゃっ!?」
見たら見たで文句を言い、反応が良くないとそれはそれで気にいらない。
但し、みづきの身になればそれも致し方がないことだ。
「い、いや、日和の子供みたいに小さかった時を知ってるからなぁ……。急に大人の身体になったからっていくら何でもすぐにそういう目じゃ見れねえよ。そこまで節操無しじゃないつもりなだけさ。まぁ、日和の元の姿は綺麗だよ、よしよし」
「なっ、ななっ! 何たる屈辱! この絶世の美女たる女神をつかまえておいて、そんな慰め方があるかぁーっ! これはこれで腹が立つのじゃーっ! うぐぐぐ、見る目の無い真面目馬鹿めがぁっ、うぁぁーんッ!」
「どうして欲しかったんだよ……。とにかく、元気出せって」
同情したみたいにもう一度背中を撫でると、日和は再び顔を覆ってわんわん喚き始めたのであった。
神々の世界の下着事情における言葉通りの神秘に触れた。
思いがけないハプニングで、何とも言えず感心を覚えていたそんなとき。
「おーい、みーづきぃー!」
すたこらさっさと逃げ出したはずのまみおが、何故か大声をあげて戻ってきた。
四足歩行で走ってくると、みづきの前で直立する。
「──すまねえ。そういやあ、みづきとした約束のことをすっかり忘れてたぜ」
「あ、ああ、そっか。俺が試合に勝てたらっていう約束があったな」
律儀に約束を果たそうと、悪さを働いた張本人がどの面を下げて戻ってきたのかという状況にはらはらしつつ、昨日にまみおと交わした約束を思い出した。
天神回戦の始まりに日和と夜宵が深く関わっていたこと。
そして、二人の女神に敵対していた悪神の情報に地平の加護は反応を示した。
まみおとの試合に勝てば、その秘密を教えてもらえるという約束であった。




