第158話 みづき、迷う
試合の大勢は決したのに、諦めず敗北を認めようとしないまみお。
みづきは心に迷いを抱き、ひと思いにとどめを刺すことができない。
「ちくしょうっ……。俺には、無理だっ……」
『対象選択・《地蔵狸まみお》・効験付与・《意識障害・昏睡》』
「あっ……?! くそぅ、みづき、てんめぇ……」
まみおは突如として、頭の奥にまで差し込まれた強制意思に苦し気に呻いた。
みづきから付与された何らかの精神攻撃に、恨みがましい隈取りの目を向ける。
それはとっさに発動させてしまった地平の加護の権能だった。
「まみお、もういい……。眠ってくれ……!」
定まらず指した指先の向こう、愕然としたまみおの目がこちらを見ていた。
やがて、その震える瞳は重く閉じられる瞼に隠れて見えなくなってしまった。
「うぅ……。みづ、きぃ……」
がらんっ、と手にかろうじて構えていた錆びた刀が地面に転がる。
まみおの身体はゆっくりと膝を折り、眠るように意識を失って横倒しに倒れた。
それと同時にぼわんと煙をあげて、まみおは少年の姿から元の狸の姿に戻った。
明識困難、昏蒙、傾眠、混迷、そして昏睡。
順を追い、最も程度の重い意識障害をまみおに付与し、強制的に眠らせる。
生物として睡眠を神が必要としているかはさておき、日和も夜になると床についていたのを思い出し、眠りによって自由を奪うことを思いついた。
平時の状態の神には効果が無いのかもしれないが、洞察済み且つ今の弱ったまみおになら、地平の加護の権能を働かせて無力化することが可能だった。
こうなれば多少揺さぶられても、皮膚をつねられても簡単には目を覚まさない。
但し、これは苦し紛れに放った一手であるのは言うまでもなかった。
「姜晶君っ、これでどうだ! まみおは戦闘不能だぞっ!」
すぐさまみづきは姜晶に振り返り、まみおの状態を指して大声をあげた。
びくっと肩を震わせた審判官の少年は、綺麗な顔を曇らせながらみづきとまみおを交互に見比べている。
判断に困っている様子だったが、とうとう手の笏を高く振り上げた。
「ひ、東ノ神、道祖神地蔵狸まみお様の戦闘不能につき! 勝者、西ノ神、日和様のシキ、みづき選手!」
少女みたいに甲高い姜晶のよく通る声が響き渡った。
試合の勝敗は決した。
その結果は瞬く間に会場全体に伝わり、大勢の観客は盛大な歓声で受け入れた。
最後は互いが死力を尽くすまでの戦いとはならなかったものの──。
末席対準末席という程度の低い顔合わせだったのに、思わぬ名勝負になったことに賛辞を送る。
「……ふぅぅ」
みづきは力の抜けるため息を鼻から吹き出す。
目には見えない鞘に不滅の太刀を収めた。
そして何も言わず、狸の姿で倒れているまみおにゆっくりと近づいていった。
意識を失い、ぴくりとも動かないまみおを見て、見事に勝利を掴んだのに何故か心は浮かなかった。
耳にやかましいほど響き渡る喝采の声もやけに遠く聞こえる。
「まみお、試合とはいえ、手荒なことをしちまってすまん……」
みづきはまみおの傍らに跪き、艶を失って毛羽だった小さな身体を抱き上げる。
腕の中の昏睡状態の狸は、それでも起きる気配はない。
「みづき様……」
勝敗が決し、背後に恐る恐るといった感じで姜晶が近づいてくる。
みづきがちらと後ろを振り向くと、その表情は怪訝そうで晴れやかではない。
「あの、この度のご勝利、おめでとうございます……。前回の試合の時に比べて、本当にお見違えになられましたね」
「ああ、ありがとう。あれから俺も色々あってね……」
笏を持ってぺこりとおじぎをする姜晶は、生返事気味に愛想笑いをするみづきに何か言いたそうにしていた。
促されるまま思わず勝敗を決めてしまったが、姜晶の中で思い描いていた規定とは趣きが異なるものであったから。
「みづき様、勝敗が決した後でこのようなことを申し上げるのは無粋とは思いますが、どうして眠らせたまみお様にとどめをお差しにならなかったのですか? 絶好の機会だったのではと存じ上げますが……」
姜晶は何らか他意があってそんなことを言った訳ではないのだろう。
これまでの天神回戦で通例の無いみづきの戦い方に本気で疑問を感じている。
それは澄んだ瞳の、少し困った表情が物語っていた。
しかし、後味悪く感じた勝利に気持ちが塞ぐ憂鬱なみづきは、悪気の無い姜晶にまた苛立ちを感じてしまう。
強いほうが弱いほうを好きに扱っていい。
負けた者は勝った者に何をされようとも文句を言える筋合いは無い。
そんな風に思えるほど、みづきは強くもなければ傲慢でもなかった。
「はぁ? そんなことしたら、まみおが死んで……。いや、神通力が無くなって、神じゃいられなくなっちまうだろ。姜晶君もそんなことを言うのか……」
「ですが、それが天神回戦で敗れた側の定めなのです。互いに正々堂々と戦われた結果、力尽きて滅ぶ神があるのも然りです。ご参戦されている神の御方たちはそれを覚悟のうえで試合に臨んでおられます。御観覧においでの皆様も、もちろん審判の僕も同様で、凄惨を極める試合であろうともその結末を見届ける所存で……」
姜晶の言葉はもう御託にしか聞こえなかった。
途中で遮り、みづきは吐き捨てるように不機嫌を隠さずに言った。
「俺はそんな趣味の悪い見世物に付き合う気はねえよ。凄惨だってわかってるなら初めからやらなきゃいいだろうが。姜晶君もそんなのが見たいってのか?」
「そ、それはっ……」
口ごもり、みづきの険悪な態度にさっと顔色が青ざめる。
姜晶からすれば、人当たり良さそうな風変わりなシキという印象だったが、その実は太極天の恩寵を自在に操る計り知れない存在なのである。
そして、改めて思わなくてもみづきはあの女神の、日和のシキなのだ。
本来、新任の審判官ごときがおいそれと馴れ馴れしく話していい相手ではないのだろう。
「申し訳ございませんっ、みづき様っ……! 出過ぎた失言をお許し下さいっ!」
目の前であまりに大げさに頭を下げられ、慌てる姜晶にみづきははっとする。
「あっ、意地悪言って悪い……。姜晶君には審判の立場があるからな、ははっ……。この後もお仕事頑張ってね、それじゃあっ」
逃げるみたいに、みづきは背を向けてその場を離れる。
腕の中には、傷付き眠る狸姿のまみおが抱かれたまま。
「みづき様……」
後ろに見やる姜晶の上げた顔はしょんぼりとしていて、目を伏せる様子は年下の女の子を虐めてしまったみたいで罪悪感を感じた。
「まみお、悪かったな……」
自分が手を下したとはいえ、気を失った無残なまみおを見て思う。
それは、神々とその信徒を相手取ることの厄介さだった。
──神様とそのシキってのは根っこから勇敢で不屈の精神を持った、超がつくほど生真面目な奴らみたいだ。だからこそ勝負のやりようはあるのかもしれないけど、毎度毎度こんな死力を尽くすまで戦われちゃあな……。本当にやりづらい……!
これまでの試合を振り返り、その一貫した性質を思い知る。
太極天の恩寵を自在に扱うみづきを相手に、恐れを抱きつつ負けるとわかっていても向かってきた馬頭の牢太。
格上の多々良陣営いちのシキの慈乃姫と、明らかな実力差があったのに倒されるまで抵抗し続けた第六位、死の神の御前。
正々堂々の神は真っ直ぐと戦い、諦めることを決してしない。
敗れて傷つくのがシキなら、まだ本命の神は生き残り、次に繋ぐことができる。
しかし、まみおのように神本人が戦い、最後まで戦い続けるのなら疲弊は免れずに敗北の眠りの運命は確実に近付いてくる。
何の恨みも無い善なる神を相手に、そこまでやっていいのかと迷いに捉われた。
まみおの言った通りの許されざる大罪、神殺しになってしまうのではないか。
まして、それが神ではない人間の、自分の願いを叶えるための代償だとしたら。
果たしてそのとき、良心の呵責に耐えられるだろうか。
「お師匠様……。お小夜……」
腕の中のまみおがもぞりと動く。
ふと、力無いうわごとを漏らした。
まみおの祀るお地蔵様と、おそらくは大切な者の名を漏らした。
「……こりゃ、いかんな。俺また、迷っちまってるな……」
みづきは弱り顔で呟く。
この迷いはまたぞろ何かの問題を引き寄せそうな予感がした。
背を丸めて通ってきた入場門をくぐり、そそくさと試合会場を後にする。
何とも言えず居心地の悪さを感じ、この大舞台から早く立ち去りたかった。
地平の加護の真の扱い方を覚え、父と祖父の剣術に秘められた力の本源を感じられて、このうえもなく完全勝利だったというのに心にしこりが残る。
そうして、みづきの天神回戦、第二試合は終わりを告げた。
◇◆◇
「おぉ、来た来たぁっ! 太極天の恩寵を授かることのできるこの時がっ!」
日和は歓喜の声をあげて立ち上がった。
みづきの勝利を受け、主たる女神の日和に大神の恵みが与えられた。
神々の観覧席の後ろの小さな社が光を放ち、同時に日和の小さな身体も輝く。
眩さに包まれながら日和の縮まった肢体はむくむく、するすると大きくなって元の美しい女神の姿へと戻っていった。
子供みたいに短かった手足はすらりと伸び、だぶだぶだった丈余りの着物は身体に見合った寸法となり、日和本来の見目麗しい艶やかさへと変わる。
何の凹凸も無かった幼児体形が嘘のようで、豊かに膨らんだ胸の双丘とすらりと伸びた脚線美は艶めかしい。
丸みを帯びた女性らしい身体つきには目を奪われる。
円熟した肉体だが童顔のために印象の違いはあまりないものの、女神としての風格をその凛々しい表情に取り戻していた。
姿だけではなく仮初めとはいえ、強き女神の力を取り戻した日和は鼻を鳴らす。
「ふふん、慈乃姫殿。どうじゃ、この姿の私の力ならおぬし相手にもそうそう遅れは取らんぞ。後で吠え面をかく前に御免なさいをしておくがよい」
よせばいいのに、いつぞやの力の差を見せつけられたことへの腹いせか、むすっと表情を結んでいる慈乃に絡んでいく日和。
案の定、冷徹な怒りを露わにする慈乃に殺気を持って返される。
「お試しになられますか? 首を斬り飛ばされる覚悟ができたのであれば、どうぞ試合をお受けくださいませ。日和様のあのシキ、みづきがせっかく上げた勝ちの星を水泡に帰して差し上げましょう」
「や、やっぱりやめておくのじゃ……。まだまだ私も本調子ではないゆえ……」
目をつむって振り向きもしない慈乃の強烈な殺意に、日和はすっかり意気消沈してしまっていた。
元の姿に戻ったのに顔を青くして貫禄も何もあったものではない。
二人のいつも通りな調子に多々良は苦笑していた。
「やれやれ、ともあれおめでとう、日和殿。みづきは立派に役目を果たしたね」
「うむっ、ありがとうなのじゃ、多々良殿っ。やはり、みづきは私に栄光の日々を取り戻させてくれる奇跡のシキなのじゃっ」
恐ろしい慈乃とは打って変わり、その主たる多々良は優し気に微笑み、心底より日和の勝利を称える。
ただ、そうである一方で、高位の男神の思惑はやはり底の知れない深淵である。
「しかし、残念じゃったな。私を討滅するその日はまた遠ざかってしまったのう。何なら私を付け狙うのはもうやめてくれてもいいのじゃぞ」
「いいや、気長にやるとするよ。日和殿が健勝でいられるのは好ましく思うけれど、まだまだ先行きの見通しは厳しいだろうからね。引き続き、機会があればまた試合を受けて欲しいな」
「相も変わらず、多々良殿はよくわからん御方じゃ。私を滅ぼそうとしたり、平穏無事を願ってくれたり……。いったい何をお考えなのやら」
笑っただけで答えない多々良は、日和から会場へと視線を移す。
まみおを抱えて、足早に試合会場を後にしようとしているみづきを見やる。
「おや、みづきがまみお殿を連れて退場するようだよ。日和殿も行かなくていいのかい?」
「……みづきの奴め、あえて試合の決まり手を濁したようじゃな。あのような狸に情けを掛けてどういうつもりじゃ? ひと思いにとどめを刺せばよかったろうに」
「何か考えがあってのことだろう。みづきは敗者に手を差し伸べられる心根優しいシキだからね」
「ふむ……。まぁよい。それではまたなのじゃ、多々良殿、慈乃姫殿」
怪訝そうに遠目にみづきを見つつ、そうして日和も観覧席を後にした。
その後ろ姿を視線だけで追っていた多々良は誰に言うでもなく呟く。
「とどめを刺せばよかった、か……」
隣の慈乃に振り向き、何を考えているのかわからない高位の男神は言った。
それはそのまま、次なるみづきへの試練となり、波乱となる。
第二の試合には勝利した。
しかし、今回の神々の異世界の物語にはまだまだ続きがあるようだ。
そう易々とは、みづきの願いは叶えられない。
「慈乃、頼みがあるんだ。次の試合の予定を取り付けて欲しい」




